2021年09月26日

歌舞伎座九月公演『東海道四谷怪談』 〜 リアルの上を行く仁左衛門と玉三郎

 コロナ禍での歌舞伎座は、基本的に三部制での公演を継続している。上限五千人に観客数を制限しているのはもちろんこと、入れ替えの間には座席の消毒をして、食堂以外での飲食は禁止。幕間には頻繁に係員が場内を巡回して、マスクの着用と会話を控えるようパネル表示で徹底している。
 大向こうの掛け声は相変わらず禁止されているけれど、今月の第三部『東海道四谷怪談』を見たらば、思わず「松嶋屋!」「大和屋!」と屋号を口にしたくなるはず。若手役者に世代が切り替わろうとしている歌舞伎界にあって、舞台にいるだけで観客を魅了してしまう仁左衛門と玉三郎が共演するのだ。拍手だけでは感激を表しきれない、そんなもどかしさを感じた観客が多かったのではないだろうか。

 『東海道四谷怪談』の作者は、鶴屋南北。当時の現代劇の中でも特にシリアスでリアリティのある芝居は、「生世話物」(きぜわもの)と呼ばれていた。河竹黙阿弥に引き継がれるその流れの大元を確立した鶴屋南北は、現実にありそうな切実な描写を舞台に持ち込んだ。「浪宅の場」で、武士である伊右衛門が傘張りの内職をしている最初の場面。あるいは、宅悦に色仕掛けをされたお岩が武家に生まれた女として短刀をかざすところ。いずれも、南北が仕掛けたリアリズムの反映である。
 しかしながら、今回の公演の見所は別であって、それは仁左衛門と玉三郎の存在感。ふたりの存在感がリアリズムを追い越してしまっていて、リアルな芝居よりも役者のリアルさがひとつ上を行くのである。しかも、仁左衛門と玉三郎のどちらか一方ではなく、ふたりともに。こんな芝居を見られるのが、真の贅沢さ。三等席のチケットが取れずに見るのを諦めようかと思ったのだけど、一万円以上する二等席でも十分にお釣りがくるくらいに価値のある公演だ。

 まずは仁左衛門。民谷伊右衛門の佇まいは、貧しい武士の情けなさを感じさせるものだが、仁左衛門には一切それがない。外見はみすぼらしいものの、仁左衛門の伊右衛門は常に雄渾として、威厳を失わない。普通ならそれが虚勢を張ったこけおどしに見えてしまうところを、仁左衛門がやると品位が落ちないので、少しも嫌な気分にならずに見ていられる。
 伊右衛門が伊藤家への婿入り祝言のために、お岩に金目のものを出せと迫る場面。お岩を小突きながら、赤ん坊の蚊帳まではぎ取る強欲ぶりなのだが、見ていて腹立たしく感じられない。お岩がいるのに別の家への婿入りを承知してしまううえに、そのお岩をいたぶる陋劣な悪党なのだ。たぶんほかの役者ならば、ひたすら不愉快になるだけのはず。そうならないのは、仁左衛門自身が持つ役者としての貫禄なのか経験なのか。

 かたや玉三郎。お岩の役は、髪梳きの場面が見せ所と決まっているが、今回の公演では、伊藤家喜兵衛から贈られた薬を飲むくだりが凄かった。産後のお岩に血の巡りが良くなるからと薬を飲むように勧める伊右衛門。本当は容貌を崩れさせる劇薬なのだが、この時点では伊右衛門もそれを知らない。仁左衛門の話に戻ってしまうと、このときのお岩を労る優しさがあまりにも本当の真心に見えるのが、存在感だけでなく演技の巧さのなせる技なのだろう。
 伊右衛門が出かけて、ひとりになったお岩はその薬をありがたそうにして飲み干す。この場面の玉三郎を見ると、お岩の不幸過ぎる運命に憐憫の情を持たない観客は皆無だろう。赤子を横に寝かしつけながら、拝むようにして薬を手のひらに取り出す。それを口に入れて湯呑みの白湯でぐいと飲み込む。手のひらには残った薬の粉。それを丁寧に払って湯呑みに入れ、薬が混じった白湯を最後まで飲み干す。
 この流れを玉三郎がやると、ありがたみに真実感謝し、薬の効能を虚心坦懐に信じ込み、何事も粗末にはしない、お岩という女性の生真面目な実直さが浮かび上がる。これを広い舞台の中でただひとりでやり通さなければならないのに、玉三郎はその空間と時間を自らの存在感でいっぱいに満たしてしまう。私は見たことはないのだが、亡くなった歌右衛門の髪梳きや『先代萩』のまま飯きは、大仰とかやり過ぎとか批判されていたらしい。しかし、玉三郎には過剰感はまったくない。受け持った時空を、過ぎることなく欠くこともなく、寸分違わずぴったりに埋めてしまう。その役者としての柄が、他の者たちの追随を許さない威容を示しているのだった。

 『東海道四谷怪談』は人気の演目なので、これまでも繰り返し上演されてきた。私が最初に見たのは、十八代目勘三郎が勘九郎だったときの納涼歌舞伎。お岩・小平・与茂七・お岩の霊・小平の霊を早替わりでつとめてケレン味が強く、見ていて愉しい芝居になっていた。伊右衛門は芝翫を襲名する前の橋之助で、残念ながらそちらの記憶はほとんどない。二度目は、吉右衛門が伊右衛門をやった新橋演舞場。このときは福助のお岩で、一階席で見たせいか、髪梳きの段取りをつぶさに見ることができた。
 両方ともに通し公演だったので、「蛇山庵室」から「仇討」までが上演された。お岩と小平の霊が、お化け屋敷的な仕掛けで飛び出してくるところで、伊右衛門の凶悪さに天誅が下る。だから物語もひとつの輪になるし、観客も溜飲を下げるわけだが、今月の公演は、コロナ禍ゆえの上演時間の制限で、その前の「隠亡堀」で終演となる。やや物足りない気分ではあっても、ひょっとすると逆に「浪宅の場」のみがクローズアップされて、だからこそ仁左衛門と玉三郎の存在感が映えたのかもしれない。いずれにしても、この先いつ見られるかどうかわからない、極めて貴重な舞台であったことは間違いない。(き)

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2021年09月19日

国立劇場九月文楽公演『卅三間堂棟由来』 〜 文政四年の最先端

 国立小劇場に『卅三間堂棟由来』(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)を見に行った。
 重要無形文化財保持者いわゆる人間国宝に認定されることになった桐竹勘十郎が出る『双蝶々曲輪日記』の第一部と、沼津だけではなく敵討までやる『伊賀越道中双六』の第三部の、ふたつの出し物に挟まれての第二部。これではいかにも打順が悪く、緊急事態宣言が延長されたこともあって、日曜日なのに空席が目立つ中での見物だった。それでも咲太夫が切り場語りで出るし、呂勢太夫の相方はいつもながらに鶴澤清治だから、聞き応えはもちろん十分。
 それに上乗せしての見どころは、人形の使い方と舞台転換。文楽は、先人たちが見物をいかに楽しませるかの工夫を積み重ねた結果のエンターテイメントなのだと、あらためて感じ入ってしまった。

 あらすじはこんな感じ。頭痛を患う白河法皇の平癒祈願のため、柳の木を切り倒して三十三間堂を建立すべし、と熊野権現からお告げがあった。そう聞いてうちひしがれたのは、平太郎を夫にもつお柳。実はお柳は柳の木の精で、かつて伐採されそうになったところを救われた平太郎に嫁ぎ、みどり丸という男子をもうけて慎ましく暮らしていたのだ。お柳は平太郎に本性を明かし、お家再興のための髑髏を手渡すと姿を消してしまった。老母を殺害した謀反人和田四郎を討ち取った平四郎は、みどり丸とともに木遣音頭に合わせて、柳の木を都に向けて曳き出すのであった。

 人間が因果により人間以外の生き物と契りを結ぶ物語は、異類婚姻譚(いるいこんいんたん)というジャンルにひとくくりにされるそうだ。お柳はその名の通り、人間ではなく柳の木の精。そんなわけで、このお話は、人の姿に身をやつしたお柳が、柳の木に戻って行くところが見せ場だ。そして、実際に見ていて驚いたのは、お柳が人間ではいられなくなったときの人形の遣い方、と言うか使い方だった。
 最初にお柳が姿を消すときの使い方は、こうだ。三人の人形遣いのうち、左遣いと足遣いが人形から手を離す。主遣いひとりになると、人形の半身が虚脱したように見える。そして、いきなり主遣いが人形とともに手摺の向こう側にしゃがみ込む。主遣いと人形は舟底にいるわけだから、見物席からお柳は見えない。つまり消えてしまったわけだ。「こんなんで消えたことにするなんて、子ども騙しもいいところじゃない?」という疑問ももっともですが、なにしろ江戸時代の宝暦十年初演、文政四年(1821年)に今の外題で上演された人形浄瑠璃。活動写真で観客の度肝を抜いた、目玉の松っちゃんこと尾上松之助がカット割りで突然画面から消えるなんて見せ方は、当たり前だができるわけがない。ならば、と人形遣いがストンとしゃがみ込んで消えたように見せたらどうか。単純な工夫だが、当時の見物たちはそれなりにびっくら仰天したんではなかったろうか。
 消えたとはいえ、五年も平太郎と仲睦まじく暮らしたお柳である。そんなことで簡単に消滅してしまうほど、人間界への執着は軽くない。再び姿を現して、お家再興に役立つ髑髏を平太郎に渡し、あとに残すことになる息子みどり丸に別れを告げる。
 そして、いよいよ本当にお柳が柳の木に戻っていくところ。深緑のきものを着たいつものお柳は、突然に白装束に変わる。歌舞伎でいえば、黒衣が仕掛け糸を引き抜いて衣装がぶっかえる場面となるわけだが、文楽では、主遣いが深緑のお柳人形を舟底へ落とし、足遣いから渡された白装束のお柳人形にサササっと持ち替える段取りだ。「おいおい、今、人形落としたよね」なんて野暮を言ってはいけない。普段のお柳が瞬時に霊験な白装束に変わったということにして先へ進みましょう。
 白のお柳がゆらりゆらりと平太郎家の居間から玄関に出ると、スッと壁に溶け込むようにいなくなる。映画なら二重写しにしてお柳の映像だけをフェードアウトさせるだろうけど、文楽はそんな手の込んだことはしない。壁の上下真ん中が軸になっていて、壁が回転するのに合わせて、白装束お柳と主遣いが壁の向こう側に消えるという寸法だ。さすがにこれは甲賀の忍術屋敷のどんでん返しと同じだし、歌舞伎でも『東海道四谷怪談』では見せ場の「戸板返し」で使われている。忍者が消えるくらいなのだから、人形だって消えるように見えるはず。早替わりや戸板返しなど意表をついた演出を歌舞伎では「ケレン」と呼ぶ。文楽にもケレンがあるとは知らなかったけれども、気持ちが舞台に向いていれば、単純な仕掛けであっても、ケレンは味わい深いものになるのだった。

 もうひとつの見どころは、舞台転換。お柳が消えた後で、敵役の和田四郎が平太郎の老母を締め殺してしまうのはあまりに無惨だが、その平四郎住まいから柳の木の伐採場へ場面が転換がする。これがまた見事な視覚的効果なのだ。
 平太郎の家屋のセットが舞台奥のほうにズズーッと後退していく。屋内にいる人形遣いもセットとともに後じさり。舞台奥には照明が届かないから、人形もセットも後退とともに暗がりに沈み込むように見える。それらを覆い隠すかのように伐採場の背景幕が降りてきて、台車に乗せられて曳かれる柳の木が登場、最後の木槍音頭の舞台に入れ替わっているという寸法だ。これらの流れは、ひとつのシーンがアイリスアウトして暗転し、次のシーンへとカットインするかのごとくに見える。もちろん見物は、場面が切り替わったことをごく自然に受け入れるだろう。

 人形を落とす。人形を取り替える。回転壁を利用する。セットが舞台奥に後退する。どれもこの演目が最初に上演された文政四年においては、最新の仕掛けだったのではないだろうか。技術の革新は、斬新な演出に直結する。どちらかと言えばマイナーな演目でそれが発見できたのは、手当たり次第に観劇してみることのご褒美のようなものだ。
 ちなみに、木槍音頭での呂勢太夫の謡いと清治の演奏は、見物全員が床だけに吸い付けられるかのようだった。独演会、いや二人会のような様相での幕引きであった。(き)

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2021年09月14日

“I Fall in Love Too Easily”とミュージカル映画『錨を上げて』

 フランク・シナトラが歌う”I Fall in Love Too Easily”。チェット・ベイカーによるけだるい歌声のほうが一般的になっているけれど、実は1945年製作のアメリカ映画『錨を上げて』の挿入歌だ。作詞サミー・カーン、作曲ジュール・スタインは、クリスマスソングの”Let it Snow!”でおなじみのコンビ。映画では、シナトラ演じる内気な水兵が、自分と同じブルックリン出身のウェイトレスと出会い、女性とうまく話せない性格なのに、彼女の前では素直になれる自分に気づくという場面で歌われる。
 ”I”は当然ながら男性で、だとすると和訳の際の主語は「私」「ぼく」「俺」「オイラ」などになる。このときのシナトラは、後にシナトラ一家を率いる親分的な気配は皆無だし、背も低くてやせっぽち。こういうときに男性の”I”は、悩ましいほど厄介ものになる。そこで逆手を取って漢文調にしてみた。わざわざ訳すほどの英語じゃないだろと言われればそれまでなのだけれども。

I fall in love too easily
I fall in love too fast
I fall in love too terribly hard
For love to ever last
My heart should be well schooled
'Cause I've been fool in the past
But still I fall in love too easily
I fall in love too fast

われ恋するは あまりに簡略なり
われ恋するは あまりに機敏なり
われ恋するは あまりにも激烈なり
とこしえにつづく 愛がため
わがこころ 学びを必要とせり
われこれまで 愚昧なるゆえ
しかしていまだ われするりと恋に落ち
われたちまちにして恋に落つ


 チェット・ベイカーの「チェット・ベイカー・シングス」は、別の同人がブログで書いている通りの名盤だ。「…シングス」に収録されている”I Fall in Love Too Easily”を聴くと、イントロなしでチェット・ベイカーの中性的な歌声から始まるヴォーカルの、特に”easily”と歌うときのかすれ加減の甘みが心地良い。ベースとドラムスのシンプルなリズム。控えめなピアノの伴奏。トランペットソロの抑えた音色。やっぱりダメ水兵フランク・シナトラの歌よりも、チェット・ベイカーのほうがじんわりと胸に沁みてくる。歌い上げるよりは、囁くようにして歌うほうがこの曲には合っているのだろう。

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 ジャズのスタンダードナンバーとなり、数多くのミュージシャンにカバーされた”I Fall in Love Too Easily”も、『錨を上げて』という映画においては特段目を引く存在ではない。というのも『錨を上げて』があまりにいろいろな要素をてんこ盛りにしたごった煮的ミュージカルだからで、2時間23分というMGMミュージカルとしては異例の長尺も、全く気にならずに見入ってしまえる作品なのだった。

 映画は、アメリカ海軍戦艦の甲板から始まる。軍楽隊(United States Marine Band)が演奏するのが本作の原題でもある”Anchors Aweigh”。この映画が全米で公開されたのは、米英中三国共同宣言、いわゆるポツダム宣言が日本に発出された1945年7月のこと。そんな戦争の影を微塵も感じさせない明朗な行進曲は、映画のエンディングでも再び演奏される。
 甲板で行われていたのは勲章の授与式で、戦果をあげた水兵たちのみが、休暇を与えられて陸にあがる。休暇は四日間。この四日という期限があらかじめ決められているところも大切な要素で、開放的なスタートを切ったあとは四日めが終わるゴールまでの時間経過が、映画の直線的構造の骨格となる。
 四日という制約条件の中で、ふたつの恋とひとつの成功について、その発端から終息までが描かれる。すなわちジーン・ケリーとキャスリン・グレイソンの恋、フランク・シナトラとウェイトレスの恋、そしてキャスリン・グレイソンが著名な指揮者に認められるサクセスストーリーである。時間が直線的に流れていくのに対して、これら三つの主題は、重なり合いながら曲線的に描かれる。シナトラとケリーとグレイソンの三角関係だけでなく、グレイソンが撮影所に通う女優志望で、指揮者のオーディションを受けることを切望しているという設定が、曲線にニュアンスを与え、場面設定にバリエーションをもたらす。
 ここで本作は、海軍もの・水兵ものに留まらずバックステージものというジャンルにも幅を広げる。登場するのはMGMスタジオ。セットを組む手間が省け、コストと時間の節約につながるとともに、ハリウッドの裏側を覗くことができるメリットも加わって、プロデューサー的には実にお得なアイディアだったろう。実際に当時使用されていたスタジオやキャメラ、クレーン、照明などが画面に写り込んでいて、今となっては撮影所の貴重な記録映像としての価値もある。
 さらには指揮者にオーディションしてもらいたいという設定が、ミュージカルシーンを多層的に見せている。歌とダンスに加えて、オーケストラやピアノの演奏場面を散りばめることで音楽映画としての格調が感じられるのだ。特に印象的なのはハリウッド・ボウルの場面。ステージ上に二十台近いグランドピアノが置かれて、リストの「ハンガリー狂詩曲第二番」を指揮者兼ピアニストを中心にして連弾する。ちなみにこの指揮者の配役は、”Jose Iturbi …… Himself”となっていて、スペイン人指揮者ホセ・イトゥルビは、当時のハリウッドにおいては人気者であったらしい(※1)。

 そして、もちろんミュージカルであるからには、歌と踊りもてんこ盛り。ジーン・ケリーの踊りは、フレッド・アステアの優雅さに比べると観客に媚びるようなあざとさが感じられて、個人的には好きになれなかったのだが、シナトラとふたりで踊る場面が多い本作を見ると、実は高度な技術を持ったダンサーだとわかる。体幹がしっかりしているから、回転しても跳びはねても軸が全くブレない。手と足の先まで神経が行き届き、たぶんどの瞬間のコマを切り取っても決めのポージングが映っているはず。アステアが幼少時からボードビル劇場で踊っていたのに対して、ジーン・ケリーはきちんとしたダンススクールで基礎を学んだという。だからピルエットでも軸足がヨレないし、ジャンプしたときにも真っ直ぐな空中姿勢が保てるのだろう。
 フランク・シナトラは、ボビーソクサーのアイドルとしての人気に翳りが見え始めた時期。太平洋戦争が終結して若い男性たちが復員した1945年以降にはスランプに陥ってしまう。だからなのか、本作ではなんともパッとしない役柄で見せ場も少なく、歌声にも張りがない。それに比べるとキャスリン・グレイソンは、オペラ歌手かと聞き違えるほどの超絶ソプラノで観客を圧倒する。一芸は身を助けるという実例だ。
 こうしたミュージカルシーンは、通常ならばストーリーに組み込まれて挿入されるのが通常のパターン。それゆえにミュージカル映画は、ドラマと歌と踊りのパッケージングがうまく行かないと、シーンが分断されて流れを失い、退屈な作品になることも多い。ところがミュージカルシーンに切り替わるバリエーションおいては、本作は歴代ミュージカル映画の中でもトップクラスの多様さに溢れている。
 例えば、バックステージものという特性を活かして、映画のセットがそのままミュージカルの世界に変身してしまうこと。MGMミュージカルの名場面を集めた『ザッツ・エンタテインメント』の中で本作が取り上げられた中に、中世の城に幽閉されたヒロインを騎士然としたヒーローが救い出すという場面がある。中学生の頃にそれを見たときには、『錨を上げて』という映画のことなど知らなかったので、史劇か海賊ものなのだと勘違いしていた。この場面は、ケリーとグレイソンが撮影所で互いの気持ちを確かめ合ったあとの空想シーン。映画のセットにふたりが没入して、登場人物化してしまうという設定だ。
 空想と言えば、子どもを媒介にしたミュージカルシーンへの転換も効果的だ。仲良くなったグレイソンの甥の学校を訪ねるジーン・ケリーが、子どもたちにせがまれてお伽話を話し始める。それを聴く子どもの頭の中での妄想が、そのままミュージカルになるという趣向だ。ここが有名な『トムとジェリー』のジェリーが登場する場面。実写+アニメーションが見事にシンクロして、ジェリーが”I’m dancing!”と快哉の声を上げるまでのジーン・ケリーとのペアダンスがなんとも愉しい(※2)。
 このようにして、戦時下という世相とMGMスタジオの強みをフル稼働させた『錨を上げて』は、盛れる要素をなんでもかんでも盛りに盛った、てんこ盛りミュージカルなのであった。

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 さて、『錨を上げて』がアメリカで公開された翌月に日本がポツダム宣言を受け入れて、太平洋戦争が終結する。日本で『錨を上げて』が公開されたのは、サンフランシスコ平和条約締結から二年後の1953年のこと。その日本公開のはるか前、占領下の1945年に東京で本作を見た日本人がいる。映画評論家の淀川長治氏だ。
 終戦直後、東宝に勤めていた淀川長治は、たまたま道案内をして知り合った米兵に招待されて、GHQすなわち現在の第一生命ビル内のホールに連れて行かれた。千人ほどの米兵が通路にまで溢れ返った、その場内が暗くなると、ライオンが吠えるMGMのクレジットが映し出されて、この”Anchors Aweigh”が始まったのだと言う。

映写がすすみ水兵服のフランク・シナトラが歌い出すや場内は総立ちとなってしまった。すわって見ればいいのに一人が立ち上がったとたん、みんなが拍手口笛、足ぶみ足鳴らして立ち上がり、シナトラの歌にあわせてからだを振った。リズムにあわせ指を鳴らすものもいた。そしてジーン・ケリーが動画のトムとジェリーと踊ったときには、拍手で音楽とタップの音が聞こえなくなるほどだった。彼らがこれほど子供さながらに映画にとけこんで楽しんでいるのを見ると、アメリカの映画会社はしあわせだと痛感した。(※3)

 故郷を懐かしみ、思い出を共有できるような要素を盛ったミュージカル映画なのだ。戦争に駆り出され、極東の島国に送り込まれたアメリカの兵隊たちが、欣喜雀躍しながら映画を見て興奮したのも無理はない。このようにして東京のど真ん中で占領軍兵士のために映写されていた映画を、日本人が劇場で見ることができたのはその八年後。『錨を上げて』にはほんのかけらも戦争シーンは出てこないが、日本公開の当時に思いを及ばすと、戦争のない平和な日常が何よりも大切なことだと気づかされるのでもある。(き)

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(※1)ホセ・イトゥルビ(スペイン/1895年-1980年)は『万雷の歓呼』『楽聖ショパン』などに客演している。現在でもいくつかのCDで演奏録音が聴かれるようだが、出身地スペインでは「ホセ・イトゥルビ国際ピアノコンクール」などでその名を残している。

(※2)『錨を上げて』のクレジットタイトルには、”Tom and Jerry from MGM cartoon movie”と表記されている。ちなみに相方のトムは、王様ジェリーに食事を運ぶ執事のチョイ役に甘んじている。

(※3)『淀川長治自伝』(1988年中公文庫刊)より引用。氏によると、戦後正式にアメリカ映画が一般向けに劇場公開されたのは、昭和二十一年二月二十八日封切の『春の序曲』(1943年製作/ディアナ・ダービン主演)と『キューリー夫人』(1943年製作/グリア・ガースン主演)の二本立て。日米開戦後四年あまりアメリカ映画が見られなかったため、劇場は早朝からつめかけた観客で超満員だったそうだ。


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2021年09月11日

四方田犬彦と韓国映画『はちどり』

 久しぶりにというか、本当にこの10年間では唯一と言ってもいいかもしれない、感想めいたことを誰かに話してみたいと思わずにはいられない映画を見た。韓国の映画で、邦題は『はちどり』という。そして、この映画を「紹介」してくれたのが、四方田犬彦という研究者・批評家だ。名前と業績くらいは以前から知っていたが、彼の単著を読んだこともなかったし、おそらく今後も積極的に読むことはないと思う(誤解のないように急いで書き足すが、彼の研究や発言を否定しているわけでは全くない。他に読みたい本が山積みになっているので、たとえ興味関心を感じても、その山に新たに付け足す余裕がないと言いたいだけ)。が、この『はちどり』を紹介してくれたことには深く感謝している。

 四方田犬彦がこの映画に言及していることを知ったのも全くの偶然で、それこそホームドラマの一コマにもなりそうな話でもある。過日、我がパートナー殿が「東京の大塚で面白そうな企画がある。コロナの心配がなかったら行きたかったな」と、心底残念そうに口にした。「何、それ?」と尋ね返すと、何でも四方田犬彦が講師となって、「シオニズムとパレスチナ」という題目で、ドキュメント映像を見つつ、いわゆるパレスチナ問題について講義してくれるらしい。パレスチナ難民の里親を長年続けてきた彼女にとってはもちろん、ぼくにとっても確かに面白そうな企画と思われた。東京に住んでいたなら、きっとコロナ禍にもかかわらずそろって参加したことだろう。

 そこで、もっと詳しいことが知りたくなり、彼女が読んでいた雑誌記事を読んでみた。『週刊金曜日』の9月3日号だ。(ついでながら、『週刊金曜日』というのは、できるだけ広告収入に頼らずに、スポンサーのご機嫌伺いから自由な雑誌にしようと、定期購読者からの購読料を経営の中心にした、大手マスコミからは外れた、いわば「インディペンダント」な雑誌だ。我家では『ビッグ・イシュー』と並んで、比較的よく読まれている。)

 四方田犬彦の文章の趣旨は、見出しにも明らかにされているように、「もう一度、私塾の思想を考え直さなければならない」ということだった。つまり、国家や行政、社会通念による管理を受けることが比較的少ない私塾という教育形態の持つ可能性を積極的に再評価したいということだ。なるほど、言いたいことは何となくわかる。しかし、ぼくが惹かれたのは記事の冒頭、導入部分の以下の文言だった:

 『はちどり』という韓国映画がずっと気になっている。90年代のソウル大[学]、劇的に変化してゆく韓国社会のなかで成長していく、14歳の少女を描いたフィルムだ。
 少女は中学校とは別に漢文塾に通っている。先生はソウル大学のお姉さんで、どこか不思議な雰囲気がする。本棚にはマルクスのような難しそうな書物。[中略]少女は少しずつ彼女に心を開いていくが、ある日先生は突然いなくなってしまう。

 どうしてこの文章に惹かれたのか、ほんの数日前のことなのに、今ではもう思い出せない。ただ覚えていることは、「この映画、見てみたい」と直ちに感じた事実だ。ちょっと調べてみたら、随分と評価の高い(高かった?)映画のようで、受賞の数も随分と多い。当然、現在のネット社会、すぐにオンデマンドのサービスを使い、鑑賞することができた。

 思春期の少女を描いた「王道」映画だ。若干の文化差を修正すれば、「学校」という制度を持つ社会であれば、多くの共感が寄せられることだろう。主人公の女の子はごく平凡な中産階級の、5人家族の末っ子だ。誤解している可能性もあるとは思うが、適当に遊んでいる、おそらく高校3年生(くらい)の長女、ソウル大にも行けるかもしれない高校生の兄、そして、マンガを書くくらいしか興味関心のない、大人しい、あまり勉強のできない「平凡」な主人公。両親は餅を中心にした食糧雑貨を商いしており、家計は決して豊かではないにしても、貧困というわけでもなく、ソウルの集合住宅(日本の巨大公団住宅のような感じ?)に住んでいる。映画の中に映る室内にはそれなりに綺麗な調度品も並び、その点でも「中流」の家庭が描かれているものと理解している。

 この映画を見て、オーデンの有名な「美術館」(Musee des Beaux Arts)という詩を思い出した:

苦難というものについてかれら巨匠たちは
決して間違えなかった、悲惨な事件の人間的あり方について。
ほかのだれかが食べたり、窓を開けたり、
     ただぼんやり歩いている時に悲劇が起こるということを。
年寄りたちが敬虔に、そして激烈に、
奇跡に満ちた誕生を待ち望んでいるその一方で、
そんなことは特には望まず、林の端にある池でスケートして遊んでいる、
そんな子供たちがいつも必ずいるということを。
恐るべき虐殺が予定通りすぐ間近に迫っている
その雑然とした街角では
犬たちが犬らしい毎日を過ごし、虐殺者の乗る馬が
罪のない尻を木に擦りつけているということを
かれらは決して忘れなかった。

例えば、ブリューゲルの『イカロス』では、なんと全てのものが
きわめて長閑にその悲劇から目を背けていることか。 農夫は
水しぶきや孤独な叫び声を聞いたかもしれない、
しかし彼にはそれは重大な失敗ではなかった。 太陽は
緑の水の中に消えゆく白い足を定められた通りに照らしていた。
そして、子供が空から降ってくるという
ものすごいことを目撃したはずの贅沢で優雅な船は
行くべき場所に向かう航海を静かに続けていた。


About suffering they were never wrong,
The old Masters: how well they understood
Its human position: how it takes place
While someone else is eating or opening a window or just walking dully along;
How, when the aged are reverently, passionately waiting
For the miraculous birth, there always must be
Children who did not specially want it to happen, skating
On a pond at the edge of the wood:
They never forgot
That even the dreadful martyrdom must run its course
Anyhow in a corner, some untidy spot
Where the dogs go on with their doggy life and the torturer's horse
Scratches its innocent behind on a tree.

In Breughel's Icarus, for instance: how everything turns away
Quite leisurely from the disaster; the ploughman may
Have heard the splash, the forsaken cry,
But for him it was not an important failure; the sun shone
As it had to on the white legs disappearing into the green
Water, and the expensive delicate ship that must have seen
Something amazing, a boy falling out of the sky,
Had somewhere to get to and sailed calmly on.

 
 この詩が言っていることは明瞭だ。人間の悲劇は平凡な日常の中で起こり(そうでなければ「悲劇」ではないだろう)、ある人にとって深刻な悲劇が起こるとき、その事件とは何の関係もない多くの人々が確実に存在する。赤の他人の悲劇は、「私」の深刻な事件にはならない、云々。主人公の少女にも大小の「事件」が次々に降りかかる。まだ子どもらしい「恋人」の変心と裏切り。友人との仲違い。兄からの暴力。首筋にできた腫れ物とその除去のための入院・手術。そして、先生との別れ。感心したのは、これらの「事件」が全て、些細なことであると同時に極めて深刻でもあるということ、逆に、極めて重大な「悲劇」が、それこそオーデンの詩にある通り、他の誰かにとってはごく些細な出来事に過ぎないことが、慎ましやかに、しかし同時にとても雄弁な声で語られていることだ。例えば、兄に口答えしたことで激しく折檻されたとき、主人公は友人に「自殺したら、そしたら、兄も後悔するかな。その姿を想像すると気も晴れる。が、死んでしまったら泣いている兄のせっかくの姿が見られないから、死ぬのは止めよう」といったことを語る。そして、もちろん我々観客は「こうして子どもが自殺する可能性もあるわけだ」と、もちろん思い出すことになる。

 そして、先生との別れという劇中もっとも重大な事件。兄からの理不尽な折檻と比べても、友人との深刻な仲違いと比べても、幼い「恋人」の裏切りと比べても、はるかに深刻な悲劇であるはずの先生との別れを経験したとき、主人公は全力でその衝撃に堪え、受け止めようとする。それがそのまま彼女の「成長」を反映しているわけだが……

 ここまで書いても、言いたいことはまだ何も言えていない気がする。が、忘れないうちに、四方田犬彦への感謝の言葉も書いておかねばならない。彼が「私塾の思想」というとき、それは要するに、先生と生徒(学生)との人格的な交わりのことを言っているのだろう。つまり、現代の学校では、教師は自分の人格をさらけ出して、自分の人格で教育することができない。そんな「個人主義」は実質的に許されていない。一方、子供たちや親たちも、先生が学校で教師である以前に一人の人間であることを前面に打ち出すなんてことを決して期待していない。しかし、プラトンに決定的な影響を与えたのは、ソクラテスの学識ではなくソクラテスの人格だっただろうし、漱石の門弟たちを魅了したのが漱石の英語力ではなく、漱石の人柄であったように、人格的(personal)な交流がなければ、およそ教育なんてものがあるはずがない。おそらく『はちどり』が気になると四方田犬彦が言うとき、映画の主人公とその先生との間の「人格的交流」を念頭に置いていたにちがいない。

 というのは、極めて興味深い(つまり、ここにこそこの映画の大きな魅力があると言ってもいいのかもしれない)特徴として、主人公が先生のいったいどこに惹かれたのか、いったいなぜ主人公がこの先生をそんなに好きになったのか、全く判然としないのだ。女のくせにタバコを吸う先生。ちょっと変わった雰囲気の(気怠い感じで、化粧っ気もなく、全然「女」っぽくない)先生。読めない漢字があることを叱るのではなく、読める漢字があることを褒めてくれた先生。主人公が泣いているとき、授業を止めて、一緒に飲むお茶を淹れてくれた先生。「先生が優しいのは、私のことを可哀想だと思っているからなの?」と尋ねたときに「バカな質問に答えることはできない」と一笑に付した先生。こうしたエピソードをいくつ積み重ねたところで、決定的な理由には結び付かない。そして、ようやくハッと思い当たる。人が人に重大な感化を与えるとき、人が誰かを自分の「先生」として仰ぐとき(ちょうど、漱石の『こころ』の語り手と先生の関係のように)、その原因理由を簡単な言葉に還元することはできない。それこそ、「人格的」としか言いようのない不思議な力が作用して、まるで魔法にかかったかのように魅惑されるのだ。『はちどり』を通して、先生と「弟子」の人格的交流の意味を再認識できたことは、全て四方田犬彦のおかげだ。

 それでも、今度は自分自身の人生を振り返って、これまでに出会った「先生たち」に共通する(したがって、映画の中の「先生」にも当てはまる)特徴が一つだけあるように思う。それは、彼らが子供たちと真っ直ぐに対峙して、その意味では子供たちと「対等」に、つまりは、ひとりの人ともうひとりの人として、だからこそ「人格的に」としか言いようの仕方で言葉を用いているということ。全ての「良い先生」には、現実の世界でも文学の世界でも、子どもに向かって真摯に話すという特徴があるように思う。言い換えれば、彼ら「先生たち」のオーラが子どもに届くとき、そこには必ず適切な言葉の力が働いている。例えば、『こころ』の先生の遺書はその最たるものかもしれない。が、そこまで極端でなくても、同じく漱石の『三四郎』で広田先生は三四郎に向かって、生涯でたった一度だけ出会って忘れることのない少女の思い出を語る。そのエピソードが広田先生にとって限りなく重大なものであろうことは容易に想像がつく。そして、それを三四郎ごときに話してやる義理は、広田先生の方には全くないはずなのに、そんなに大切なものを気前よく、物惜しみせず、お裾分けをしてあげる。だが、「三四郎ごとき」と言ってはみたものの、広田先生が自らの貴重な思い出を、むやみやたらと誰に対しても披露するわけでは決してないだろう。つまり、言い換えれば、そのとき広田先生は三四郎を「特別扱い」したということだ。そして、このように、特定の生徒を特別扱いすること(特定の生徒にお茶をふるまったり、プレゼントを贈ったりすること)が一様に「えこひいき」と見なされ、否定されてしまう現代の教育では、人格的な交流を期待することはできないだろう。

 先生たちは友人ではない。そんなことは自明だ。しかし、友人でもないのに、彼らは彼らが生涯をかけて、それこそ貝が時間をかけて作り上げた真珠のように貴重な人生の一片を惜しげもなく与えてくれる。映画の中の先生も「自分を好きになれるようになるには随分と時間がかかる」と、はたして主人公に向かってなのか、あるいは自分自身に向かってなのか判然としない述懐をする。また、二人の生徒を前にして慰めるように歌った(決して上手ではない)歌は、およそ場違いとも感じられるような、民衆歌、労働歌のようなものだった。中学生の主人公もその歌の背景などはおそらく知る由もないだろう。ソウル大学の学生、したがってエリートであるはずの先生が、なぜ貧困にあえぐ職工の歌を歌うのか。しかし、それがなぜか主人公の心を強く打ったように映画は描き出していた。それもまたとても印象的な演出だった。

 『はちどり』を観た人の中には、この映画を「家族を描いた映画だ」と考える人もいることだろう。「日常に潜む悲劇を描いた作品だ」と考える人はもっと多いかもしれない。あるいは、主人公も先生も女性であることと関連し、「少女」の成長に焦点を当てたフェミニズム映画だという理解もあることだろう。しかし、「『先生』との人格的な交流を描いた作品」(つまり、四方田犬彦の言うところの「私塾の思想」を描いた作品)として考えることによって、いっそうの奥行きと拡がりが生じるように思われる。少なくとも確実に言えることは、四方田の引いた補助線がなかったならば、この映画を観て『こころ』や『三四郎』、エーリッヒ・ケストナーが残した『飛ぶ教室』に代表されるような多くの児童文学、さらにはゲーテの『親和力』に登場するオティーリエの学校の先生など、さらには、文字通りの愚生をまがりなりにも「教育」してくれた何人もの実在あるいは非実在の「先生」たち、そうした存在と出会えたことの幸運や彼らに対する感謝を思い出すことはなかっただろう。いずれにせよ、『はちどり』、タイトルの持つ意味合いは今も全くわからないが、印象的な映画だった。(H.H.)

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Pieter Brueghel: The Fall of Icarus (Museum of Fine Arts, Brussels)

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『はちどり』(2018年) 監督:キム・ボラ
posted by 冬の夢 at 13:27 | Comment(1) | 映画 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2021年09月05日

重さとは

 外出を控えています。
 週に一度、多くとも二度、近くに買いものに行く程度です。
 歩いて十五分ほどの商店街で、八百屋や魚屋を回って買っています。スーパーマーケットへは行きません。リュックとトートバック、手提げ袋などに、食品や飲みものをつめこんで帰ります。
 戻ったら、荷物を持ったまま体重計にのります。シャワーの前にパンツひとつでまた計り、運んだ品の重さがわかります。おおむね十五キロほど、重いときで十八キロくらいです。
 きちんと背負えば、重いとはあまり感じません。買いもの道に起伏はなく、せいぜい一時間ほど歩くだけ。それでも買いものをした日は、なんとなく足腰にきます。運動不足より歳のせいでしょう。

 村の渡しの船頭さんは
 今年六十のお爺さん
 年を取つてもお船を漕ぐ時は
 元気いつぱい艪がしなる
 それ ぎつちら ぎつちら ぎつちらこ


 童謡の『船頭さん』と、わたしはまったく同世代ですが、この曲では、六十歳は「お爺さん」です。
「年を取つても」ですから、舟をこぐときだけはなんとかなるが、それ以外は廃人だって話ですよね、ちがうのかな。「船頭さん」世代のわたしは、買いもののとき以外は、廃人状態で部屋にうずくまっていればいのかなと。
 それはともかく、食料品や必需品の補給なしではいられません。外出回数を減らすためにも、一度の買いもので長持ちさせるよう、買い出し部隊をやるしかないわけです。

『船頭さん』は童謡だといいましたが、一九四一年夏に発表された国民歌謡です。入隊する軍馬や兵を乗せる、報国の渡し舟をこぐ歌で、田舎の光景をほのぼの歌った唱歌ではありません。
 勇ましい話ですが、同年春には生活必需物資統制令が出ています。食糧事情はすでに厳しくなっていました。「買い出し部隊」は戦後の食糧難を象徴する光景ですが、リュックを背負った人びとの姿は、戦中からあったのです。

       ♪

 立命館大学国際平和ミュージアムという博物館が、京都市北区にあります。
 ここに、忘れられない展示がありました。この四月から九月までリニューアル閉館だそうで、引き続きあるかどうかは、わかりませんが。

 それは、旧日本軍の歩兵が背負った背嚢です。
 複製でしょうが、当時に近い重さにしてあるので持ってみてください、ということでした。
 重さに驚きました。腰が砕けるかと思いました。片手で持ち上げるのも、きびしいほどです。注意書きがあったかもしれませんが、重いからとはずみをつけ背中へ揺り上げたりしたら、筋を痛めそうです。
 解説にはたしか、三〇キロくらい背負って徒歩行軍したとありました。当時の兵は、そのときのわたしと比べても、はるかに若かったのですが、その荷物でどれくらいの距離を歩き、戦ったのでしょうか。

 正確に調べていないのですが、あのインパール作戦では、兵士ひとりの運搬重量は十貫だったそうです。四〇キロに近い。
 コメ二〇日分の十八キロ、調味料などのほか、小銃弾二四〇発、手榴弾六個だったとか。予備の衣類その他は背嚢に入れているとして、銃や銃座なども持つと思いますが、それは勘定に入っているのでしょうか。
 重さもさることながら、二〇日もの間、ご飯だけなのか。自分で炊いたのでしょうか。補給食品は別に運ばれたのか、現地調達つまり略奪だったのか。
 日々昼夜、戦闘状態ではなかったとしても、一日分の弾は十二発という計算になるのですが、目的地に到達したとして、そこになにがあったのでしょう。消耗品がすっかりなくなれば身軽にはなる。しかしそのときには、進むことも退くこともできないほど、体力が失われていたのではないでしょうか。

       ♪

 芥川龍之介の作品に『きりしとほろ上人伝』という短編があります。
 キリスト教の聖人、クリストフォロスの伝説が、日本の古典説話ふうに書かれています。

 遠い昔のことでおじゃる。「しりあ」の国の山奥に、「れぷろぽす」と申す山男がおじゃった。

 と、はじまる文体は、キリシタン版といわれる、豊臣時代の口語物語集から借りたそうですが、おとぎ話のようで、たちまち読めます。一九一九年の発表時、芥川は二十七歳。才気あふれるこの人らしい作品です。

 素朴で心根やさしく、山人たちにも好かれた怪力の巨人「れぷろぽす」は、おのが力を活かしたくて、世界最強の人に仕えたいと山を下ります。
 さっそく帝に仕えて活躍、しかし、その帝が怖れた悪魔こそ強しと、悪魔のしもべになってしまいました。
 が、老いた隠者が十字架で悪魔を退散させるのを見て、「えす・きりしと」の存在を知ります。仕えたいと申し出ますが、怪力以外とりえがなく修行などおぼつかない。それも、いちど悪魔の手先になった者が、いかがなものか。
 ふと隠者は思いつき、大河の渡し守となり、旅人を背負って渡してあげなさいとすすめます。困った人の役に立てば、それも修行になろうというわけです。

 三年めのある嵐の夜、十歳にもならない少年が訪れ、渡しを頼みます。
 巨人は不審がりますが、背負って渡してあげることに。
 しかし風雨も濁流も、とてつもなく激しくなります。
 怖ろしいことには、背中の子どもが「大盤石」のごとく重さを増すのです。
 巨人は死を覚悟するも、ようやく渡りきり、「はてさて、おぬしというわらんべの重さは、海山量り知れまいぞ」と吐息をつきます。
 すると、その子はこういったのです。

「さもあろうず。おぬしは今宵という今宵こそ、世界の苦しみを身に荷うた『えす・きりしと』を負いないたのじゃ」

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15世紀の木版画 public domain

『きりしとほろ上人伝』は、つぎの文で幕を閉じます。

 されば馬太の御経にも記いたごとく「心の貧しい者は仕合わせじゃ。一定天国はその人のものとなろうずる」

 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである※1──それは「山上の垂訓」の最初の教えですけれども、じつは、わたしには理解するのがむずかしい。いまだによくわかりません。
 悪人正機説のような意味なのか、それとも、心にすがるものがない人こそ救われるということなのか。
 いまも、はっきりとはわからないのですが、心の貧しさとは、素朴で無心であることをいうようです。「れぷろぽす(きりしとほろ)」がそうでした。いちばん強い者に仕えたいという思いは出世欲ではなく、ひたすら純真で、無私の奉仕を続けるうちに、知らずにキリストを背負ったのです。
「心の貧しい人々は、幸いである」は、おそらく同じ「マタイによる福音書」の、さきのほうにある「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない 」※1と、呼応しているのでしょう。

「馬太の御経にも記いたごとく」、イエスは山上で「心の貧しい者は仕合わせじゃ」と諭しはじめ、幸いな人の例をあげていくのですが、最後にあげられたのが「義のために迫害される人々」です。

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
※1

 聖クリストフォロスは、殉教者です。
 芥川の『きりしとほろ上人伝』の最後に、ばらの花に囲まれ地に突き立った巨人の杖が書かれていますが、もとのクリストフォロス伝説では、その杖がキリスト教への改宗者のよすがとなったがため、クリストフォロスは拷問され殺されたことになっています。
 芥川は、その話をまったく書いていません。「あの渡し守の山男がむくつけい姿を見せずなった」と、あっさり終わらせています。
 そこが、この短編のいいところだと思うのです。
 最後の節の題が「往生のこと」となっていますから、「きりしと」に天上へあげられたのだろう、いや、念願かなって「きりしと」の家来になり、「きりしと」を肩にのせて行脚を続けているのでは……。
 芥川は、なにごとも理詰めでくる感じがするのですが、読後感が豊かに広がるエンディングのキメが絶妙なのです。まさに短編の名手でしょう。のちのエッセイで、自分でもちょっといいと思う一作だというようなことも、書いています。※2

 芥川が亡くなったとき、そばに聖書があったことは知られています。
 しかし、この人はいかなる意味でも、信者ではなかったと思います。
 かれは、信仰を表現し賛美する美術や物語、そして殉教に対し、つよい知的関心をもっていました。そこで、明晰な思考と豊かな教養を駆使し、あとうかぎり論理的にキリスト教を批評しようとしたのだと思います。『西方の人』の正続編で繰りだされる、強烈な皮肉といってもいいほどの警句や箴言を読むと、なおさらにそう感じます。
 だから、殉教を「幸い」とはせず、あまたの苦しみを負う「きりしと」を背負いつづけるため生きるべき存在として、山の巨人を描いたのではなかろうか──そんなふうに思っています。

       ♪

 商店街から背負って帰る品のほとんどは食品です。ほかには漫画雑誌や洗剤ぐらいでしょうか。なにか大義のためだとか、見知らぬ人を援助できるようなものを、背負っているわけではありません。

 感染すれば死んでしまう可能性があり、かといって、接種すると大事になる危険もあるという、くやしいような病歴があるわたしは、意気地なく部屋に閉じこもっています。今後ますます社会問題になるとされる「高齢ひきこもり」です。
 しかたないとは思いますが、そんな状態なのに、わけがわからない気持ちが起きて困ることがあります。
 それは、人さまの役に立ちたい、という思いです。

 役に立ちたいからって、病院や保健所の手伝いをする勇気はありません。自分がやっかいにならないよう、感染に気をつけているほうがいいにきまっています。
 政界にうって出て事態をなんとかするなんて、もっとありえません。非現実的であるだけでなく、もう思い知らされたじゃありませんか。政治は人さまの役に立たないということを。いかに政治に疎くとも、ここしばらくの間に、いやおうなく……。
 ならば、もっと身近なところで、収入や感情がマイナスになって苦しい人たちを、ひとりふたりでも助けられないかというと、これもむずかしいことです。わが身の大事がさきに立って、ほんとうに親身になることは、できないのではないかと思います。
 つまりわたしは、無私とまではいわずとも無心で奉仕をすることはできません。だったら、よけいなことはしないほうが、世間の迷惑にならないはずです。

 そこまでわかっていてなぜ、人さまの役に立ちたい、という思いがあらわれるのでしょうか。
 ひょっとして、外へ出かけて多くの人とワイワイやりたがっているのでしょうか。ただ騒ぐのは気がひけるので、お役に立っているというアピールがしたいという欲求があるのでは……。
 そんなことは、考えたこともないのですが。(ケ)

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※1 新共同訳
※2『風変りな作品に就いて』(一九二五)

posted by 冬の夢 at 23:55 | Comment(1) | 日記 話題・意見・世相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする