2021年11月02日

自民党と中国共産党

 まるでどこか他所の国の出来事のように現実感の希薄な選挙が終わり、自民党の圧勝(と言っていいのだろう)という情けない結果が出ている。が、始まる前から全く期待していなかったので、特に落胆もない。(かなり以前から、もしかしたら物心がついた頃からか、選挙というものにはほとんど何も期待しないのが習い性のようになっている……) 「落胆もない」というからには、そして、その数行前には「情けない結果」と言っていることにも明らかなとおり、愚生は自民党が大嫌いである。「自民党的なものが大嫌い」と言った方がいいのかもしれないが、ともかく、あの嘘つき体質、あの隠蔽体質、誰も責任を取らない体質、アホなくせにやたらと偉ぶる体質には、どうしても許せないところがある。しかし、おそらくこれは日本という国に住んでいる限り、もうどうしようもないことなんだろうと諦めてもいる。周囲を見渡せば、この「「自民党的体質」のやけに蔓延っていること! そして、なおいっそう恐ろしいことには、これが我身の内部にまで浸透しているのではないかという不安! この日本という温暖湿潤な季候に生きる以上は黴から逃れられないように、この近代日本という社会に生きる以上、まるで亡霊か怨念のように、「自民党的なるもの」から逃れられないのではないか? こんな悪夢のようなことさえ考えさせられてしまう。

 それにしても、仮に投票率が55%程度だとしても、いったいどういうわけでこんなにも多くの人々が自民党を支持するのだろう? 自民党のいったい何がそんなに魅力的なのか? 本当に、どうしても理解できない……

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 先ず、テレビの街頭インタビューなんぞを聞く限りでは、多くの人が現状に不満を持っている。そして、その責任の大部分が政治にあることもご承知なようだ。そして、その政治を仕切っているのが自民党であることは言葉にするまでもない。つまり、当の相手を詰っていながら、それでもそれを支持している、と? いや、自民党=現在の政治への不平不満は、実はマスコミお得意の情報操作に過ぎず、実際にはかなり多くの人が現在の生活、現在の社会のあり方におおむね満足しているということもありえる。しかし、だとしたら今度は、少子化という確実な大問題と、巨大地震という潜在的な大問題、そして、福島の原発事故処理や韓国・中国・ロシアとの積年の問題解決、等々の難問蓄積に対して、自民党支持者たちは何を思っているのだろうか? 「いや、どうせ何も考えていないにちがいない!」と、罵声にも似た言葉を投げつけたいところだが、豈図らんや、世の自民党支持者には愚生などよりも遙かに真剣かつ慎重に、上記の大問題について考えている人もいるようである。そして、そうした御仁たちが口を揃えて言うのは「それでも、野党よりは遙かにマシだ」というものだ。

 実際、自民党が現在の日本を作ってきたといっても過言ではなく、そして、現在の日本で甘い汁を存分に満喫している人間が一定数いることも確実なのだから、一定数の人間が自民党を悪党だと承知しつつ支持し続けることには、何の不思議もない。不思議なのは、その一定数が自民党支配を盤石なものにするほどの、つまりは日本社会における「多数派」を形成しているという事実だ。同じような先進国で、フランスの普通の勤め人にはほぼ例外なく1ヶ月余りの夏休みがあり、ドイツの週当たりの労働時間が35時間になり、イギリスでは失業保険を貰っている小父さんたちが昼間のパブで楽しそうに歓談している一方、日本では現役の会社勤め人(つまり、ある程度の社会保障がそれこそ保証されている人々)でさえもが将来の年金や自分自身の老後を心配し、若年層に至っては、真剣に考えれば考えるほど絶望しか待っていなさそうなのに、それでもなお政権与党が選挙で大勝利を収めるとは……

 なぜ自民党がこんなにも強いのか? しばしば言われるのは、「自民党というのは厳密に言えば政党ではなく、選挙に当選するための互助組合のようなもの」らしく、それが彼らの「強み」であるらしい。つまり、支持率を上げるためになら何であろうともお互いに協力できる。確かに、ごく最近に行われた安倍から管への権力委譲、支持率低下、そして、管の辞任に伴う総裁選、その結果としての岸田の選出。こうした一連の動きを見つめ直してみれば、「選挙互助組合」という揶揄も当たらずも遠からずと思われる。選挙に勝つためなら、昨日の敵とでも握手することを躊躇わない。

 けれども、いっそうしみじみと思うのは、現在の中国共産党支配に関して中国人の友人が述解した言葉だ。曰く「どんなに君が中国共産党を批判してみても、そしてその批判の大部分が正しかろうとも、さらには、その批判をそっくりそのままこの私が繰り返してみたところで、中国共産党の専制政治は当分は安泰ですよ。少なくとも、6億とも10億とも言われている中国人民から大量の餓死者が出ない限り、中国共産党の支配が揺らぐことは絶対にないと断言できます。少しでも近現代史を知っている人ならご存知だろうし、首肯するしかないと思うけれど、中国が今ほど豊かで、中国が今ほど安定していた時期は、少なくともこの200年間にはなかったのだから」

 こう「解説」されたとき、確かに返す言葉はなかった。中国人民の胃袋を満たせている限り、中国共産党支配は安泰だ。だからこそ、南シナ海や東シナ海への進出が、どんなに国際的批判を浴びようとも、彼らにとっては正に命綱なのだから、国家の命運を賭けた事案にもなっているのだろう。

 そして、中国人の友人の「解説」の字句を少し変えるだけで、案外と自民党支配の秘密も明らかになるのかもしれない。つまり、何だかんだと言ってはみても、結局、現在の日本人の多くは現在の自分たちに満足している。夏休みがなかろうが、サービス残業が続こうが、老後の生活に不安があろうが、教育格差が深刻になりつつあろうが、真っ赤な嘘を吐く政治家がでかい顔をしていようが、ともかく、現在の生活にどちらかと言えば満足している。結局はこういうことなのではなかろうか。だとしたら、愚生としては、この件についてはもう貝のように口を閉ざすしかないのだろう。気持ちの悪い、泥濘のようにジメジメとした、寒々として冷気が襲ってくる場所、あるいは背後から毛虫や蛇どころか、毒虫や害虫がにじり寄ってくるような場所に座っている人に向かって、「もっと気持ちのいい場所に移ったらどうですか?」と言ってはみても、当の相手から「いや、ここは案外といいところですよ」と明るく返事をされてしまっては、もはや言い返すのも野暮というものだ。問題は、その毒虫や害虫が我身にまで迫ってくるかどうかだが、これは別問題として考えるしかないのかもしれない……どうしたら我身を守ることができるのだろうか? (H.H.)
posted by 冬の夢 at 16:22 | Comment(0) | 時事 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2021年10月28日

そもそも「国語」ってのが、ね……


同人の一人が日本の「国語」教育について一文を書いている。それを読んで、ちょっとコメントしたいと思ったところ、あまりに長くなりそうなので、代わりにぼくも一文を残すことにした次第。先の同人の文章に対する長いコメントと思って読んでいただければ幸いだ。


同人の言うところによれば、文科省と一部の勢力は、これまでの「国語総合」(つまり、普通の「国語」ですね)を「現代の国語」と「言語文化」に分割して、その上で「現代の国語」からはいわゆる文学作品を排除し、専ら「実用的」(しかし、「実用的」とは意味不明な表現ですな)な法令・報道・評論を教材にするらしい。そして、「現代の国語」から排除した「文学作品」は「言語文化」の方で教えることにするんだそうだ。

一言でいえば、アホですな。もちろん、こういう改革をしようとしている連中のことですけど。あまりにアホで、おそらくつける薬はないと思われる。ツッコミどころがあり過ぎて、どこから始めようか、迷ってしまう。

先ず、「実用的」な文章として「法令」「報道」「評論」が列挙されているようだが、最後の「評論」って、これはむしろ「文学」に分類されるものなのではなかろうか? 古くは三木清や小林秀雄、そして加藤周一や吉田秀和、存命中の評論家であれば、例えば内田樹や宮台真司。これらの文筆家・評論家・批評家・思想家が残した文章がはたして「実用的」なのかそれとも「文学的」なのか、考えるだけ無駄だろう。先の同人の言葉を借りれば、まさに「国語は、ひとつのもので、実用だろうと芸術だろうと、同じ国語だ」ということだ。

さらに、今度は逆の視点から眺めてみると、「法令」や「報道」の文章は「言語文化」ではないとでも言うのだろうか? 言うまでもなく、全ての言語表現が「言語文化」の実体であるはずなのに! これは本当に「白馬は馬に非ず」の、出来の悪いパロディーのようだ。

ともかく、これだけトンチンカンな話を見聞すると、同人が頭を抱え込んでいる図も易々と思い浮かぶ。だけれども、要するに全ての元凶は「国語」という奇妙な名称に凝縮されていると常々思っている。

何ですか、「国語」って? なぜ「日本語」ではないの? 「現代の国語」、アホですか? 素直に「現代日本語」とすればいいのに。そして、「現代日本語」では、日本語のメカニズム、つまり、正しい言葉使いと正しい書記方を教え、言葉によるコミュニケーションのあり方を実例を使って説明すれば済むだけなのに。そうすれば、やがては言葉に関する「正しさ」というものが相対的なものであるしかない(つまり、時と場合に応じて「正しさ」というものが変動する)ことを自ずと知ることにもなるはずだ。

他方、「言語文化」というのも「現代の国語」に負けず劣らず凄まじいネーミングだ。こういうことをする奴に限って「言語」についても「文化」についても何も考えていないにちがいない。つまり、脳ミソがスカスカなんだろう。こんなことは言うまでもないことだけど、「文化」とは人間を他の動物から区別する人間的営みの総称であり、そうであるなら、言語こそ人間を他の動物と区別する最大級の指標であるのだから、全ての言語活動が(言語)文化であることは論理的必然だ。詩や小説だけが「言語文化」であるはずはなく、落語やしゃべくり漫才は当然として、法令や新聞記事も言うまでもなく、さらには先の同人も言及していた方言なども、それこそ無形文化財と言っても過言ではない、非常に大切な言語文化資源であることに疑問の余地はない。

ずっと以前から羨ましいと思っていたことがある。聞くところでは、海の向こうのイギリスではEnglishという科目とLiteratureという科目があるらしい。そして、Englishでは英語の読み書きを習い、Literatureでは文学史と作品解釈・作品鑑賞を習うという。中学生・高校生の頃から「文学」が学べるなんて、何と羨ましいことか! 夏目漱石の何がそんなに偉大なのか? 『三四郎』の何が凄いのか? 萩原朔太郎の詩がなぜそんなに評価されるのか? それよりも何よりも、宮沢賢治の、あの奇妙奇天烈な詩をいったいどうやって読めばいいのか? こんなことを中学生や高校生の頃に学んでいたら、今頃もう少し文学が理解できるようになっていたのではなかろうか。ところが現実には、日本では長年「国語」という奇妙な科目があり、そこで「正しい日本語」と「作品鑑賞」の両方が、それこそ、今度は何の区別もなく、漫然と教えられてきた。今回の「騒動」も、要するにその混乱の延長にあるように思えてならない。つまり、阿呆の面々が想定していることは、「現在の国語教育では『客観的』な文章と『主観的・情緒的』文章の区別がない。今後は『客観的』文章は『現代の国語』で教え、『主観的・情緒的』文章は『言語文化』の方で教えよう」ということなのだろう。しかし、こんなことをしたところで「正しい日本語」は教えられず、「作品鑑賞」も教えられないだろうと容易に推察できる。何が「言語文化」か! 端的に「文学」とすればいいではないか? それとも、文科省の役人には「文学」を忌避しなければならない特別な理由があるのだろうか?

いずれにしても、誰の責任なのかは不明だが、この国で「正しい日本語」を教えることはすでにほとんど不可能になっている。句読点の使い方、漢字と平仮名の使い分け、段落の分け方、文体の選択、等々、こうしたごく初歩的なことさえもが教えられないのだから(それとも、誰か、自信をもってこれらのことを教えられる人がおりますか?)、要するに、この国には自分の日本語を心の底から信頼できる人が一人もいない、と言ったところで、誇張でも暴言でもないということになる。誰もが漢字の選び方に悩み、読点の打ち方に戸惑い、段落の分け方でつまずく。そして、適当なところで妥協する。妥協している限りは、100%の自信など生まれるはずがない。その結果、今度は逆に、かなり酷い悪文でも新聞雑誌は言うまでもなく、教科書にさえも掲載されることになる。中学生でもわかるような間違いでもない限り、大方の悪文は通用してしまうのだから。何事も「玉虫色」が大好きな日本文化の面目躍如といったところだろう。

他方、この国の「国語」教育では「文学教育」の方にも希望がない。古文を例に取れば、教室で教えているのは「古典文法」と文学史だけで、肝心の作品鑑賞、作品研究などどこを見てもない。たとえ源氏物語の一節や土佐日記の一節が教科書に載っていたにしても、それはほとんど「実務的」文章として読まれているに過ぎない。つまり、問題にされているのは、「何が書かれているか?」だけで、文学作品・芸術作品の理解・鑑賞に不可欠な「それが『どのように』書かれているのか?」という問いは断じて問われることがない。これは実は近現代文学でも同じで、そもそも長い小説の一部だけ取り出して、いったいそれで何を教えようというのか? さらに嘆かわしいのは、詩歌の冷遇!!!現在いったいどこの教室で、例えば「古池や 蛙飛びこむ 水の音」を教材に用いながら、この句が他の無数と言っても過言ではない名句を差し置いて、教科書に掲載されているのか、その理由なり根拠なりを解説できているだろうか? まして口語自由詩に関しては、文字通りに言葉もない。たとえ萩原朔太郎の「地面の底の病気の顔」が教科書に載っていたにしても、せいぜい「『地面の底』ってどこなんでしょうね? どうして『地面の底』に顔が映っているんでしょうね? 何にしても、よく分からないけど、怖くて不気味で寂しい詩ですね」というような「情緒的解説」がほどこされ、「じゃあ、次の詩に行きましょう」ってことで済まされているのではなかろうか。これでは作品を鑑賞する=味わうということからはほど遠い。(そう言えば、ロラン・バルトがどこかで、『フランス語ではsavoir(知識)とsaveur(味わい)は同語源だ』という意味のことを言っていた。そうだ、文学作品を「知る」ということは「その風味を楽しむ」ということなのに、教室では風味も香りも丸ごと完全消去されてしまっている! そして、いっそう重要なことは、作品を味わうためには感性だけでは全く不十分で、訓練と経験を積めば積むほど、それだけいっそう楽しめるようになるということは、その他の趣味や娯楽、芸事と全く同じこと。そして、今の日本ではこの「訓練」の実態が絶望的ということだ。)

こうした悲惨な状況を知ってか知らずか、言うに事欠いて「実用的文章」とは! 言語表現の重要な核心はいつも一つと決まっている:「言語表現・文章表現における『中身』と『形式』の関係に注意しろ」。このことさえきちんと教えられれば、「実用的」とか「美的」とか「客観的」とか「主観的」なんて修飾語は全く不必要だ。そして、「中身」と「形式」の区別がいかに大切な知識・技能であるのか、本当は中学生でも薄々気づいている。曰く「自分をより可愛く、カッコ良く見せるためには、ファッションは重要だ」「しかし、恋人は結局は中身だよね」「いや、中身がいくら良くても、やはり見た目も大事だよ」と。

おそらく今度の改革が実施されれば、「現代の国語」では、形式や微妙な言葉使い、そんなものには全く注意せず、ただひたすら「何が書かれているのか」だけを読み取るような練習が課せられ、その挙げ句に、易々と詐欺の口車に乗せられる良民=阿呆が大量生産され、他方、「言語文化」では、「文学って、結局は個人の感性で感じるものだから、どうとでも解釈できるように書かれているんだね」というようなことが、もっともらしい口調で語られるようになるのだろう。今からあまりに容易に想像できてしまうことが、本当に恐ろしい。(H.H.)
posted by 冬の夢 at 16:57 | Comment(0) | 時事 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2021年10月19日

カーク船長、宇宙へ──心にとどくことば(できるだけ全文)

 アメリカのテキサス州で十月十三日、アマゾン創業者のジェフ・ベゾスによるブルー・オリジン社の宇宙船「ニュー・シェパード」の、二度目の有人打上げが行われた。
 約三分間の宇宙空間滞在をふくめ、発射から約一〇分後、搭乗カプセルは無事帰還した。
 今回の乗客には、テレビと映画の人気作『スター・トレック』シリーズのオリジナル版、『宇宙大作戦』(STAR TREK∴鼡纔Z六〜一九六九)でカーク船長を演じた、ウィリアム・シャトナーがいた。シャトナーは九〇歳で、最高齢の宇宙旅行者となった。
 以下は、シャトナーが地表に降り立った直後、迎えたベゾスと話したようすだ。ほかの同乗者と出迎えの人が大騒ぎしているため、きわめてわかりにくかったが、複数のニュース映像などを見くらべ、シャトナーのことばを知った。そのあと多数のメディアの取材に応じたろうと思うが、そちらは見ていない。
 なぜ、わかりにくく、とりとめない、帰還第一声に耳を傾けたか。
 かつてエンタープライズ号の船長席から、ゆうゆうと「ワープ1で前進!」と命じ、未知の宇宙へフロンティアを進めたカーク船長は、ニュー・シェパードで同乗者が無重力状態をわいわい楽しむなか、生まれて初めて観覧車に乗った子どものように窓にへばりつき、小さな声でつぶやきながら窓外を見続けていた。それがあまりに印象的だったから。
 そして、カーク船長の帰還第一声はたしかに「地球は青かった」に類してはいたけれど、なにより、無限の暗黒への畏怖と、地球をつつむ大気の薄さへの驚きに満ちていた。それもとても印象的だったからだ。

※英文にも訳文にも誤りがあると思われます。複写引用は避けてください。


William Shatner (WS): In a way, it’s indescribable. I loved it.

シャトナー:なんというか、ことばにできないね。よかったよ。


Jeff Bezos (JB): That’s what I thought. You have to work on it. It’s so hard to describe.

ベゾス:そうおっしゃると思ってました。よく考えないと、とてもじゃないが表現しがたいことですよね。


WS: Not only is it different than what you thought, it happens so quickly. You know my... the impression I had, that I never expected to have. This is the shooting up... and there’s new sky.

シャトナー:思っていたのとまったく違うだけでなく、まったくあっという間のことだね。私の印象は、こうなるなんて予想もしていなかったことだ。発射したらもう、見たこともない空があるんだ。

(登場者や関係者、そしてベゾスも、シャンパンを抜いて騒ぐが、シャトナーはひとり黙って立っている。あらためてベゾスに向かい)


WS: What you have ... if ... everybody in the world needs to view this. Everybody in the world needs to see the, um... it’s still too... it was unbelievable. I mean, you know, the little things, the weightlessness. But to see the blue color go whoop by, and now you’re staring into blackness ... that’s the thing! The covering of blue was... the sheet, this blanket, this comforter of blue that we have around us, we think, Oh, that’s blue sky. And then suddenly you shoot through it all of a sudden, as though you whip off a sheet off you when you’re asleep, and you’re looking into blackness, into black ugliness, and you look down, there’s the blue down there, and the black up there and it’s... it’s just... there is mother earth and comfort, and there is ... is there death? I don’t know. Is that death? Is that the way death is? Whoop, and it’s gone. Jesus. It was so moving to me. This experience, it’s something unbelievable. You see, yeah, you know, weightless, my stomach went up ... This is so weird!

シャトナー:この体験を、もし……世界中の人がみな、これを見なきゃいかんよ。世界中が見なくちゃ……ああ、まだとても信じられないな。ね、わかるだろ、自分が小さいこと、重力がないということがね。しかし、青い色がばっと過ぎたかと思ったら、暗闇をのぞきこんでいるんだ……そのことのほうがさ! 私たちの上空を青く覆っていたものは、布か、毛布か、私たちを包んでいる青い掛布団で、「わぁこれが青空なんだな」って思うわけだが、そこへいきなり打ち上げられると、まったくとつぜんにだね、まるで寝ているときにいきなり上掛けを引っぱがされたように青い布が吹っ飛ぶ。そしたら暗闇を、醜悪なほどの暗黒を見上げることになるんだよ。下を見ると下には青がある。しかし上には暗黒だ。それはちょうど……下には母なる地球と安心がある。でも上には……あそこに死があるのか? わからんな、あれは死なのか? 死とはああいうものなんだろうか? ひゅう〜っと行ったかと思ったら、去っていった。ああ、すごく感動したよ。この経験は、信じられないことだ。な、わかるだろう、無重力、胃がせり上がってきてさ、とても奇妙な体験だったな。


WS: But not as weird as the covering of blue. This is what I never expected! Oh it’s one thing to say. Oh the sky and the thing and the fragile... it’s all true! But what isn’t true, what is unknown until you do it is there’s this pillow, there’s this soft blue! Look at the beauty of that color! And it’s so thin! And you’re through it in an instant! It’s, what a ... How thick is it, do we know? Is it a mile, two miles? ... But you’re going 2,000 miles an hour, so you’re through 50 miles, whatever the mathematics ... it’s like a beat and a beat and suddenly you’re through the blue! And you’re into black! And you’re into, you know, it’s mysterious and galaxies and things, but what you see is black, and what you see down there is light, and that’s the difference. And not to have this, you have done something, I mean whatever those other guys are doing, what isn’t, they don’t, I don't know about them. What you have given me is the most profound experience I can imagine. I’m so filled with emotion about what just happened, I just... It’s extraordinary, extraordinary. I hope I never recover from this. I hope that I can maintain what I feel now, I don’t want to lose it. It’s so...it’s so much larger than me and life. It hasn’t got anything to do with the little green planet, the blue orb and the ... it has nothing to do with that. It has to do with the enormity, and the quickness and the suddenness of life and death and the ... Oh my god!

シャトナー:けれどもそんなことは、あの青い覆いの異様さほどではなかったな。それこそ思ってもみないものだったから! ああ、ひとついわなくちゃいかん。ああ、空、もの、はかなさ、すべてが真実だ! だが、この経験をするまでは真実でなく、未知でもある、というのは、ここにこう、まくらがあって、ここに柔らかな青があるってこと! その色の美しさを見てほしいものだ! そしてとても薄いんだね! 一瞬で通り抜けてしまうんだ! それは、ええっと、どのくらいの厚さなんだね? 1マイルか、2マイルなのか?……いや、時速2000マイルだというんだから、50マイル通り抜けたということか、まあ算数はともかく……とん、とん、と二拍もすればもう、青を通り抜けているんだよ! そして暗黒の中さ! 突っ込んでいくわけだ、謎めいている、銀河がある、いろいろあるところへね。しかし、実際に見えているのは闇であり、そして下のほうの光だ、その違いだけ、そこなんだよ。そして、これをしなかったら私は知ることがなかったんだ。きみ(ベゾス)はなにかをなしとげて、なんといえばいいのか、ほかの連中がやろうとしてて、やっていないこと、それがなにか私はわからないが。きみ(ベゾス)が私に与えてくれたものは、私に想像しうるもっとも深淵な体験だよ(涙ぐむ)。この経験への感動でいっぱいだ。貴重な、とても貴重な体験だったんだ。(ベゾスを抱きしめる)。私はね、いまの境地からもとにもどりたくないな。いまの感覚を保っていたい。これは、とても(ため息)……私という存在や生命というものよりも、はるかに大きな存在なんだ。この経験はね、このちっぽけな緑の惑星、つまり青い天体ね、そんなものには何の関係もないんだ。このことは、とてつもなく大きくて、速くて、突然であることをあらわしているんだ、生と死のね、そして……ああ、なんてことだろう!


JB: It’s so beautiful.

ベゾス:美しい。


WS: Beautiful, yes, beautiful in its way, but...

シャトナー:ああ、それはある意味、美しいね、でも──


JB: No, I mean your words.

ベゾス:いえ、あなたのことばがです。


WS: Oh, my words.

シャトナー:え、私のことばが、かね。


JB: It’s just amazing.

ベゾス:驚くべきことばですよ。


WS: I can’t even begin to express what... What I would love to do is to communicate as much as possible the jeopardy, the moment you see how... the vulnerability of everything ... It’s so small! This air which is keeping us alive is thinner than your skin! It’s a sliver, it’s immeasurably small when you think in terms of the universe. It’s negligible, this air. Mars doesn’t have it. Nothing... I mean, this... And when you think, wait, carbon dioxide change to oxygen at, what is it, 1% or something, that level sustains our life ... it’s so thin, to dirty it ... I mean, that’s another whole subject...

シャトナー:まだ表現しはじめることすらできないでいるよ。ええと……私がなんとか伝えたいと思っているのはね、危険のことだ、わずかな間に、あらゆるものがどれほど脆いか見たわけだ。なんて、はかないのだろうってことだ! 私たちを生存させているこの大気は、皮膚より薄いんだよ! それは薄っぺらい、とてつもなく薄いんだ。宇宙全体ってことで考えたらね。無視していいくらいなんだ。火星には大気はないよな。ほかにはなにも……つまりなんというか、考えてみれば、待てよ、二酸化炭素はどのくらい酸素に変わるんだっけ、1パーセントぐらいかどうか、その割合が私たちの生命を保っていると……空気は、あまりにも薄いんだ、汚染してしまうには……いや、これはまた別の大きな問題だな……。


JB: And you shoot through, what you were saying about shooting through it so fast.

ベゾス:あなたは、そこを通り抜けましたね、それが、ものすごく速かったとおっしゃっている。


WS: So quickly! Fifty miles of...

シャトナー:どえらい速さだ! 50マイルを……


JB: ...And then you’re just in blackness!

ベゾス:……そしたら、あなたは暗黒の中にいる!


WS: And you’re in death! The moment...

シャトナー:死のなかにいるんだ! その瞬間に……


JB: This is life.

ベゾス:それが人生なんですね。


WS: This is life, and that’s death. And it’s, in an instant you go, Whoa, that’s death!’ That’s what I saw.

シャトナー:それが人生だ。そして、それが死だよ。一瞬でそこに行くんだ。「おわっ、あれが死だ!」それが、私が見たものなんだ。


JB: That’s amazing. That’s amazing.

ベゾス:驚くべきことです。驚くべきことですね。


WS: I am, I am overwhelmed. I had no idea. You know, we were talking earlier before going, Well, you know, it’s going to be different, Yeah, and whatever that phrase is you have, that you have a different view of things. It doesn’t begin to explain, to describe what a, well for me, I mean everybody’s gonna... But ... and this is now the commercial ... everybody. It would be so important for everybody to have that experience through one means or another. I mean maybe you could put it on 3D and wear the goggles... and have that experience. I mean that’s, that certainly is a technical possibility.

シャトナー:いや、まいったよ。わからなかったんだ。ね、出発前に話し合っていたじゃないか、さあて、想像したのとぜんぜんちがう体験が待ってるぞ、そのとおり、ってね。そのときの、ちがう、というフレーズがどんな意味であったにせよ、ものごとの見えかたが変わった、ってことなんだよ。まだ、自分が思うように説明も表現もやれていないんだが、つまり、みんなが……いや、いまはこれは、商売でやっていることだから、みんなが、なんらかのべつの手段で、この経験をすることがとても大切だろうってことだ。つまり、きみがこれを3Dにしてくれて、ビュアーをつけて見られるんじゃないか……そういう体験が、技術的に可能なんじゃないかっていいたいんだ。


JB: Yeah.

ベゾス:ええ。


WS: But what you need also... We’re lying there and I’m thinking, this is one delay after another delay,’ we’re lying there, how do I feel, and I’m thinking, Yeah, I’m a little jittery here, and well they moved the... Oh, there’s something in the engine, they found an anomaly in the engine. They found an anomaly in the engine? We’re going to hold a little longer. Oh you’re going to hold a little longer? And I feel this, you know, the stomach, the biome inside, and I’m thinking, okay, I’m thinking I’m a little nervous here’ ... another delay ... I’m a little more nervous, and then the things start. By the way, this simulation is, they have to be? owed? ... it’s only a simulation. Everything else is much more powerful.

シャトナー:それから、もうひとつ必要なことは……搭乗カプセルで仰向けになっていたとき思ったんだが、発射延期が繰り返されるたびに、カプセルにいて感じたとことを、こう思うわけさ。おい、ちょっとナーバスになっているぞ、ってね、なにか動かしているぞ、あれ、エンジンになにかあるぞ、エンジンに問題を見つけたな(笑)、エンジンに問題があるというのか? しばらくこのままの状態を保持しますだって、え、またこのままでいるのか? ね、腹の中に虫がいるような感じがしてさ、こう考えるわけだよ。オーケー、私はちょっと神経質になっているなって……そしてまた延期……で、私はもう少しナーバスになる。そしてミッションは動き出すんだ。とにかく、訓練っていうのは、しなくちゃならんことになっているのかね。それはシミュレーションにすぎないだろう。訓練以外のすべてが訓練よりずっとものすごいんだからね。


JB: Doesn’t capture...

ベゾス:訓練にはとり入れられませんね……


WS: Doesn’t capture the... and besides which, the jeopardy. Bang, this thing hits, you go, you know. That wasn’t anything like the simulation.

シャトナー:できないな……そのほかの危険もね、ドカンと撃って、飛んでいくわけだろう、あれは、訓練とはぜんぜん違うものだったよ。


JB: The G-force is pulling your skin!

ベゾス:重力加速度が、あなたの皮膚を引っ張りますからね!


WS: Yeah, the G-force and your stomach and you’re like, What’s going to happen to me? Am I going to be able to survive the G-force? You feel that. Am I going to survive it?’ And then I think, Good Lord, you know, just getting up the bloody gantry was enough!

シャトナー:そうなんだ、加重と、せりあがってくる胃と、私はどうなっちまうんだ、って感情が襲ってくるんだよ。重力加速度に耐えられるのか? と感じるわけだ、この加重で、私は生きのびられるのか? そしてこう思うんだ、おお神さま、この、くそ発射台を、ここまで上がってきただけでもうたくさんだ、ってね。


JB:

ベゾス:(笑)


WS: Oh my god what an experience, what a... nothing, nothing...

シャトナー:ああ、なんてことだ、なんて経験だろう(ため息)、なにも、なにも比べられるものとてない……。


JB: It looked like you had a moment of camaraderie with your crewmates up there.

ベゾス:上では、同乗者たちと友情のひとときを持てたようですね。


WS: Oh, we all hugged each other. You know, you share, it’s like being in battle together, really. And there is this bonding of being in battle. But you’re also embattled inside yourself. Oh my goodness. I have had an experience.

シャトナー:ああ、たがいに抱き合ったよ。みんなで戦いのときをわかち合うようなものさ、本当だ、戦いの絆というものがあるわけさ。でも、自分の内面とも戦いをしいられるんだよ。ああ、なんてことだろう。なんてすごい経験をしてしまったんだ。

(ケ)
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『宇宙大作戦』のカーク船長、ウィリアム・シャトナー(右)。
 宇宙船エンタープライズ号の模型を前に、
盟友のスポック副長を演じたレナード・ニモイとともに。
public domain



※ 聞き取りと訳に協力してくださったかたに感謝します。
posted by 冬の夢 at 21:36 | Comment(0) | 時事 国際 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2021年10月18日

国語がわからない!──国語教科書と小説のこと

 高校の国語の授業、「現代の国語」で使う教科書に、小説が載っていることが問題になったという。
 さっぱり意味がわからなかったが、どうやら来年度(二〇二二年度)施行の、新しい高等学校学習指導要領で再編される国語授業科目と、そのために作られた教科書をめぐる騒ぎらしい。

 そこで、いま高校で国語がどう教えられているか調べたが、ますますわからなくなった。高校生のころ習った国語と比較したくとも、昔のことすぎるのか、当時の科目編成が見つからない。
 立往生していてもしかたないから、これから施行される高等学校学習指導要領(文部科学省が二〇一八年に告示)を見ると、A4で六〇〇ページ以上、国語については十五ページある。国語のところだけでも読もうとしたが、命令調の「〜すること」だらけの、ほとんど意味がわからない内容で、とうとう吐きけがしてきた。
 学習指導要領なんて、その通りやれたら苦労せんよという美辞麗句が並んでいるものだとは思う。指示がほんとうに達成できたら、どんな高校生だって金田一春彦みたいな「国語の神さま」になれてしまうからだ。国語の教科書に小説が載ると、なぜもめるのか知りたいだけだから、国語科目の再編のみ確認しよう。書きうつすだけで気が変になりそうなので、間違って書かないといいが。

 今年度までの高校国語は、基本的に一年生で教わる「国語総合」が必修で、二年から「国語表現」「現代文A」「現代文B」「古典A」「古典B」の選択科目だった。どう選択する決まりかは、わからないが。
 それが来年度からどうなるかというと、「国語総合」が「現代の国語」と「言語文化」に分かれ、「総合」と同じ時間数の必修だ。選択科目は「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」の四つ。
 ならば、これまでの各科目で具体的にどんな文がどう教えられたのか。新指導要領では、どう引き継がれ、あるいは変わるのか。
 申しわけないことに、わからない。新旧の教科書を見ていないので、なおさらだ。
 現代と古典にわかれる程度なら、なんとか想像できる。しかし「論理」や「文化」となると、どうなるのか。「表現」とか「探求」とかいう名称からして高度な科目は、それぞれ専門の先生が教えるのだろうけれど、そこらの高校生が「選択科目は論理と探求にしよっと」なんて、軽く選ぶのだろうか。

 ひとりで浦島太郎していないで、小説が載った国語教科書が問題になったできごとに戻ろう。
 九月中旬の、複数のニュース記事を読むと、こういうことのようだ。
 高校生の国語力低下──ほんとうかどうか知らないが──を気にやむ文科省は、これまで高校であまり教えなかった、実用的な文の読み書きができるようにしないと、日本の将来が心配だと考えた。
 そこで必修の「国語総合」を二科目にわけ、小説や古典は「言語文化」で教えなさい、そして「現代の国語」では現代の社会生活に必要な実用文、つまり法令や報道や評論を教材にするように、としたのだ。新指導要領にそった教科書を作る出版社には、「現代の国語」教科書には、文学的な文章や小説がはいる余地はない、と説明した。
 ところが、ある教科書会社が作った、小説が載っている「現代の国語」教科書が検定合格したうえ、都立高の二十五パーセント近くに採用されてしまった。結果として、一部の教育委員会から、小説が載っているのに使えるのか、という声があがり、また、指示どおり作られていない教科書に客を取られる形になった他の教科書会社から、検定調査審議会や文科省に文句が出た。

 なるほど、起きるべきことが起きただけで、ばかげた騒ぎとは思うが筋は理解できた。しかし、偏頭痛のようなすっきりしない気分は消えない。

 実社会で役立つ、実用的文章をもっと習わせるべきだ、という考えと、文芸や古典に親しませないと豊かな人間は育たない、という考えのせめぎあいがあるから、そうなったことはわかる。
 あえて単純にいうと、政府や財界は前者の考えで、多くの国語教師や国語教育研究者そして知識人は、後者ということになろうか。そうでなければ、文学がはいる余地はないとされた科目の教科書に、文学が載ったものが採用されるはずがない。採用はある意味、教育現場の抵抗感の表明ともいえそうだ。
 どちらの気持ちも、わからなくはない。
 しかし、どちらの考えも、まったく的外れな気がする。
 国語は、ひとつのものじゃないか、と思うからだ。
 実用や芸術、論理や文化、そういうことは、国語で表現された結果というか、国語の姿や形でしかない。
「現国」も「古文」も、表しかたが違うだけで同じだ。漢文だって、中国語でなく読み下し文であるなら、それも国語だ。すべて日本語の「方言」のようなものだ。
 それはいいすぎかな。でも、いっそ各地の学校に「正調の地元ことば(方言)」を教える国語授業があったっていいじゃないか、と思うのだが……だめなんでしょうね。
『東京物語』の原節子の、書きことばのように堅苦しく聞こえる「国語」も、『野良犬』の三船敏郎の、よく聞きとれないほど荒っぽい「国語」も、いや、そういう芸術的な映画だけでなく『歌行燈』の市川雷蔵だって、『黒の超特急』の田宮二郎だって、それぞれの時代の社会事情と切ってもきれない、さし迫ったことを、「国語」で語っているじゃないですか。それこそ正調の成長物語といってもいい『鬼滅の刃』でもまた、切迫した思いが「国語」で語られているのではなかろうか。

 こと国語教育となると、さっきあげたどちらの側からも、「主体性」とか「表現力」とかいう題目が、やたらに出てくる。
 ひとつのことばを、ばらばらにしてしまうような教えかたをして、主体性や表現力なるものが得られると、本気で信じているのだろうか。そんなふうに考えてしまっている人たちが、国語はこう教えればいいんだと、それぞれ主張しているとしたら、それがもっとも不可解だ。

 ひとりで本を読んだり、なにか書きつけたりすることは、好きなほうだった。小さいころ病弱だったせいだ。
 しかし学校で、とくに高校で「国語」を習ったら、読むのも書くのも嫌いになった。
 高校の国語試験が、はじめのうちろくにできなかった。読みとり問題で、出題者が求めた正解と、くい違う解答ばかりして、がっくりきた。それから、作文がヘタだと何度かいわれた。「この子は上手だから」と、ほかの生徒の作文を読まされたこともあり、すっかり自信をなくした。
 それでも、もし高校で国語の授業がなく、古文や漢文に接することもなかったら、いまこの文を書いていないし、文科省の資料を読みもしていない。しないというより、できないと思う。

 プレゼンや履歴書にはじまり、エッセイや小説、批評なども、内容以前にまず「読みやすく、わかりやすい」文にするなら、手伝いや手直しができる。理由は長くなるから略すが、ほぼ迷わずやれるし、教養があっても「読みにくく、わかりにくい」文を書いてしまう人の例も、よく知っている。
 ところが、そうまで偉そうにいうなら、自分は「読みやすく、わかりやすい」文をすらすら書けるかというと、困ったことに、それはむずかしい。
 国語は、ひとつのもので、実用だろうと芸術だろうと、同じ国語だと思う気持ちは変わらない。しかし、ごく基本の伝達機能だけ扱うときでも、国語が、やっかいでとらえどころのないものを持っていることは、わかっている。
 なので、高校の国語教育はこうすべきだとか、教科書はこう作ればいいということは、思いつけないし、思いつきは役に立たないだろう。
 あらゆる高校生に教えられる共通の国語教育法なんて、あるのだろうか。たとえば、ひとつのクラス全員に、読み書きや、聞いたり話したりする技術を、同時に指導できるのだろうか。
 ある、できる、といわれても信じない。
 生徒さんにはもちろん先生がたにも、まず国語の授業に直接関係ないことをいくつか身につけてもらわなければ、国語を学んでもらうことも、教えることも、できないような気がする。(ケ)


Originally Uploaded on Oct. 19, 2021 16:00:00
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2021年10月10日

「アイデンティティ」という幻想に誑(たぶら)かされて

(※「誑かす」って、凄い字ですね……)

1)「日本らしい」サッカーという幻想
 サッカーワールドカップ最終予選での日本代表チームの成績が全く芳しくないようで、選手への批判や監督更迭の声も随分と大きくなっているようだ。敗戦が続けばファンから罵声を浴びるのは、それを生業としている以上、避けては通れないだろう。その点では、サッカー関係者はプロ野球の阪神タイガースや広島カープ、あるいは中日ドラゴンズにでも出向して、ファンからの罵声に対する耐性を鍛えた方がいいのかもしれない。もしかしたら、サッカーでは「ファン」を「サポーター」と言い換えたがために、基本的には好き勝手言い放題な、無責任極まりない、中には自分の欲求不満の捌け口のようにして罵詈雑言を吐く輩からの(「サポーター」の全てがそんな人間だと言っているわけではない)批判をあまりに生真面目に受け止めすぎているのではないだろうか。「勝てば官軍、負ければ賊軍」というのは、とりわけプロスポーツの世界に当てはまる言葉だと思う。

 が、そうは言うものの、現在のサッカー日本代表チームを外から(あくまでも外からなので、以下のコメントも単なる印象に過ぎないが)眺めている限りでは、チームとしての体を成していないように思われる。端的に、このチームには「対策」というものが何もないのでは?と思えてならない。曲がりなりにもそれが「試合」であるなら、当然のことながら、対戦相手があり、その相手は試合ごとに替わるのだから、それに連れてゲームプランも当然変更されるべきだ。古来からの兵法の基本にも「敵を知り、己を知れば、百戦して殆(あや)うからず」とあるように、対戦相手の敵情視察は欠かせないはずだ。が、なぜか今の日本チームからは「対策は万全だ」という声が全く聞かれない。対戦相手の長所や短所の分析、相手の長所を消すための対策、相手のスタイルに応じた先発メンバーの選定、等など。日々のプロ野球の試合でさえ当然のように行われていること(例えば、相手の先発投手に合わせて打順の入れ替えを考える、等など)が、全く行われていないのではなかろうか? 

 綿密な対策の代わりに耳に届けられるのは、いかにも意味ありげに使われている「日本らしさ」だ。曰く、「日本らしいサッカーを追求すれば勝てる」とか、逆に「日本らしいサッカーが迷走している」とか。おそらくは、いわゆる「ポゼッション・サッカー」(なるべくボールをキープし続けるスタイル)と、ある程度には俊敏なサッカーを「日本らしい」と言っているのだろうが、しかし、言うまでもなく、ある程度強いチームなら、自分たちでボールをコントロールしようと思えばある程度にはコントロールできる(つまり、そのゲームをコントロールできる)はずだし、俊敏でなければゴールを奪うことは難しいだろう。ごく稀には、ゲームのほとんどを相手に支配されているにもかかわらず、また、俊敏さにおいても相手に劣ることが明らかであるにもかかわらず、まぐれのようなラッキーゴールと、相手の不運が重なることで、思いがけない勝利が舞い込むこともあり得るだろう。しかし、これはしょせん「まぐれ」に過ぎないから、考慮する必要すらない。となれば、「日本らしいサッカー」というのは、普通に考えれば、「まともなサッカー」ということだろう。(もちろん、「ポゼッション・サッカー」の対極には「カウンター・サッカー」というのがあるのかもしれない。相手の攻撃をしのいで、ボールを奪ったら一気に相手ゴールへ向かうというスタイルだ。しかし、このようなカウンター攻撃をするためには、先ず相手からボールを奪わなくてはならない。相手からボールを奪うことと、自分たちがボールをキープすること=ボールを失わないことは、実は同じコインの両面に過ぎない。どちらもボールコントロールに長けている、つまり、基本技術がしっかりしているということだろう。そして、カウンターに必要なのは攻守の素早い切替だが、これを俊敏と言わずに何と言うのか、愚生にはわかりかねる。)

 言いたいことを手短に言うと、つまりは、サッカーにおいて「日本らしさ」なんてものの実体が全く希薄だということ。そして、この実体のない「日本らしいサッカー」という言葉によって、実体を伴うべき各試合における対策・方策・戦略の欠如が見事に覆い隠されていること。これを憂いているわけだ。

 例えば、10月12日に、どうやら今度の最終予選の「関ヶ原」になるらしい対オーストラリア戦があるのだが、いよいよ剣が峰に立たされた日本チームの選手から「チームを信じる」とか「強い気持ちを持つ」(長友佑都談)とか、せいぜい「プレーの判断を間違えないこと」(遠藤航談)のような、全く抽象的・一般的なことしか聞こえてこない。これはそのまま「これまで通りの『日本らしい』サッカーをすれば勝てるはず」と言っていることと大同小異だ。聞きたい言葉はこんなのではなく、「サウジに対しては対策に不備があったが、オーストラリアに対しては対策は万全だ。準備すべき事は全てした」という自信に満ちた言葉なのだが、そのような自信は日本チームのどこからも発信されない。とすれば、極めて残念ながら、今度の試合も敗戦が濃厚だ。仮に勝ったとしても、それはやっぱり「まぐれ」の勝利だろう。

 それにしても不思議でならないのだが、いったいどうしたら「日本らしいサッカー」などという幻想が一人歩きしているのだろうか? 少し考えれば(あるいは考えるまでもなく)、サッカーに何かあるとしたら、「良いサッカー」と「悪いサッカー」があるだけなのではないか。そして、「良いサッカー」をする限り、勝率が高まる可能性が増え、「悪いサッカー」をすれば、まぐれ以外では勝てないということになるだけではないか。

2)LGBTからLGBTQ+ へ
 いわゆる性差別、性的少数派(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、etc. を「少数派」というところにすでに問題がありそうだと思うのは、愚生がひねくれ者だからだろうか)の呼称としてLGBTが定着するかと思ったら、おっとどっこい、いつしか末尾にQもつけて下さいとなった。このQも一説ではqueer(変態)の頭文字だったり、あるいはquestioning(よくわからない)の頭文字だったりするらしいが、今はとりあえずその両方を含むことで了解されているようだ。が、事態はここで止まらず、さらに+記号まで付されるようになった。これが頭文字ではなく数学の記号であるところがいかにも意味深長であり、正直に言えば、少し笑えてしまう。つまり、この「+」があれば、少なくとも可能性としては「+なんでもかんでも」となる。そして、それはそれで全く正しい方向性を示している。というのは、「個人の性指向で差別をすることは認められない」というのは、本来はごく当たり前のことであり、「個人のプライバシーを理由もなく制限することは認められない」という、いわば基本的人権の問題であるのだから、他人に損害を与えない限りは個人の恋愛や性行動が尊重されるのは、本当は論じるまでもない。まして差別なんてことがあることがおかしい。

 とすれば、わざわざ特定の人たち(LとGとBとT)だけを取り出してひとまとめにするということが端から無理だということも自明だ。したがって、その後ろに色々な頭文字や記号が増えていくことも不可避となる。例えば、なぜか禿げている人が好きな人たち、なぜか扁平胸が好きな人たち、なぜか既婚者が好きな人たち、なぜか一人でいるのが好きな人たち、なぜかグループ交際が好きな人たち、なぜか、etc.と延々と続くだろう。+という曖昧な記号を使ったのは、この点では妙案だったとも言えるか。

 しかし、本当に気になるのは、以前にも書いたことだけれど、個人の指向なり嗜好は、そんなに確定的なものなのだろうか? 例えばゲイでもありバイでもあるという人は沢山いるのでは? (それをバイセクシャルというのだ、という反論もありえるが、そうではなく、あくまでも「おれはゲイだけど、実はバイでもある」と「自認」している人がいるだろうという可能性の問題を言っている。)また、「最初はもしかしたらレズビアンかなと思っていたけど、あるときバイであることを確信した。そして、今は普通の男性と付き合っているから、もしかしたらストレートになってしまったのかもしれない」というような人もきっといることだろう。これは、「最初はグラマラスな女性が好きだと思っていたけど、あるときガリガリの女の子を好きになってしまった。そしたら、そのうちその子に夢中になってしまい、今でも仲良くしているから、もしかしたら最初から本当はスリムな子の方が好みだったのかもしれない」というのと大同小異ではなかろうか。

 さて、そうなると、問題の核心はタイトルにも書いた「アイデンティティ」というものだ。「自分は自分だ」という自己認識のことだが、これがしばしばこんな風に使われている。曰く「日本人としてのアイデンティティ」「ジェンダー意識はアイデンティティの確立と切り離せない」、「母親としてのアイデンティティ」、云々。これだけでは愚生が何を問題視しているのか不明だと思う。愚生が気に入らないのは、上記のような使われ方をしている内に、アイデンティティ、即ち自己同一性というものが、あたかも不変のもののように認識されてしまっているのではないかという点だ。そしてここにはいくつもの錯誤がある。

 つまり、一方に、本当には少なくとも確固とした形ではあるはずのない「日本人らしさ」や「男らしさ」、「母親らしさ」と言われるものが想定されるという錯誤がある。自分が、あるいはある人が自分自身を「日本人」だとか「男」だとか「母親」だとかに同定したとしても、それぞれの対応要素の本質は、実は全く不確かなものに過ぎない。何をもっていったい「日本人らしい」「男らしい」「母親らしい」というのか、一致点を探ろうとすればかなり苦労するにちがいない。言い換えれば、アイデンティティとはあくまでも自己認識の問題であり、他者と共有できることではない。だからこそ、傍目には男性に見える人が「いや、自分は女だ」と言っても全然おかしくないのだし、金髪碧眼の人が「自分は日本人だ」ということにも何の問題もない。それを他人が否定できるはずがなく、だとしたら、「日本人らしさ」や「男らしさ」は、それこそ百人百様になるしかないはずだ。

 他方、こちらの方がいっそう重大だと思うが、自分自身というものが常に変化する存在であり、しかも、自分自身の人格は常に複数性を備えている。どういうことかというと、誰もが同時に例えば「『男』であり、『会社員』であり、『父親』であり、『嘘つき』であり、『初老の男』であり、『慢性気管支炎患者』であり、『AKBの熱狂的ファン』であり、云々」といったように、「アイデンティティ」の構成要素のリストは延々と続く。そして、このリストには中心らしきものもない。中には「いや、中心的・中核的なものはあり、それが人格の中核になるはずだ」と言いたい向きもあるかもしれないが、それは端的に幻想に過ぎない。たえず変化し続けるものの中心をいったいどうやって定めようというのか? その上、すでに現代人は「無意識」というものの重要性まで知ってしまったのだから、自覚している人格の背後に、無自覚の、しかしより支配的な人格があることすらも、イヤイヤながら承知しているはずだ。だとしたら、「俺はオトコだ!」と絶叫している背後に、「でも、本当はオンナに憧れている」という自分がいないとも限らない。

 よく「アイデンティティ・クライシス」といった言葉を耳にする。「自分には確固としたアイデンティティがない」みたいに。だが、自己認識に関する本当の問題は、固定したアイデンティティを強拍観念的に求めることにあるのではなかろうか。そして、本当には存在しない「固定したアイデンティティ」を求める背後にあるのは、複数の人格(ペルソナという方が適切かもしれない)に耐えられないという脆弱性ではないか。自分自身の中の複雑さ、自分自身の複数性、社会の中の複数の価値観、サッカーのゲームを遂行するために必要な無数の約束事とその複雑な組み合わせ(先発メンバーを固定するというのは、要するにメンバーの最適な組み合わせすら考えられないということだろう)、こうした錯綜にも似た圧力に耐えられないとき、人は幻のような「アイデンティティ」に、それこそ藁にもすがるように、しがみつこうとする。しかし、それは所詮は藁に過ぎない。その幻の藁、必死でしがみついた藁が切れたとき、それをクライシスと言っているように思う。だとしたら、クライシスの本当の原因はもっと前にあったわけだ。

 もちろんこんなことは専門家なら十分承知なことだろうし、いや、ここに書いた以上にはるかにもっと精緻に問題点の指摘もできるだろう。しかし、「日本らしいサッカー」や「LGBTQ+」などというものに出会すたびに、幻のような「アイデンティティ」に誑かされているような気がしてならない。(H.H.)

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(大学生の頃に読んだはずだけど、細かいことはすっかり忘れている。この際だから、読み返そうかな……)

posted by 冬の夢 at 20:32 | Comment(0) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする