2021年11月29日

John Keats を読む Ode on a Grecian Urn 邦訳【説明】(8/9)

■第五節(1/2) ──小さな街の謎

 またしても、キーツのまなざしが変わります。
 視線はふたたび「つぼ」へもどっています。
 読解しなければと思うから、ややこしく感じますが、ヴィジョンをみごとに展開させる、エキサイティングなアングルの変化です。

 ただし、「つぼ」のレリーフを観察すると同時に、その細部から想像の世界へ没入するような、集中と陶酔が交錯する空気感は、この節にはもうありません。
 澄んだ光と空気に包まれ、いまここにすんなりと実在している、つぼ Urn に、キーツもわたしたちも向かい合っています。その輪郭 shape を、たたずまい attitude を、そして形 form そのものを、見ているのです。顔を突き出してのぞき込むのではなく、一歩引いて、つぼ全体を眺めています。つぼの存在感を実感しながら、あらためて観察し語りかけるキーツも、そしてわたしたちも、背筋が伸びています。
 そのためでしょうか、心なしか──いやたしかに、あたたかく静かな、肯定の意識、それから透徹した確信があるのです。

 Thou, silent form, dost tease us out of thought
  As doth eternity:

  壺よ,沈黙のフォルムよ,
   ぼくらに理屈で考えるのをやめさせてしまう壺よ
    永遠がぼくらにそうさせるように:


 この詩の最初のところで、「つぼ」を「森の歴史家」とよんだとき、キーツは、かれの想像力に身をゆだねて、理づめで「つぼ」を描こうとせず、あたかも「つぼ」が問わず語りに告げているかのようなかたちで、古代の美の真実を見てとりました。
 想像力が自由に羽ばたくにまかせているのです。「ネガティブ・ケイパビリティ Negative Capability」という意識のステージにいるわけです。
 ですが、「つぼ」の話に酔い、目うつりするかのような美の世界を賛美しているうちに、ふとつめたい現実すなわち涙の谷≠ノ、とり残されている自分を見つけることになったのです。
 もちろん、さきほど紹介したように、この世の中とは悲嘆にくれているしかない涙の谷≠セという、その世の中にまん延した見かたに、キーツは反対でした。世の中は悲しみや苦しみでいっぱいですが、人はそれぞれ自分自身の魂≠作るため、その悲しみや痛みにさらされねばならず、世の中は魂創造≠フために欠かせない場所なんだと、キーツは考えていました。
 キーツは、この節でいまいちど「ネガティブ・ケイパビリティ Negative Capability」に、意識のチューニングを確実に合わせます。いまや魂創造の谷≠ノ立っていて、わたしたちに語りかけようとしてくれている壷のことばを、あらためて、はっきり聞きとろうとしているのです。

 説明が前後しました。
 そもそも「ネガティブ・ケイパビリティ Negative Capability」とはなんでしょう。どのような意味で、キーツはこのことばを使ったのか。
 カタカナと英語で、もって回った書きかたをせず、かんたんな日本語にしたいのですが、この語ばかりは、お許し願うほかありません。直訳なら「消極的能力」や「マイナスの可能性」でしょうか。おかしな感じがしますし、ストレートに意味が通じません。
 二〇世紀になってから、精神医学にこの考えが援用され──それもキーツの偉大なところですが──その分野ではどうにもならないつらい事態には、正面から立ち向かわずに、避けていられる能力≠フことをいうようです。社会の辛苦と戦い破れ心を病まないための「静観に耐える能力」とでもいいましょうか。
 現代医学のことは正確には解説できませんが、それは、キーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」とはちがいます。

ネガティブ・ケイパビリティの手紙

 キーツが「ネガティブ・ケイパビリティ」のことを書いた手紙を見ましょう。キーツが残したあらゆるテキストでこの語が使われたのは、その手紙いちどきりらしいので。
 一八一七年十二月、キーツは当時クリスマスシーズンの定番だった大衆喜劇を、友人のチャールズ・ウェントワース・ディルクとチャールズ・アーミテジ・ブラウンとで観ました。帰り道、キーツはディルクとあれこれ話します。
 キーツは、高い教育を受けた上流階級のエリートたちからなる、ロマン派詩人や評論家たちの文壇的集まりより、海軍の給与事務員でのちに文芸評論家・編集者となったディルクや、もとは貿易商で劇作をものしたブラウン──ディルクはのちにキーツがファニー・ブローンと出会う家の建主に、ブラウンはそこの住人になります──のような人たちとつき合うほうが、楽しかったようです。キーツの友人にはほかにも、詩人や小説家ではないが文化教養ゆたかな人びとが、顔をならべていました。
 それはともかく、ディルクと話したことをきっかけに、キーツは「ネガティブ・ケイパビリティ」を思いつき、すぐ弟たちへの手紙に書きます。

at once it struck me what quality went to form a Man of Achievement, especially in Literature, and which Shakespeare possessed so enormously ─ I mean Negative Capability, that is, when a man is capable of being in uncertainties, mysteries, doubts, without any irritable reaching after fact and reason ─ Coleridge, for instance, would let go by a fine isolated verisimilitude caught from the Penetralium of mystery, from being incapable of remaining content with half-knowledge. This pursued through volumes would perhaps take us no further than this, that with a great poet the sense of Beauty overcomes every other consideration, or rather obliterates all consideration.

 どのような質の高さが、ものごとを、それもとくに文学で達成した人を作ったのかということが、たちまち思い浮かんだんだよ。その特質っていうのは、シェイクスピアが、とてつもなく持ち合わせていたやつだ──なんのことかというと、ネガティブ・ケイパビリティ、つまり、はっきりしないこと、不可解なこと、疑わしいことがあるときに、事実や道理を見つけようとじれったがるなんて、まったくせずにいられる能力のことなんだ──たとえばコールリッジは、半分わかった程度じゃ満足し続けていられないせいで、すばらしく比類ない真実らしきものも見過ごすだろう、ということさ。これは本を何冊調べたって、ここで書くことにつきるだろうね。偉大な詩人なら、美的感覚がほかのすべての考えにまさり、さらには、すべての考えを跡形もなくしてしまう、ということだ
(一八一七年十二月二十一日)。

 なるほど、この手紙のキーツのメッセージはシンプルで直裁です。さきに紹介した、ふたつのメッセージと呼応していることも明らかです。
 キーツは、想像力の真実性について書いた手紙で「思考より感覚に生きる人生を」といっていました。筋が通った論理で理解できないものは真実とはいえない、ということなどなくて、むしろ想像力がとらえた美は、それそのものがいきなり真実なんだと主張していたのです。
 上の手紙でも、はっきりしないことや疑わしいことは、そのままにしておけばいい、というのです。美的感覚にまかせれば、受け入れたもののなかに、美という真実だけが残るから、ということではないでしょうか。

ネガティブ・ケイパビリティの積極性とは

 ただし「ネガティブ・ケイパビリティ」は、去私ですとか滅私ということは意味していないと思います。わたしははじめ、そういうふうに思って「則天去私」(夏目漱石)や「松のことは松に習え」(松尾芭蕉)など、表現においては我執を捨てましょうという文芸思想や、他力本願という仏教のキャッチフレーズなどから、日本人なら理解しやすいと思いこみました。
「ネガティブ・ケイパビリティ」は、そういう意味ではありません。だいたい、己を捨ててなにかにつくなんて文脈になったら、たちまち気色わるいことになりそうです。日本人うんぬんは忘れてください。
 それより、上で紹介した手紙もいれて、この詩を読む手助けになったキーツの三つのメッセージを組み合わせてみます。キーツが絶対の確信を持っていたことを抜き出してつながりを見つけ、「ネガティブ・ケイパビリティ」を浮き上がらせようという作戦です。
 むろん手紙三つでは手薄ですし、わたしがキーワードにまちがった訳語(概念)をあてていたら悲惨なことになりますが、詩にも英文学にも英語にも素人の考えですので、ご容赦ください。a;想像力の手紙 b;魂創造の手紙 c;ネガティブ・ケイパビリティの手紙、です。

(1)心からの愛情──神聖とさえいえる(愛情は最高の状態のものだから) a
(2)情熱──美を作り出す(情熱は最高の状態のものだから) a
(3)想像力──真実をもたらす a
(4)美的感覚──すべてのよけいな考えにまさる c
(5)魂
  (その材料として、人間らしい心と、知的な精神) b

(1)から(4)まで、キーツのメッセージの軸になっているのは、すべて能動的で、とりわけ積極的な、意識の作用であることがわかります。
 そして、それらを機能させているのが(5)の「魂」に違いありません。
 魂というと、スタティックな存在に思いますが、キーツがいう「魂」とは、人間らしい心と知的な精神の相互浸透によって生成されていくものです。心といってもただの感情でない「人間らしい心」ですので(1)の「愛情」にもつながる心です。知的な精神のほうは(4)の美的感覚の基礎ともなる精神でしょう。そのふたつが世間の荒波に揉まれまくり、さんざん涙を流して作ったのが「魂」だというのです。ど根性ものみたいな話です。
 そんな「魂」は凡人にはそうそう持てませんが、「偉大な詩人」には備わっています。自分でそうはいっていませんが、もちろん「涙の谷」でいやというほど「魂創造」したキーツも持っています。そして、ことのはじめからいつでも来い状態になっている(1)から(4)に、力を発揮させるのです。

 キーツは「怠惰 indolence, laziness」という語をよくつかいますし、ほかの手紙で、詩人は主体性を消すべきだというように書いてもいるので、詩の表現と同じように迷わされそうですが、かれのネガティブ・ケイパビリティとは、自分という存在を放棄し、この世にかかわれないことに耐えて、幻想に漂おうじゃないか、という考えではありません。
 ほかの誰とも共有しえない、まったくオリジナルな魂をもち、その作用によって、自分の存在がわからなくなるほどの、無数の詩的創造力を持ちたいということなのです。キーツがほとんど絶対の帰依をしていて、あとに続くことを熱望してもいた、シェイクスピアのようにです。「無数の精神を持つ者」といわれ、ひとりの作家にはとても創造しえないような、あらゆる人間の様態や感情をリアルに舞台に出現させたことで、英国人が得た最高の存在と称賛された、かのシェイクスピアです。
 キーツが絶賛するシェイクスピアのその特異な能力は、プロダクション説のような俗説がいわれることからも理解できます。ゴーストライターといいますか複数の書き手がいて、シェイクスピアはスタッフワークをとりまとめる存在だった、というような想像がされるわけです。
 ちなみにシェイクスピアを「無数の精神を持つ者 The myriad-minded man」と表現し、われわれが得た最高の──と称えたのは、上の手紙でキーツがシェイクスピアを絶賛した直後にボロクソにいっている、コールリッジその人なのですが……。

【9/9】へつづく(ケ)

■ 【1/9】は→こちら←
■ 『Ode on a Grecian Urn』の私訳は→こちら←
■ 「John Keats を読む Ode on a Grecian Urn  邦訳【説明】」の一覧は→こちら←


*専門家ではないので、まちがいがありえます。複写引用にはご注意ください。
 Originally Uploaded on Dec. 03, 2021 16:00:00


posted by 冬の夢 at 00:05 | Comment(0) | 文芸・読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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