2021年11月25日

John Keats を読む Ode on a Grecian Urn 邦訳【説明】(4/9)

第2節 ──聞こえない音楽、静寂の笛

 キーツは、長編叙事詩『エンディミオン』で、ギリシアの神々をこんなふうに讃えています。

 ──, O ye deities,
 Who from Olympus watch our destinies!
 Whence that completed form of all completeness?
 Whence came that high perfection of all sweetness?

 (略)ああ神々よ、
  オリンポスの山々からぼくらの運命を見わたすものよ!
  まったく完璧に完成されたその姿はどこからきたんだ?
  まったく美しい最高の完成型それはどこからきたんだ?


 短い生涯に、キーツは三つの詩集を出版しています。
『エンディミオン』(一八一八年)は、ふたつめで、半年がかりで完成させた四〇〇〇行におよぶ力作です。本人も出世作・代表作になると期待していました。
 しかし待っていたのは酷評でした。
 話がそれるので事情は略しますが、「エンディミオン」に書かれた、さまざまなイメージやモチーフや思想は、以後の詩にも、たびたびあらわれます。書きたいことにこだわり続けた面もあるでしょうが、仇をとりたい気持ちもあったのではないでしょうか。そう思うと、すこし胸が痛みますが、おかげで、とても長い「エンディミオン」を読むと、この詩を読む助けにもなります。

『Grecian Urn』の、この節では、美しい神々に選ばれ見守られているらしい、やはり美しい若者たちが「つぼ」に浮き彫りになっていて、白い清潔さで静止画になっているのがわかります。
 若い恋人どうしは、キスする一瞬前に、神々に永遠に動きを止められてしまっています。残念すぎです。
 でも、それは悲しむことではないとキーツはいいます。
 みずみずしい愛の美しさが、完璧な瞬間で静止しているからです。
 キスしようとしているのは、愛情を通じあい心が結ばれたふたりです。でも唇がふれ合う直前で、永劫、キスできずにいます(never, never canst thou kiss,)。ですが、いちどキスしたら、つぎのキスからは淫らな下心がある。からだの交歓です。それも終わって昂ぶる気持ちが静まれば、わずかな期待はずれ──失望とさえいっていいと思いますが、そうした美しくない感情が、避けがたく起きるのです。レリーフに描かれた恋人たちは、永久にそれを経験しません。まさに「still unravish'd」(いまだに陵辱されていない)な愛の成就、つまり真実の美しい愛のすがたを、とどめているのです。
 そもそもこのレリーフは、ほんもののギリシア時代の古壺や彫刻を見てはいたが、想像力だけで詩のなかに描いた「つぼ」の表面にほどこされたものです。詩を書く人の想像力が見いだす美しさは、発見したときすでに真実の美なのだと、キーツは確信しています。『Grecian Urn』の最後のところは、突拍子もないようにいわれてもいますが、キーツの信念の念押しなのです。ここで、それがわかります。

『Grecian Urn』を書く一年半ほど前、「エンディミオン」の完成直前に、キーツは、つぎのような箇所がある手紙を、友だちのベンジャミン・ベイリー(一七九一〜一八五三)に送りました。有名な一節です(一八一七年十一月二十二日)。
 ベイリーは、キーツよりすこし歳上のオックスフォードの学生で、学歴のないキーツにはいなかったタイプの友人ですが、キーツの詩才を認めて、勉強中の哲学などの分野をキーツに伝授したそうです。

  O I wish I was as certain of the end of all your troubles as that of your momentary start about the authenticity of the Imagination. I am certain of nothing but of the holiness of the Heart's affections and the truth of Imagination - What the imagination seizes as Beauty must be truth - whether it existed before or not - for I have the same idea of all our passions as of love: they are all, in their sublime, creative of essential beauty. ──I am more zealous in this affair because I have never yet been able to perceive how anything can be known for truth by consecutive reasoning - and yet it must be. Can it be that even the greatest philosopher ever arrived at his goal without putting aside numerous objections? However it may be, O for a life of sensation rather than of thoughts! It is a 'Vision in the form of Youth,' a shadow of reality to come.

 ああ、想像したことは真実だということに、君(ベイリー)がしばしつきあってくれるのを信じているのと同じように、君のトラブルもすべて解決すると確信できたらいいがなあ。ぼくは、心からの愛情にある神聖さと、想像力による真実だけを確信している──想像力が美ととらえたものは真実にちがいないんだ──それがすでに存在していようといまいとね──なぜなら、ぼくらの情熱すべては愛であって、そのすべてが最高の状態をきわめているのだから、完全な美を作るとも考えているからだ。(略)ぼくは、このことにとりわけ熱中している。というのもぼくはこれまでに、なにごともそれが真実かどうかは、終始一貫した理屈でもって了解できたためしはないし、いまだってそうにちがいないから。偉大な哲学者だって、山ほどある異論をわきにどけずには、結論に達することなんかできやしないだろ? よしんばできるとしても、思考より感覚に生きる人生を、だ! これは「まだ若い未熟な形で見えるもの」、つまり来たるべき実在が落としている影のようなものなんだ。


 もともと、ベイリーがキーツと共通の知人ともめたのを心配して書いた手紙なのですが、キーツは「わが友ベイリーにお願いしたいんだけど、今後、ぼくに何か冷たいところを見つけたからって、ぼくが心がないせいだなんて思わず、いまのぼくは抽象的に考えているせいだと受けとってほしい」と断りはするものの、こんなふうに自説を語りまくっています。
 セヴァーンといい、このベイリーといい、キーツはなんと友人に恵まれたことか──ベイリーが、ほんとうに好きな女性と結婚せず『政略的』に結婚相手を選んだとき、友情は終わったそうですが。

■聞こえない音楽と来たるべき実在の影

「想像力が美ととらえたものは真実にちがいない」もさることながら、それを受ける形で、理屈で考えるより感覚を信じることで、「来たるべき実在」を見つけることができるといっている、キーツの「メッセージ」。
 それを読だら、この節でむずかしく感じていた「聞こえない音楽」という句が、わかったように感じました。調べてわかった気になるのでは、キーツにいわせれば、まだまだでしょうが……。

 Heard melodies are sweet, but those unheard
  Are sweeter; ;

  耳にとどくメロディは心地よい,でも
   もっと甘美なのは聞こえない音楽なんだ;


 音がしない「音楽」なんて、どう聴くのか、と思って、読み進められなくなっていたのです。
 Not to the sensual ear, ──音を聞こうとする耳にでなく、魂へ奏でられる、聞こえない音楽とは? ジョン・ケージ(John Cage;一九一二〜一九九二)みたいなことなのか、などと、よく知りもしないくせに、こざかしく情報や理屈に傾きかけたものです。
 理屈では、なんとかわかる気もするのですが、このあとで「つぼ」に浮き彫りになっている音楽家たちの姿も見えますから、やはり音楽は鳴り響いているはずです。けれども、美しい愛の至高の瞬間は、すこしずれても美しさを失いかねませんから、音楽も、その瞬間で止まっているわけです。世俗のガチャガチャした音楽を想像で鳴らさずに、心の耳で、無音の純粋な音楽≠聞こう、ということでしょうか。

 キーツには音楽の素養もあったそうです。音楽史上のロマン派が席巻するのは、やや時代が後で、好きなのはハイドン、ヘンデルや、モーツァルトだったらしいです。ただしアマチュア演奏がある芸術愛好家らの集まりは、好きでなかったようですが。
 また、解説できる知識がありませんが、詩の音韻(音調)にも、とてもこだわっていたそうです。

 O Goddess! hear these tuneless numbers, wrung 
  By sweet enforcement and remembrance dear, 

  女神よ! この歌を聞いてくれるかい 調子っぱずれだけどさ
   美しい記憶がやさしく背を押すから なんとか作ったからね

──『Ode to Psyche』(プシュケーに捧げる)


 そういえば『Ode to Psyche』で、キーツは歌っています。『Grecian Urn』のような想像の世界で。

 So let me be thy choir, and make a moan 
  Upon the midnight hours; 
 Thy voice, thy lute, thy pipe, thy incense sweet 
  From swinged censer teeming; 
 Thy shrine, thy grove, thy oracle, thy heat 
  Of pale-mouth'd prophet dreaming. 

  そうだ ぼくを あなたの聖歌隊にさせてください
   真夜中に 静かに歌わせてください
  あなたのための歌声に あなたの リュートに パンフルートに
   振り回される香炉から あなたへ漂っていく甘い香りになりたいのです 

──『Ode to Psyche』(プシュケーに捧げる)



 ですから、この『Grecian Urn』でも、いかに甘美な音楽が鳴り響いていることか。
 いや、たしかにそういう雰囲気の描写ですが、音はありません。無音だということが強調されています。
「思考より感覚の人生を」というキーツは、そうしていて発見できた「像」は「来たるべき実在」だともいいます。
 じつは、動きも色も音もない美の最高の静止画は、それが浮き彫りになった「つぼ」そのものが「still unravish'd」である以上、永遠の存在ではないと考えることもできます。すなわち「つぼ」は、いまそこにありながら、来るべき実在の影にすぎない、ともいえるわけです。
「聞こえない(unheard)音楽」とは「まだ聞いていない=これから聞く(unheard)音楽」である、ということもまた、いえないでしょうか。

 Was it a vision, or a waking dream?
 Fled is that music:─Do I wake or sleep?

  これは幻だったのか それとも白日夢だったのか
  歌声は消え去った:──ぼくは目ざめているのか それとも 眠っているのか

──『ODE TO A NIGHTINGALE.』(ナイチンゲールへのオード)


「聞こえない(unheard)音楽」とは、想像の世界からの目ざめとともに認識できる「来たるべき実在」の手がかりです。いや、すでに現実のほうから幻のなかに、響き続けていたものだった、といったほうがいいと思います。キーツは、幻想と現実を行き来しているのですから。
 だとすると、目ざめとともに認識する実在とは、どんなものなのでしょう。明晰な意識で受容すべきものなのだろうか、それとも、現実というものはすべからく、みすぼらしくわびしいものにすぎないから、また美的陶酔の世界へ戻っていく、という結末なのか。
 はたしてキーツはどういう選択をするのでしょう。

第3節 ──もっと幸せな、もっと幸せな、幸せな愛

 ここまで、自分なりになんとかやっつけたら──それじゃ詩の鑑賞どころか苦行ですが──この節は、すんなり読めました。
 キーツがとてもよく使う、否定や反語を重ねたり連続させたりする表現も、なくはありませんが、解釈に迷うほどではありません。

 気になるところがあります。
 happy の繰り返しです。
 いちばん幸福な姿でレリーフになったものたちへの賛美は、ここで、ほとんど熱狂の様相を帯びてきています。気持ちはわかりますが、精神の祝祭のなかで、ねじが飛んでしまったような happy の連呼が気にかかるのは、わたしだけでしょうか。
 キーツのほかの詩にも出てきますし、キーツだけの表現ではないかもしれないです。手紙では、ふざけているのか、よく繰り返しをしています。ネイティブが読んだり聞いたりするには、なんの不自然もないのかもしれません。
 しかし、ほかの詩のときもですが、はっぴ〜はっぴ〜と繰り返しているなんて、なんだかアホみたいなのです。詩というものは、ひとつの意味を、もっとデリケートな単語をあれこれ使って、いい換えるように表現しないのでしょうか。
 あまつさえ、More happy love! more happy, happy love! とは。
 もあはっぴ〜らぶ! もあはっぴ〜、はっぴ〜らぶ! ですか……。
 キーツでなくとも「いったいどうしたことだ」と、いいたくなります。うわごとのような感じです。呪文めいた happy は、麻薬や薬物の中毒症状のようです。第一節の「wild ecstacy」を思い出すいっぽう、陶酔と虚脱がいりまじった「だるさ」もあります。違和感があるのです。

 キーツは「まったく完璧に完成された」「まったく美しい最高の完成型」に、息苦しさを感じつつあるのではないかと感じるのです。
 たしかに、そういう気持ちが、くりかえされる称賛のなかに、わずかずつ、こぼれ出てきています。

 All breathing human passion far above,
  That leaves a heart high-sorrowful and cloy'd,
   A burning forehead, and a parching tongue.

  あらゆる息吹きが ぼくら人間の情熱を はるかに超えて,
   羨みの愁いで満たし もうたくさんだとさえ思わせる,
    ぼくの心を,熱に冒された額を,乾ききった舌を.


 ここがそうだと思うのです。
 はじめて読んだときは意味をとるのに困り、進めなくなったところです。やむをえず訳詩集や研究書で邦訳をいろいろ見ましたが、確信が持てる訳が見つかりませんでした。ここでは上のように訳し、そう解釈しています。
 That leaves から後すべてを human passion とはとらず──そのほうが正しいかもしれませんが──「熱に冒された額を,乾ききった舌を.A burning forehead, and a parching tongue.」は、「人間 human」でなく、キーツのことと解釈しました。
 体調がすぐれず、短命の可能性がある病をなんとなく意識せざるをえず、怠惰な意識と覚醒を行き来するキーツのようすを、読みとったつもりです。真の「happy」は、この詩が終わった、そのあとにあるものではなかろうか、とも思ったからです。はたと気づいた状態に、あらためて向かいあい、いかなる生きかたをすることが「happy」なのか──つぎの節から、キーツはそれを語っていっている、そんなふうに訳していきました。

惑溺と目ざめのなかで創作にかけた命

 キーツが、ひどい喉の痛みと咳に悩まされはじめるのは、『Grecian Urn』を書くわずかに前の、一八一九年二月ごろからです──前年夏の旅行で体調が悪化したときからという説もあります──看病していた弟のトムが結核で亡くなったのが、もうすこし前の一八一八年十二月、キーツが同じ病気だろうと自覚するのは、一八二〇年二月です。
 キーツの詩で「偉大なるオード」といわれる作品──数えかたがいろいろあって四編から六篇──のうち、この『Grecian Urn』をいれて四つが、一八一九年に二十三歳で(!)書かれています。「奇跡の年」と称されますが、『Grecian Urn』をふくめた三つは、なんと同年五月ひと月で書かれて──『To Autumn』は九月──いるのです。
 その性急さ、創作力の爆発からしても、キーツには短命かもしれないという認識があったのではないでしょうか。
 もっとも、母も弟も結核で亡くし医学生でもあったので、自分も同じ病気になりかねないと早くから意識していたという推測は、早計かもしれません。
 結核菌の発見と感染性の判明は、六〇年以上さきです。キーツのころは、性欲が激しいと結核になる、あるいは、結核に罹ると性欲が激発する、という風説さえもまかりとおっていました。当時の医学がそれを払拭していたとはかならずしもいえず、キーツ自身その俗説に悩んだふしもあります。

 詩そのものから読みとりを続けましょう。
『Grecian Urn』のみならず、キーツのオードおそらくすべてが、そしてキーツの詩のかなり多数もまた、ほぼ同じような展開をしていることがわかってきます。
 白日夢のように古代や神話のファンタジーへ惑溺することにはじまり、賞賛と昂ぶりに満ち、そして例外なくその熱狂は去って、冷え冷えとした目ざめがやってくる──そういう話の組み立てです。
 この詩でも、なかばほどのこの節で早くも、想像と真実の幸福な出会いが、うすら寒いように魅力を薄れさせはじめます。
 じっさい、キーツ自身はそれをとうに経験ずみですし、「つぼ」のレリーフの正体だって承知しているのです。こんなふうに……。

 Fade softly from my eyes, and be once more
 In masque-like figures on the dreamy urn;
 Farewell! I yet have visions for the night,
 And for the day faint visions there is store;
 Vanish, ye Phantoms! from my idle spright,
 Into the clouds, and never more return!

  そっと ぼくの視界から消えちゃってくれ そうして もと通りに
  仮面で変装した姿で、ぼくの夢だった壺の絵に戻ってくれ
  もう会わないぞ! いまだって夜は想像の幻を見ているんだ
  昼間は ぼんやりしたその幻で、在庫いっぱいってところだからな
  消えてしまえ お前たち幻影よ! ぼくの 虚脱した精神だけを残して
  雲の中へ消えてくれ そしてもうけっして 巡ってこないでくれ!

──『Ode on Indolence』(怠惰のオード)



【5/9】へつづく(ケ)


■ 【1/9】は→こちら←
■ 『Ode on a Grecian Urn』の私訳は→こちら←
■ 「John Keats を読む Ode on a Grecian Urn  邦訳【説明】」の一覧は→こちら←


*専門家ではないので、まちがいがありえます。複写引用にはご注意ください。
 Originally Uploaded on Dec. 03, 2021 16:00:00


posted by 冬の夢 at 00:05 | Comment(0) | 文芸・読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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