2021年11月23日

John Keats を読む Ode on a Grecian Urn 邦訳【説明】(2/9)

 このブログは、三人で同人誌ふうに書いています。
 べつの筆者が書いた文を読んで、ジョン・キーツをはじめて知りました。

 その文では、キーツが若いころのエピソードが紹介されています。若いころといっても、キーツは二十五歳で亡くなっているのですが。
 キーツの親しい友人で、キーツの転地療養にイタリアまでつきそい最後をみとった、画家のジョセフ・セヴァーンの回想です。キーツが元気だったときのことです。

 一八一七年の初夏、キーツとセヴァーンはロンドン北部の、広大な森林と野原からなるハムステッド・ヒースへ散歩に行きました。
 ロンドンでもっとも高い場所なので──いまは高級住宅街が隣接しています──丘から麦畑が見渡せ、爽やかな風が吹き渡っていたそうです。
 キーツは風に揺れる麦穂を見ると、波だ波だ、といって大さわぎしました。
 面白いものを見つけると、身振り手振りでまねしてさわぐ癖があり、ロンドンの市中でも平気でやったそうです。じつは当時の自称ロマン派たちが流行のようにやったことだそうですが、キーツはとても小柄だったから、風で波うつ麦畑を海に見たててドタバタしていると、海水浴にきた少年のようだったでしょう。ほほ笑ましさのなかに若い感性が輝く、胸がおどる夏のエピソードです。

 その直前まで、医学修業生として、曲がりくねった不潔な路地に下宿し、現代医療からすれば悲惨な環境にまちがいなかった当時の病院や医学校にかよったキーツです。
 開業資格試験には合格しているので、まじめに修業したことはたしかですが、医療や薬事にはどうしても向かなくて、詩人になりたいと、つねづね思っていたようです。講義中に夢想にふけったり落書きしていたこともあったとか。
 ハムステッド・ヒースでのエピソードは、前年の冬に医業をやめて詩人になると決意、つぎの春に初詩集を出版して、病院を去ったばかりのときのことです。

 キーツから逃れようとするものは、なにひとつないように見えた。鳥の声、繁みや垣根からの虫の音、動物の鳴き声、緑や褐色に変化する光と影、風のざわめきなど、すべてキーツと共にあった。
──セヴァーンの回想

 子どもじみた大はしゃぎをするキーツの解放感には、セヴァーンでなくとも共感できます。しかもセヴァーンは、そのようすに、こまやかな自然のありようを鋭敏にキャッチできる、詩人の感性をも見てとりました。セヴァーンの画家としての未来はまだこれからですが、かれもまた、いまひとりの芸術家でした。
 友情と尊敬のまなざしでキーツを見守る、セヴァーンの姿も想像できます。なおさらにいい気持ちになります。

両親を亡くし医療を学ぶ

 そのころキーツは、体の弱かった弟のトム──キーツの命も奪った結核で十九歳で亡くなります──の健康のため、ロンドン市街からハムステッド・ヒースに間近いウェル・ウォークに越していました。
 Well Walk とは、うがった町名です。キーツはおりあればハムステッド・ヒースを散策し、思索にふけったり、友人と詩の読み合わせをしたりしていたそうです。
 ずいぶん昔のことですが、近くまで行ったのにハムステッド・ヒースの存在を知りませんでした。もっとも、ジョン・キーツの名も詩の一行も知りませんでしたが。
 ロンドンの公園は市街を遠く感じる空間です。日本の都市公園のつもりで行くと信じられないほど大きな木々があり、林の間を長い小径が通っていたりして、驚かされます。
 波だ波だとはしゃいだキーツたちと同い歳だったころは、東京の安っぽい騒音と装飾のなかでガチャガチャ暮らすことが、いいことなんだと思いこんでいました。とても多くの人と知り合いでしたが、そのなかに友人はおらず、昔の友だちに会うことはめったにありませんでした。散歩しながら思索など、したことがありません。
 作品の一行すら知らない若い詩人のことを、人生の日暮れどきにはじめて知ったとき、なぜか、ひどく心をうたれたのです。

 ちらほらと訳詩集をひろい読みしてみると、キーツは自然を愛した自由人なのだろうと思いました。そして、その自由が得られた当時のイギリスの上流階層の、教育のある高踏派ではと、かってに想像していました。ギリシア神話や古代の物語をつぎつぎに題材にしているからには、一流の歴史教育をうけて、多くの本を読んでいるはずだからです。
 もちろんそれは見当ちがいでした。

 ハムステッド・ヒースでのひとときから、わずか三年半ほどで、キーツは結核が悪化し亡くなります。ロンドンの冬は越せまいから、すこしでも温暖なところで療養してはとすすめられ、無理して行ったイタリアのローマで。
 映画『ローマの休日』で、ヘップバーンがアイスクリームを食べていた、スペイン広場にあったという部屋での最期でした。
 詩人として活動できたのは、五年に満たないほどでした。

 キーツは、上流階級出身ではありません。父親は貸馬車屋の馬丁です。それでも、子どもたちの教育に熱心で、家計が許す限り、いい学校へキーツと弟を通わせてくれました。
 しかし父親は、キーツが十歳にならないうちに事故死し──当時よくあった、馬による「交通事故」で──それから三か月もたたずに母親は再婚、家を出ていってしまいます。その母も数年後、結核で亡くなりました。
 キーツは弟妹ともども祖母に引き取られ、祖母の主治医(薬剤師・外科医)に弟子入りして修業することになって、学校をやめざるをえませんでした。それが十五歳のときです。まもなく祖母も亡くなり、祖母が決めておいた後見人に、キーツたちの将来は託されます。
 それなりに財産はあったようですが、財産を管理した後見人は教育にも芸術にも理解のない商人で、資産を運用し遺児たちを支えてあげる気もない男だったようです。自分のカネでもないのに、支給をいちいち渋ったのも疑わしい。
 通った学校にいた年長の友人の影響で──校長の息子で素養が豊かでした──文芸に親しみ詩を作り、詩人になりたいと望みつつあったキーツは、医業修業に専念するしかありませんでした。

 医学でなく医業や修業と書いたのは、現代の医学部や臨床医とは違うからです。二百年前ですから。
 詩人として活動した期間より、医業修行の年月のほうが長いので、病院を離れて詩人になっても、詩の背景に科学の思考があると考えたいのですが、十九世紀初期のイギリスの医療は世界的には進んでいたかもしれませんが、とてもそんな話にはなりません。
 治療は医師と、外科医、薬剤師にわかれて──後者ふたつはしばしば兼業──いて、医師とは、オックスフォードやケンブリッジの医学部で学んだ少数エリートです。超富裕層のための存在でした。
 キーツが身をおいた外科と薬科は、徒弟制と専門学校で修めるものだと思ってください。床屋が外科医を兼ねるのは、さすがにキーツの時代の五十年くらい前に終わっていますが、まだ有効な麻酔も正しい消毒も発明されていません。解剖実習に墓地から盗み出された死体が使われていたような時代です。
 修業を終えるころのキーツは、自分の器具も持ち、抜歯やケガなど小規模な手術は手がけていたようです。しかし、外科治療の場や病院は、現代からすれば地獄絵図だったのでは。それがいいすぎなら修羅場でしょうか。似たようなものですが……。

三つのメッセージを手がかりに

 前説が長くなりましたが、『Grecian Urn』について、自分なりの解釈を説明していきます。もちろんそれは私訳にも反映しています。この詩に集中して書きますが、キーツの「オード」すべてに、またそのほかの詩の多くにも、通じるところがあると思います。
 キーツの生涯は、詩に関係ありそうなところを書きますから、前後関係がわかりにくいかもしれません。日本語の評伝は二、三あります。キーツの手紙はたくさん残っていて、後世の研究に寄与しましたが、かんじんのことで、推測するしかないことも多いようです。

 『Grecian Urn』を読むのに、その手紙のなかから、キーツのメッセージの手助けを借りました。
 それは、@ネガティブ・ケイパビリティ Negative Capability A魂創造の谷 vale of Soul-making B想像力が美ととらえたものは真実である What the imagination seizes as Beauty must be truth ──というものです。
 どれも、研究者は看過できない有名な思想だそうですが、ここではメッセージ≠ニしました。手紙に書いたことだからです。
 キーツは、残念ですが存命中に大きく評価される機会がなかったから、思想や詩論を出版できないので手紙に書いた、ということもあるでしょう。いっぽう、弟たちや友人への親しい語りかけや訴えだったことは、気にとめておきたいのです。

【3/9】へつづく(ケ)

■ 【1/9】は→こちら←
■ 『Ode on a Grecian Urn』の私訳は→こちら←
■ 「John Keats を読む Ode on a Grecian Urn  邦訳【説明】」の一覧は→こちら←


*専門家ではないので、まちがいがありえます。複写引用にはご注意ください。
 Originally Uploaded on Dec. 03, 2021 16:00:00


posted by 冬の夢 at 00:05 | Comment(0) | 文芸・読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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