2021年11月22日

John Keats を読む Ode on a Grecian Urn 邦訳【説明】(1/9)

 一行めで、いきなりつまずいてしまいました。

 still unravish'd bride of quietness,

 bride of quietness とは、いったいどんな花嫁≠ネのでしょうか。
 月の「静かの海 Sea of Tranquility」のような、「静けさ(という名)の花嫁」なのか。それとも「静けさのものになる(嫁ぐ)花嫁」ということなのか。

 still はどうでしょう。「いまだに unrabish'd な〜」なのか、それとも「じっとしている unravish'd bride of quietness」ということでしょうか。

 unrabish'd が、さらにむずかしいのです。
 純潔(処女)であること、つまり古代遺跡から発掘された古壷なのに、新品のように美しいといっていると思うのですが、そう表現せず、「強奪」とか「陵辱」という、ひどく粗暴な意味を「un」で打ち消す語を、わざわざ使っています。
 ということは still を「いまだに」ととれば、「いまのところは大丈夫だけど〜されてしまうかも」という、不安な意味も感じるわけです。古い英語では unrabish'd に「この世から奪われていない」という意味もあるようですが、その場合も still を同じように解釈すると、花嫁にたとえられた「つぼ」の存在感はあやふやになり、花嫁の姿が、うたかたの夢のように感じられもします。

 かならずしも古めかしい表現として使われてはいないらしいのですが、見慣れない単語だから Thou という呼びかけからして、誰に向けられているのか、やや悩みました。
 これは詩の最初と最後を読むことで、「つぼ」に呼びかけているのだとわかりました。
「つぼ」は、花嫁にたとえられただけでなく、キャラクターをもった存在として描かれているわけです。二行めと三行めで「養子 Thou foster-child」そして「歴史家 historian」と呼んでいるので、「つぼ」は「静寂 silence」と「ゆるやかに進む時間 slow time」に育てられた娘≠ナあり、これから「静けさ quietness」と結婚する、もしくは式をあげたばかり、と考えられます。
 なぜ「養子」や「里子」なのか、という疑問もありますし、森に住む歴史家か語り部だといわれると、若妻でなく老賢者のような感じもするので──差別的な意味ではなく──矛盾している気もします。
 こうした小さなひっかかりは、そのままにさせてください。さきへ進めなくなりますから。

英語で書かれた詩で、もっともすばらしく、かつ難解な……

 じつは、ジョン・キーツという詩人(一七九五〜一八二一)のことはほとんど知らないまま、詩を読んできました。
 この『Ode on a Grecian Urn』は、英語で書かれたあらゆる詩で、議論の余地なくトップ級の詩とされていることを、苦労して読んだあとで知りました。さらにのちに、やはり英語で書かれたあらゆる詩で、もっとも複雑でむずかしい詩とされていることも、わかりました。

 複雑でわかりづらい詩が名作だなんて、すぐには納得できなかったのですが、へんな安心感もありました。英語で読んですらすら理解することは、ほとんど不可能だったからです。
 キーツの名と作品は、映画『ローマの休日』にも出てきます。コメディ調の場面で、ごくふつうに。ある一文がキーツの詩なのかシェリーのか、オードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペックが、いい合いするシーンです。
 英語の詩を英語で読むという分不相応なことをいきなりやったとはいえ、そんなに有名な詩人の詩なのに、直訳もできないほどわからない。これじゃ、どの英語の詩も永久に読めないと、まあ、がっくりきていたわけです。
 でも、英語を話す専門家たちでさえ迷ったり議論になったりするなら、へこみきってしまうこともないんだと、すこしだけほっとしました。

 といっても、詩の解釈は読む人の自由だから、好きなように意味をとればいい、ということではありません。
 いきなりそんなふうに読んだら、たいへんに痛切な思いで詩人として生きようとしたが、希望かなわず短い生涯を終えたキーツを、侮辱することになります。詩の表面に現れているものに、解釈力を集中させなければいけないと思いました。
 いっぽう、詩をひとつ読むたびにキーツのことをすこしずつ知るにつれ、若い詩人が詩の中で、どんなふうにたたずんでいるのか、自分がやれるかぎりの正確さで、その姿を見つけたいとも、考えるようになっていきました。
 ひとりの詩人が書いたのだから、いくら解釈がむずかしい詩だろうと、詩人の姿はなんらかの状態で確実に詩のなかにあるはずです。

 しかし、この『Grecian Urn』もそうですが、これまで訳したキーツの詩も、なんとかキーツの姿を探して読み、訳ができたと思うと、ふと、そのキーツが自分が書いた詩をべつの場所から、人ごとのようにながめているようにも感じるのです。そこがキーツの詩がすぐれている理由のひとつではと思いながらも、つらいものがあります。
「わからない」ことは耐えがたいからです。あとで紹介するキーツの考えとは正反対ですから、キーツの詩の読者には向いていないのかもしれません。なのに、どうして意地になったように、訳をやり続けたのでしょう。分不相応を重ねることになってしまうのに、訳を、誰もが読めるような表現で、いかにも若い詩人のことばづかいふうにしようなんて。
 ワーズワースやコールリッジ、シェリーやバイロンは、名前を知っているだけで、イギリスの詩人でロマン派の──なんてまったく知らなかったし、一作とて意識して読んだことはありません。そのなかのキーツであるということもわかりません。いまあげた詩人たちの詩は、キーツの詩をいくつか訳したいまでも、ぜんぜん読んでいないのです。
 なぜキーツだけに、こだわったのか……。

【2/9】へつづく (ケ)


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■ 「John Keats を読む Ode on a Grecian Urn  邦訳【説明】」の一覧は→こちら←


*専門家ではないので、まちがいがありえます。複写引用にはご注意ください。
 Originally Uploaded on Dec. 03, 2021 16:00:00
posted by 冬の夢 at 00:05 | Comment(0) | 文芸・読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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