2021年10月28日

そもそも「国語」ってのが、ね……


同人の一人が日本の「国語」教育について一文を書いている。それを読んで、ちょっとコメントしたいと思ったところ、あまりに長くなりそうなので、代わりにぼくも一文を残すことにした次第。先の同人の文章に対する長いコメントと思って読んでいただければ幸いだ。


同人の言うところによれば、文科省と一部の勢力は、これまでの「国語総合」(つまり、普通の「国語」ですね)を「現代の国語」と「言語文化」に分割して、その上で「現代の国語」からはいわゆる文学作品を排除し、専ら「実用的」(しかし、「実用的」とは意味不明な表現ですな)な法令・報道・評論を教材にするらしい。そして、「現代の国語」から排除した「文学作品」は「言語文化」の方で教えることにするんだそうだ。

一言でいえば、アホですな。もちろん、こういう改革をしようとしている連中のことですけど。あまりにアホで、おそらくつける薬はないと思われる。ツッコミどころがあり過ぎて、どこから始めようか、迷ってしまう。

先ず、「実用的」な文章として「法令」「報道」「評論」が列挙されているようだが、最後の「評論」って、これはむしろ「文学」に分類されるものなのではなかろうか? 古くは三木清や小林秀雄、そして加藤周一や吉田秀和、存命中の評論家であれば、例えば内田樹や宮台真司。これらの文筆家・評論家・批評家・思想家が残した文章がはたして「実用的」なのかそれとも「文学的」なのか、考えるだけ無駄だろう。先の同人の言葉を借りれば、まさに「国語は、ひとつのもので、実用だろうと芸術だろうと、同じ国語だ」ということだ。

さらに、今度は逆の視点から眺めてみると、「法令」や「報道」の文章は「言語文化」ではないとでも言うのだろうか? 言うまでもなく、全ての言語表現が「言語文化」の実体であるはずなのに! これは本当に「白馬は馬に非ず」の、出来の悪いパロディーのようだ。

ともかく、これだけトンチンカンな話を見聞すると、同人が頭を抱え込んでいる図も易々と思い浮かぶ。だけれども、要するに全ての元凶は「国語」という奇妙な名称に凝縮されていると常々思っている。

何ですか、「国語」って? なぜ「日本語」ではないの? 「現代の国語」、アホですか? 素直に「現代日本語」とすればいいのに。そして、「現代日本語」では、日本語のメカニズム、つまり、正しい言葉使いと正しい書記方を教え、言葉によるコミュニケーションのあり方を実例を使って説明すれば済むだけなのに。そうすれば、やがては言葉に関する「正しさ」というものが相対的なものであるしかない(つまり、時と場合に応じて「正しさ」というものが変動する)ことを自ずと知ることにもなるはずだ。

他方、「言語文化」というのも「現代の国語」に負けず劣らず凄まじいネーミングだ。こういうことをする奴に限って「言語」についても「文化」についても何も考えていないにちがいない。つまり、脳ミソがスカスカなんだろう。こんなことは言うまでもないことだけど、「文化」とは人間を他の動物から区別する人間的営みの総称であり、そうであるなら、言語こそ人間を他の動物と区別する最大級の指標であるのだから、全ての言語活動が(言語)文化であることは論理的必然だ。詩や小説だけが「言語文化」であるはずはなく、落語やしゃべくり漫才は当然として、法令や新聞記事も言うまでもなく、さらには先の同人も言及していた方言なども、それこそ無形文化財と言っても過言ではない、非常に大切な言語文化資源であることに疑問の余地はない。

ずっと以前から羨ましいと思っていたことがある。聞くところでは、海の向こうのイギリスではEnglishという科目とLiteratureという科目があるらしい。そして、Englishでは英語の読み書きを習い、Literatureでは文学史と作品解釈・作品鑑賞を習うという。中学生・高校生の頃から「文学」が学べるなんて、何と羨ましいことか! 夏目漱石の何がそんなに偉大なのか? 『三四郎』の何が凄いのか? 萩原朔太郎の詩がなぜそんなに評価されるのか? それよりも何よりも、宮沢賢治の、あの奇妙奇天烈な詩をいったいどうやって読めばいいのか? こんなことを中学生や高校生の頃に学んでいたら、今頃もう少し文学が理解できるようになっていたのではなかろうか。ところが現実には、日本では長年「国語」という奇妙な科目があり、そこで「正しい日本語」と「作品鑑賞」の両方が、それこそ、今度は何の区別もなく、漫然と教えられてきた。今回の「騒動」も、要するにその混乱の延長にあるように思えてならない。つまり、阿呆の面々が想定していることは、「現在の国語教育では『客観的』な文章と『主観的・情緒的』文章の区別がない。今後は『客観的』文章は『現代の国語』で教え、『主観的・情緒的』文章は『言語文化』の方で教えよう」ということなのだろう。しかし、こんなことをしたところで「正しい日本語」は教えられず、「作品鑑賞」も教えられないだろうと容易に推察できる。何が「言語文化」か! 端的に「文学」とすればいいではないか? それとも、文科省の役人には「文学」を忌避しなければならない特別な理由があるのだろうか?

いずれにしても、誰の責任なのかは不明だが、この国で「正しい日本語」を教えることはすでにほとんど不可能になっている。句読点の使い方、漢字と平仮名の使い分け、段落の分け方、文体の選択、等々、こうしたごく初歩的なことさえもが教えられないのだから(それとも、誰か、自信をもってこれらのことを教えられる人がおりますか?)、要するに、この国には自分の日本語を心の底から信頼できる人が一人もいない、と言ったところで、誇張でも暴言でもないということになる。誰もが漢字の選び方に悩み、読点の打ち方に戸惑い、段落の分け方でつまずく。そして、適当なところで妥協する。妥協している限りは、100%の自信など生まれるはずがない。その結果、今度は逆に、かなり酷い悪文でも新聞雑誌は言うまでもなく、教科書にさえも掲載されることになる。中学生でもわかるような間違いでもない限り、大方の悪文は通用してしまうのだから。何事も「玉虫色」が大好きな日本文化の面目躍如といったところだろう。

他方、この国の「国語」教育では「文学教育」の方にも希望がない。古文を例に取れば、教室で教えているのは「古典文法」と文学史だけで、肝心の作品鑑賞、作品研究などどこを見てもない。たとえ源氏物語の一節や土佐日記の一節が教科書に載っていたにしても、それはほとんど「実務的」文章として読まれているに過ぎない。つまり、問題にされているのは、「何が書かれているか?」だけで、文学作品・芸術作品の理解・鑑賞に不可欠な「それが『どのように』書かれているのか?」という問いは断じて問われることがない。これは実は近現代文学でも同じで、そもそも長い小説の一部だけ取り出して、いったいそれで何を教えようというのか? さらに嘆かわしいのは、詩歌の冷遇!!!現在いったいどこの教室で、例えば「古池や 蛙飛びこむ 水の音」を教材に用いながら、この句が他の無数と言っても過言ではない名句を差し置いて、教科書に掲載されているのか、その理由なり根拠なりを解説できているだろうか? まして口語自由詩に関しては、文字通りに言葉もない。たとえ萩原朔太郎の「地面の底の病気の顔」が教科書に載っていたにしても、せいぜい「『地面の底』ってどこなんでしょうね? どうして『地面の底』に顔が映っているんでしょうね? 何にしても、よく分からないけど、怖くて不気味で寂しい詩ですね」というような「情緒的解説」がほどこされ、「じゃあ、次の詩に行きましょう」ってことで済まされているのではなかろうか。これでは作品を鑑賞する=味わうということからはほど遠い。(そう言えば、ロラン・バルトがどこかで、『フランス語ではsavoir(知識)とsaveur(味わい)は同語源だ』という意味のことを言っていた。そうだ、文学作品を「知る」ということは「その風味を楽しむ」ということなのに、教室では風味も香りも丸ごと完全消去されてしまっている! そして、いっそう重要なことは、作品を味わうためには感性だけでは全く不十分で、訓練と経験を積めば積むほど、それだけいっそう楽しめるようになるということは、その他の趣味や娯楽、芸事と全く同じこと。そして、今の日本ではこの「訓練」の実態が絶望的ということだ。)

こうした悲惨な状況を知ってか知らずか、言うに事欠いて「実用的文章」とは! 言語表現の重要な核心はいつも一つと決まっている:「言語表現・文章表現における『中身』と『形式』の関係に注意しろ」。このことさえきちんと教えられれば、「実用的」とか「美的」とか「客観的」とか「主観的」なんて修飾語は全く不必要だ。そして、「中身」と「形式」の区別がいかに大切な知識・技能であるのか、本当は中学生でも薄々気づいている。曰く「自分をより可愛く、カッコ良く見せるためには、ファッションは重要だ」「しかし、恋人は結局は中身だよね」「いや、中身がいくら良くても、やはり見た目も大事だよ」と。

おそらく今度の改革が実施されれば、「現代の国語」では、形式や微妙な言葉使い、そんなものには全く注意せず、ただひたすら「何が書かれているのか」だけを読み取るような練習が課せられ、その挙げ句に、易々と詐欺の口車に乗せられる良民=阿呆が大量生産され、他方、「言語文化」では、「文学って、結局は個人の感性で感じるものだから、どうとでも解釈できるように書かれているんだね」というようなことが、もっともらしい口調で語られるようになるのだろう。今からあまりに容易に想像できてしまうことが、本当に恐ろしい。(H.H.)
posted by 冬の夢 at 16:57 | Comment(0) | 時事 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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