2021年10月18日

国語がわからない!──国語教科書と小説のこと

 高校の国語の授業、「現代の国語」で使う教科書に、小説が載っていることが問題になったという。
 さっぱり意味がわからなかったが、どうやら来年度(二〇二二年度)施行の、新しい高等学校学習指導要領で再編される国語授業科目と、そのために作られた教科書をめぐる騒ぎらしい。

 そこで、いま高校で国語がどう教えられているか調べたが、ますますわからなくなった。高校生のころ習った国語と比較したくとも、昔のことすぎるのか、当時の科目編成が見つからない。
 立往生していてもしかたないから、これから施行される高等学校学習指導要領(文部科学省が二〇一八年に告示)を見ると、A4で六〇〇ページ以上、国語については十五ページある。国語のところだけでも読もうとしたが、命令調の「〜すること」だらけの、ほとんど意味がわからない内容で、とうとう吐きけがしてきた。
 学習指導要領なんて、その通りやれたら苦労せんよという美辞麗句が並んでいるものだとは思う。指示がほんとうに達成できたら、どんな高校生だって金田一春彦みたいな「国語の神さま」になれてしまうからだ。国語の教科書に小説が載ると、なぜもめるのか知りたいだけだから、国語科目の再編のみ確認しよう。書きうつすだけで気が変になりそうなので、間違って書かないといいが。

 今年度までの高校国語は、基本的に一年生で教わる「国語総合」が必修で、二年から「国語表現」「現代文A」「現代文B」「古典A」「古典B」の選択科目だった。どう選択する決まりかは、わからないが。
 それが来年度からどうなるかというと、「国語総合」が「現代の国語」と「言語文化」に分かれ、「総合」と同じ時間数の必修だ。選択科目は「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」の四つ。
 ならば、これまでの各科目で具体的にどんな文がどう教えられたのか。新指導要領では、どう引き継がれ、あるいは変わるのか。
 申しわけないことに、わからない。新旧の教科書を見ていないので、なおさらだ。
 現代と古典にわかれる程度なら、なんとか想像できる。しかし「論理」や「文化」となると、どうなるのか。「表現」とか「探求」とかいう名称からして高度な科目は、それぞれ専門の先生が教えるのだろうけれど、そこらの高校生が「選択科目は論理と探求にしよっと」なんて、軽く選ぶのだろうか。

 ひとりで浦島太郎していないで、小説が載った国語教科書が問題になったできごとに戻ろう。
 九月中旬の、複数のニュース記事を読むと、こういうことのようだ。
 高校生の国語力低下──ほんとうかどうか知らないが──を気にやむ文科省は、これまで高校であまり教えなかった、実用的な文の読み書きができるようにしないと、日本の将来が心配だと考えた。
 そこで必修の「国語総合」を二科目にわけ、小説や古典は「言語文化」で教えなさい、そして「現代の国語」では現代の社会生活に必要な実用文、つまり法令や報道や評論を教材にするように、としたのだ。新指導要領にそった教科書を作る出版社には、「現代の国語」教科書には、文学的な文章や小説がはいる余地はない、と説明した。
 ところが、ある教科書会社が作った、小説が載っている「現代の国語」教科書が検定合格したうえ、都立高の二十五パーセント近くに採用されてしまった。結果として、一部の教育委員会から、小説が載っているのに使えるのか、という声があがり、また、指示どおり作られていない教科書に客を取られる形になった他の教科書会社から、検定調査審議会や文科省に文句が出た。

 なるほど、起きるべきことが起きただけで、ばかげた騒ぎとは思うが筋は理解できた。しかし、偏頭痛のようなすっきりしない気分は消えない。

 実社会で役立つ、実用的文章をもっと習わせるべきだ、という考えと、文芸や古典に親しませないと豊かな人間は育たない、という考えのせめぎあいがあるから、そうなったことはわかる。
 あえて単純にいうと、政府や財界は前者の考えで、多くの国語教師や国語教育研究者そして知識人は、後者ということになろうか。そうでなければ、文学がはいる余地はないとされた科目の教科書に、文学が載ったものが採用されるはずがない。採用はある意味、教育現場の抵抗感の表明ともいえそうだ。
 どちらの気持ちも、わからなくはない。
 しかし、どちらの考えも、まったく的外れな気がする。
 国語は、ひとつのものじゃないか、と思うからだ。
 実用や芸術、論理や文化、そういうことは、国語で表現された結果というか、国語の姿や形でしかない。
「現国」も「古文」も、表しかたが違うだけで同じだ。漢文だって、中国語でなく読み下し文であるなら、それも国語だ。すべて日本語の「方言」のようなものだ。
 それはいいすぎかな。でも、いっそ各地の学校に「正調の地元ことば(方言)」を教える国語授業があったっていいじゃないか、と思うのだが……だめなんでしょうね。
『東京物語』の原節子の、書きことばのように堅苦しく聞こえる「国語」も、『野良犬』の三船敏郎の、よく聞きとれないほど荒っぽい「国語」も、いや、そういう芸術的な映画だけでなく『歌行燈』の市川雷蔵だって、『黒の超特急』の田宮二郎だって、それぞれの時代の社会事情と切ってもきれない、さし迫ったことを、「国語」で語っているじゃないですか。それこそ正調の成長物語といってもいい『鬼滅の刃』でもまた、切迫した思いが「国語」で語られているのではなかろうか。

 こと国語教育となると、さっきあげたどちらの側からも、「主体性」とか「表現力」とかいう題目が、やたらに出てくる。
 ひとつのことばを、ばらばらにしてしまうような教えかたをして、主体性や表現力なるものが得られると、本気で信じているのだろうか。そんなふうに考えてしまっている人たちが、国語はこう教えればいいんだと、それぞれ主張しているとしたら、それがもっとも不可解だ。

 ひとりで本を読んだり、なにか書きつけたりすることは、好きなほうだった。小さいころ病弱だったせいだ。
 しかし学校で、とくに高校で「国語」を習ったら、読むのも書くのも嫌いになった。
 高校の国語試験が、はじめのうちろくにできなかった。読みとり問題で、出題者が求めた正解と、くい違う解答ばかりして、がっくりきた。それから、作文がヘタだと何度かいわれた。「この子は上手だから」と、ほかの生徒の作文を読まされたこともあり、すっかり自信をなくした。
 それでも、もし高校で国語の授業がなく、古文や漢文に接することもなかったら、いまこの文を書いていないし、文科省の資料を読みもしていない。しないというより、できないと思う。

 プレゼンや履歴書にはじまり、エッセイや小説、批評なども、内容以前にまず「読みやすく、わかりやすい」文にするなら、手伝いや手直しができる。理由は長くなるから略すが、ほぼ迷わずやれるし、教養があっても「読みにくく、わかりにくい」文を書いてしまう人の例も、よく知っている。
 ところが、そうまで偉そうにいうなら、自分は「読みやすく、わかりやすい」文をすらすら書けるかというと、困ったことに、それはむずかしい。
 国語は、ひとつのもので、実用だろうと芸術だろうと、同じ国語だと思う気持ちは変わらない。しかし、ごく基本の伝達機能だけ扱うときでも、国語が、やっかいでとらえどころのないものを持っていることは、わかっている。
 なので、高校の国語教育はこうすべきだとか、教科書はこう作ればいいということは、思いつけないし、思いつきは役に立たないだろう。
 あらゆる高校生に教えられる共通の国語教育法なんて、あるのだろうか。たとえば、ひとつのクラス全員に、読み書きや、聞いたり話したりする技術を、同時に指導できるのだろうか。
 ある、できる、といわれても信じない。
 生徒さんにはもちろん先生がたにも、まず国語の授業に直接関係ないことをいくつか身につけてもらわなければ、国語を学んでもらうことも、教えることも、できないような気がする。(ケ)


Originally Uploaded on Oct. 19, 2021 16:00:00
posted by 冬の夢 at 00:05 | Comment(0) | 時事 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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