2021年10月10日

「アイデンティティ」という幻想に誑(たぶら)かされて

(※「誑かす」って、凄い字ですね……)

1)「日本らしい」サッカーという幻想
 サッカーワールドカップ最終予選での日本代表チームの成績が全く芳しくないようで、選手への批判や監督更迭の声も随分と大きくなっているようだ。敗戦が続けばファンから罵声を浴びるのは、それを生業としている以上、避けては通れないだろう。その点では、サッカー関係者はプロ野球の阪神タイガースや広島カープ、あるいは中日ドラゴンズにでも出向して、ファンからの罵声に対する耐性を鍛えた方がいいのかもしれない。もしかしたら、サッカーでは「ファン」を「サポーター」と言い換えたがために、基本的には好き勝手言い放題な、無責任極まりない、中には自分の欲求不満の捌け口のようにして罵詈雑言を吐く輩からの(「サポーター」の全てがそんな人間だと言っているわけではない)批判をあまりに生真面目に受け止めすぎているのではないだろうか。「勝てば官軍、負ければ賊軍」というのは、とりわけプロスポーツの世界に当てはまる言葉だと思う。

 が、そうは言うものの、現在のサッカー日本代表チームを外から(あくまでも外からなので、以下のコメントも単なる印象に過ぎないが)眺めている限りでは、チームとしての体を成していないように思われる。端的に、このチームには「対策」というものが何もないのでは?と思えてならない。曲がりなりにもそれが「試合」であるなら、当然のことながら、対戦相手があり、その相手は試合ごとに替わるのだから、それに連れてゲームプランも当然変更されるべきだ。古来からの兵法の基本にも「敵を知り、己を知れば、百戦して殆(あや)うからず」とあるように、対戦相手の敵情視察は欠かせないはずだ。が、なぜか今の日本チームからは「対策は万全だ」という声が全く聞かれない。対戦相手の長所や短所の分析、相手の長所を消すための対策、相手のスタイルに応じた先発メンバーの選定、等など。日々のプロ野球の試合でさえ当然のように行われていること(例えば、相手の先発投手に合わせて打順の入れ替えを考える、等など)が、全く行われていないのではなかろうか? 

 綿密な対策の代わりに耳に届けられるのは、いかにも意味ありげに使われている「日本らしさ」だ。曰く、「日本らしいサッカーを追求すれば勝てる」とか、逆に「日本らしいサッカーが迷走している」とか。おそらくは、いわゆる「ポゼッション・サッカー」(なるべくボールをキープし続けるスタイル)と、ある程度には俊敏なサッカーを「日本らしい」と言っているのだろうが、しかし、言うまでもなく、ある程度強いチームなら、自分たちでボールをコントロールしようと思えばある程度にはコントロールできる(つまり、そのゲームをコントロールできる)はずだし、俊敏でなければゴールを奪うことは難しいだろう。ごく稀には、ゲームのほとんどを相手に支配されているにもかかわらず、また、俊敏さにおいても相手に劣ることが明らかであるにもかかわらず、まぐれのようなラッキーゴールと、相手の不運が重なることで、思いがけない勝利が舞い込むこともあり得るだろう。しかし、これはしょせん「まぐれ」に過ぎないから、考慮する必要すらない。となれば、「日本らしいサッカー」というのは、普通に考えれば、「まともなサッカー」ということだろう。(もちろん、「ポゼッション・サッカー」の対極には「カウンター・サッカー」というのがあるのかもしれない。相手の攻撃をしのいで、ボールを奪ったら一気に相手ゴールへ向かうというスタイルだ。しかし、このようなカウンター攻撃をするためには、先ず相手からボールを奪わなくてはならない。相手からボールを奪うことと、自分たちがボールをキープすること=ボールを失わないことは、実は同じコインの両面に過ぎない。どちらもボールコントロールに長けている、つまり、基本技術がしっかりしているということだろう。そして、カウンターに必要なのは攻守の素早い切替だが、これを俊敏と言わずに何と言うのか、愚生にはわかりかねる。)

 言いたいことを手短に言うと、つまりは、サッカーにおいて「日本らしさ」なんてものの実体が全く希薄だということ。そして、この実体のない「日本らしいサッカー」という言葉によって、実体を伴うべき各試合における対策・方策・戦略の欠如が見事に覆い隠されていること。これを憂いているわけだ。

 例えば、10月12日に、どうやら今度の最終予選の「関ヶ原」になるらしい対オーストラリア戦があるのだが、いよいよ剣が峰に立たされた日本チームの選手から「チームを信じる」とか「強い気持ちを持つ」(長友佑都談)とか、せいぜい「プレーの判断を間違えないこと」(遠藤航談)のような、全く抽象的・一般的なことしか聞こえてこない。これはそのまま「これまで通りの『日本らしい』サッカーをすれば勝てるはず」と言っていることと大同小異だ。聞きたい言葉はこんなのではなく、「サウジに対しては対策に不備があったが、オーストラリアに対しては対策は万全だ。準備すべき事は全てした」という自信に満ちた言葉なのだが、そのような自信は日本チームのどこからも発信されない。とすれば、極めて残念ながら、今度の試合も敗戦が濃厚だ。仮に勝ったとしても、それはやっぱり「まぐれ」の勝利だろう。

 それにしても不思議でならないのだが、いったいどうしたら「日本らしいサッカー」などという幻想が一人歩きしているのだろうか? 少し考えれば(あるいは考えるまでもなく)、サッカーに何かあるとしたら、「良いサッカー」と「悪いサッカー」があるだけなのではないか。そして、「良いサッカー」をする限り、勝率が高まる可能性が増え、「悪いサッカー」をすれば、まぐれ以外では勝てないということになるだけではないか。

2)LGBTからLGBTQ+ へ
 いわゆる性差別、性的少数派(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、etc. を「少数派」というところにすでに問題がありそうだと思うのは、愚生がひねくれ者だからだろうか)の呼称としてLGBTが定着するかと思ったら、おっとどっこい、いつしか末尾にQもつけて下さいとなった。このQも一説ではqueer(変態)の頭文字だったり、あるいはquestioning(よくわからない)の頭文字だったりするらしいが、今はとりあえずその両方を含むことで了解されているようだ。が、事態はここで止まらず、さらに+記号まで付されるようになった。これが頭文字ではなく数学の記号であるところがいかにも意味深長であり、正直に言えば、少し笑えてしまう。つまり、この「+」があれば、少なくとも可能性としては「+なんでもかんでも」となる。そして、それはそれで全く正しい方向性を示している。というのは、「個人の性指向で差別をすることは認められない」というのは、本来はごく当たり前のことであり、「個人のプライバシーを理由もなく制限することは認められない」という、いわば基本的人権の問題であるのだから、他人に損害を与えない限りは個人の恋愛や性行動が尊重されるのは、本当は論じるまでもない。まして差別なんてことがあることがおかしい。

 とすれば、わざわざ特定の人たち(LとGとBとT)だけを取り出してひとまとめにするということが端から無理だということも自明だ。したがって、その後ろに色々な頭文字や記号が増えていくことも不可避となる。例えば、なぜか禿げている人が好きな人たち、なぜか扁平胸が好きな人たち、なぜか既婚者が好きな人たち、なぜか一人でいるのが好きな人たち、なぜかグループ交際が好きな人たち、なぜか、etc.と延々と続くだろう。+という曖昧な記号を使ったのは、この点では妙案だったとも言えるか。

 しかし、本当に気になるのは、以前にも書いたことだけれど、個人の指向なり嗜好は、そんなに確定的なものなのだろうか? 例えばゲイでもありバイでもあるという人は沢山いるのでは? (それをバイセクシャルというのだ、という反論もありえるが、そうではなく、あくまでも「おれはゲイだけど、実はバイでもある」と「自認」している人がいるだろうという可能性の問題を言っている。)また、「最初はもしかしたらレズビアンかなと思っていたけど、あるときバイであることを確信した。そして、今は普通の男性と付き合っているから、もしかしたらストレートになってしまったのかもしれない」というような人もきっといることだろう。これは、「最初はグラマラスな女性が好きだと思っていたけど、あるときガリガリの女の子を好きになってしまった。そしたら、そのうちその子に夢中になってしまい、今でも仲良くしているから、もしかしたら最初から本当はスリムな子の方が好みだったのかもしれない」というのと大同小異ではなかろうか。

 さて、そうなると、問題の核心はタイトルにも書いた「アイデンティティ」というものだ。「自分は自分だ」という自己認識のことだが、これがしばしばこんな風に使われている。曰く「日本人としてのアイデンティティ」「ジェンダー意識はアイデンティティの確立と切り離せない」、「母親としてのアイデンティティ」、云々。これだけでは愚生が何を問題視しているのか不明だと思う。愚生が気に入らないのは、上記のような使われ方をしている内に、アイデンティティ、即ち自己同一性というものが、あたかも不変のもののように認識されてしまっているのではないかという点だ。そしてここにはいくつもの錯誤がある。

 つまり、一方に、本当には少なくとも確固とした形ではあるはずのない「日本人らしさ」や「男らしさ」、「母親らしさ」と言われるものが想定されるという錯誤がある。自分が、あるいはある人が自分自身を「日本人」だとか「男」だとか「母親」だとかに同定したとしても、それぞれの対応要素の本質は、実は全く不確かなものに過ぎない。何をもっていったい「日本人らしい」「男らしい」「母親らしい」というのか、一致点を探ろうとすればかなり苦労するにちがいない。言い換えれば、アイデンティティとはあくまでも自己認識の問題であり、他者と共有できることではない。だからこそ、傍目には男性に見える人が「いや、自分は女だ」と言っても全然おかしくないのだし、金髪碧眼の人が「自分は日本人だ」ということにも何の問題もない。それを他人が否定できるはずがなく、だとしたら、「日本人らしさ」や「男らしさ」は、それこそ百人百様になるしかないはずだ。

 他方、こちらの方がいっそう重大だと思うが、自分自身というものが常に変化する存在であり、しかも、自分自身の人格は常に複数性を備えている。どういうことかというと、誰もが同時に例えば「『男』であり、『会社員』であり、『父親』であり、『嘘つき』であり、『初老の男』であり、『慢性気管支炎患者』であり、『AKBの熱狂的ファン』であり、云々」といったように、「アイデンティティ」の構成要素のリストは延々と続く。そして、このリストには中心らしきものもない。中には「いや、中心的・中核的なものはあり、それが人格の中核になるはずだ」と言いたい向きもあるかもしれないが、それは端的に幻想に過ぎない。たえず変化し続けるものの中心をいったいどうやって定めようというのか? その上、すでに現代人は「無意識」というものの重要性まで知ってしまったのだから、自覚している人格の背後に、無自覚の、しかしより支配的な人格があることすらも、イヤイヤながら承知しているはずだ。だとしたら、「俺はオトコだ!」と絶叫している背後に、「でも、本当はオンナに憧れている」という自分がいないとも限らない。

 よく「アイデンティティ・クライシス」といった言葉を耳にする。「自分には確固としたアイデンティティがない」みたいに。だが、自己認識に関する本当の問題は、固定したアイデンティティを強拍観念的に求めることにあるのではなかろうか。そして、本当には存在しない「固定したアイデンティティ」を求める背後にあるのは、複数の人格(ペルソナという方が適切かもしれない)に耐えられないという脆弱性ではないか。自分自身の中の複雑さ、自分自身の複数性、社会の中の複数の価値観、サッカーのゲームを遂行するために必要な無数の約束事とその複雑な組み合わせ(先発メンバーを固定するというのは、要するにメンバーの最適な組み合わせすら考えられないということだろう)、こうした錯綜にも似た圧力に耐えられないとき、人は幻のような「アイデンティティ」に、それこそ藁にもすがるように、しがみつこうとする。しかし、それは所詮は藁に過ぎない。その幻の藁、必死でしがみついた藁が切れたとき、それをクライシスと言っているように思う。だとしたら、クライシスの本当の原因はもっと前にあったわけだ。

 もちろんこんなことは専門家なら十分承知なことだろうし、いや、ここに書いた以上にはるかにもっと精緻に問題点の指摘もできるだろう。しかし、「日本らしいサッカー」や「LGBTQ+」などというものに出会すたびに、幻のような「アイデンティティ」に誑かされているような気がしてならない。(H.H.)

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(大学生の頃に読んだはずだけど、細かいことはすっかり忘れている。この際だから、読み返そうかな……)

posted by 冬の夢 at 20:32 | Comment(0) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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