2021年09月11日

四方田犬彦と韓国映画『はちどり』

 久しぶりにというか、本当にこの10年間では唯一と言ってもいいかもしれない、感想めいたことを誰かに話してみたいと思わずにはいられない映画を見た。韓国の映画で、邦題は『はちどり』という。そして、この映画を「紹介」してくれたのが、四方田犬彦という研究者・批評家だ。名前と業績くらいは以前から知っていたが、彼の単著を読んだこともなかったし、おそらく今後も積極的に読むことはないと思う(誤解のないように急いで書き足すが、彼の研究や発言を否定しているわけでは全くない。他に読みたい本が山積みになっているので、たとえ興味関心を感じても、その山に新たに付け足す余裕がないと言いたいだけ)。が、この『はちどり』を紹介してくれたことには深く感謝している。

 四方田犬彦がこの映画に言及していることを知ったのも全くの偶然で、それこそホームドラマの一コマにもなりそうな話でもある。過日、我がパートナー殿が「東京の大塚で面白そうな企画がある。コロナの心配がなかったら行きたかったな」と、心底残念そうに口にした。「何、それ?」と尋ね返すと、何でも四方田犬彦が講師となって、「シオニズムとパレスチナ」という題目で、ドキュメント映像を見つつ、いわゆるパレスチナ問題について講義してくれるらしい。パレスチナ難民の里親を長年続けてきた彼女にとってはもちろん、ぼくにとっても確かに面白そうな企画と思われた。東京に住んでいたなら、きっとコロナ禍にもかかわらずそろって参加したことだろう。

 そこで、もっと詳しいことが知りたくなり、彼女が読んでいた雑誌記事を読んでみた。『週刊金曜日』の9月3日号だ。(ついでながら、『週刊金曜日』というのは、できるだけ広告収入に頼らずに、スポンサーのご機嫌伺いから自由な雑誌にしようと、定期購読者からの購読料を経営の中心にした、大手マスコミからは外れた、いわば「インディペンダント」な雑誌だ。我家では『ビッグ・イシュー』と並んで、比較的よく読まれている。)

 四方田犬彦の文章の趣旨は、見出しにも明らかにされているように、「もう一度、私塾の思想を考え直さなければならない」ということだった。つまり、国家や行政、社会通念による管理を受けることが比較的少ない私塾という教育形態の持つ可能性を積極的に再評価したいということだ。なるほど、言いたいことは何となくわかる。しかし、ぼくが惹かれたのは記事の冒頭、導入部分の以下の文言だった:

 『はちどり』という韓国映画がずっと気になっている。90年代のソウル大[学]、劇的に変化してゆく韓国社会のなかで成長していく、14歳の少女を描いたフィルムだ。
 少女は中学校とは別に漢文塾に通っている。先生はソウル大学のお姉さんで、どこか不思議な雰囲気がする。本棚にはマルクスのような難しそうな書物。[中略]少女は少しずつ彼女に心を開いていくが、ある日先生は突然いなくなってしまう。

 どうしてこの文章に惹かれたのか、ほんの数日前のことなのに、今ではもう思い出せない。ただ覚えていることは、「この映画、見てみたい」と直ちに感じた事実だ。ちょっと調べてみたら、随分と評価の高い(高かった?)映画のようで、受賞の数も随分と多い。当然、現在のネット社会、すぐにオンデマンドのサービスを使い、鑑賞することができた。

 思春期の少女を描いた「王道」映画だ。若干の文化差を修正すれば、「学校」という制度を持つ社会であれば、多くの共感が寄せられることだろう。主人公の女の子はごく平凡な中産階級の、5人家族の末っ子だ。誤解している可能性もあるとは思うが、適当に遊んでいる、おそらく高校3年生(くらい)の長女、ソウル大にも行けるかもしれない高校生の兄、そして、マンガを書くくらいしか興味関心のない、大人しい、あまり勉強のできない「平凡」な主人公。両親は餅を中心にした食糧雑貨を商いしており、家計は決して豊かではないにしても、貧困というわけでもなく、ソウルの集合住宅(日本の巨大公団住宅のような感じ?)に住んでいる。映画の中に映る室内にはそれなりに綺麗な調度品も並び、その点でも「中流」の家庭が描かれているものと理解している。

 この映画を見て、オーデンの有名な「美術館」(Musee des Beaux Arts)という詩を思い出した:

苦難というものについてかれら巨匠たちは
決して間違えなかった、悲惨な事件の人間的あり方について。
ほかのだれかが食べたり、窓を開けたり、
     ただぼんやり歩いている時に悲劇が起こるということを。
年寄りたちが敬虔に、そして激烈に、
奇跡に満ちた誕生を待ち望んでいるその一方で、
そんなことは特には望まず、林の端にある池でスケートして遊んでいる、
そんな子供たちがいつも必ずいるということを。
恐るべき虐殺が予定通りすぐ間近に迫っている
その雑然とした街角では
犬たちが犬らしい毎日を過ごし、虐殺者の乗る馬が
罪のない尻を木に擦りつけているということを
かれらは決して忘れなかった。

例えば、ブリューゲルの『イカロス』では、なんと全てのものが
きわめて長閑にその悲劇から目を背けていることか。 農夫は
水しぶきや孤独な叫び声を聞いたかもしれない、
しかし彼にはそれは重大な失敗ではなかった。 太陽は
緑の水の中に消えゆく白い足を定められた通りに照らしていた。
そして、子供が空から降ってくるという
ものすごいことを目撃したはずの贅沢で優雅な船は
行くべき場所に向かう航海を静かに続けていた。


About suffering they were never wrong,
The old Masters: how well they understood
Its human position: how it takes place
While someone else is eating or opening a window or just walking dully along;
How, when the aged are reverently, passionately waiting
For the miraculous birth, there always must be
Children who did not specially want it to happen, skating
On a pond at the edge of the wood:
They never forgot
That even the dreadful martyrdom must run its course
Anyhow in a corner, some untidy spot
Where the dogs go on with their doggy life and the torturer's horse
Scratches its innocent behind on a tree.

In Breughel's Icarus, for instance: how everything turns away
Quite leisurely from the disaster; the ploughman may
Have heard the splash, the forsaken cry,
But for him it was not an important failure; the sun shone
As it had to on the white legs disappearing into the green
Water, and the expensive delicate ship that must have seen
Something amazing, a boy falling out of the sky,
Had somewhere to get to and sailed calmly on.

 
 この詩が言っていることは明瞭だ。人間の悲劇は平凡な日常の中で起こり(そうでなければ「悲劇」ではないだろう)、ある人にとって深刻な悲劇が起こるとき、その事件とは何の関係もない多くの人々が確実に存在する。赤の他人の悲劇は、「私」の深刻な事件にはならない、云々。主人公の少女にも大小の「事件」が次々に降りかかる。まだ子どもらしい「恋人」の変心と裏切り。友人との仲違い。兄からの暴力。首筋にできた腫れ物とその除去のための入院・手術。そして、先生との別れ。感心したのは、これらの「事件」が全て、些細なことであると同時に極めて深刻でもあるということ、逆に、極めて重大な「悲劇」が、それこそオーデンの詩にある通り、他の誰かにとってはごく些細な出来事に過ぎないことが、慎ましやかに、しかし同時にとても雄弁な声で語られていることだ。例えば、兄に口答えしたことで激しく折檻されたとき、主人公は友人に「自殺したら、そしたら、兄も後悔するかな。その姿を想像すると気も晴れる。が、死んでしまったら泣いている兄のせっかくの姿が見られないから、死ぬのは止めよう」といったことを語る。そして、もちろん我々観客は「こうして子どもが自殺する可能性もあるわけだ」と、もちろん思い出すことになる。

 そして、先生との別れという劇中もっとも重大な事件。兄からの理不尽な折檻と比べても、友人との深刻な仲違いと比べても、幼い「恋人」の裏切りと比べても、はるかに深刻な悲劇であるはずの先生との別れを経験したとき、主人公は全力でその衝撃に堪え、受け止めようとする。それがそのまま彼女の「成長」を反映しているわけだが……

 ここまで書いても、言いたいことはまだ何も言えていない気がする。が、忘れないうちに、四方田犬彦への感謝の言葉も書いておかねばならない。彼が「私塾の思想」というとき、それは要するに、先生と生徒(学生)との人格的な交わりのことを言っているのだろう。つまり、現代の学校では、教師は自分の人格をさらけ出して、自分の人格で教育することができない。そんな「個人主義」は実質的に許されていない。一方、子供たちや親たちも、先生が学校で教師である以前に一人の人間であることを前面に打ち出すなんてことを決して期待していない。しかし、プラトンに決定的な影響を与えたのは、ソクラテスの学識ではなくソクラテスの人格だっただろうし、漱石の門弟たちを魅了したのが漱石の英語力ではなく、漱石の人柄であったように、人格的(personal)な交流がなければ、およそ教育なんてものがあるはずがない。おそらく『はちどり』が気になると四方田犬彦が言うとき、映画の主人公とその先生との間の「人格的交流」を念頭に置いていたにちがいない。

 というのは、極めて興味深い(つまり、ここにこそこの映画の大きな魅力があると言ってもいいのかもしれない)特徴として、主人公が先生のいったいどこに惹かれたのか、いったいなぜ主人公がこの先生をそんなに好きになったのか、全く判然としないのだ。女のくせにタバコを吸う先生。ちょっと変わった雰囲気の(気怠い感じで、化粧っ気もなく、全然「女」っぽくない)先生。読めない漢字があることを叱るのではなく、読める漢字があることを褒めてくれた先生。主人公が泣いているとき、授業を止めて、一緒に飲むお茶を淹れてくれた先生。「先生が優しいのは、私のことを可哀想だと思っているからなの?」と尋ねたときに「バカな質問に答えることはできない」と一笑に付した先生。こうしたエピソードをいくつ積み重ねたところで、決定的な理由には結び付かない。そして、ようやくハッと思い当たる。人が人に重大な感化を与えるとき、人が誰かを自分の「先生」として仰ぐとき(ちょうど、漱石の『こころ』の語り手と先生の関係のように)、その原因理由を簡単な言葉に還元することはできない。それこそ、「人格的」としか言いようのない不思議な力が作用して、まるで魔法にかかったかのように魅惑されるのだ。『はちどり』を通して、先生と「弟子」の人格的交流の意味を再認識できたことは、全て四方田犬彦のおかげだ。

 それでも、今度は自分自身の人生を振り返って、これまでに出会った「先生たち」に共通する(したがって、映画の中の「先生」にも当てはまる)特徴が一つだけあるように思う。それは、彼らが子供たちと真っ直ぐに対峙して、その意味では子供たちと「対等」に、つまりは、ひとりの人ともうひとりの人として、だからこそ「人格的に」としか言いようの仕方で言葉を用いているということ。全ての「良い先生」には、現実の世界でも文学の世界でも、子どもに向かって真摯に話すという特徴があるように思う。言い換えれば、彼ら「先生たち」のオーラが子どもに届くとき、そこには必ず適切な言葉の力が働いている。例えば、『こころ』の先生の遺書はその最たるものかもしれない。が、そこまで極端でなくても、同じく漱石の『三四郎』で広田先生は三四郎に向かって、生涯でたった一度だけ出会って忘れることのない少女の思い出を語る。そのエピソードが広田先生にとって限りなく重大なものであろうことは容易に想像がつく。そして、それを三四郎ごときに話してやる義理は、広田先生の方には全くないはずなのに、そんなに大切なものを気前よく、物惜しみせず、お裾分けをしてあげる。だが、「三四郎ごとき」と言ってはみたものの、広田先生が自らの貴重な思い出を、むやみやたらと誰に対しても披露するわけでは決してないだろう。つまり、言い換えれば、そのとき広田先生は三四郎を「特別扱い」したということだ。そして、このように、特定の生徒を特別扱いすること(特定の生徒にお茶をふるまったり、プレゼントを贈ったりすること)が一様に「えこひいき」と見なされ、否定されてしまう現代の教育では、人格的な交流を期待することはできないだろう。

 先生たちは友人ではない。そんなことは自明だ。しかし、友人でもないのに、彼らは彼らが生涯をかけて、それこそ貝が時間をかけて作り上げた真珠のように貴重な人生の一片を惜しげもなく与えてくれる。映画の中の先生も「自分を好きになれるようになるには随分と時間がかかる」と、はたして主人公に向かってなのか、あるいは自分自身に向かってなのか判然としない述懐をする。また、二人の生徒を前にして慰めるように歌った(決して上手ではない)歌は、およそ場違いとも感じられるような、民衆歌、労働歌のようなものだった。中学生の主人公もその歌の背景などはおそらく知る由もないだろう。ソウル大学の学生、したがってエリートであるはずの先生が、なぜ貧困にあえぐ職工の歌を歌うのか。しかし、それがなぜか主人公の心を強く打ったように映画は描き出していた。それもまたとても印象的な演出だった。

 『はちどり』を観た人の中には、この映画を「家族を描いた映画だ」と考える人もいることだろう。「日常に潜む悲劇を描いた作品だ」と考える人はもっと多いかもしれない。あるいは、主人公も先生も女性であることと関連し、「少女」の成長に焦点を当てたフェミニズム映画だという理解もあることだろう。しかし、「『先生』との人格的な交流を描いた作品」(つまり、四方田犬彦の言うところの「私塾の思想」を描いた作品)として考えることによって、いっそうの奥行きと拡がりが生じるように思われる。少なくとも確実に言えることは、四方田の引いた補助線がなかったならば、この映画を観て『こころ』や『三四郎』、エーリッヒ・ケストナーが残した『飛ぶ教室』に代表されるような多くの児童文学、さらにはゲーテの『親和力』に登場するオティーリエの学校の先生など、さらには、文字通りの愚生をまがりなりにも「教育」してくれた何人もの実在あるいは非実在の「先生」たち、そうした存在と出会えたことの幸運や彼らに対する感謝を思い出すことはなかっただろう。いずれにせよ、『はちどり』、タイトルの持つ意味合いは今も全くわからないが、印象的な映画だった。(H.H.)

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Pieter Brueghel: The Fall of Icarus (Museum of Fine Arts, Brussels)

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『はちどり』(2018年) 監督:キム・ボラ
posted by 冬の夢 at 13:27 | Comment(1) | 映画 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
『非情城市』が日本で知られたのは、発表の年、ベネチア映画祭でグランプリをとったからだったでしょうか。中国では上映できなかったかと。
『非情城市』の日本公開前後から、その前の作が適宜、日本公開されたと記憶してます。

 それより何年か前に日本公開されたが、あまり話題にならなかったのが『恋恋風塵』で、それを見ていて、いい監督ではと思っていました。以降、公開作を追い続けていました。近年の作は見ていないです。

 侯孝賢で、これ1本といえば、はじめて見た『恋恋風塵』か……。
 いえ、じつは当時は『ナイルの娘』がいいと思っていました。
 代表作には、けっしてあげられない作でしょうね、アイドル映画で、レコード会社の協賛もとっていたかと。監督も、あまり本意の作でなかったようです。
 でも、昔、見たときは、なんていい映画なんだろうと感心しました。

*******

 侯孝賢もさることながら台湾、なんといっても楊コ昌(エドワード・ヤン)です。すごい監督ですが、惜しいことに早世しました。
『○嶺街少年殺人事件』、見終えたとき、立ち上がれなくなったほどの傑作、怖いくらいの傑作でした。日本では、あまり見られていないかも知れませんが。

 もう1作、『恐怖分子』もすごい映画で、日本ではほとんど話題にならず、やはり、さほど見られていないかとも思います。ビートたけしの映画何本分かの「もとネタ」が、すべてあると感じた映画です。たけし本人でなく、森昌行が引用したのではないか、と想像していますけども。

『○嶺街少年殺人事件』は公開時以後、再見していなくて、内容をほとんど忘れてしまいました。権利関係がもつれたらしく、再公開も邦版ソフトも長年なかったせいです。邦盤DVDが出ているのかどうか。

 というわけで、楊コ昌をやたらにほめましたが、商業的評価は大きくは得られなかった人です。
 楊の初期の作で、侯孝賢が実家だかを抵当に入れ、借金で制作費を援助したうえ、自分が主演(!)も引き受けた映画があるんです。
 くそ、いい話だ。
 その映画がまた、小品だけれどドエリャ〜いい! 
 演じている侯孝賢も、とてもいいです。
 音楽は、若いころの馬友友(ヨーヨーマ)です。
『青海竹馬』っていうんですが、邦盤DVDになっているのでしょうか。

 話はすっかりずれてしまいましたが、昔のことが記憶の箱から引き出され、パタパタと思い出されました。
 いっぽう見ただけで、気分が悪くなるようなリアルな思い出が、わっと出てくる固有名詞もちらほらあり、思うところが大きかった文でした。
Posted by (ケ) at 2021年10月19日 23:11
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