2021年08月28日

修理とは

 かつて隣人だったお年寄りが、さきごろ亡くなりました。
 たいせつにしていた、こわれたオルゴールを修理してあげたことがあります。

 早々にご主人を亡くし、長くひとり暮らしだった上品な女性で、関係ある人たちにみとられて亡くなったご本人は、九〇歳を過ぎていたそうです。
 マンションやアパートの隣室に誰が住んでいるか、知らなくて当然の都会生活。火事か地震か、急病人騒ぎだったか、ある夜、住人たちがみな飛び出してきた事件で初めて顔を合わせ、挨拶や立話をする間柄になりました。高齢者をねらう詐欺が横行していたから、こちらから訪ねたことはありません。

 修理したオルゴールは、ご主人との思い出の品と聞きました。
 正しくはミュージックボックスといい、電池で音楽テープの音が鳴り、飾りが動く置きものでした。
 ご本人に声かけしていた理事長さんから相談され、だめもとで分解すると、修理できました。届けた理事長さんの話では、泣いてしまうほど喜んでくれたとのこと。

       ♪

 そういえばこのブログには、「修理記」がけっこう書かれていることに気づき、探して「修理」というタグをつけました。
 三人の筆者で書いているブログですが、わたしと、もう一人の筆者が、修理の話をよく書いています。

 わたしは修理マニアではありません。それでも、修理の話をこのブログに書いたのは、感謝の意からです。
 自分で試みるにしても、業者を見つけるにしても、研究や実例をネットに書いてくれる人たちがいなければ、修理などする気になりませんでした。調べた情報をみな書くことはできないので、修理に成功したら、自分の例も参考になればと掲載することにしたのです。

 すぐ捨てたり買いかえたりせず、修理を検討するようになったのはどうしてか、考えました。
 ものには、さほどこだわらないのです。大切にするのは賛成ですが、清貧美学となると敬遠したくなります。
 家電やカメラ、楽器などの修理窓口では、修理できませんといわれたり、不愉快な気持ちになることが多いですし、たいていは修理するより買ったほうが安い。高級な旧製品に高い修理費を払って使い続けるのと、つぎつぎと買いかえて新製品をつねに使うのと、どちらが得かは、なんともいえません。

       ♪

 かなり昔のことですが、友だちから、MP3プレーヤー用の小型ヘッドホンが聞こえなくなったが、こういう製品は修理に出せるだろうか、と聞かれました。なるほど、いかにも買ったほうが安そうです。
 でも、ご存じのかたも多いでしょうが、そのタイプは、ある箇所で断線しやすく、かんたんな線の切り戻しとハンダづけで復活できることが多い。
 送ってもらい、調べるとその通りでした。すぐ修理して、返送しました。
 ところが、その友だちの家族のあいだでは、修理業者を紹介するのでなく、わたし自身が修理したことが、驚きだったらしいのです。
 そんなものを修理できるなんて、変わった人だねと。
 なにごとも、調子が悪くなったら、捨てたり買いかえたりする前に修理できないか調べたり、試みたりするようになったのは、おそらくそれがきっかけです。

       ♪

 ヘッドホンが断線して、音楽が聞こえなくなったり、音がぶつ切れたりすると、こんなふうに感じます。
 自分が生きている時間が、止まってしまったように思うのです。ただ、こわれちゃった、ではなくて、もっと不安な気持ちになるのです。

 時計がぜんぜん動かなくなったときは、まさに時間が止まったようですから、わかりやすいですが、パソコンの調子が悪くなったり、掃除機がこわれたり、あるいは陶器を欠いてしまったり、そういうときもやはり、自分の周囲に流れ続けていたはずの、時の連続性が断たれてしまうような気がします。

 修理とは関係ないのですが、中学に入学して通学用に買ってもらった自転車を、ほどなく盗まれたとき、自転車通学は二度とできなくなった気がしました。
 その自転車を、かけがえなく気にいっていた、というわけではないのです。しばらくして同型の「代車」も来ました。
 けれども、かなりの間、無理して歩いて通学していました。
 新品の自転車で初登校したわたしという存在からはじまり、その自転車に乗って通学路を走る、以後のわたしとの間に流れ続けてきた時間のつながりが、はじめて乗った自転車がなくなったことで、とぎれてしまった気がしたからだと思います。 

       ♪

 存在とか時間だとか、むずかしい話をするつもりはありません。
 わたしはとぎれ≠つなぎたい、と思っているのでしょう。
 ケーブルの断線をハンダづけしたり、欠けたパーツをパテで埋めたり、むずかしい故障でも直してくれる修理職人さんを探し出したりすることで。

 自分の時間や記憶、すこしおおげさにいえば自分の歴史、それらがとぎれ≠トほしくないなら、記憶や歴史をゼロにリセットすることはできません。
 それでは、きもちよく前進できないでしょう、という人もいると思います。
 いつまでも過去にこだわっていてはだめ、というのが、この社会の基本方針です。昔にこだわる人は、ものごとを根に持つ陰湿なやつだという、悪いイメージもあります。

 わたしは、なぜ修理にこだわるようになったのか。
 ものがこわれると、とぎれてしまう記憶や思い。
 わたし自身のそれのみならず、ほかの人のものも、なんとかつなげてあげたい、そう思うのです。
 そうすることで、わたしは、ただものをなおすだけでなく、自分とほかの人との関係も、つなぎたいと思っているのではないでしょうか。
 もちろん、ひとに感謝されると嬉しいから、ほめられたくてやるという、平凡な理由も、ないとはいえませんけどね。

 わたしと、お隣のお年寄りが住んでいた建物は、地域再開発で何年も前に消えています。わたしはそれを機会に越したきりでした。
 ご本人が亡くなって、わたしが修理したオルゴールと、やはり大切にされていた陶器の犬が、わたしに託されたと聞きました。こんな事態で葬儀には行けず、伝え聞きです。
 それらはすでに、飾られるべき、おしゃれなお店──わたしも知っている店──に置かれているとのこと。
 そう聞いて、このどうしようもない閉塞感が、わずかに晴れたような気がしました。(ケ)

210828RP.JPG


※ このブログで「修理」や故障のことを書いた記事は→こちら←
posted by 冬の夢 at 22:39 | Comment(0) | 日記 話題・意見・世相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く:ペンネーム可・アドレスは表示されません
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: