2021年08月19日

『ゆきゆきて、神軍』とドキュメンタリー映画、またはニュルンベルク裁判のこと

 原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』(※1)。昭和六十二年(1987年)にミニシアターで公開され、連日立ち見になったという伝説的なドキュメンタリー映画だ。忘れっぽい性格ゆえに、毎年夏、戦争についての本を読んだり映画を見たりすることを義務化しているため、好き嫌いは置いておいて川喜田映画記念館での上映会に出かけることにした。はたして二時間見続けるにはそれなりの忍耐力が必要となる作品だったのだが、あらためて考えさせられたのは、「ドキュメンタリーとは何なんだろうか」ということであった。
 「ドキュメンタリー」を辞書で紐解くと「虚構を用いず実際のままを記録した性質を持つこと」(Oxford Languages)であり、日常的な使われ方からすると「実際にあった事件などの記録を中心として、虚構を加えずに構成された映画・放送番組や文学作品など」(デジタル大辞典)となる。丸めて言えば、虚構ではなく実際を記録するのがドキュメンタリーであって、その真逆の「実際にはない、作り上げたこと」や「作り事を仕組むこと」はドキュメンタリーとは言えない。そのような定義を前提として『ゆきゆきて、神軍』を振り返ってみたい。

 本作が記録していく対象は、奥崎謙三という元日本兵。太平洋戦争の最中、ニューギニアに送られた奥崎は、豪州軍の捕虜となり生き延びて、戦後に復員。不動産業者を刺殺した罪で懲役十年の刑を受けた後、昭和四十四年の一般参賀に現れた昭和天皇をパチンコ玉で狙撃した人物。
 映画は、奥崎が檄文看板付きの自家用車に乗って、警察の監視のもと上京する様子から始まり、ニューギニアの同じ部隊で戦死した兵士の実家へ弔問に訪れる場面へと続く。兵士の老母が「岸壁の母」を哀切に唄うあたりまでは、何ということのない普通のドキュメンタリーだ。
 ところが、奥崎が死んだ兵士の上官たちを訪ねる場面から、映画は徐々に普通ではなくなり、少しずつ異常な空気がまとわりついてくる。その兵士は戦病死と報告されていたのだが、実は六名の下士官によって銃殺された疑いがあった。奥崎は、自分が所属していた部隊で起きたその事件の真相を追究し始めるのである。
 そしてその追究の仕方が常軌を逸している。入院中の下士官には病気は天罰だと決めてかかり、別の下士官は話の途中でいきなり飛びかかって押さえ込む。また別の上官たちには、兵士の遺族を引き連れて強引に面会を求めたうえに恫喝したり、商売中の店先に陣取って家族を脅したり。その言動はヤクザか暴力団の組員のようにしか見えない。

 奥崎が下士官を詰問するこれらの映像には、常に奥崎と遺族、そして下士官が構図の中に収められている。なぜなら奥崎がキャメラの前には誰も座らせないからだ。ある下士官は、奥崎に軟禁されたと警察に通報したらしく、談判の席に途中から警察関係者がふたり加わる。彼らに向かって奥崎は何の臆面もなく「そこはカメラの邪魔になるから、こっちのほうに寄って座ってね」とかなんとか指示するのだ。本作の映像は、TVドラマの定石でもある「食事の場面を写すときは食卓の手前には誰も座らせない」のと同じ約束事のもとに撮影されているわけだ。さらには、当事者である遺族たちが奥崎との同行を拒否すると、なんと奥崎は知人と自分の妻をニセの遺族に仕立てあげることまでする。奥崎云く「あなたは遺族になったつもりで、黙って座っていればいいから。しゃべるのは私がやりますから」。
 そこまでやるのを見ると、奥崎が下士官を恫喝したり殴りかかったりするのも、頭に血が上って衝動的にやってしまったというのではないように見えてくる。奥崎の言動は、本人によって周到に準備されたものではないだろうか。撮影されているのを意識して、奥崎は自らを演じ、キャメラに収められることを前提に、奥崎という人物を演出しているのではないだろうか。

 冒頭に「作り事を仕組むこと」はドキュメンタリーではないという定義を引用したばかりではあるが、記録する対象が生身の人間である場合、記録されていること(映画の場合は撮影されていること)を完全に意識から外すのは、ほとんど不可能だ。また、動物ドキュメンタリーにおいて、例えば大自然の中で生息するホッキョクグマの親子などが取り上げられるとすると、ホッキョクグマは決してキャメラを意識することはないはずなのに、撮影する人間たちによって「厳しい冬に立ち向かう健気な親子」という設定に基づいてドラマチックなストーリーの主人公にさせられてしまう。観る者が感情移入するように、映像を編集しナレーションを入れることで、生態記録はいとも簡単に感動的ドラマに変わってしまう。これを演出と呼ばずに何と言おう。
 実は監督の原一男自身が、ドキュメンタリーには演出があって当たり前派の立場であるらしい。原一男の「ドキュメンタリーは格闘技だ」という著作から引用すると、本のキャッチコピーは「ドキュメンタリーはフィクションだ」となっており、また新藤兼人との対談は「私の中ではドラマもドキュメンタリーも一体だ」がテーマなのだった。

 そんなわけで、ドキュメンタリーの定義は一旦脇に置くとして、『ゆきゆきて、神軍』は、明らかに奥崎謙三の自己演出によって成り立っているドキュメンタリータッチの映像作品であると言い換えられるだろう。原一男監督も膨大な記録映像から奥崎のキャラが立つショットのみを抜き出して編集しているだろうから、もちろん作り手も演出に加担している。しかし、本作においては、監督やキャメラマンなどはものの数ではないくらいに、奥崎謙三の自作自演感が突出している。
 映画の終盤、新聞報道を伝える形で出てくる奥崎による部隊長殺害未遂事件も、実は原一男監督のところに奥崎から「殺しに行くので撮りませんか」と事前予告があったそうだ。さすがにそれは原によって断られたらしいのだが、奥崎が「劇場型犯罪」の主役になるのを企んでいたひとつの証拠ではあるだろう。

 単なる推測に過ぎないが、奥崎は昭和天皇パチンコ玉事件を起こしたときに、新聞に顔写真入りで犯人として大きく取り上げられたことに「味をしめた」のではなかったか。当時においては主要メディアであった新聞に名前が出ることは、奥崎の自尊心を大いに満たしたはずだ。また、本作でも本人が嬉しげにひけらかしている通り、出所後は左翼筋から先生扱いされてもてはやされたようだ。
 新聞では記事になるだけだが、映画なら自分自身をそのまま世間一般に喧伝できる。奥崎は、メディアとしての映画の機能に特段の興味を持ち、どうしたら自分を強烈に印象づけられるか作戦を練ったのだろう。それによって、檄文看板の車を走らせたり著作を自費出版したりするのより、はるかに直截に高い効果が得られるのだ。現に奥崎本人が死んだ後でも、『ゆきゆきて、神軍』という映画はある種のカルト作品として繰り返し映画館にかけられ、ネット配信されている。
 奥崎謙三は、ドキュメンタリーという表現手法を手玉に取った人物として、今後も局所的な注目を浴び続けるに違いない。

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 さて、奥崎謙三本人にのみ着目するのは、『ゆきゆきて、神軍』の感想としては不十分であって、奥崎によって暴かれることになった銃殺事件についても触れなくてはならない。
 最初は口をつぐんだり嘘を言ったりしていた下士官たちは、奥崎の執拗な追究に屈して、真相を告白し始める。もちろん、それが真実かどうかは誰にもわからない。ある者は「確かに銃で撃ったが不発だった」と言い、別の者は「命中しないように逸らして撃った」と言う。しかし、最初は銃殺の事実にさえ触れなかった下士官たちが、実際に戦地で起こったこととその現場で当事者になったことを語り出したのは、奥崎の演出にたじろいだからにほかならない。奥崎がヤクザまがいの脅しをしたのは、ある意味で「虚構」を演じたのではあったが、それが図らずも下士官たちが銃殺の事実をなかったものにせんとする「虚構」を打ち壊すことになった。
 『ゆきゆきて、神軍』に感じられる「異常な空気感」は、虚構同士が擦り合わされて発生する虚飾の臭みであったのかもしれない。

 こうして『ゆきゆきて、神軍』を振り返ってみたものの、ドキュメンタリーの在り方などは実は些末な問題であって、本質的な引っかかりは、別なところに潜んでいるのだという思いに行きつく。
 奥崎の追究によって前言を翻す下士官たちの中で、ただひとり首尾一貫して言説を変えない者がいる。戦後六度も手術で身体にメスを入れたという山田元軍曹だ。山田は奥崎に罵られ乗っかられて殴打されても、「本当のことは誰にも話すつもりはない」と突っぱねる。「奥崎さんには奥崎さんのやり方があるだろう。でも俺には俺の償い方がある。誰にも何も言わずに、死んだ者たちに詫びることしか俺にはできない」と山田は言う。『ゆきゆきて、神軍』の中で、唯一、深刻で真剣で誠実でゆるぎのない本音を聞くことができる場面だ。「だってやらなければやられちまうんだから。命令に従うしかねえじゃねえか」という告白の背景に何があったかは映画を見ていただくしかない。
 そんな普通の常識人である山田元軍曹が、戦場では同じ部隊の兵士を銃殺する場に立ち会わねばならなかった。部隊長から命令されれば殺さなければならない。それが戦争なのだ。自分の意思よりも、命令が絶対の世界。
 そして、それが毎年夏になると必ず引っかかってくる。その引っかかりは、喉の奥に刺さった小骨のように、小心者である私のこころにチクチクとした引っかき傷をつけ続けるのだ。

 *****

 東京裁判のことはよく見聞きするのに、ニュルンベルク裁判については全くの無知であることに気づき、数年前から関連した作品に手を出してきた。
 例えばアメリカ映画の『ニュールンベルグ裁判』(※2)。黙秘を続ける誇り高き被告をバート・ランカスターが演じていて、法廷劇として上出来なのだが、自殺したヒトラーとゲッベルスは別にしてもナチスの大物幹部が被告席にいないのはなぜなんだろうかなどと阿呆な感想を持ったのも事実だった。
 その後、裁判の全貌を詳述した『ニュルンベルク裁判』なる本(※3)を読んで、裁判が「国際軍事法廷」と「十二の継続裁判」に分けられていて、バート・ランカスターは第三帝国の法律家としてアメリカ合衆国の判事によって裁かれる「十二のうちのひとつの継続裁判」の被告だったのだと初めて知った。ランカスター演じるヤニング元法務大臣は、優生思想に基づく断種法を推進した罪に問われて言う。「仕方がなかったのだ」と。

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 最近では『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』(※4)という映画を見て、アルゼンチンに潜伏していた元ゲシュタポ長官アイヒマンが捕縛された経緯(ドイツヘッセン州の検事長フリッツ・バウアーが潜伏情報をイスラエルに横流ししてモサド実働部隊が連行した)が実に興味深かった。アイヒマンはアウシュビッツ強制収容所へユダヤ人を送り込む移送局長官の職にあり、大量虐殺の現場指揮官だったのだが、エルサレムで行われた裁判ではこう証言した。「遺憾には思うが、私は命令に従っただけだ」と。

 アイヒマンがドイツではないところで裁かれたことで、ニュルンベルク裁判以降、ドイツ国内においてはタブー化されていたナチスの犯罪について、ドイツ自らが裁きを行うべきであるという世論が盛り上がり始める。フリッツ・バウアーが再び奔走し、ドイツ人の戦争犯罪を裁くフランクフルト・アウシュビッツ裁判が開かれることになった。その裁判を舞台にした小説が、アネッテ・ヘスという若手作家が書いた『レストラン「ドイツ亭」』(※5)。主人公は、原告のユダヤ人たちの通訳をつとめる女性。彼女が最も信頼する人たちは、実は戦時中に間接的ながら一般市民の立場からナチス親衛隊を支援していた。信頼を裏切られたと感じた彼女は、彼らを問い詰める。「知っていたのに、どうして何もしなかったのか」と。

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 下士官たちやナチスの被告たちが口にする「仕方がなかった」「命令に従っただけ」という言い訳と、戦後世代の若い女性からの「どうして何もしなかったのか」という問いの間には、絶望的な隔たりがある。すなわち自らの行動の意思決定を、当たり前のように自分で行うのか、やすやすと他者に売り渡してしまうのかの違いだ。戦争という非日常の中で、自分や家族の命が秤にかけられている極限状況におかれても、なお、私は私の意思で行動できるだろうか。他者からの命令が自分の信念や倫理観と大きく違っていると気づいていても、それを間違いだと拒絶することができるのだろうか。
 毎年夏になると、そんなあるかどうかわからない事態に追い込まれた自分が、途方に暮れている姿が立ち現れる。それが引っかかってできた心の中の引っかき傷は、どんなに時間が経とうがなかなか元通りには治らない。ただお気楽でいたいだけの人生であるはずなのに、平穏な気分ではとてもいられなくなるのである。(き)



(※1)『ゆきゆきて、神軍』は1987年キネマ旬報ベストテンの第二位。驚くべきは同時に行われた読者選出ベストテン(通常は例えば『E.T.』のように興行成績上位作品がトップにランクされる)で第一位になったことだ。

(※2)『ニュールンベルク裁判』はスタンリー・クレイマー監督による1961年のアメリカ映画。映画の導入部ではアメリカ人は台詞を英語で、ドイツ人はドイツ語で話していて、ドイツ語の台詞には英語字幕が入れられる。しかし法廷ものなので文字数制限のある字幕では、台詞の内容をかなり端折らなければならない。そこでスタンリー・クレイマーは、ドイツ人弁護士役のマクシミリアン・シェルがドイツ語を話す場面で次のような演出をした。
裁判の不法性をドイツ語でまくし立てる弁護士に徐々にキャメラが近づき、さらに近づき、弁護士が大きな声で「〜なのである!」と弁舌を区切ったとき、キャメラは急激に弁護士から離れる。観客は一瞬、今の画面の転換は何だったのかと気を取られるが、再び平然と話を再開する弁護士に目を移す。するといつのまにか、弁護士が話す言語が英語に変わっていて、この転換の後はドイツ人全員の台詞が英語で統一されることになる。
ちなみに『レッド・オクトーバーを追え!』(ジョン・マクティアナン監督/1990年アメリカ映画)では、ソ連原子力潜水艦艦長役のショーン・コネリーの台詞が、同じ手法でロシア語から英語に転換される。

(※3)『ニュルンベルク裁判〜ナチ・ドイツはどのように裁かれたか』(アンネッテ・ヴァインケ著/2015年中公新書刊)

(※4)『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』(ラース・クラウメ監督/2015年ドイツ映画)

(※5)『レストラン「ドイツ亭」』(アネッテ・ヘス著/2021年河出書房新社刊)。著者はTVドラマや映画の脚本家で、本作が初の小説とのこと。



posted by 冬の夢 at 14:42 | Comment(1) | 映画 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
非人間的な命令に従わなければ自分や家族の生命さえ危険に晒されるような状況下で、はたして自分が真っ当な人間性を発揮できるのか?という疑問・怖れは、ぼくもほとんど同じように感じています。(そして、おそらく多くの人たちも共有しているのでは?)だからこそぼくが思い至ったことは、「そんな状況に追い込まれること自体が異常かつ非人間的なんだ;だから、戦争に代表されるような、そうした異常な状況にならないように努めることが重要になる」ということと、同じことかもしれませんが、「そもそも『自分で決定できる自由』が保証されていないとき人は誰もが奴隷になるしかなくなるのだから、自己決定権が侵害されないようにしなければならない」ということです。つまり、戦争のような状況にまでなってしまったら、できることは極めて限られてしまうのではないでしょうか? この点に関して、感染症の拡大(防止)と個人の自由=権利の調整がどうなってしまうのか、ハラハラドキドキしているところです。こういうときこそ知性を最大に発揮して、最善の妥協点を見出す努力をしなければならないのに、昨今の日本社会はこういうのが絶望的に不得手なようですから、本当に心配です。
Posted by H.H. at 2021年08月21日 18:56
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