2021年07月09日

「好きな絵」のことはついに書けなかった──映画『THE FORGER』へのコメント

 このブログは、三人の筆者が自由に書いています。
 三者三様、さまざまな分野に興味があるわけですが、絵画が好きなのは共通しているようです。美術館に行っていることが、各人の文からもうかがえます。

 筆者のひとりであるわたしも、絵画も美術館も好きでした。十年前までは美術館やギャラリーへよく行きましたし、現代美術も熱心に追っていました。
 美術館や企画展を見る目的で、海外へ行ったこともあります。日本の招聘展では観覧者が多すぎるから、もともと作品を持っている美術館の常設展で見たいし、現代美術のインスタレーションやパフォーマンスは、展示の一回性ということもあります。外国へ旅行してでもという気持ちは、美術作品を見るのが好きな人には理解していただけるでしょう。

 しかしここ一年は、美術館に一度も行きませんでした。
 外出を控えているせいではありません。過去十年をふり返っても、美術館や画廊へ行ったのは年に二、三度ですし、画集を開くことも、めったにありませんでした。
 飽きたというより、もともと美術が、さほど好きではなかったのかもしれません。美術鑑賞が趣味ですと自慢したくて、好きなふりや知ったかぶりをしてきただけでは、と思うようになりました。

なぜ「好きな絵」の話ができなかったのだろう

 このブログへの参加を誘われたときから、好きな絵を一点ずつ選んでは書いていけたら、という気持ちはありました。
 が、十年近く続いたこのブログで、一枚の絵を題材に書いたことは一度あったかどうかです。書こうとしても書けませんでした。

 どう書けばいいかわからなかった、ということはあります。
 絵を見るとき、ことばで考えたことがないせいかもしれません。
 でも、それで書けないというのも、おかしな話です。その場でことばが出なくても、あとでじっくり考えたっていいだろうし、研究者でも批評家でもなく、自分が感じたことを忘れないように書くのですから、すでにある書きかたをまねすればいい。

 ともあれ、印象批評という書きかたがあります。感想文でいいわけです。画家のことを調べれば、話の端緒もつかめそうです。
 絵を描いたことがなくとも、技法や画材を調べて書いたっていい。プロ野球やサッカーリーグの戦術をテレビ観戦だけで議論するのと、似たようなものです。
 絵全体を説明しようとせず、ごく細部にこだわってもいいのです。表徴などというむずかしいことではなくて、なぞ解きのつもりで書けそうなものです。

 そこまでいえるなら書けばいいじゃないか、ということで、試したことはあります。
 やはり、書けませんでした。
 借りものの書きかたをすると、借りもののことばで書いてしまうのです。自分ならではの文章表現ができるなんて、思ってもいませんが、図鑑を書き写しているような気がして続きません。書きかたといい文言といい、切り貼りのようにしか書けないのは、どうしてなのだろう。
 それは、自分の絵の見かたがそもそも借りもの≠ナ、自分なりにすなおに絵を見たことがないからだ、と気づきました。
 一枚の絵を見るためには椅子がいる、といったのは坂崎乙郎※1ですが、そんなふうに絵に向かったことはありません。ほんとうに椅子を置かないまでも、絵の前に坐ったつもりで見ようとしたこともない。坂崎が存命のころから、著書や講義を通じて影響を受けていると思うのに、いま書いている文章の雰囲気が「似ている」程度にしか、継承したものがない気もします。

 東京や大阪のような都市では、視界が息苦しくありませんか。
 視線のさきに、いつも広告や情報がある。
 その隙間でせわしくうごめく人びとの表情は、怒っているか生気がないかのどちらかです。そういえば、広告も情報も「うごめいて」いますね、ディスプレイに表示されて。
 それらがいやなら、部屋に引きこもって壁を見るか、田舎で山や海でも見ていればいいのかもしれません。しかし、なにもない壁の前でものを考えたり、風景のうつろいを楽しんだりするような、心の余裕もないのです。かえって、いらいらしてしまいそうです。死ぬ瞬間まで高速紙芝居を見続ける、情報都市の住人であることに慣らされてしまったせいでしょうか。
 わたしは、広告や情報に目を泳がせ、人の表情から目をそらすのと同じように、絵画も見てきたんだ、と思うのです。

絵の中の時間を感じとるまなざし

 一枚の絵は、さまざまな時間を持っています。
 喧噪と空虚のあいだに失った時間も、絵の中にあるような気がします。

 あまりむずかしく考えず、一枚の絵を描くのに費やされた時間のことを、想像してみました。
 わかりやすいところで、人が描かれた絵はどうでしょうか。
 描かれるのを承知してモデルになり、描き手の求めた姿勢で静止していても、人という存在は刻々、変化しているわけです。ならば描き手のほうは、描こうとする人の何秒を、あるいは何分、何時間を、絵の上に表現したのか、と思います。
 モデルになった人の、人生そのものが描かれている、といわれることがあります。人生の残り時間を予告している、という表現も見たことがある。
 そうなのでしょうか。それとも、ひとりの人を何年かかって描こうと、描かれた人のほんの一瞬の時間が結晶しているのが絵である、ということなのか。

 同じことは、風景画にも、静物画にもいえます。
 セザンヌが生涯に何個のリンゴを描いたか知りませんが、セザンヌのリンゴは、ときに腐るまで観察されたそうです。
 また、セザンヌのリンゴの絵には、テーブルから落ちてしまいそうな不思議な描きかたの作品がありますよね。描法として、いまでは有名で、テーブル上のリンゴを見ているつもりで考えると、ひと目では見つくせない複数の視野が、一枚の絵に描かれているのです。リンゴの配置、そして画布と自分が描く位置、それらを決めて関係を変えず、ある時間を使って下絵そして着色と進めて、はい絵になりました、というものではないわけです。直線的な分秒の累積でない、さまざまな時間が、ただのリンゴの絵に輻輳するかのように存在している、ということなのです。
 絵を描くとは、さまざまな時間を描くことである、といってもいい。

210708CZ.JPG 
りんごとオレンジ 1899 Paul Cézanne *

 肖像画のモデルになった人や、セザンヌの描いたリンゴ──の場合は、リンゴが置かれたテーブルや布など、すべてが存在している空間、といったほうがいいかもしれませんが──について、さまざまな時間が絵に描かれている、と考えました。
 それは、さまざまな時間を、描く人が表現している、ということでもあります。すぐれた絵を描く人というのは、さまざまな時間を持っている人のことだ、ともいえるでしょう。
 肖像画に描かれた人の、人生の残り時間が表現されている、というような絵の解釈はセンチメンタルすぎて、どうも受け入れがたいです。しかし、描き手が自分の持っている時間を表現しようとしたら、そう見えた、ということかも。
 そうであるならば、描いた人の時間のことも想像したくなります。

 ゴッホが『日の出の春小麦の畑』という絵を描いています(一八八九年)。どこかで見たっけ、ぐらいの絵で、題を見て選びました。「日の出」という、短いけれど着実な時間と、「春」という、やや長くて抽象的な時間が描かれていることが、題でわかるからです。描いた人が実際に見た複数の時間のありさまと、もともと持っている多様な時間感覚とが、どのように響き合うか、探りやすい例になると思ったのです。
 
 しばらく見ていて、困ったことに気づきました。
 題で選んでは、いけなかったのでは。ゴッホは、自分で絵の題名をつけていないんじゃないですか? 正確には知りませんが、絵の裏に書いてあったりはしないですよね、ちなみにオランダ語の題に「春」はありません。

 見つづけるかどうか、いきづまっていたら、ふとこの絵もまた、セザンヌのリンゴのように見えることに気づきました。
 緑と黄が混ざった豊穣な視界を、乱暴に裁ち切る折れ線は、どう見ても壁でしょう。これって、畑を描いたんじゃなくて壁の絵≠カゃないかな、と思えてきました。まったく牧歌的でないコンクリートみたいな壁の。
 そこで、壁の絵だということにして見ながら、ときどき畑に目をやる見かたに変えてみると、そもそもここは、どうしてこんなに傾いているんだと心配になってきました。南フランスでも山のほうだろうか。だとしても、こんな急斜面に麦畑なんて。しかも、ひどく傾いているだけでなく、見ているこちら側へ倒れてきそうなんです。視界全体が壁になってしまったかのように息苦しい。風景画の構図のとりかたとしては「へたくそ」といってもいいような、画面構成だと思います。
 壁の外側には農家ふうの家があるから、壁のあちら側も畑だろうに、なぜか壁の内と外の感じが違うのも、おかしな雰囲気です。農家そのものも、なんだか恐怖映画にでも出てきそうな感じがする。

 手前に赤と白の花が描かれていることを忘れていました。
 それが美しいと思ったのも、この絵を選んだ理由だったんですけど。
 でも壁の絵≠セと決めて見ていると、花も、変な感じがしてくるのです。
 こんなに赤と白がくっきりした野の花を、南仏では見たことがありません。いや春の南仏は知らないから、そこまではいえない。でも同じ地中海域のイタリアでなら、春にこういう色や咲きかたをしている花を、畑や丘で見たことがあります。
 そんなことを思いながら、念のため、この絵を持っているオランダのクレラー・ミュラー美術館のサイトで絵の画像を見てみると、花の色が、さほど赤くない! 花の話は、実際に絵を見てからでないと、できなくなってしまいました。といっても、この絵を見るためだけにクレラー・ミュラーへなんて、たぶん死ぬまで行けない……。

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日の出の春小麦の畑 1889 Vincent Willem van Gogh

 そんなこと、どうでもいいじゃないかって?
 どうでもいいことかもしれませんね。
 ほんものの絵を見て花を描いた色を確かめなくちゃ、だとか、その花の実際の色や咲いているようすはどうか、なんてことは。

 手前の花が、おかしく感じられるのは、壁や畑の変な傾斜状態と同じように、その見えぐあいが奇妙だからです。だから、どういうふうに育つ花なのか確かめたかったのです。
 けっこう高い位置から見おろさないと、こうは見えないと思うのです。屋外にイーゼルを立てて描いた、バルビゾンの風景画家たちの視野ではありません。壁掛けのタペストリーに織り込んだような描きかたなのです。
 ひょっとしてゴッホは、実際の風景を描いていないのではないでしょうか。

 クレラー・ミュラー美術館の画像には解説がついています。読んでみると、これは実際にあった窓越しの光景だということがわかりました。
 ゴッホは、この絵を描いた一八八九年の春、それまでいたアルルから二〇キロほど離れた、サン=レミ=ド=プロヴァンスの療養所──もとは修道院──に入っています。
 病室とは別に、絵を描く部屋ももらい、体調がよければ外出して描くことも許されたそうで、この絵は一階にあった病室から見える景色だそうです。
 病室で描いたか、じかにこの風景は見えない制作室で描いたかは、はっきりしません。ゴッホ自身は、想像で描くことはできないと断言していましたが。
 ゴッホの病室だという部屋の写真を探して見てみると、窓は観音開きのいわゆるフランス窓で、部屋は比較的明るい。ただ、窓にはいまも鉄格子があるようです。ゴッホがいた当時はもっと窓が小さくて網も張ってあった、という説もあるようですが、いずれにしてもこの絵の描き手は、実際に窓外の風景を見ているときとは異なる時間の中にいて、絵筆をとっているわけです。
 ゴッホの病状はよくなってきていて、この療養所もすぐ退院するつもりだったようですが、発作がときどき起きるため、一年間いることになりました。ゴッホは三十六歳から三十七歳です。
 そして、ここを出て二か月後に、ゴッホは亡くなっています。

 サン=レミ=ド=プロヴァンスの療養所で、ゴッホは一五〇点近く、実際にはおそらくそれ以上の数の油絵を描きました。それと同数か、もっと多いと考えられる素描も描いています。
 二日に一枚ペースの油彩に、それ以上のデッサンやスケッチとは、常人にこなせる量とは思えません。でも、病状が落ちついているときしか描かなかったという事実と──だとしたら、もっとハイペースで描いたことになりますが──実際に対象を見なければ描けない、というゴッホのことばから、その作業は幻覚のなせるわざではないと思います。異常な心理にロマンチックな芸術性はないという医学的指摘を読んだことがありますが、それを検討しなくとも、この絵を含む多数の絵には、職人の一徹さが感じられるのです。あたかも、こつこつと時を刻んでいるかのような……。
 この想像を確かめるには、いまは調べられませんが、はじめにいったような素人スポーツ談義のレベルでいいから、画材と技法を知ると役に立ちそうです。当時の油絵は、結果はともかく画商に買い取られ販売されるのが基本だから、サン=レミ=ド=プロヴァンスで描かれた油彩が、一枚ずつ手順を踏んで仕上げられているか、それとも工芸的な面は無視して、ひたすら書きなぐったものか、です。

 かりに後者だったとしても、この絵の時間のことを、いかにも炎の画家≠轤オく「人生のわずかな残り時間を燃やし尽くさんばかりであった」とは、書きたくありません。
 しかし、ここからさきを、ことばにしようとすると、やっぱり「借りもの」になってしまう気がします。絵に関する知識や教養が足りなくて平凡な表現しかできないのか、それとも文章がヘタすぎるのか。
 それもあるでしょう。しかしそれより、絵画もまた、視界にあふれる広告などと同じように軽薄に見とばしてきた、その問題が大きいと思うんです。だから、絵を見て考え、ことばにすることができないのだと思います。一枚の絵を心から愛したことも、そうする気持ちもないのに、絵をただ「わかろう」として、いつも「わかったふり」で終わってきたのです。

 いまさら詮ないことですが、なぜそうなってしまったのか。
 わたしには、絵を見る目がないのです。
「なんでも鑑定団」みたいな意味ではありません。絵が何円するかという目ではない。
 絵を見ると、絵の表面と描き手の関係が理解でき、自分がその関係を見守る位置を的確に決められて、濁りのないまなざしを絵の奥深くにまで届かせることができる、そういう目のことです。
 その目は、同時に自分の時計の秒針も見ています。
 絵の中に、さまざまな時間の存在を発見するたびに、自分の時計を、それらの時間の進みぐあいに合わせられる。
 絵を、そんなふうに見ることができる目、なのです。 
 絵にもし「瞬間」を見い出したら、わたしの時計をその「瞬間」にぴたりと合わせて止め、絵の時間を感じとらなければなりません。そうとう手間どりそうです。
 また、気の遠くなるほど長い時間を絵から感じたなら、わたしの時計をそれに合わせて巻き戻したり、ゆっくり進めたりする、柔軟な受容性も必要です。
 だから、一枚の絵を見るためには椅子がいる、ということになるのです。
 わたしはそのような、絵を見るまなざしを持っていないんです。

一枚の絵を見つくす目を持つことを教わった映画

 この文の題にした映画の話は、どこへいってしまったのか。
 すみません、いまから話します。

 わたしが持ってもいないし、この歳で持てるようになるかどうかもあやしい、「絵を見るまなざし」について教えてくれた映画です。
 絵を愛し、絵の本質を澄んだ目で見ることができ、絵を家業≠ニして共有した、父子三代の話です。

 ことわっておきますが、娯楽映画です。クライムサスペンスというのかな。
 ズッコケてしまう邦題なので、この文の題には書きませんでしたが、こうです。
『THE FORGER 天才贋作画家 最後のミッション』
 ダメっぽいでしょう。欧米評論家の評価も、あまり高くありませんでした。
 しかし、わたしは傑作だと思っています。
 この映画に絵を見ることを教わった、と断言できます。
 二〇一六年に見たとき、このブログで紹介しようと思ったのですが、絵のことが書けなかったのと同じように、書くことができませんでした。ところが最近、三度目に見て、こんな映画にこれほど感心していいのだろうかと、またしても思いました。なので、まとまらない文でもいいから書いておこうと。娯楽映画なので筋はわかりやすいです。

 天才的な名画贋作者、レイ・カッターは、不運にも捕まり五年の刑に服していました。あとわずかで刑期満了です。
 ところがレイは、贋作仕事を仕切った男に、大きな借財を作ってまで裏工作を頼み、仮釈放を得ます。
 じつは、逮捕されて刑務所送りになったのは、贋作犯罪をレイひとりにおっかぶせようとした、その男の陰謀です。その男は今回の仮釈で貸しを作ったレイに、美術館で招聘展が行われる印象派の名作を、贋作とすり替えて盗み出せというのです。盗品コレクターでもあり暴力組織の黒幕でもあるらしい南米の富豪が欲しがっているので。無理強いし、むちゃな短期間でやらせるつもりです。
 レイが刑務所をすこしでも早く出て家に帰りたがったのは、十五歳のひとり息子ウィルと、一日でも長く過ごしたかったからでした。ウィルは、脳の病気で余命が限られているのです。
 長く会っていなかったムショ帰りの父と、息子との関係は、はじめはうまくいきません。
 しかし自分の短命を知っているウィルは、どんな難題でも三つの願いを聞くといったレイが、ひとつずつ約束を果たしてくれるうちに、レイに近づいていきます。
 父親が、贋作描きと強奪を強いられていて、それが自分に会うためと知ったウィルは、自分も盗みに加わりたいというのを三つ目の願いにします。もちろんレイは認めませんが、もの別れのあと、ウィルは発作で倒れます。
 やむをえず息子を加わらせたレイ。すると、レイの帰宅を喜んでいなかった息子の祖父、つまりレイの父が、助勢をかってでます──この場面の会話が、しみじみといい!──レイの父親は、引退しているが名うての詐欺師でした。さらに裏社会の情報通のレイの弟も加わり、偽造と強奪という「稼業」は、一枚の名作絵画をめぐる「家業」となるのです。

 話のゆくえと、美術偽造や窃盗を家業≠ニして共有した三世代の男たちが、盗む名画にいかなる真実≠もたらすかは、本編を見てのお楽しみとして──無理にはすすめませんけど──わたしが、絵を見る目の意味をわかったように感じた、たいせつな場面のことを話します。

 偽造し、美術館にある真作とすり替えようとしている絵は、モネの『散歩、日傘をさす女』(一八七五年)です。モネの最初の妻と長男が描かれています。
 場面は、レイが息子のウィルを一党に加え、贋作を描く前に絵をウィルに説明するところです。
 あ、その前の場面を忘れてはいけませんでした。ウィルが、発作で担ぎ込まれた病室で、父のレイに「お願い(ぼくも泥棒の仲間にして)」とだけ、二度、頼む場面です。
 祖父も病室にいますが、モネの絵とまったく同じように、三人は逆光に包まれているのです。このシーンに続いて、逆光に浮かぶ母子が美しい絵を、贋作者の父とその息子が画集で見ている場面になります。字幕は訳を略しがちなので、セリフの訳はわたしがしました。

 So this is Claude Monet.
 He is an Impressionist.
 The word came from the name of one of his paintings.
 Called the impression sunrise.
 He's not trying to be exact like a photograph.
 a picture
 He is trying to..
 He is trying to paint the feeling.

 レイ:
  で、これがクロード・モネってわけだ。
  印象派のひとりだよ。
  印象派ということばは、モネの絵の題名からきたんだ。
 『印象・日の出』っていう絵さ。
  モネは、写真のように正確にしようとしているんじゃない。
  これは絵なんだ。
  モネが、なにをしようとしているかというとな…
  自分の感覚を描こうとしているんだ。

 Like Paul Gauguin?

 ウィル:
  ポール・ゴーギャンのように、ってこと?

 Yeah.
 Like Gauguin.
 Yeah.
 It's a sunny day.
 It's spring time.
 Camille is looking at Monet.
 And Jean...

 レイ:(驚いたように息子を見て微笑みながら)
  そうだ。
  ゴーギャンのようにだ。
  そうなんだよ。
  天気がいい日だよな。
  春だ。
  カミーユはモネを見ているだろ。
  そしてジャンは…

 Wait.
 Who are they?

 ウイル;
  待って。
  誰なの、この人たち?

 Camille is Monet's wife.
 And Jean,
 is his eight year old son.

 レイ:
  カミーユはモネの妻だ。
  そしてジャンは、
  モネの8歳になる息子さ。

 So, it's going to be hard to fake?

 ウィル:
  でさ、贋作を作るのは難しいの?

 No, you don't fake this.
 I mean..
 You can't copy it.
 You have to..
 You have to get inside it.
 You know.
 It's hard to explain.
 But if I could..
 If I could..
 Feel what he was feeling...
 You know, maybe..
 Maybe I could do it.

 レイ:
  いや、ニセものを作ろうってんじゃ、ダメなんだ。
  つまりだな…
  この絵をただ複製するんじゃいけない。
  どうしなくちゃいけないかというと…
  この絵の中に入り込まなくちゃならん。
  わかるかい。
  説明しづらいんだが。
  でも、もしおれがやれたら…
  おれに…
  モネが感じていたことを感じとれたら…
  な、たぶん…
  たぶん、やれると思うんだ。

 It's beautiful.

 ウィル:
  美しい絵だね。

 It is.

 レイ:
  ああ、美しいな。


210708MN.JPG 
散歩 日傘をさす女 1885 Claude Monet *

 美しいのは、絵ばかりではありません。
 ことば少なに、絵の中に「入り込」んでいく、父子のまなざしが美しいのです。絵を見るときの目の表情をリハーサルしたのでしょうか。それとも俳優たちの「地」だろうか。

 そうだ、配役を紹介するのも、すっかり忘れていました。
 父親のレイ役はジョン・トラヴォルタです。映画ファンは、ややカルトな俳優だと思うかもしれませんが、直球の芝居がうまい人だと、わたしは思っています。
 息子のウィルはタイ・シェリダンで、『X-MEN』でご存じでしょう。この映画は、その人気シリーズ以前の制作で、シェリダンの実年齢は十八歳、命が限られた病のせいもあり折れそうに繊細な少年を、とてもナチュラルに演じています。ベッドからトラヴォルタに視線を投げかけるさまが、そのままムンクの『病める子』──ムンクの絵は女の子ですけど──であることに驚きます。
 そしてレイの父つまりウィルの祖父は、乱暴で下品な冗談好きの老人ですが、ひとたび詐欺師に戻ると学究肌の美術鑑定家になりきる、したたか者です。そんなキャラクターを完璧に演じているのは、クリストファー・プラマーです。
 びっくりしませんか? 「ザ・サウンド・オブ・ミュージック」のトラップさんですよ! 長い芸歴はダテじゃありません。演出か自前の芝居かわかりませんが、盗み出したほんもののモネの絵を扱うときの、一瞬のしぐさがいい! 三世代全員が絵を愛する気持ちが、そのわずかな動きに凝縮しています。

 出演者を紹介していて、気づきました。
 この場面を見ていて、絵を見ることを教わったように思ったのは、レイ・カッターの世代にあたるわたしが、いつしか息子のウィルの位置からレイを見るようになっていて、レイの「絵をみるまなざし」を知ろうという気持ちになったからでしょう。
 レイ、つまり描いているときのジョン・トラヴォルタの目を、ウィルといっしょに見守ったからだと──父の画業≠敬愛とともに見つめるウィルも映ります──思います。

絵を見ることになぜ勇気と忍耐力が必要なのか

 娯楽映画ですから展開が速く、レイが贋作を描く場面はカットが割られるし、どのカットも長くありません。
 それでも、美術館でモネのタッチを注視した観察眼と、画布の脇に置いた画集とに頼って描く、レイのまなざしには胸を衝(つ)かれます。
 そのまなざしとは。
 It's hard to explain.
 レイと同じことをいいたくなりますが、説明してみましょう。

 レイは贋作描きで、下請けの犯罪者にすぎません。
 しかし、その目には高貴といってもいい情熱と冷静とがあり、絵の細部を鋭くチェックするいっぽう、全体をのびやかに見渡します。
 そんな表現では医者の診察眼のようですが──そんな目をもつ医師がいるかどうかはともかく──実際、作業は科学的に遺漏なく進みます。ほんものと同じ時代に描かれた、市場価値のない絵を探し出して、絵を剥がして画布を手に入れたり、当時の成分を持つ画材を調合で作ったり。描き上げた贋作を熱してエイジングするシーンもあります。クライムサスペンス、ですからね。※2
 ただ、実際に贋作を描く場面では、作業するレイを背後から撮ったアングルもさることながら、お手本として立てた画集と画布の間から見えるレイの表情が繰り返し映されるのが、印象的です。この映画が、レイの「絵を見るまなざし」をとても重んじていることがわかりますし、その目に輝く情熱と力強さは、あまりにもすばらしい。このような目が自分には欠けているんだと、思い知らされる気持ちです。
 レイが、収監されていた五年近くの間ひとときも絵のことを忘れなかった、と話す場面があります。絵を見ることも描くことも、心から愛しているのです。

 Hey, dad.
 What you did today...
 It's pretty crazy.

 ウィル:
  ねえ父さん。
  きょう父さんがした作業って…
  めちゃすごいね。

 Thanks.
 Yeah, you know.
 I could dunk my whole life.

 レイ:
  ありがとな。
  な、わかるだろ。
  おれは一生、絵に漬かってたいくらいなんだ。

 Should have.
 Why don't you?

 ウィル:
  できるよ。
  そうすれば?

 Let's get through all this.
 Tomorrow we start fresh.

 レイ:(しばらく黙ったあとで)
  この仕事をやっつけよう。
  明日またピンシャンして再開だぞ。

 Alright. 

 ウィル:
  わかった、おやすみなさい。


 レイは、なぜ画家にならなかったのか、それとも、なれなかったのか。
 ひと仕事終えた夜、息子に問われたレイは、黙して語りません。
 熱心な模写が贋作としてカネになったとき、裏社会にからみ、抜けられなくなったのか。
 早々に別れたきりの妻も、薬物中毒から立ち直れないままです。死ぬ前に顔を知らないママに会ってみたいというウィルの、「第一の願い」をかなえようとしたレイが、長年ゆくえ知れずだった妻を探し出すと、彼女は薄汚れた姿でトレーラーハウスに巣くっていました。
 そして、ひとり息子のウィルは、レイを残して先立とうとしている。
 モネの名作が地元のボストン美術館に招聘展示されるので、この犯罪が計画され、レイが動員されたのですが、美しい街として知られるボストンには、全米でも悪の度合いがひどいといわれる暗黒街も、美術展と一生縁がない人びとが生息するうらぶれた地域もある。それが露骨にではないが、気をつけていれば、ひと目でわかるように映ります。

『散歩 日傘をさす女』には、画家の妻とひとり息子が描かれて──モネは子どもが多いけれど、この絵を描いたときは、長男のジャンひとりです──います。
 これほどの青空からの逆光なら、ふたりとも、こちらに見えている側はかなり暗いはずですが、ふたりの顔をよく知るモネは、描くときに光量を調節し、妻子の表情がわかるように描いています。
 ならばとその表情を、できる限り近づいて観察すると、ほとんどなすったかのように、一瞬の筆づかいで描いている感じです。確とした顔つきは描いていません。カミーユなど、背景の雲と一体になるかのように流れるヴェールの描きかた同様に、顔も描いたようだし、口もとの絵の具が流れてしまっているようにさえ見えます。
 しかし鑑賞距離まで下がってみると、カミーユがモネを見る表情は、はっきりわかるのです。しかも、それでいてひとつの表情には固定されていない。そういう印象≠ェ、明瞭に現れてきます。微笑んでいるようでもあれば、心配そうにも見えます。あるいは同じポーズをとらされて「しんどい」のか。カミーユは結婚する以前、十九歳のときからモネのモデルをしていたけれど。
 手をポケットにつっこんで立っているように見えるジャンは、やっぱりポーズをがまんしているのかもしれません。はにかんでいるようで、どこか微笑ましい。それもまた、カミーユの顔と同じ描きかたのおかげです。
 背景の雲の、やわらかな動きとともに、絵の中で時間がうごいています。
 カミーユのドレスや日傘、そしてジャンの帽子やネッカチーフも見ました。ちょっとおしゃれをして散歩に出かけた母子の、おだやかで幸福そうな時間がうかがえます。

 記憶がないから、お母さんに会っておきたい、といったウィルが、レイのクローゼットから写真を見つける場面があります。
 麻薬中毒のアバズレで、警察に目をつけられ続けている現在の母親が、赤ん坊のウィルを抱いたキュートなママに写っています。ウィルはその写真をじっと見る。
 父親のレイは、ほんものの『散歩 日傘をさす女』を、モネになりかわって描きたいと思ったのです。そうすることで、ウィルが幼かったころの、自分の家族の時間を感じたい。そういう、贋作づくりにはむしろじゃまな感情が、専門家さえもだまされる高度な贋作を作り込む作業に職人的に没頭しているはずの、レイのまなざしにあふれ出てきています。
 いっぽう、じつは『散歩 日傘をさす女』を描いた当時のモネは、経済的にひどく追いつめられていました。妻子は病気がちで、カミーユはこの後、外出時には坐っていることしかできなくなります。絵の四年後に彼女は病気で亡くなり、ジャンは成長しますが彼もまた、モネよりさきに亡くなってしまうのです。
 贋作用の画布を得るための、百年以上前のガラクタ絵をひと目見ただけで、研究者や学芸員も知らないような無名画家の名と来歴をいえるレイです。モネの絵の、そうしたいきさつを知らないはずはありません。彼が絵を見るまなざし≠ノは、たいへんな勇気と忍耐力がある。ただモネの気持ちになって絵を見るのではなく、絵の中に入り込むことで、自分自身の過去と未来を、いかにつらくとも同時に見なくてはならない。いや、むしろそういうことが起きる絵だからこそ、絵の中にある時間に、自分の持つ時計を合わせることができる。画家がその絵を描いた筆の運びに、自分の手の動きが合っていく、ということなのです。

 贋作者レイ・カッターを演じるジョン・トラヴォルタは、実の祖父が画家だったそうです。お父さんはセールスマンだったようですが、絵の心得もあったといい、六人のきょうだいにも──ジョンは末っ子──描く人がいるとのこと。本人はエドワード・ホッパーが好きで、水彩をしたことがあるといいます。まさに家系に絵があったのですね。
 いまの映画撮影なら、主演俳優にそういうバックグラウンドがあれば、たちまち撮影にかかるでしょう。しかしトラヴォルタは、偽作づくりを強いられた贋作者が、なにを感じて描くのか、心から知りたいといい、まず香港に行って油彩を学びます。まさか偽作屋にではないと思いますが。アメリカに戻っても習い、撮影中も指導を受け、ホテルの部屋でも練習したとのことです。
 よけいなことかもしれませんが、撮影の五年ほど前、トラヴォルタは十六歳の長男を亡くしています。映画での演技にすぎない贋作者の視線に、これほどうたれたのは、たんにトラヴォルタの練習の成果だけではないのかもしれません。

 かくして、父子三世代のミッション≠ヘ、みごとな連係プレーで遂行されますが、映画はハッピーエンドではありません。
 ウィルが遠からず亡くなることは、変えられないのですから。
 絵に対する敬意と憧れに支えられて三代で支えた家業≠ヘ、ウィルの死で終わるのです。そう決まっている。詐欺師の祖父、贋作者の父親、仕込屋の叔父ときて、ウィルが亡くなることで、彼らの家業≠焉A彼らが絵を見る目の透明さにつきまとっていた嘘も、終わります。
 そう、レイは息子にも、いくつか嘘をつこうとした。息子のために、ですが。
 たとえば、トレーラーハウスでクスリと飲酒にはまったきりの元妻を、ニューヨーク住まいの明朗で小ぎれいな女性に仕立て、ウィルとの再会ランチタイムを作ります。
 しかし、ウィルはたちまちその嘘を見抜くのです。母親と別れたあとでレイに「(ぼくの期待を無にしないように)嘘をついてくれてありがとう」と。
 このことに限らずウィルには、嘘やいいわけ、筋のとおらないごまかしは、通用しません。
 そんなウィルは、お祖父ちゃんと買いものついでに話していて、お祖父ちゃんと父さんは、ハグしたり、ことばをかけ合ったりしないのが不思議だ、それで気持ちが通じるの? と訊ねます。
 お祖父ちゃんのクリストファー・プラマーは、「わしは、お前のバアちゃんにだって、そんなことをしたことはないぞ」といいつつ、こう答えるのです。
 
 Because words don't mean a shit in this world, Will.
 It's what a person does feel that counts.

  それはな、ことばってのは、クソの役にも立たんからだ、ウィル。
  ほんとうに感じたことにこそ、意味があるんだぞ。

 映画の前のほうに出てくる、なにげないやりとりですが、わたしには、ここが伏線として効いたがために、絵を見るまなざし≠ノ、われながら困るほど感動したのかもしれない。
 さして感じるところがない絵なのに、価値がある絵だというから解説できなくちゃならない、というみえっぱりから「ことば」を作ろうとしたって、できるわけがありません。
 幸福か不幸かをとわず、わたしにとっての真実と、その記憶につながる絵を見い出して、絵の表面からそこへ入っていってはじめて、わたしの「ことば」が見つかるかもしれない、ということなのでしょう。
 そういう絵に出会うまで、いまさら数知れぬ絵を見続けること。
 もし出会ったとして、その絵に入り込める、汚れていない目を持っていること。
 いずれにせよ、まずは絵の前に椅子を置かなければなりません。

 いまさら、わたしにできるとは、とうてい思えないことばかりです。
 ここ何年かの間に絵画をさっぱり見なくなってしまったのは、こうしたことに気づいていたからなのだろうと、思っています。
 とはいえ、これまでムダに多くの絵を見たことは、惜しく感じます。ケチな凡人だから。
(ケ)

210708FG.JPG 
THE FORGER 2014
日本盤の公式トレイラーは→こちら


※1 美術評論家 一九二八〜一九八五 『絵とは何か』(一九七六)など。
※2 その程度の方法では高度な贋作など作れない、というつっこみは「あり」ですが、この映画での贋作は、「ミッション」を巧みにつなぐダミーでもあることは、映画を見るとわかります。

※  絵画のサンプル画像は、パブリック・ドメイン表記があるものにしてありますが、各所蔵館のコレクション画像とは色調が違います。興味がある場合は、見てください。

 りんごとオレンジ:オルセー美術館(パリ)
 日の出の春小麦の畑:クレラー・ミュラー美術館(エーデ、オランダ)
 散歩 日傘をさす女:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントンD.C.)

posted by 冬の夢 at 13:14 | Comment(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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