2021年06月09日

「小林正樹『怪談』 〜 映画における美術の役割」へのコメント

 べつの筆者の文へのコメントとして書きましたが、コメントには長すぎたので、ブログ記事としました。本編の「小林正樹『怪談』 〜 映画における美術の役割」も、ご一読ください。

       

 おくればせながら、ようやく見ました。
 初めて見まして、存在も知りませんでした。

 小林正樹の監督作は、監督名を意識せずに、いつしか本数を見ていました。『東京裁判』や『人間の條件』がそうですし、『切腹』や『上意討ち 拝領妻始末』、現代ドラマの『あなた買います』などもいい映画で、名画座やソフトで見ることができました。この映画も、よく再映されていたのでしょうか。知る機会がなかったです。
 多作でなく、社会派で硬派な映画を撮る人という印象があり、国内での知名度より国際的な評価のほうが高いような気もします。この『怪談』もカンヌ映画祭で審査員特別賞を得ていますね。
 なのに近年DVD化されるまで、オリジナル全長版が行方不明だったとか。内容とは関係ないですが、なんだか不穏さがつきまとっている感じもします。

 感想は、残念ながら、つまらない。
 見る人によるでしょうが、といういつもの無責任な留保ですが、黒澤明の『夢』を面白がれるなら、この映画も面白く感じるかもしれません。

 面白くなさを象徴するシーンは、第一話の流鏑馬(やぶさめ)の場面です。豪華なばかりで閉塞感が強く、まだるっこしいセット撮影が続くなか、この場面は屋外撮影で、注目しなおします。後悔の念で集中力を失った三國連太郎が馬から矢を射たらどうなるかという、緊張の場面でもあります。
 ところが、心ここにあらずという表情なのに、三國は力強く的を射落としてしまうのです。その結果に意味があるならワンカットでいいはずですが、どうも緊張感がないテンポで弓射がリピートされます。
 すばらしい舞台を作り、破綻なく話が流れるけれど、どこか的をはずしているのではないかという印象につきる映画、それがこの『怪談』なんです。
 観客に悲鳴をあげさせる恐怖映画ではなく、民話ふうの長閑さがあるところは、終話の「茶碗の中」でも語りの形で伝えられるように、小泉八雲の伝承者としての話法を再構築したからで、その仕立てそのものは好ましいのです。
 しかし、それならば素人のわたしが予算を心配してしまうような、こんなに豪華なプロデュースが必要だったかどうか。ひょっとして、海外での成功をぶちあげて国内興収につなげるねらいでもあって、こういう作りなのでしょうか。

 いいわけになりませんが、感染問題のため、京橋などで本や雑誌を調べられず、ほとんどすべて想像なので、説得力はありません。
 岸惠子って、エッセイが上手く、ベストセラーを出しているほどですが、芝居はどうも……と昔から思っているため、単行本になったらしい「私の履歴書」も読んでおらず、この映画の「不穏」さについても、くわしいことはわかりません。
 だったら「セット負けしている」といっておけばいいのかもしれませんが、もうすこし書いてみます。

 怖がらせるための映画なら、ここまでやらなくても、たった一人の語り部の怪談≠セって、存分に怖いわけです。アマチュアがハンディカムで撮ったような作りのほうが、むしろ異様な恐怖をさそうことは、現代の恐怖映画では表現技法として確立してもいます。
 民話の映画を作るという方向だったにしても、これほどの舞台装置や描き下ろしの日本画その他が必要だったのかどうか。さらに、それら豪華な道具立てに、有名俳優をずらりと、しかもスタティックに並べる必要があったでしょうか。さんざん経費を使った学芸会に見えてしかたがありません。それがいい過ぎなら、民俗博物館などでボタンを押して見る、あの解説ビデオの超豪華版のような感じです。そっちのほうがいい過ぎか。

 この映画は人気女優三人が、自由な映画作りを求めて立ち上げた「にんじんくらぶ」が実現した、当時はほぼ不可能だったといっていい「映画界オールスター作品」です。どのストーリーにも有名な上手い人ばかりが、だぶらずに出ています。間違っても学芸会ふうになるはずがありません。
 しかし、そう考えながら見ていくうちに、どうも俳優たちに身が入っていないような感じがしてきました。誰もが、自分がなにをすべきか、いまひとつ、つかめていなかったのではないか。「セット負け」した映画である、というのは、俳優たちが「セット負け」していたせいなのではないでしょうか。

「雪女」のエピソードに岸惠子と出ている仲代達矢が公表していたと思うのですが、撮影に行く費用は自分持ちだったし、多くの俳優がギャラなし同然で出ていたと。しかし、そうしてでも出演しようという熱意が、俳優たちにあったかどうかについては、どうも疑問が残ります。スターの人数を揃えすぎたため、かりに値切った額だったとしても出演料総額が嵩み、それも赤字の原因だったのではないかと思いますし、それよりも、この人数の俳優たちの緊張感を切らないような出演調整が、はたして出来ていたのでしょうか。

 ちなみにオムニバス四編のうち、もっとも出来がよくない、それも目立ってよくないのは「雪女」で、これは岸と仲代が、どっちつかずな凡演に終始しているからに相違ありません。セット負けがどうのという問題だけではないのです。いったいどのような芝居をつけたのか、それとも、まかせたのか……。
 だいたい、スタンドインか人形に違いありませんが、わざわざそうしてまで、岸がおっぱいを出す設定に意味があるのかどうか──と怒る理由なんて、ないといえばないですが、パイを出すならちゃんと出せ! といいたくなります。そういうところにも、かんじんの役者に気が入っていない感じが見てとれなくもありません。いや待てよ、岸はこの映画に出るためにわざわざパリから来ていたんだっけ……。

 歳をとるとヒマだらけで、映画などいくらでも見られそうですが、最近は映画を見ることに使う時間が、ひどく惜しく感じられるようになりました。
 といっても3時間以上の長尺である『怪談』は、長いから見たくないという気持ちにはなりませんでした。はじめに書いた『人間の條件』は、全3作で9時間半を超えますし、『東京裁判』は、それ1本で4時間以上、そういう映画の監督ですから。それでいうと『切腹』も『上意討ち 拝領妻始末』も2時間を超えている。この監督は、なにごとも映しつくそうとする人で、カットの間を観客につながせるような切れかたを嫌うのだと思います。だから必然的に長くなる。
 それはいいのですが、映画というものは、作っている集団の呼吸が合わなければ、いい結果にならないことは素人でもわかります。小林正樹は収集保存にこだわる人で、あらゆる材料や資料をとっておいたとか。おかげで近年たしか世田谷文学館で回顧展が開けて、未公開手記公開というおまけもつけて、再認識をうながせた(といっても上映は『東京裁判』のみだったかと)。しかし戸田重昌は、まったく正反対に、資料を徹底的にといっていいほど処分し、仕事の痕跡をまったく残さなかった人だったそうです。
 そうと知ると、物語と背景のシンクロポイントは、はたしてどこに、どのような形で存在していたのかと考えこんでしまいます。怪談奇談の形をした恐怖というものは、わたしたちの心の中に眠っているものであって、いくら精緻に図示したとて、いやそうではなく、それよりもっと……というような存在なのではないでしょうか。そして、破綻のない物語よりむしろ日常の裂け目から、突如はっきりと目の前に立ち上がってくるような。

 さて、制作者の本意かどうかはべつとして、この映画で、いやおうなく記憶に残ってしまうのは、登場のたびに「うわっ出たっ」と叫んでしまう、ロボコップ哲郎(丹波)≠ナはありませんか。怖いどころか、おかしいったらない!
 そもそも、幹部級の大スターというほどではないのに遅刻が常で、台詞をぜんぜん入れてこないことで有名だった丹波哲郎。そういう人だったからこそ、丹波ひとりが、この映画を持っていってるような気がしますが。
 丹波が「例の話」を本気で公言し出したのは、一九七〇年代以降といわれていた気がしますけれども、ひょっとして、こんなセットの映画で、こんな役をやったことが、後年、丹波にあんな映画を作らせた(しかも、この映画とはちがってヒットし、シリーズになりましたよね!)のではないか。
 そんな、本筋と関係ない想像をしてニヤケてしまった映画でした。(ケ)

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Originally Uploaded on Jun. 11, 2021 23:30:00
posted by 冬の夢 at 00:05 | Comment(0) | 映画 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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