2021年06月10日

「小津安二郎『小早川家の秋』は豆腐ではなく……」へのコメント

 べつの筆者の文へのコメントとして書きましたが、コメントには長すぎるので、ブログ記事としました。この文の三つ前にアップされている「小津安二郎『小早川家の秋』は豆腐ではなくガンモドキか」も、ご一読ください。

       

 ひさしぶりに再見しました。三度めだろうかと思います。
 松竹作品は、かつて名画座でも見ましたが、この東宝作品を映画館で見たことがあるかどうかは、記憶がはっきりしません。
 この映画のことを書いたべつの筆者が、ブログの他の文で書いてもいますが、小津や黒澤のデジタルリマスター版を見なおすと、自分が持っていた感想を書き換えねばならないほどの発見がよくあり、驚かされます。
 松竹は小津作品のハイクオリティ化を格段に進めましたし、大映の『浮草』もデジタルリマスターされているようです。しかし、東宝唯一のこの作が、それらに劣らない品質にデジタル化されているかどうかは、よく調べないまま見てしまいました。

 それはともかく、この映画は、べつの筆者の文にもあるとおり、小津の戦後作品のなかでは評価が低く、わたしもこれまで違和感をもっていた一作です。
 けれども今回の再見で、ひょっとして「傑作」ではないかと感じました。というのは、これが小津のほんとうの最終作で、小津の映画作りの集大成なのではと思ったからです。
 小津はこの作の翌年、松竹でいつもの小津調≠フ『秋刀魚の味』を制作公開し、それを最後に、さらにその翌年春から体調を悪くして亡くなります。ですが、『秋刀魚の味』の一作前の『小早川家の秋』こそが、決定版であり集大成なのだと、今回、勝手に思ってしまいました。
 まとまらない文になりますが、理由を並べてみようと思います。

 まず、原節子の小津監督作への出演最終作であること。
 前年の『秋日和』で司葉子と演じた母子の設定は、『小早川家…』でも司と、亡くなった兄の嫁と義理の妹となり、同じように双方に縁談があって似た結論に至る構成です。
 ただし『小早川家…』では、司には、経営が傾いた実家の蔵元の将来のための結婚が期待されています。見合いの相手に嫁ぐか、彼女にそれとなく告白し北海道へ赴任していった大学教員(宝田明)を選ぶか、迷います。そんな義妹の将来への思いを、小早川家では家業は継がずに亡くなった長男の未亡人、という「外様」の原が、親族の誰より理解している、という仕立てになっています。

 その原節子の義妹=司葉子への寄り添いかた、語りかけが、ほんとうにいい。
 この映画までに撮られた、さまざまな美しいカットへのセルフオマージュ、それは原節子を讃える映像にほかならないと思いますが、そういう構図の映像が散りばめられた映画で、司葉子に原が、自分らしい選択をすることがいちばんいいと、ことの始めから思っていた、というように、微笑みながらさらりというカットがあります。その表現力で伝わるものにも心を打たれますが、これは『東京物語』で原が「わたし、ずるいんです」といった涙の告白のシーンを朗らかに救ってもいる、感動的な瞬間です。

 意識して見すぎでしょうが、あきらかに小津調≠ナない原節子の「地」が、画面をわずかに彩る見のがせないカットも数回あります。
 未亡人の原が、自分を「おばあさん」といったら司に百円払う、という約束をめぐるやりとりで、ふっとそこに原の「素」が映るのですが、小津安二郎の最後の作品≠ノそれがあることに気づくのは、わくわくする鑑賞の喜びです。司葉子は後々まで、隠棲した原とよく長電話する間柄になったそうですが、そりゃそうだろうねという微笑ましい場面でもあります。

 この映画は小津調≠ェ完璧に得られなかったせいで、あまり高い評価が得られなかったらしく、原因は、べつの筆者が指摘しているとおり、ほかの映画会社での撮影で、慣れた制作班とでなく、他社専属のオールスター出演作で、撮りにくかったに違いないことがあります。
 かねてから解説されてきたことですし、その通りでしょう。わたしも、見るたびにその情報を思い出し、松竹の戦後作品に特徴的な小津調≠ニの違いばかりを意識して見ました。
 しかし、おかげでこの映画の小津調≠ヘ、形式化や様式美に固まりすぎず、リジッドな要素の構築がときに綻(ほころ)びさえ見せます。そして人生はつづく≠アとの意味を、ほのぼのとしたユーモアと、話途中で放り出されるかのような不安の間に、深く考えさせてくれていると感じました。

 そもそも、いつからでしょうか。小津の映画に作法≠ホかり見つけようとし、鑑賞する作法≠ワで重んじられるようになったのは。
 わたしが初めて見たのは、四〇年以上前の名画座で、です。オールナイトで三本か四本立てという上映もよくあり、始発電車まで眠るために、平板な退屈さを求めて入館しているらしいお客さんも目立ちました。続けて上映すると、オープニングシーンが前の作とほとんど変わらないということで、館内に苦笑がもれたりしたのが忘れられません。

 小津監督作品の鑑賞に、作法などない、というように書いておきながら、ややマニアックな鑑賞作法≠ノ話を戻しますが、『小早川家…』は、それほど小津調≠逸脱してはいません。
 東宝の藤本真澄は大の小津ファンでしたし、現場は敬意をもって小津の作画意図に応じていることが、画面から見てとれます。
 小津の側からいえば、そもそもこの映画は、『秋日和』での東宝への借りを返すための一作なのです。司葉子はもちろん、原節子だって東宝ですから。このふたりをはじめ、たしかに形式上は東宝オールスター映画です。が、おなじみの笠智衆や望月優子が松竹から出ているし、杉村春子も出ていますね。その杉村と『浮草』で共演した中村鴈治郎も、あの映画のままの味を出しているわけで、鴈治郎は大映でしょう。
 ひょっとすると小津は、映画黄金時代が過ぎつつある当時、正直なところ各社にとってはけっこう重荷になりつつあった、五社協定という縛りを解きたいと思っていたのではないでしょうか。
 さらに、小津調≠ニいうと秘伝の武芸帖みたいですが、じつは仕事のできる職人集団なら扱える表現手段であって、その代わり、映画にしかできない表現技術として、伝承してほしいという思いさえあったのではないか──。

 まあ、そこまでは想像しすぎとして、この映画の撮影で小津が、しつこくリテイクするより、むしろ冷たく流したといわれる俳優の芝居を意識して見ることで、小津の映画作りに、どんな俳優(演技)が「適さない(不要である)」かがわかり、逆に、なにを小津が求めていたかが、よくわかりました。
 小津作品で特徴ある台詞に、フレーズの最後を、念押しするかのように、棒読みに近く繰り返す、というものがあります。
 その言葉を、俳優が自分自身に向けて発したり、自分の表現力で鑑賞者を説得でもするかのように発しては、だめなのです。繰り返すとき、台詞がスクリーンを見ている側にポロリと落ちるように、出さなければなりません。鑑賞者が、いそいで手を出して受け止め、できればそれを持ち帰れるように、言わねばならないのです。

 この点で、まったく適していないのは森繁久弥で、この人は小津に敵愾心を持ち、得意のアドリブ芝居でうっちゃってやろうと思っていたらしいですが、いかにも客受けしそうなボソつきを、いちいち付加するかのような演技は、小津調≠フ造作で組み立ったこの映画では、なにも伝わるものがありません。公開当時は森繁節としてウケていたのかもしれませんが、瞬間芸のようにも、ひどく古くさくも見えます。
 いっぽう、小津調≠ノきっちり台詞をはめてきているのは新珠美千代で、わたしは当時の新珠を、やや低く見ていたのですが、まったく見直さなければならなくなりました。雰囲気を壊さずにキツめにふったり、控えめにしたりする台詞の上手さもさることながら、動きのシャープさが、すばらしくいいのです。まるで小津調≠ナない、いわば繁昌記っぽいスピード感で動いたりするのに、小津調≠ナ組まれたセットをこの人が動くと、やや入り組んだ蔵元家屋の構造や人間関係が、その導線だけで連鎖するのです。小津調≠轤オく、シーンがいきなりカットで変わっても、なにも迷わずついていけます。
 ついでですが、小津調≠ヘかならずしも古ぼけたサロン芸術ではなく、同時代の空気を吹き込み撹拌する役がつねに配されています。松竹作では岡田茉莉子が起用されたりしますが、岡田ほどの輝きはもちろんないにしても、東宝の団令子も、当時流行の落下傘スタイルでこの映画をみごとにぐるぐるとかき回しています。

 小津安二郎の映画は、映っていないものに意味があります。
 映らなかった出来事に、あるいは、不在のスティルショットに。
 見終わってからしばらくして、場合によってはかなり後に、あれって、こういう意味だったんじゃないか、と思い、けっこうブルッときたりする映画なんです。
 といっても、小津調≠ェずらりと並ぶ戦後の作では、話の内容は、さしたるサスペンスとてない日常的なものがほとんどなので、そんなことは気にしなくても見られますし、読みとらなきゃダメだと鑑賞作法≠意識しすぎると、店の前の桶が何個あって、逆さになっていて、というような過剰なディテール研究に陥ってもしまいます。
 
 で、とても興味深いことに、この『小早川家の秋』では、「映さなかったもの」が、わかりやすく示されています。あたかも小津映画鑑賞作法のテキストブックのように。
 ここで、あれこれ拾ってくるのはやめますが、べつの筆者が指摘しているように、「大旦那」の鴈治郎の急死は、シーンとしてはまったく「映されない」わけですが、その予告は前段に満ちていて、スチルショットも、きわめてわかりやすく挿入されています。吉田喜重がこの映画を評して「媚びている」といい、小津が監督たちの会合で吉田とさし向かいになって酒をさしつさされつ……という有名なエピソードは、ひょっとすると、たんに世代対立ということではなくて、この映画で起きかねなかった小津調≠フクリシェ化、あるいは凡庸な記号化をめぐる問題だったのかもしれません。

 わたしが、大旦那=鴈治郎の急死で感じたことは、こうです。
 亡くなる場面は、まったくありません。
 小林桂樹と司葉子が駆けつけてみると(この組み合わせも、どこかちぐはぐなのですが)、二〇年ぶりに偶然出会って、また通うようになった妾宅で、鴈治郎は死んじゃってます。
 それまで、厳格な経営者ではなく、ご乱行型の先代であり、ちょっと剽軽でユーモラスなお祖父ちゃんとして描かれた鴈治郎は、遺体になっているわけです。
 そして、その場面までに予告されていたにもかかわらず、死とは、まったく不慮のものであり、人生最大の苦痛であり、とりわけの不幸であることが、死の場面をスクリーンに映し出さず、その昔、大旦那に「女にしていただいた」という浪花千栄子から、死とはそして人生はつづかない≠アとの証明であると知らされるのです。やはり「繰り返しの台詞」を「お言いやしてな」と。

 えらいお苦しみでなあ
 ああもうこれでしまいか、もうしまいか、って
 二度ほどお言いやしてな


 この映画は、京都の蔵元を舞台にして、大阪や神戸のようすをにおわせもしつつ、撮られているわけですが、わたしは小津の映画ではめずらしく、そういう土地の設定に深い実感をもって見ました。
 小津の映画は、あの『東京物語』でさえ、東京だの熱海だの尾道だのを、はっきりと示したり、様子を描写したりはしないわけですが、わたしはいつも小津の映画に、東京や湘南をイメージせずにはいられなかったし、同時にそれは、東京生まれでなく、東京ナニナニ、という表現になんら感じるところのない自分には、意味も実感もないことだったのです。まして、脱法ハウスまがいの貧乏下宿住まいだった身で、オールナイトで見る、東京の中流やや上くらいの家庭ドラマは、それだけでもう、遠いものでした。
 それが『小早川家…』での京都伏見、嵐山や、大阪のバー、とりわけ宝田明が司葉子にそれとなく告る駅が、広告看板からわかるように十三であることなどが、数年前までしばらく阪神地域に住んでいたいたせいでもないでしょうが、まるでUFOキャッチャーで吊り上げられて映画のなかに落とされたかのように、親密に感じられました。

 まとまらないまま、書き並べてきましたが、『小早川家の秋』を、小津の映画作法の完成形とみるのが正しいかどうかは、よくわかりません。
 映画の舞台が小津の戦後作ではめずらしく関西である、ということだけでなく、もっと違う理由で、親密な目で見たような気もします。
 平凡な理由ですけれども、長く再見していない間に、この映画を撮った小津より歳上になり、ラストシーンで、川の向こうへ見送られていく鴈治郎の年齢に近づいているせいなのかも、しれないです。(ケ)

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 小津の映画作法を「完璧」と称するのはおかしいのでしょう。当人が、明らかな矛盾をつかれても、そんなところは気づかれるはずがない、といっていたそうですから。
 ですが、まあ「ねた」として「気づいた」点を、いくつかあげておきます。わたしが間違っているかもしれません。

*セミの音が「くまぜみ」っぽい(すこし違うような気もするけど)のが、ちゃんと関西になっていていいです。途中の場面で「つくつくぼうし」になり、ああ場面が秋になったんだと思います。ところがその後でまた「くまぜみ」に戻る。意味があるんでしょうか(…)。

*葬式の段取りが、ちょっと変な感じが。斜陽だし引退もしているとはいえ、歴史ある店の大旦那で、店員たちも葬儀の手順をやかましく打ち合わせているんですが、弔問客がないまま野辺送りと火葬がすんじゃいます。夏だからということはあるかもしれませんが、京都って火葬がさきなんでしょうか。

*桶が出してあるから、醸造家だと思うんですが、自分のところの酒を使わないですし、前掛けも既製品のような……卸販売ってことなんでしょうかね、掛け取りといっているし。

*ラストシーンで、原と司の対話をはさんで前後のカット、川が流れているのと、涸れているのと、食い違っています。

*黛敏郎の音楽、全体では、さほど特異ではなく、鴈治郎が妾宅へ行くときのBGMなんて「トムとジェリー」ふうで、いいのですが、ラストシーンの、いかにも葬送曲ふうの音楽は、かなり違和感がありました。これも他社撮り≠フせい(音楽担当を指名できなかった)かと思っていたら、黛を起用したのは小津自身だそうです。三作前の「お早よう」で、小津から黛の起用を告げられた斎藤高順は、ひどくショックを受けますが、最後の『秋刀魚の味』では、ふたたび斎藤が指名されています。


※写真は海外版(Criterion)DVD
posted by 冬の夢 at 01:33 | Comment(0) | 映画 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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