2021年04月21日

成瀬巳喜男『浮雲』〜 高峰秀子の声と永遠の春の都ダラット

 成瀬巳喜男が監督した昭和三十年公開の東宝映画『浮雲』。以前TVの衛星放送で見ただけだったし、4Kリマスター版で上映されるというので、大雨が降る中を神保町シアターまで足を運ぶことにした。
 『浮雲』といえば、日本映画のオールタイムベストの投票をやると必ず上位に顔を出す常連であるのに、黒澤明の『七人の侍』や小津安二郎の『東京物語』ほどにはその存在が世間一般に知られていない。なぜだろう。時代劇でもなく家族ものでもなく、男女の恋愛──しかもとびっきりにドロドロとしてワナワナするような泥縄式不倫ものだからか。あるいは戦争で日本軍が進駐した仏印(フランス領インドシナ)での出会いを良き思い出として、戦後の貧窮した暮らしに零落していく主人公たちが、振り返りたくない日本の過去を甦らすためか。いやいや、そうだとしても。『浮雲』には何回見ても、またいつか見直してみようと思わせる引力がある。その力は男女の関係の襞に向けて極めて蠱惑的で、粘度の高い水の中にぬるりと呑み込まれるように誘惑的だ。しかしそれは暗く落ち込みはせず、人肌の温もりにも似てしっとりと沈着する。
 数年前に東京国際映画祭で再上映された際に併催されたスペシャルトークで、評論家の川本三郎(※1)が「ただひと言、暗い映画だ」と評していたが、意外なことに『浮雲』にあるのは鬱々とした暗晦ではなく、こせつかない寛容な長閑さなのだ。不倫なのに不徳には感じられない。執着しているのに執拗ではない。物語は憫然としていて結末は悲劇的だが、鑑賞後の後味には深みがあって口残りが良い。だから、たぶんいつかまた、見たくなってしまう予感がする。そんな不思議な映画だ。

 戦後内地に引き揚げてきたゆき子は、かつて仏印で愛し合った富岡を訪ねる。そこには富岡が別れると言っていた病身の妻がいて、ゆき子は米兵相手に身を投げ出す。木材で一儲けしようと富岡は妻を親戚に預けて事業を始めるがうまく行かない。ゆき子を誘って二人で出かけた温泉街で、富岡は腕時計を買ってくれた飲み屋の主人の若妻を奪ってしまう。富岡の子を妊娠したゆき子に対して富岡はただ産んでくれと言うだけで、結婚しようとはしない。独りで堕胎したゆき子は富岡と同棲していた若妻が主人に刺殺されたのを知る。遠戚の宗教家に身を寄せたゆき子のもとに、富岡は金の無心に現れる。死んだ妻の葬式を借りに来たのだ。事業を諦めた富岡は屋久島へ営林の職を得て出立する。ゆき子は宗教家から大金を盗んで富岡に同行するが、鹿児島で病気を患う。船を乗り継ぎ屋久島に着く二人。しかし富岡が山に入っている間にゆき子は息絶えるのだった。

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 『浮雲』の魅力は何と言っても主役のふたりにある。高峰秀子と森雅之。ただでさえうまいふたりが『浮雲』では抜群に巧い。その巧さは自然な演技とかではなく、芝居上の人物を創り上げる巧みさである。原作を読んでいないので水木洋子の脚本についてあれこれ言う立場にはないが、ゆき子と富岡の台詞はどこをとっても決め台詞になるような名言集になっている。ゆき子が「男ってずるいわ」と言えば、富岡が「女は強いね」と返す具合だ。そのうえゆき子は富岡からどんな酷い扱いを受けても、ヒステリックに泣き叫ぶことなく、ゆるく手ぬるく富岡について行く。富岡はと言えば、投げやりなようでいて気がつけばゆきずりの美人とちゃっかり懇ろになっている。かようにゆき子と富岡はリアリティのあるキャラクターではない。そんな芝居にしか出てこないような男女を、高峰秀子と森雅之が演じると誰が何と言おうとそこに確かにいるじゃないかという存在にしてしまう。特に森雅之などは同じ日に見た溝口健二の『楊貴妃』で、音楽を愛する玄宗皇帝を高貴に演じているだけに、その変容ぶりはただ感服するしかない。

 成瀬巳喜男の映画については別の筆者が俳優の使い方に言及している通りだが、『浮雲』においてはゆき子と富岡の造形を主役ふたりに任せ切っているように見える。もちろん全面的に信頼したうえで自由に演技をさせているのだろう。しかしそこに成瀬巳喜男ならではの演出マジックが施されているのも見逃すことは出来ない。
 そのひとつがショットの構成。成瀬は溝口のような長回しは使わないし、小津みたいに切り返すこともない。演出の存在感を消しながら、成瀬は高峰と森の演技をつるりと観客の目の中に滑り込ませる。その滑らかさにあえて手を入れて掬い上げると、ふたりの演技が映像の切り取り方で巧みにアシストされているのが見えてくる。
 例えば台詞を言い終わった後の間。ゆき子が富岡を見つめるだけのほんの数秒のショットが挿入され、ゆき子の思い入れが観客に残り香として伝わってくる。あるいは画面における人物の配置。ゆき子と遠戚の伊庭が再会する場面では、ふたりはテーブルの二辺に座ってラーメンを啜る。見つめ合うでもなく、隣同士になるでもない斜め横という位置が、ふたりの共犯者的な関係を知らせる。かたや伊香保温泉での飲み屋の座敷。手前にいるゆき子の背中に富岡の顔は隠れている。が、ゆき子の身体が睡魔ゆえに傾くと、富岡が向かいの若妻をじっと凝視する姿が見えてくる。
 また、ショットのサイズの使い分けも的確だ。ゆき子と富岡の互いの気持ちが寄り添っているときにはフルショットでふたりを正面から。ゆき子が自らの気持ちを訴えかけるときには顔のクローズアップで。ついでに言えば、全身を映したときに見えるスラリとした高峰秀子の足。日本映画を代表する女優の全盛期の姿が美しく記録されたことも成瀬の功績だろう。

 そしてもうひとつは録音だ。今回映画館で見て一番驚かされたのが、高峰秀子の声の劃然たるシャープさ。その声が場面ごとのゆき子の感情に合わせて微妙に変化する。前述の通り、ゆき子にはヒステリックさがないので、泣き叫ぶなどの大仰は表現は一切ない。だから声はほんの少しの高音だったり、ややくぐもった低音だったりに使い分けられている。若妻に手を出した富岡をなじるときの、喉をこすらすような低い呟き。あるいは屋久島に連れて行ってと頼むときの、上顎と鼻が濡れる感じの甘え声。元々はすべて高峰秀子の表現力なのだが、それを増福しながら音として響かせ観客に意識させる。
 『浮雲』の録音を担当したのは下永尚。下永は同志の三縄一郎とともにゴジラの鳴き声を創造した録音技師だ。弦を緩めたコントラバスを弾き、録音テープの再生速度をズラしながら重低音をゴジラの雄叫びに変えた(※2)、そのエンジニアの仕事が『浮雲』の現場でどのようであったかは、実はよくわからない。そもそも映画製作の中で録音という技術分野の資料があまり残されていないからで、昭和二十年代を大映京都撮影所で過ごした橋本文雄の談話(※3)から推し量るに、スタジオでの撮影時には録音は「シンクロ」、ロケーションのときは「アフレコ」だったようだ。シンクロは実際の台詞をマイクから拾ってスタジオ内のレコーディングルームで録音する方法なのに対し、アフレコ=アフターレコーディングは撮影後にスタジオで俳優が映像に合わて台詞をしゃべるのを採録する。少し脱線するならば、笠智衆は大部屋役者出身で熊本訛りが抜けなかったが、アフレコだけは抜群に上手く、小津安二郎から褒められたのだと言う。笠が所属した松竹では、昭和六年開設の大船撮影所にアフレコ専用の新しい録音棟が建設された。「男はつらいよシリーズ」でシンクロが採用されたのは第二十五作以降だそうだから、松竹は頑なにアフレコ方式に拘っていたらしい。録音技法は日本映画界で統一されていたのではなく、映画会社によってまちまちだったのだろう。
 ロケーション撮影時にシンクロが可能になったのは、スイスのクデルスキー社による録音機「ナグラ(Nagra)」が導入された以降のこと。キャメラとの同期を特徴として世界中の映画会社や放送局で愛用されたコンパクトな録音機「Nagralll」は1959年に世に出されている(※4)。橋本の大映京都時代の記憶に従うならば、昭和二十年代においてはレコーディングルームが敷設されたスタジオでの撮影時のみシンクロ録音が実現されたと推測できるかもしれない。
 では『浮雲』を作った頃の東宝においては、どのような録音方法がとられていたのか。東宝は戦後すぐにあまりに有名な東宝争議があって、映画製作のためのハードに投資する余裕などなかったに違いない。しかし東宝の前身であるPCLは、自社開発した「PCL式トーキー」システムによって現場録音の請負をしていた音響専門会社だった。そんな出自を持つ東宝にシンクロ録音可能なスタジオがなかったとは考えにくい。かたや大映は昭和二十二年に社長に就任した永田雅一が独断で最新鋭の設備・機材を揃えさせたという逸話も残っており、新進の大映が録音機材では先んじていた可能性も否定出来ない。
 そんなわけで、ずいぶんと寄り道してかえって話をややこしくしてしまったけれども、『浮雲』の高峰秀子の声は演技と一体化していて、完全合致した映像と音響にはほんの少しのズレも感じられない。台詞のある場面はほとんどスタジオで撮影されているようだから、シンクロ録音も可能だっただろう。シンクロ録音ならば、高峰の声を微細に記録した録音技師たちの技量が優れていたことになるし、アフレコだったのなら高峰秀子の演技の再現性を褒め称えるのみだ。いずれにしても高峰秀子の声の艶やかさがダイレクトに伝わってきて、それがゆき子の造形に大きく寄与していることは間違いない。『浮雲』の音響も、成瀬巳喜男の演出マジックのひとつだったと言えよう。加えて、高峰秀子は戦後すぐの時代設定を受けて、森雅之と申し合わせて痩せるための食事制限をしたという(※5)。それは撮影時三十歳だった高峰の美貌を磨き上げただけでなく、声の輪郭までもくっきりと際立たせたのではなかったろうか。

 『浮雲』は暗い話ではあるものの、俳優の演技も監督の演出もスタッフの技術も、すべてにおいて隅々まで巧みが行き届いている。だから映画として見た場合の舌触りが良いのだし、甘いでも苦いでもない旨味が押し寄せてくる作品なのだ。そしてその旨味の象徴が、ゆき子と富岡が出会ったダラットという仏印の都市なのであった。
 ダラット(※6)は高原に位置し、夏でも最高気温が三十度になることがない避暑地だ。日本軍による仏印への進駐は太平洋戦争を引き起こす引き金のひとつにはなったものの、日本はフランス領インドシナ政府を温存しながら軍隊を駐留させる戦略をとった。だから仏印の駐在員は植民地の支配者ではなく、形の上では経済及び軍事上のパートナーだった。とは言えサイゴンであれば日本軍が幅を利かせていたことは間違いない。しかしダラットであれば、休暇に訪れる日本人はいたにしても、軍政的な影響下に入らずにその地域を緩やかに統治すれば良い役割であったろう。まして富岡は農林省の営林技師だし、ゆき子は雇われタイピストの立場である。ゆえにダラットは、夥しい戦死者を出し続けた東南アジアの激戦地からは想像も出来ない、進駐先の楽園なのだった。
 宗主国であったフランス人によってリゾート地として開発され「永遠の春の都」と謳われたダラットは、敗戦して日本に引き揚げたゆき子と富岡にとって共通の思い出となった。別れたりよりを戻したりを繰り返すふたりを映すツーショットには、必ず南方を想起させる音楽が被さる。そのフルートの音色とドラムのリズムは、ダラットを支配していた権力者の甘美な郷愁を表している。そんな時期を共有したふたりが再び南への逃避行を選択し、大雨でずぶ濡れになりながら辿り着く先の屋久島では、もうダラットのテーマが流れることはない。妙に優しい富岡と、病身で弱りきったゆき子。ダラットへの旧懐を失ったとき、ゆき子は死に、そのゆき子に死化粧を施す富岡は慟哭するしかないのだった。

 『浮雲』は、「永遠の春の都」から最果ての地へと流れ着く恋人たちの物語である。そして悲惨な戦時下において、別次元では人生の楽園を体験した日本人がいたことも事実としてあり、そのノスタルジアだけをよすがにする人にとっては戦後の暮らしこそが転落していく惨めな日々でもあった。そのような観点で日本人の戦争体験を切り取った『浮雲』は、やはり他の日本映画とは一線を画する、成瀬巳喜男にとっての畢生の傑作だったと言えるだろう。(き)

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(※1)川本三郎は、キネ旬でオールタイムベストの投票に参加するたびに、外国映画部門ではイエジー・カワレロヴィッチ監督の『夜行列車』に一票を投じていて、それゆえ贔屓にしたくなる評論家だ。

(※2)「ゴジラを生んだ音響と音楽/伊福部昭・三縄一郎・下永尚」(2020年10月6日 note/Ching-Oさん)より。また、三縄一郎氏は「音で怪獣を描いた男〜ゴジラVS伊福部昭〜」(2014年7月6日 NHK BSプレミアム)という番組の中で、自らその音づくりを語っている。

(※3)NIKKATSU スタッフインタビューHPより。

(※4)「JAS Journal 2007 Vol.47」の阿部美春「テープ録音機物語」より。

(※5)高峰秀子の自伝「わたしの渡世日記」より。歌手東海林太郎の養女にさせられたり、若き市川崑に部屋を間借りさせたり、「広辞苑」の新村出がデコちゃんグッズのコレクターだったり、谷崎潤一郎に美食をご馳走になったりと、その波乱に満ちた半生記は戦後芸能文化史としても貴重な記録だ。

(※6)ベトナムのラムビエン高原に位置するダラット市は、現在においても若者に人気のリゾート地。日本風の街並みを再現した「リトル・ジャパン」なる施設が点在していて、中でも「のび町」はドラえもんの世界を体験できることで人気を集めているという。(ベトナム・ニュースライナー 2020年5月28日の記事より)

posted by 冬の夢 at 11:41 | Comment(1) | 映画 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 コメント欄に投稿していましたが、コメントとしては長すぎたので、修正後、ブログ本文として再掲載しました。こちらにあります↓ 
winterdream.seesaa.net/article/481982801.html
Posted by (ケ) at 2021年06月13日 23:20
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