2021年02月22日

国立劇場二月文楽公演『吉田屋』『寺子屋』

 文楽を見に国立劇場小劇場へ。久しぶりというわけではなく、実はコロナ禍で劇場公演が再開されてから、歌舞伎座や国立劇場には何度も足を運んでいる。

幸四郎の『源氏店』(八月歌舞伎座)
勘九郎と巳之助の『棒しばり』(同上)
文楽『鑓権三重帷子』(九月国立劇場)
『寿曾我対面』と『かさね』(九月歌舞伎座)
梅玉の『源太勘当』(十月国立劇場)
白鸚の『一條大蔵卿』(十一月歌舞伎座)
文楽『桂川連理柵』(十二月国立劇場)
『車引』、芝翫の『らくだ』(一月歌舞伎座)

 首都圏においては新型コロナウィルスの感染が収まらないというのによくこんなに外出できるもんだなとお叱りを受けそうだが、なにしろ「男はつらいよシリーズ」を見続ける苦行中で、芝居に行かないではいられなかった。と言っても、鑑賞記を残そうという気にさせられる出し物にはほとんど巡り会えず、唯一『源太勘当』にくっついていた『幸希芝居遊』(さちねがうしばいごっこ)という新作が幸四郎らしい遊び心と舞台愛に溢れていて、見ていて温かな気持ちになる良きお芝居だった。
 毎月見物していたのにどれもがあまり印象に残らなかったのは、やはりコロナ禍での興行形式にも要因があると思う。「こんな状況下で必死になって幕を開けている役者や舞台関係者に対して失礼だろ!」と再びお叱りを受けそうだが、大向こうの掛け声がない歌舞伎は、気の抜けたビールというか茹で過ぎたパスタというか花椒のきいてない麻婆豆腐というか、決定的に何かが足らない感じがしてならない。おまけに歌舞伎座では定時的な館内の換気と消毒を行うため八月の公演再開時には一演目ずつの四部制をとったから、必然的に入場料はひとつの演目への対価として意識される。三階席で三千円なら普段よりずいぶん安いのだけど、上演時間が一時間にも満たない芝居にその価値があるのかと値踏みする気分にもなってしまった。
 たぶん松竹も国立劇場も、入場者数を制限しての公演は利益を出すどころか赤字覚悟の興行なのだろう。小屋を開けてくれるのは本当にありがたいことで最敬礼の気持ちではあるものの、やっぱり本来あるべき形で半日ゆっくりと劇場空間を愉しみたいと思ってしまう。

 さて、今月の文楽公演は、緊急事態宣言が発出されて開演時間が変更された以外は、コロナ以前と同じ三部制での公演。第二部の『吉田屋』と『寺子屋』は、久しぶりに見所が多く舞台に集中することが出来た。
 『吉田屋』はダメ男伊左衛門と傾城夕霧がなんだかんだあって最後はくっつくというお話。開幕は賑やかな正月の準備風景。吉田屋がある九軒新町遊廓で餅付きが始まっている。杵を打つ小僧と臼をこねる女中の息が合わずに女中が指を挟まれる小芝居あって、そこへ太神楽の太夫が登場。獅子舞を舞った後で傘回しの大道芸を披露する。この二体の人形の衣裳に注目。着物にもんぺ袴を身につけているのだが、長着の柄がなんともカラフル。上からイエロー、ライトグリーン、オレンジ、ボルドーの横縞。日本の伝統色で言えば、菜の花色、翡翠色、人参色、葡萄色が並んでいて、目にも鮮やかな目出たさだ。傘に紐つきの毱を仕掛ける動作も加わっての三人遣いで舞台は大混雑するも、色彩豊かな衣裳ですっきり見える。ちなみに袴は山吹色の地に赤と黒の細い格子縞。江戸時代の人びとの色彩感覚は、現代のデザイナーにも負けないインパクトを持っている。

吉田屋.jpg

 この軒先の場面の後で伊左衛門と夕霧が出てきて、主役二人の衣裳も艶やかで良いのだが、奥の間を伊左衛門が夕霧を探し回る空間表現が素晴らしい。遠近法で組まれた襖が次々に開き奥の座敷が現れる。まるでヒッチコックの『白い恐怖』(※)で扉が奥へ奥へと開かれる映像のようだ。なかなか姿を現さない夕霧に伊左衛門が拗ねてしまい、部屋のあちこちへコタツを持って移動するなど、『吉田屋』は舞台美術の視点から見ても新しい表現方法に溢れている。そんな「見て愉しい」舞台を掛け合いで語るのが、咲太夫・織太夫・藤太夫の三人。ちょうどこの三人の横顔の奥に伊左衛門と夕霧の人形が見える角度の座席だったので、この組み合わせはまさに眼福。久々のご馳走をいただいた気分だった。

 もうひとつの『寺子屋』は、『菅原伝授手習鑑』の中で最も頻繁に上演される定番の出し物。歌舞伎でも何度か見ているが、菅秀才の身代わりに差し出した我が子の最期の様子を聞き、泣き笑いする松王丸が大きな見せ場だ。床本には「アノ笑ひましたか ハヽヽヽヽヽ、アヽヽハヽヽヽヽ」としか書かれていないところを藤太夫が情感たっぷりに泣いて泣いて、そして笑ってみせる。豊竹藤太夫(とよたけとうだゆう)は以前の竹本文字久太夫で、亡くなった名伯楽竹本住大夫の弟子。住大夫が以前名乗っていた文字太夫の名跡を継がずに、自らのルーツを遡って出会った「藤太夫」にこだわり、二年前に初代として改名した。あえて初代を名乗るのは、名跡ではなく自らの芸を磨いて行きたいという覚悟の表れだと思う。そんな藤太夫に声援を送りたい。

 演者は良いとして、何回見ても納得が行かないのが『寺子屋』の設定。藤原時平の配下にある松王丸が仮病を使って暇乞いをするのに対して、時平は菅秀才の首実検をすれば認めると言う。つまり松王丸は時平から自由になるために首実検を利用するのであり、菅秀才の代わりに我が子小太郎の首を差し出すわけなのだ。同じく実子を犠牲にする『熊谷陣屋』では、「一枝を伐らば一指を切るべし」という主君義経からの命令があって、熊谷直実は帝の落胤平敦盛を救うという忠義に従ったのだった。
 ところが『寺子屋』の松王丸には時平との縁を切りたいという個人的な理由があるのみで、世のため人のためにという使命は不在。だから自分の都合のために実の息子の首を斬らせるようにしか見えず、松王丸がエゴの塊にしか見えない。『菅原伝授手習鑑』を通しで見たことがないから、もしかしたらもっと深い見方があるのかも知れない。けれども歌舞伎座へ白鸚の松王丸を幕見で見に行ったときも同じような疑問しか浮かんで来なかった。一幕物としての構成は隙がなく見事な台本だと思うのだが、登場人物の心根にほんの少しの疑義を感じるだけで、舞台に気持ちが入って行かない。どうにも『寺子屋』とは相性が悪いようである。(き)


夕霧.jpg

(※)『白い恐怖』は1945年のアメリカ映画。グレゴリー・ペックとキスをするイングリット・バーグマンが恋に目覚める瞬間を、ヒッチコックは次々に開かれる扉をトラックアップで撮影した映像によって表現している。


posted by 冬の夢 at 00:07 | Comment(0) | 伝統芸能 文楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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