2020年12月10日

THE BEACH BOYS − SURFIN' USA 元気が出る曲のことを書こう[52]

If everybody had an ocean
 どこにいてても海
Across the USA
 だからUSA
Then everybody'd be surfin'
 テレビ見ててもサーフィン
Like Californ-i-a
 釣りもしない えい!
You'd see 'em wearing their baggies
 ガキも連れてく バギー
Huarache sandals too
 わらじ サンダルっす
A bushy, bushy blonde hairdo
 あ、武士、武士版ヘア、どう?
Surfin' USA
 サーフィンUSA



 語呂合わせを考えているヒマがあったら、ちゃんと訳せよって話だが、心配はいらない。この曲の歌詞は、一行で要約できる。
 夏だ! 海だ! サーフィンだ!
 一番と三番には、知らなきゃモグリだぜとばかりに、サーフィンをめぐる最新流行がつめ込まれていて、海へ誘う。合いの手を入れるように二番と四番が、地元ロサンジェルス周辺のサーフィン名所を紹介してくれる。
 一九五〇年代の抑圧的な倫理観から解放されていく、若い世代のいきいきしたおしゃべりが、はじけるソーダポップやサンデーを飾るスプリンクルのように、まぶしく輝いている。

You'll catch 'em surfin' at Del Mar (Inside, outside, USA)
 みんな湘南ロア (一切合切USA)
Ventura County line (Inside, outside, USA)
 七里ケ浜 (岸波沖波USA)
Santa Cruz and Trestle (Inside, outside, USA)
 稲村ケ崎 鎌高 (一切合切USA)
Australia's Narrabeen (Inside, outside, USA)
 クルマ並び (岸波沖波USA)
All over Manhattan (Inside, outside, USA)
 おう 叔母も 気張ったぁ (一切合切USA)
And down Doheny Way (Inside, outside, USA)
 あんたと見に行こう (岸波沖波USA)
Everybody's gone surfin'
 エ〜イ 皆な来い サーフィン
Surfin' USA
 サーフィン USA



 曲はどんなふうにできているか。それも一行で説明できる。
 パクリだ。
 元の曲はチャック・ベリーの「Sweet Little Sixteen」である。
 といっても、悪い意味での剽窃ではなく、いい意味での替え歌だ。「本歌取り」のようにロックンロールの名曲を讃えつつ、その力を借りている。
 ビルボードホット100で二位だった「Sweet Little Sixteen」の歌詞にも地名が織り込まれていて、アメリカじゅうのイキがったヤツが十六歳のカワイコちゃんと踊りたがるという曲だ。だから「Surfin' USA」が流れると、その歌詞には書かれていない女のコたちの姿も自動的に思い浮かぶ。近場のサーフィンブームを歌うのみで、すでに流行していたサーフ・ミュージックの一曲に終わったかもしれない「Surfin' USA」が、海のない州でも熱狂的に聞かれてポピュラー音楽史に残ったのは、本歌取りの効用もあったに違いない。うまいことに「Surfin' USA」はホット100で三位、チャック・ベリーにかしづく形での大ヒットだ。昔はよかったねという話である※1

201209SU.JPG 
SURFIN' USA (album) 1963

 それが、そういうわけにはいかなかった。
 チャック・ベリーの版元から抗議され、発売三年後から作者にベリーの名を追加、ビーチ・ボーイズが作った歌詞も含めた権利がすべて、ベリーの版元に渡っているらしい。※2
 ブライアン・ウィルソンはのちに、思いもよらぬ展開にすくなからず傷ついたと語っていて、たしかに悪意はなかったのだが、デビュー当時のビーチ・ボーイズを管理したウィルソン兄弟の父親、マーリー・ウィルソンは、少年たちのしつけにはうるさかったが、かんじんの音楽ビジネスで素人仕事をしてしまった、というところか。

日本の小学生がぶっ飛んだハーモニー

 そんないきさつはともかく、いくら聴いても飽きない曲だ。わたしが初めてぶっ飛んだ洋楽ポピュラー曲でもある。
 たしか小学五年生か六年生で、ラジカセのFMラジオから流れたはず。その時点で発売から七、八年たっているが、完全にノックアウトされた。
 メンバーの写真を見たのはかなり後で、誰がどう演奏しているのかラジカセではわからない。いてもたってもいられない気持ちを表現しようがなかった。踊ればいいのか、手拍子それとも足踏みか、やれといわれたって、やりかたもわからない。雷にやられたように呆然としていたのだろう。
 洋楽ポップスを知らなかったわけではないが、テレビの娯楽番組で日本の歌手が歌うのを聴くのがほとんど。ビーチ・ボーイズそのものをいきなり聴いたら、ひどい敗北感にさいなまれた。
 かなわん! 逆立ちしても追いつけん! 
 その感覚はいまでも思い出せる。

 あれから半世紀以上になるが、やっぱりカッコいい。古びたと感じることがない。
 レコードデビューから一年半ほどの曲で、ブライアン・ウィルソンの内向的天才性が表面化するのはもっと後だから、まだ高校生気分いっぱいの青春歌謡というべきだろう。なのに、その音の豊かさときたら。おチャラけたような軽妙な演奏なのに、おとなっぽい、ふくよかな存在感だ。
 歌のすばらしさは、いまさらいうまでもない。晴れわたる空へ爽やかに響くハーモニーには、寸糸の乱れもない。主旋律の飾りにコーラスをつけているのではなく、ハモりもかけ合いも、すべて一体となった「歌」だ。別の時代に生まれていたら、モーツァルトやベートーヴェンではなく、バッハのような音を重ねる作曲家になっていたかもしれない、というブライアン・ウィルソンならではだ。
 さらにすばらしいのは、バンドも「歌」に呼応していること。イントロのギターやフィルインに飛び出すスネアドラムの、かっ飛んだ感じ! それもこれもブライアン・ウィルソンのセンスだろうか。

 ただ、マイク・ラヴの歌は忘れずに強調しておこう。この曲がご当地海浜ソングに終わらず、「どこにいてても海」な名曲になったのは、マイク・ラブのおかげだ。
 じつにナチュラルにヤンチャっぽく歌っているのに、きっちり安定していて──ぴたりとダブルトラッキングされている──ウィルソンたちのコーラスが、ますます美しく輝く。
 ブライアン・ウィルソンのオタク性がバンドを支配するようになると、バンド本来の魅力を損なうと怒り、リード・ボーカルの立場も減って、ややネガティブなキャラクターと見られがちなマイク・ラブだが、この人のアイデアと歌があったからこそ、ブライアン・ウィルソンの活躍の場ができたのだ。

エレキの魅力が凝縮したイントロ

 そんな「Surfin' USA」の魅力は、鳴ったとたんこの曲とわかる、エレキギターのイントロに凝縮している。
 たったのワンフレーズ、三秒もないと思うが、青い空に白い砂浜、はじける波頭やソーダのシズルが、くっきり立ち上がる。アメリカ西海岸の海はいちども見たことがないのに。
 初めて聴いた小学生のころ、もちろん海水浴に行っていたが、蒸し暑い浜の人いきれ、焼きハマグリにスイカの青くささが混じった匂い、そして黒い砂にうち上がった海藻などは、このイントロには影も形もなかった。

201209BK.JPG 
サーフ・サウンドといえばもちろんサーフィンと、
改造車ホット・ロッド。
有名なストライプのシャツは、
キングストン・トリオが着ていてその清潔感が気に入った、
ウィルソン兄弟の父親でマネジャーのマーリー・ウィルソンが
買い揃えたのがはじまりだそうだ。
ラジオDJたちにも配ったという。 public domain item

 この機会に、イントロをきちんと練習しておくことにした。
 キーはE♭(変ホ長調)だから、わかりやすいようドミソのハ長調(C)にすると──。
 ドミドミ ミファミドミドミ
 たったそれだけだ。「ミ」のすぐ上の「ソ」と、オクターブ上の「ド」を合わせて弾くので、和音の低い側でフレーズが動くのが印象的だが、初心者でもすぐ弾ける。
 ところが、音色がマネできない。泡だつ波のような音にならず、似せてリヴァーブをかけるのがむずかしい。きらびやかな高音のフレーズだけれど、中低音が得意なアンプで、かなり大きい音で弾いている気もする。
 調べきれなかったが、ビーチ・ボーイズの場合、レッキング・クルーと通称された職人奏者たちがメンバーの代わりに弾いて録音したことも多いようだ。「Surfin' USA」もそうかもしれない。E♭はギターバンドではあまり使わないキーだから、おそらくは。

現実逃避から生まれた美しさ

 ビートルズでもローリング・ストーンズでもなく、ビーチ・ボーイズとの出会いが出発点だったのは、われながら大きいと思うが、ビーチ・ボーイズの音楽的中心にいた、ブライアン・ウィルソンのファンにはなれなかった。

 この人についていくには、マニアックで密室的な音の組み立てを、どこまで楽しめるかだ。
 そういう音楽は苦手ではなく、初期ひとり録音の極致ともいえる『チューブラー・ベルズ』などは、すごいと思って聴いていた。しかしビーチ・ボーイズの──実質的にブライアン・ウィルソンの──『ペット・サウンズ』を楽しむのはかなりつらく、ウィルソンのソロ盤となると、いちどに通して聴くことはほとんどできなかった。ソロアルバムは発売のたびに買ったのに。
 メロディもさることながら、コーラスの重なりや楽器の鳴りかた、それらの密度が異様で息苦しい。別の時代に生まれたらバッハのような作曲家になったかも、といったウィルソンだが、あちこちに賛美歌めいたところがある。それを美しく感じるよりさきに、こちらの気分がおかしくなってくる。
 初のソロ盤『Brian WILSON』(一九八八年)を聴いたとき、思い知った。心身がひどくまずい状態にある人がやっている音楽だと。
 ウィルソンは一九六〇年代後半から二〇年近く、深刻な薬物やアルコール中毒、そして幻聴を伴う精神症状に苦しみ、空白の年月を過ごした。さいわい健康をとり戻し『Brian WILSON』が制作・発売されたのだが、聴いたとたん「ウソだろ」と思った。元気なわけがない……。

201209BW.JPG 
Brian WILSON 1988

 一九七〇年代半ばと、八〇年代いっぱい、ウィルソンは有名な──悪名高いというべきか──音楽業界出身の心理療法士にかかっていた。
 おかげで病的な体重増などからは回復するが、治療者がウィルソンの療養だけに尽くしたのか、べつの狙いがあったのか、そこは怪しい。なぜならその男は『Brian WILSON』の総合プロデューサーに居座り、共作者であるとも称して、ただでさえとんでもなかった額の治療費をはるかに超える収入を得ようとしていたからだ。
 当時、輸入レコードを買ってジャケットを見ていて、医者(心理療法士)がプロデューサーだと書かれているのを疑問に思い、ウィルソンが内袋に載せた過剰な謝辞──”Dr. Eugene E. Landy for saving my life and inspiring, overseeing, and fighting for me and this entire album."──を変に感じたのは、いまからすれば間違いではなかったのだが、とにかくレコード両面を通して聴けなかった。どう見たってウィルソンがまずい状態だとわかる、ジャケット写真を見ながら聴けばなおさらに。

 ウィルソンの現在の奥さんたちの尽力もあって、治療者の支配から離脱できたウィルソンは──療法士は一九八九年にカリフォルニア州の診療免許を取消され、一九九二年には裁判所からウィルソンとの接触を禁じられる──なんと三十七年の歳月をへて、ファン垂涎のビーチ・ボーイズ幻の名盤『SMILE』を完成させるという、偉業をなしとげてくれた(二〇〇四年)。
 しかしその『SMILE』もまた、聴くのがつらかった。
 理由をあれこれ考えるが、細部を繰り返し聴くのは難しく、いい加減にしかいえない。熱心なファンは激高するに違いないが、お許しいただくしかない。
 ひとつには異様なアコースティック、つまり音空間の、圧迫感だと思う。
 ウィルソンは片耳が悪いので※3、本人が決めた完成型なら、個性的な音作りになっているということなのだが、水中で聴いているような、あるいは修道院の祈りの部屋で聴かされてでもいるような、閉塞感がある。
 その息がつまるような空間に、「Surfin' USA」とはすっかり変わったブライアン・ウィルソンの歌声と、音を敷きつめるかのようなハーモニーが、どこか切迫した感じで響く。伴奏には、クローゼットの中に隠し持った古いブリキ箱から取り出した、壊れたおもちゃのような音が聴こえてくる。

201209sm.JPG 
SMILE 2004


平凡さと抑圧から生まれた海のサウンド

 ロサンゼルス郊外、バンガローハウスと呼ばれる似たような平屋戸建てが並ぶ、白人労働者層がおもに住んだ住宅街。空港が近く、日がな離着陸する飛行機の騒音※4の合い間に、息子たちを罵っては殴りつける横暴な父親の怒声が続く。
 機械販売会社を経営していた兄弟たちの父は、注目されなかったが自分には才能があると思い込んだセミプロ作曲家でもあった。そういう親が、バンドのデビュー期に当然のようにマネジャーをかって出た。怒声と殴打、首をつかんで壁に押しつける折檻などは日常的だったが、スタジオでもメンバーを罵りながら自分で録音調整をしようとしたので、結線されていないダミーのコントローラーをいじらせておいたという、冗談のようなエピソードがある。
 それでもなおブライアン・ウィルソンは、父親が天から授かった音楽への愛情から恩恵を受けたと、語らずにはいなかった。ベッドルーム二つの家──キッチンはピンク色だったという──には、その証のジュークボックスがあった。ローズマリー・クルーニーやペリー・コモ、レス・ポール&メリー・フォードなどが流れていたという。そして、父親が繰り返しかけるよう怒鳴りつける、わずかにシングル盤になった父親の曲が。

「Surfin' USA」は、ウィルソンが勇気を奮って父親をスタジオから遠ざけた、初めての録音である。そのことがこの曲に、爽快な明朗さをもたらしたのだろうか。
 いや、かんたんにそうとはいえない気もする。録音にさいしてウィルソンは、コーラスを壁のように厚く重ねて響かせる手法に気づいたというが、その大きく美しい響きは、分厚い音の壁で何かを覆うような、強迫的なサウンドのはじまりでもあったのではなかろうか。
 自分たちの居室を閉め切って弟たちを黙らせ、ある限りの楽器やおもちゃを鳴らして音で埋め尽くしても、まだ消し切れない、なにかが聞こえる。ブライアン・ウィルソンが作り出す音楽の、怖ろしいほど抑圧的な音の集まりのなかに、わたしも、それを聞かされているのだと思う。※5

 そもそも『Surfin' USA』は、雑誌の切り抜きを集めて、台紙に貼り重ねたような曲でもあった。ビーチでではなく、自分の家の部屋で。 
 曲を作ったとき、メンバーで実際にサーフィンをしていたのは、その最新流行を曲にすることを提案し作詞に助力したというマイク・ラブだけだった。ブライアン・ウィルソンは、めったに浜に行ったことがなく、サーフィンをしたこともなかった。まぶしい陽光や日焼けがきらいで、浜へ行くときはジーンズをはいたままだったそうだ。ちなみにマイク・ラブは、歌詞の作者とされなかったので、三〇年後にブライアンを訴えた。

ビーチ・ボーイズの家から海は近かった、けれど……

 ふと思いたって、ビーチ・ボーイズのウィルソン兄弟の実家から、近場のサーフィン・ビーチへ行ってみることにした。
 初めて聴いた小学生のころも、歌詞を知ったのちも、空想のイメージだけで聴いてきた「Surfin' USA」の地元を、わずかでいいから実感してみたくなって。
 といっても、東京にいて外出もままならない。「Street View」を使っての話だ。

201209ss.JPG 
ドキュメンタリー映画『レッキング・クルー 伝説のミュージシャンたち』
のフェイスブックによると、
「Surfin' USA」のレコーディングメンバーは
シングル盤ジャケット写真のラインアップ
+セッションドラマーだったようだ。
イントロはカールが弾いたんですね。ジャケット写真の左から;
Brian Wilson (bass, organ, backing vo.), Mike Love (vo.),
Dennis Wilson (backing vo.), Carl Wilson (lead gt. backing vo.),
David Marks (rhythm gt.), [Frank DeVito (ds.)]

 カリフォルニア州ロサンジェルス郡ホウソーン市。いま人口九万人弱の、典型的な郊外地域である。
 ブライアン・ウィルソンが二歳から住み、弟たちや、近所の従兄弟のマイク・ラブ、友だちのアル・ジャーディンと集まった家は、一九八〇年代のハイウェイ建設で取り壊され、記念碑だけがある。ハイウェイの出入口が多い地域のせいかクルマ関連の店が目立ち、近隣の宅地にはいまも、こじんまりした似たような家が多い。
 ここから、どの浜へ行ったかだが、とりあえず最寄りのマンハッタン・ビーチにしよう。歌詞にも出てくる。
 ブライアンが通ったホウソーン高校の手前で、ホウソーン・ブールバードに入る。市庁舎やお店があるメインストリートらしいから、観光がてら南へ向かって走り、途中で右折してマンハッタン・ビーチ・ブールバードを西へ、文字通り「ウエスト・コースト」をめざせばいい。広がる青い空に突き刺さるほど高いパームツリーをときおり見上げながら、直進また直進だ。

 ウィルソン家から、海までは遠い。
 いや、そんなことはないか。十キロほどあるが、クルマがないと移動できないロサンジェルスのこと、逆にいえば、すこし運転すればすぐ行ける。有名な渋滞も、このあたりは少ないようだ。
 しかし、爽快なドライブのイメージが実際に目の前にあるかのような風景を過ぎていくうちに──ほんとうにクルマで走っているわけではないが──だんだん、もて余してくる。
 片側三車線、ひたすらに一直線の幹線道路。正確に描いたグリッドのように宅地の路地が網目を作る。歩く人のいないホウソーン・ブールバードに「商店街」はない。ウエアハウスふうというのか、ときどきロードサイドに平屋で長く伸びた、大きいだけで、さして立ち寄りたくもならない店。にぎわっているらしい場所は例外なく、閉鎖的で抑圧的な「モール」だ。いまや日本の郊外を象徴するショッピングゾーンとしておなじみの。マンハッタン・ビーチまで来ると、歩いて回れるエリアが現れるけれど、もちろんそこは、いわば海浜テーマパークとして後から仕立てられた場所である。
 湘南、房総、須磨、そして海とは関係ない千葉や神奈川の内陸側、埼玉、茨城、そして群馬……「Surfin' USA」のご当地≠ヘ、ここ十年近く大都市の周縁を歩き回っていた身には、すっかり見慣れてしまった街道沿いの凡庸な光景に、いやに似ている。道の広さと空の青さこそ違うけれど。

 ビーチ・ボーイズの少年時代のホウソーンがどんな姿だったかは、想像もつかないけれど、いまのようすが当時の進化型であるなら、初めて見る面白さをもっと語り、あらためて「Surfin' USA」賛歌を書くべきなのかもしれない。実際に行ってもいなければ、サーフィンどころかろくに泳げもしないくせに知ったようなことをいうな、といわれたら、まったくその通りだから。
 しかし、もういいかげんに「Surfin' USA」の幻から目をさましたほうがいいと思ったのだ、われながら。
 この四年の間に、あれほど好きだったアメリカのさまざまなポピュラー音楽が、ほとんど聴けなくなってしまった。嘘のうえに嘘を積み上げてできた、アメリカのほんとうの姿を、とことん見せつけられたからだろうか。過去四年間に行ったことはないけれど。
 いま四年の節目、変わり目を迎えて──大統領選挙はまだ終わっていないが──目をさまさなければならない、そう思ってのことなのだ。もちろん、この日本で、書き割りのような嘘だらけの世の中に長らく暮らしてきてしまったことからも。

 ウエストコーストの爽やかな風景にかかせないパームツリーは、もともとカリフォルニア州のものではない。メキシコ、そして遠くはアフリカから移植されたものだ。一九三二年のロサンジェルスオリンピックのための景観開発であり、大不況下での失対事業だったという。ヤシの木が選ばれたのは、ハリウッド映画がもたらしたオリエンタリズムブームのおかげだといい、いま、ロサンジェルスのパームツリーのかなりの部分が、寿命と虫害で枯れつつあるともいう。
 ロサンジェルスを東西に走って空港へ向かうハイウェイに接した、宅地のはずれ。高速道路を背に「The Beach Boys Histrical Landmark」は、わびしくたたずんでいる。レコードジャケット用の写真を模した──『surfin' safari』のためにロサンゼルス西郊外のマリブで行ったヤラセの撮影だ──レリーフが、まぶしい陽光に輝いている。周囲から奇妙なほど浮き上がって、ただひたすらに白く。(ケ)

201209HL.JPG 
ビーチ・ボーイズの実家があったところ。
カリフォルニア州ホーソーン
public domain item


Originally Uploaded on Dec. 10, 2020

※1 地名を歌い込む案は、チャビー・チェッカーの『Twistin' USA』からという説もある。サーフィン名所は、ブライアン・ウィルソンがガールフレンドの弟に教わった。
※2 チャック・ベリーは二〇〇○年に、もともとバンドリーダーだったジョニー・ジョンソンから「Sweet Little Sixteen」をはじめとするヒット曲を共作したはずだと訴えられている。
※3 父親に殴られたせいとよくいわれるが、近所の子どもに金属パイプで殴られたせいだ。どういう地所やねん……。
※4 ブライアン・ウィルソンの飛行機嫌いは有名だ。
※5 二〇一六年に発表した自伝でも、いまだに父親の声が聞こえるといっている。

【参考】
「ビーチ・ボーイズ・リアル・ストーリー」(早川書房/一九八八)
「ブライアン・ウィルソン自伝 i am Brian Wilson」(DU BOOKS/二〇一九)
「レコード・コレクターズ」二〇〇四年十一月号、「Los Angeles Times」二〇一五年三月十日、などに掲載されたブライアン・ウィルソンへのインタビューほかを参考にしました。



■「元気が出る曲のことを書こう」の記事一覧は→こちら←


posted by 冬の夢 at 16:59 | Comment(1) | 音楽 ロック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ビーチ・ボーイズ! 実は自分の個人史の中では完全に、100%欠落した存在だ。この歌にしても、"Surfin' USA"という最後?の一節しか思い浮かばない(というか、そもそも「知らない」のだから、思い出しようもない)。自分と洋楽との出会いと言えば、モンキーズ(との出会いの方が少しだけビートルズよりも早かったと思う)とPPMだったのではなかったか…が、やはり、自覚的に「洋楽」を聴き始めたのは、何といってもビートルズだったかな。それもすでにいわゆる後期のビートルズだったので、すぐに興味はハードロックに移っていき、ビーチ・ボーイズを聴く暇がなかったってことか。
Posted by H.H. at 2020年12月11日 00:57
コメントを書く:ペンネーム可・アドレスは表示されません
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: