2020年12月08日

BOB MARLEY − EXODUS 元気が出る曲のことを書こう[50]

 いまから四〇年以上も前の、レゲエの「レ」の字もないころ、ふつうの家のテレビに、ボブ・マーリーのライブフィルムが映ったときの衝撃を想像してほしい。
 ハイレ・セラシエも、ドレッドヘアも、ラスタカラーも知らない。しかし、テレビから流れてきた、はじめて聴くリズムは、心をとらえて離さなかった。

 曲の流れやコード進行は、そのとき高校一年か二年で、ギター初心者卒業くらいの自分にもわかった。びっくりしたのは、なんといってもそのリズムだ。
「どっだん、どどだん」と、重いほどカッコいいと思っていたロックのエイトビートとは、まるでちがった。地を這(は)うような、と表現されるらしいが、そうは感じなかった。
「ぱらららっ、かん!」という、キンキンにヘッドをはったスネアドラムのフィルイン。「んかっ、んかっ」と陽気に響くリムショット。三拍めに「ぼむ」と入るバスドラム。のんびりと気楽な感じだ。
 いまやおなじみの「んっちゃっか、んっちゃっか」のギターも、モコモコ動くベースラインも、ユーモラスな打楽器で合いの手を入れているようで、ゆるさがカリブの「ロック」なのかと、いいかげんに納得していたことを思い出す。

 ところが歌われる歌詞は──字幕がついていた──とんでもなかった。
 歌うボブ・マーリーに、目がくぎづけになった。
 同じ部屋に家族がいたのか、おやつを食べながら見ていたのか、ぜんぜん記憶にない。テレビの前で、完全に固まっていたにちがいない。
 
 ボブ・マーリーは、叫んでいた。

「起き上がれ、立ち上がれ、お前たちの権利のために」(Get up Stand up)。
「おれは警官(保安官)を撃ってしまった」(I Shot the Sheriff)。
「ジャーの子どもたちよ、団結し音楽しようぜ」(Jamming)。
「泣くな女、女泣くな」(No Woman, No Cry)。
「脱出だ、ジャー・ピープルの叛乱だ」(Exodus)。


「オヨ〜、オヨ〜ヨ〜ヨ〜」という、観客とのコール・アンド・レスポンスを見ているうちに、のどかだなあと思った音楽はいつしか呪術や儀式めいて、怒りの祈りに聴こえて怖かった。ますます魅力的だった。
 中学生のころよく聴いた日本の社会派フォークソングには、すっかり背を向けていた高校一年生、いや高二かな、ともかくその高校生は、はげしく思った。ほんとうに苦しめられていて、抵抗するしかない人のための音楽が、ここにあるじゃないかと。

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LIVE! 1975

 といっても、四十数年前にジャマイカといわれて思い浮かぶのは「さらばジャマイカ」しかない。それ以外なんの知識もなかった。いまも似たようなものかもしれないが。
 いくつかの民謡を合わせて作られたという、その曲をヒットさせたのがハリー・ベラフォンテだとも知らなかったし、「バナナ・ボート」がもとはベラフォンテの歌で、ジャマイカの労働歌だと知るのも、はるか後のことだ。ボブ・マーリーとウェイラーズの音楽が「レゲエ」というもので、「さらばジャマイカ」とはちがうジャマイカの音楽だということは、やはり字幕で知ったと思う。

 いきなり見たボブ・マーリーその人は、当時は身近にもよくいたノマド系のおっさんに見えた。そのライブのとき、ボブ・マーリーは三十二歳だが。当時としては貴重な、動く姿にいきなり出会えたのに、あまりカリスマ的な魅力は感じなかった。小さな巨人と思うようになったのは、やはりかなり後のことだ。
 バンドメンバーはもちろん、女性三人組のコーラスと並んでもかなり小柄だし、アフリカ系ジャマイカ女性と、イギリス軍人で領地監督に着任していた白人男性──その女性の父親より歳上だった──の間に生まれているので、バンドメンバーとは風貌がちがった。それで日本のおっさん≠ノ見えてしまったのかもしれない。デニムシャツにベルボトムジーンズというスタイルは、あのころ最高にカッコよかったはずなのに、ドレッドヘアにはつり合わず、似合っていない気もした。

 なのに、なぜあれほどノックアウトされたのか。
 いまの知識や理屈を持ち出さないように思い出すと、放送された公演の、渦巻くような一体感のせいだと思う。
 ボブ・マーリーは、歌うというより語りかけていた。聴衆をあおり、舞台を激しく走った。その様子が、日本のふつうの家でテレビで見た高校生も巻き込んだのだ。
 勢いまかせで何をやり出すかわからないボブ・マーリーに、バンドがみごとに合わせていくのに心底びっくりし、「アイ・スリーズ」こと三人の女性コーラスが、強烈な性的魅力を噴き上げながら、ぴったりついていくのにもしびれた。

       

 あとから知ったことを書くと話が薄まるが、確認しておくと、一九七八年三月に日本で放送されたその映像は、その前年六月のロンドン、レインボー・シアター公演のはずだ。※1
 ボブ・マーリーは、一九七六年十二月三日にジャマイカで銃撃事件に巻き込まれ、すぐにロンドンに移る。そこで『エクソダス』を作り、翌年四月に発売、欧州公演を開始していた。
 バンドメンバーやマネジャーともども狙撃されたのは、彼の発案で七六年十二月五日に開催が決まっていたフリー・コンサート、「スマイル・ジャマイカ・コンサート」をめぐる政治トラブルに巻き込まれたためとされている。※2
 ジャマイカの二大政党である保守系党派と社会主義政党が長年繰り返してきた、首都キングストンが空白地帯と化すほどの暴力抗争に対し、音楽で和解を呼びかけようというのがボブ・マーリーの思いだった。
「僕の愛する政府はただ一つ──ラスタファリの政府だ。政治家が民衆の面倒を見るのではない。ジャー一人が民衆を治める。そう、すべての民が神のためにあり、神は我々すべてのためにある。」
 というのが彼の政治観だったのだが、社会主義政党を支持していて、政権奪取をめざす同党の選挙運動に加わってもいたので、勝利を得て与党になっていた同党に無料コンサートの話を持っていった。それはいいが、結局はコンサートを政治利用された──公演後に総選挙投票日を設定、再選運動の象徴のように位置づけたため、マーリーは激怒する──せいで、敵対する保守系野党の支持者からと思われる、匿名の脅迫を受けていたのだ。
 六、七人で襲ってきた狙撃者たちの乱射を浴びたにもかかわらず、さいわい一人の死者もなく、マーリーは包帯をしたまま「スマイル・ジャマイカ・コンサート」に出演、八万人ともいわれた観客を熱狂させた。しかし、実際はひどく怯えていて、翌朝プライベートジェットでバハマへ脱出する。
 ちなみに一九七九年、公演で初めて日本を訪れたとき、招聘スタッフに拳銃の入手を本気で頼んだそうだ。日本は安全で銃はないといくらいっても聞かなかったという。新幹線移動のときは周囲をよく確認してからでないと乗降しなかった。それほど狙撃を怖れ続けていた。※3

 ジャマイカに一年以上帰国しなかったボブ・マーリーにとって、ロンドンは比較的安心できる環境だったのだろうか。
 パンク・ロックとレゲエの相互交流が起き、ウェイラーズの音楽が熱く受け入れられてもいた。レインボー・シアターでの公演期間中、客席には白人が多かったのか、カリブ系移民も少なからずいたのか、それはさだかでないが、客席から強い手応えがあったことが、放送された映像の熱気の理由でもあっただろう。
 ちなみにウェイラーズの演奏が、のんびりしているようで、マーリーを完璧にバックアップしていたのは、マーリーがバンドに厳しい練習を課し長時間リハーサルするリーダーだったからだ。本人も、公演前の舞台確認のときさえ、全力でパフォーマンスしたという。

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EXODUS 1977

 じつは、四〇年以上前の放送で、さきほどあげた曲がすべて演奏されたかどうか、さだかでない。「エクソダス」は放送されたはずだが、確信がない。
 この公演は、故人の公式サイトが高画質で全編を公開するという、すばらしいことになっているが、はじめてテレビで見た映像がそれと同じかどうか、調べがつかないままだ。
 ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズといえば、日本でまだほとんどレゲエが知られていないころに見た「エクソダス」がすべてだ! という思いにこだわり続けてきたけれど、一九七八年のライブ盤『バビロン・バイ・バス』で聴いたテイクと、放送で見たべつの曲のイメージを混ぜこぜにしているのかもしれない。
 それはそれとして。

      

Exodus movement of JAH people
Exodus movement of JAH people ★

men and people will fight ya down
when ya see JAH light
let me tell you if you're not wrong
everything is alright
walk through the roads of creation
we're the generation
who trod through great tribulation

★repeat

open your eyes and look within
are you satisfied with the life you're living
we know where we're going
We know where we're from
We're leaving babylon
into our father's land

★repeat

Exodus, Exodus, Exodus
(repeat)

movement of JAH people
(repeat three times)

move, move, move, movement of JAH people

JAH come to breakdown downpression, rule equality
wipe away transgression
and set the captives free

★repeat ※4


 エクソダス ジャー・ピープルの脱出
 エクソダス ジャー・ピープルの脱出☆

 権力者どもに叩きのめされてしまうぞ
 お前がジャーの光を見るなら
 こういわせてくれ
 汝 誤らざれば すべては平らかなりと
 創造へ向かう道を歩め
 おれたちは
 偉大なる辛苦の道を踏みゆく世代なのだから

 ☆くりかえし

 目をあけて心の中を見るといい
 その暮らしに満足できているのかと
 おれたちはどこへ行くのか知っている
 おれたちはどこから来たかもわかっている
 おれたちは悪徳の都を去り
 父祖の地へと向かっているのさ

 ☆くりかえし

 ゆけ、ゆけ、ゆけ、ジャー・ピープルの脱出

 ジャーは来てくださる
 政府の抑圧を打ち払い
 平等に統治され
 戒律を守らぬ者をぬぐいさって
 囚われの者たちを解放してくださるのさ

 ☆くりかえし



 ボブ・マーリーの曲のなかでも、とりわけ「エクソダス」には切迫感がある。
 アジテーションだけじゃない、本気でやるぞという、地鳴りのような振動が伝わってくる。
 歌詞もそうだが、曲の感じが明らかに違う。
 レゲエの基本、三拍めバスドラムの「ワン・ドロップ」ではなくて、その名も「ステッパーズ」とよばれる、バスドラムを四拍みな踏むリズムなのだ。ライブは早歩きに近いテンポなので、脱出への足どりがぐんぐん進む。
 バスドラムの四拍打ちには、ハウス・ミュージックのような陶酔感や高揚感もある。ボブ・マーリーやウェイラーズの面々のように「キメ」ていれば、なおさらそうなるのかもしれない。

       

 この曲は、高校そして予備校のころ、いつも心のどこかで鳴っていた。

 逃亡願望でいっぱいの、地方都市の高校生だった。
 いま思えば、井の中の蛙に尽きるけれど。
 地域性べったりの息苦しい社会や家庭、偽善だらけの学校、それに気をとめない、あるいは気づきもしない、凡庸な同世代。
 逃げ出してやると毎日のように思った。心の中でこの曲のボリュームをあげて、よく早足で歩いた。
 といっても目的地はエチオピアではない。学校に行って自宅に帰ったにすぎない。逃げる方法が思いつけず、計画できても実行する勇気がない。自分もまた凡庸で幼稚だという自己嫌悪のBGM、それが「エクソダス」だったのかもしれない。

 ひとりで東京に来て生活するようになると、いつしかボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズは聴かなくなった。東京で会社員になり、ますますひどいバビロン、つまり悪徳の都の、住人になってしまったのに。だからこそ、聴けなくなってしまったのだろうか。
 そのかわり、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズは、自分にとって唯一のレゲエになった。それ以外のいかなるレゲエも、すすんで聴いたことはない。ザ・ポリスは好きなバンドだが、レゲエふうの曲は苦手だ※5。また、クラブ、ダンスミュージックとなって流行したレゲエは、まったく知らない。

       

 悪徳の都、バビロンからの脱出を主張するボブ・マーリー自身が、世界的なヒットのおかげでバビロンを築くことになってしまった。亡くなった後の、ひどい資産争いからも明らかだ。いまもさまざまな禍根が残っているのだろうか。
 白人女性もふくめ、数多い女性関係を抱えて多くの子どもたちを持ったいっぽう、妻のリタを「アイ・スリーズ」の一員として帯同しながら、ほとんど下女のように扱いもした。それは、ラスタファリアニズムでは女性の地位が低いことの反映だったのだろうか。※6
 彼があれほど高らかに歌ったジンバブエはどうなったか。
 それをいうなら、そもそもジャマイカはいま、どうしているだろうか。

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LEGEND the best of BOB MARLEY and the WAILERS 1984

 ボブ・マーリーは、黒人でも白人でもなかった。
「ファイブ・フット・フォア(五フィート四インチ)」というあだ名をつけられた小さい男だが、「タフ・ゴング」というニックネームのほうが有名な、ゲットーのコワモテ男でもあった。
 政治家ではなく教祖でもなかった。欧米メディアのインタビューには長時間つきあい、滔々(とうとう)とラスタファリアニズムを語ったが、困惑した記者たちに主張をきちんと報じてもらえなかった。
 大好きなサッカーでケガをした足から、がんが進んで亡くなったが、ジャマイカの人気スポーツ、サッカーとクリケットは、植民地支配者のイギリスがもたらしたものだった。
 ラスタの戒律により切除手術を拒否していたが、病気の進行とともに手術に応じ、治療でドレッドヘアも失った。アイタル(vital)・フード≠ニいう自然食をとるため公演旅行に料理人を伴うほどだったが、医師から栄養をとれといわれミートボールやスパゲティも食べた。しかし、アメリカでの化学療法やドイツでの代替医療も、家族たちのまじないや祈りも、彼の命を長らえさせることはできなかった。

 ボブ・マーリーの生涯をくわしくたどったのは、はじめてだ。
 三十六歳で亡くなっているのに、信じられないほど多くのできごとがあった。
 その中におかれた彼には、なぜかいつも、どことなくいらだち≠ェあるように感じた。

 誰でもないこと。
 どこにも属せないこと。

 それがボブ・マーリーの、トラウマめいたアイデンティティだったようだ。だからこそ分断や抗争や断絶をもたらすものの中心に立ち、和解させ、ひとつにつなぎ、あらゆる人びとを約束の地へ導こうと歌ったのであり、その音楽は、引き裂かれたアイデンティティを支える信仰の音楽でもありながら、誰もが頼れる、普遍的なものになったのだろう。
 ボブ・マーリーは、ついにジャマイカで生涯を終えることはなかった。カリブのゲットーを背にして幻想の父祖の地アフリカを臨み、バビロンでサッカーと女性を愛した。ハイレ・セラシエの不死・再臨説を信奉し──『Jar Live』は、セラシエが廃位〜拘禁中に暗殺された、一九七五年八月の録音──ロンドンでその息子から贈られた、セラシエ本人のものだったという指輪をイコンのように崇めながら。

 ときどきこの指輪は、オレの指で燃えだすことがある。まるで炎のように ※7

 わたしはラスタファリアニズム信奉者ではない。「エクソダス」を出ジャマイカ記≠ニして聴いたこともない。
 キリスト教的な千年王国論は信じていないし、聖書解釈から派生したさまざまな宗教の、千年王国主義は受け入れていない。
 けれど、ひさしぶりにボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの「エクソダス」を聴いていると、高校生のころとまったく同じように、思わず立ち上がり、こうしてはいられないという気持ちで部屋の中を歩き回りたくなる。時も場所も信仰も超えて「おまえ、そんなことをしている場合じゃないだろう」と、背中を強く押す音楽なのだ。はじめて聴いたときから、そのことには、まったく変わりはない。(ケ)

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Kaya 1978



※1 では七月五日のレインボー・シアター公演となっているが、七七年のロンドン公演は六月一日〜四日で、五、六日はキャンセルされている。この「エクソダス・ツアー」は、七月にアメリカ公演を予定していたが、ボブ・マーリーの足のケガが悪化していて、がんが見つかりもしたので、キャンセルになった。それでも『エクソダス』はアメリカでもヒットし、このときボブ・マーリーははじめてアメリカの黒人にも受けいれられたとされる。

※2 ボブ・マーリー死後の大きな著作権訴訟で、もとマネジャーのドン・テイラーは違法競馬賭博がらみの事件だと証言した。テイラーは、狙撃者たちはみな報復で殺され、ボブ・マーリーを支持しているトレンチタウン(キングストンのゲットー)の者たちが、狙撃犯のひとりを処刑するところを目撃したと語った。

※3 CIAによる緩慢な暗殺(履きものに毒物を仕込まれた)だったという説もある。

※4 レコードのインナースリーブに印刷された歌詞を見ました。

※5 ファーストシングル『Roxanne』(一九七九年)はレゲエではなくタンゴなのだそうだ。いままで知りませんでした。

※6 ボブ・マーリーは一九六八年にできた「イスラエル十二支族(Twelve Tribes of Israel)」の信者で、この派では男女の役割は等しい。ただ、亡くなる直前、同派には告げずにエチオピア正教会に入信している。

※7 ハイレ・セラシエの息子で、ボブ・マーリーが会ったアスファ・ウォッセン・タファリは一九六〇年に軍部のクーデターに担がれたことがある。セラシエ廃位後、立憲君主として王位につける計画もあったようだが実現していない。会見時に受け取った指輪は、マーリーが六〇年代にアメリカに出稼ぎに行っていたころ、霊視(夢)したものだったので、マーリーは非常に驚いた。彼の死後、十二支族派はこの指輪を手に入れたがったが、ゆくえはさだかでない。棺に入れられたらしい。

■ 一九七八年にボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのライブを放送したのは、NHKの「ヤング・ミュージック・ショー」(一九七一年〜一九八六年)だ。不定期放送だったが、一九七〇年代には、ほとんど唯一といっていい同時代の洋楽ライブ映像を見られる番組で、さぞ上層部との悶着があったろうに、よく実現したものだ──と長年思ってきたが、実際は、若年層のNHK離れを危惧した当時の上層部による、若者向け放送をやれという指示を起点に、始まった番組だという。


【参考】
「ボブ・マーリー レゲエの伝説」(スティーヴン・デイヴィス/晶文社/一九八六年)
「ボブ・マーリィ キャッチ・ア・ファイア」(ティモシー・ホワイト/音楽之友社/一九九二年)
「ボブ・マーリーとともに」(リタ・マーリー/河出書房新社/二〇〇五年)
「ボブ・マーリー」(KAWADE夢ムック/二〇一二年)
「僕らの『ヤング・ミュージック・ショー』」(城山隆/情報センター出版局/二〇〇五年)★

Originally Uploaded on Dec. 10, 2020


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posted by 冬の夢 at 00:00 | Comment(0) | 音楽 映画音楽・ソウルなど | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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