2020年07月28日

小説:二人だけの話 #4 (最終回)

(これは『二人だけの話』#4です。)#3はこちら#2はこちらで、#1はこちら


 「もしかしたらだけど、妊娠しちゃったかもしれない」
 今日子は努めて冷静な口調で波瑠に告げた。
 「今日子さんが?」
 さすがに驚いた様子で波瑠が聞き返した。今日子は無言で肯いた。
 「『もしかしたら』ってことは、まだ検査はしていないってこと?」と、少し間を置いてから波瑠が小さな声で尋ねた。
 「なんで急にそんな小さな声になるのよ。誰にも聞こえないってば。部屋の中なんだから」
 「それはそうだけど、ついつい、何か重大な話だと思うとね」
 真面目なんだか冗談交じりなのかよくわからない、いつもと変わらない口調だった。今日子にはその口調がいつにも増して好ましく感じられた。
 「うん。まだ検査はしてないけど、来るはずの生理がもう三週間もなくて、こんなことこれまでになかったことだから……」
 今日子が全てを言い終わらないうちに波瑠が言った。
 「今は病院に行かなくても、たしか市販の薬で確かめられるんだよね。とにかくそれで確かめようよ。ぼくが買ってこようか?」
 (やっぱりこの人はかなり変わっている)
 今日子は思わず笑ってしまった。
 「さすがに男の人が買いに行くのは変じゃない? それじゃ、待っている間に私の方が恥ずかしく感じてしまうかも。一緒に行こうよ」
 薬局への道すがら、今日子は実は最初から二人で検査薬を買いに行き、波瑠のいるところで妊娠の結果を確かめたいと思っていたことを打ち明けた。それを聞いた波瑠は、「そりゃそうだよね。二人のことだから」と、いかにも当然といった調子で応じ、そのくせ、その後は普段よりもずっと口数も少なく、今日子から見てもかなり緊張した顔つきになっていた。
 
 念のために検査薬は二種類買ってみた。薬局のレジでは二人で並んでいたので、お金を払うとき、若い女性店員が意味ありげに二人を見回した。しかし、波瑠は支払いの直前まで熱心にパッケージの説明書きを読んでいたので、その視線に気がついたのは今日子の方だけだった。家までの帰り道は二人とも押し黙っていた。
 テーブルの上に並べて置いた二種類の検査薬を前にして、
 「どうしようか? 先にご飯にする? もう六時半だし、先に食べておいた方が気兼ねなく、思いっきり食べられるかも。夕飯なら、もう冷蔵庫の中に用意してあるけど」
 二人とも口に出すことはなかったけれど、それでも、仮に本当に妊娠したのであれば、二人が背負うことになる荷がそれなりに重いものになることくらいの覚悟はついていた。しかし、今日子の提案を波瑠は言下に退けた。
 「いや、もしも今日子さんの準備ができているなら、先に検査しようよ。で、きちんとはっきりしてからの方が絶対に気兼ねなく、美味しくご飯が食べられると思う。どっちになってもね」
 波瑠にそう言われると、今日子にも確かにその通りだと思われてきた。と同時に、妊娠検査薬の使用法の微妙な点が脳裏に浮かび、思わず顔が赤くなるのがわかった。妊娠の判定は尿で行う。それだけならまだいいのだが、どんな結果であっても二人で一緒に確認しようと約束した以上、その結果を波瑠に示さなければならない。波瑠がトイレの中までついてくることはありえないし、たとえ変わり者の度が過ぎて、そんな非常識を言い出したとしても断固拒否するだけだが、それでも自分の尿のついたスティックを波瑠に見せるのかと思うと、それはトイレの中にまで入ってこられるのと同じくらい恥ずかしいことに感じられて仕方なかった。説明書きによると、尿に数秒浸した後に、さらに一分ほど放置すると結果がわかるらしい。二人で一緒に確認しようとするからには、結局のところ、最初に自分が一人で検尿の仕方にならって尿を採取し、妊娠検査スティックを然るべく使用した後で、波瑠をトイレに呼び寄せ、二人でスティックの変化を見守り、結果を確かめるしかないと覚悟を決めた。
 「じゃあ、セットできたら呼ぶから入ってきてね。でも、呼ぶ前に入ってきたら絶交だからね」
 「そんな変態的なことをするわけないでしょ! そんなことより、検査薬の使い方、間違えないようにね。浸ける場所と、特に時間ね。片一方は二秒が最適で、五秒以上はかえって診断が不安定になるって書いてあるよ。時計持っていく?」
 「それよりも、私が『スタート』って言うから、そしたら波瑠が大きな声で、私に聞こえるようにカウントしてくれない? 今から予行演習しようか」
 そう言って、今日子はトイレの中に入り、扉を閉めた。そして「スタート」と言ったが、離れた場所にいる波瑠には聞き取りにくいようで、上手く行かなかった。しかし、そうは言っても、ドアのすぐ向こうに立っていられるのはどうしても嫌だった。そこで結局、スティックを尿に浸す直前にトイレのドアを開け、波瑠の声を合図にスティックを尿に浸し、数秒後に尿の後始末が終わったところで、波瑠にトイレの中に入ってもらい、検査結果を二人で見つめることにした。

 こんな、赤の他人の目で冷静に眺めたら児戯にも等しい大騒ぎ−−しかし、実はかなり深刻な−−をした結果は陰性、つまり、今日子が妊娠している可能性は限りなくゼロだった。検査薬の能書によると、正しく使えば95%以上の正確さがあるらしい。とすれば、二種類の検査薬がそろって陰性を示した以上、疑いの余地はなかった。しかし、それでもなお不安を払拭できなかった二人は、購入した検査薬の一つが二個入りのパッケージだったこともあり、その残った一つを使って三回目の検査を念のためにしてみたのだが、結果はやはり陰性だった。
 「ごめんなさい。私の早合点で大騒ぎしちゃって」と、気が抜けると同時に、相当に疲労した今日子が申し訳なさそうに言った。
 「謝ることなんてないよ。でも、なんか、すごく珍しい、貴重な経験をした気がする」
 二人はあらかじめ今日子が用意していたミートソースのスパゲッティを食べながら話していた。
 「私はなぜかすごく疲れたわ。というか、少し気が抜けちゃったみたい」
 「子ども、欲しかったの?」と、波瑠は真顔で訊いた。
 「結婚もしていないのに、そんなことあるはずないじゃない」
 今日子も真顔で返事をした。それからこう付け加えた。
 「でも、もしも本当に妊娠していたら産むつもりだったわ。波瑠はどう思っていた? 正直に言ってね」
 「正直に言うとね、ぼくは、今日子さんに結婚を申し込むつもりだったよ。未婚の母にさせるわけにいかないし、ぼくが父親であるのはまちがいないんだからね」
 「結婚? そうか、そこへ行きますか。やっぱり波瑠は波瑠だね」と、今日子は半ば呆れ、半ば感動していた。
 「それでね」と、波瑠が再び真面目な口調で話し始めた。
 「ぼくも今日子さんに言わなきゃいけないことがあるんだ」
 「言わなきゃいけないこと?」
 (今さら私に何を言わなきゃいけないんだろう? まさか田舎で就職することにしたなんてことかしら?)と、一瞬今日子は不安を感じた。母親ができることなら息子に地元で就職してもらいたいと願ったとしても、それも当然だろう。そんな不安が波瑠にも伝わったのか、
 「そんなにびっくりするようなことではないんだけど」と、言い訳のような前置きをしてから続けた。
 「就職することに決めました。というか、ついさっき決めたことなんだけど」
 これもまたいかにも波瑠らしい物言いだったので、今日子は少し困惑した。
 「『決めた』っていっても、就職するところがなかったら、いくらなんでもそう簡単に就職できないと思うけど」
 「実はね、フランス大使館の現地採用スタッフの仕事はもう見つけてあって、採用通知も受け取っているんだ。とりあえず、卒業したら、その仕事をしようと、さっき覚悟を決めたところ。明日には正式に返事をしようと思う」
 「フランス大使館って、それすごくない? 本当?」
 「別に全然すごくないんだけど……今日子さん、外交官と混同しているでしょ? そうじゃなくて、フランス大使館が『フランス語のできる日本人事務員募集』みたいな求人をしていて、それに採用されただけなんだよ。まあ、大使館の事務・雑用係みたいなもんだと思う。契約も二年ごとだし」
 今日子はそれまで大使館に「現地採用」というのがあることも知らなかったが、波瑠の話を聞けば聞くほど、実は案外と良い就職先なのではないかと思えてきた、とりわけ波瑠のような「変わり者」にとっては。二年ごとの更新が必要という点を度外視すれば、労働条件はフランスの労働協約を基準にしているとのことで、そこだけを取り出せば、日本の標準とは文字通りに雲泥の差だった。そんな仕事をどうやって見つけたのだろうと興味津々に尋ねると、大学のフランス人教授が紹介してくれたという返答だった。その先生の知人が長年その任に就いていたのだが、来年には辞めたいと考えていて、先生のところに誰かいないかと相談に来たらしい。それで、特に波瑠にだけというのではなく、フランス語を専攻している学生たちに「こんな求人があるのだが」と教えてくれたわけだ。波瑠が言うところでは、優秀な学生に限ってすでに就職先が決まっていたから、それが幸いしたのかもしれない。しかし、今日子は波瑠の話を聞きながら、彼が採用されたのはもっと別の理由にちがいないと確信した。
 当然のことながら、大使館での面接の日、波瑠の出で立ちは性懲りもなく、例の一張羅、キャメルのブレザーだった。それしかないのだから仕方ない。大使館に到着し、中に通され、ロビーのようなところで待っていると、年の頃三十歳くらいのフランス人男性が現れた。その人は派手な緑のスーツを着ていたが、それがやたらと似合っていて、さすがの波瑠もびっくりした。あらためて見回してみると、ピンクのシャツを着ている人もいれば、かなり短いスカートを着用している女性もいる。日本のお役所の雰囲気とは著しく異なっている。そして、カルチュラル・アタッシェだと自己紹介したそのフランス人と、もう一人、日本人の事務局長を交えた三人で面接が行われた。
 面接の中身は、波瑠のフランス語とフランス文化に関する理解を確かめるのが主で、面接前に波瑠が恐れていたような、志望動機や、今に至るまで就職先が決まっていない理由についてはほとんど話題にもならなかった。それよりも、ときおりフランス人がわざと意地悪しているのではないかと思えるような早口で話し、そのたびに聞き返さなければならないことに気疲れした。が、それでも面接は比較的順調に進み、最後に事務局長から日本語で「結果は二、三日の内に電話でお知らせします」と言った。そのときを見計らっていたかのように、面接室に面した中庭に一羽の烏が舞い降りてきて、例の素っ頓狂な声で鳴き始めた。タイミングがタイミングだったので、波瑠も事務局長も思わず苦笑いしたのだが、フランスの文化ではそれは特に面白いことではないのか、フランス人書記官は対照的に真面目な顔をして、
 Sur une branche morte / un corbeau s’est posé-- / crépuscule d’automne. と呟いた。
 それを聞いて波瑠は、
 「芭蕉の句ですね。ご自分で訳されたのですか? crépusculeというのが洒落てますね」と、思ったとおりのことを口にしたのだが、そのときはそのフランス人だけではなく事務局長までもが振り向いた。
 波瑠はその反応に逆に驚き、これもまた思ったとおりに
「あれ、ちがいましたか? 芭蕉の『枯枝に烏のとまりたるや 秋の暮れ』かなと思ったものですから」と言い訳がましく口にした。すると、フランス人書記官は今度は満面に嬉しそうな笑みを浮かべ、
 「そのとおりだ。しかし、残念なことに、自分の訳ではない」と言った。

 「よくそんな俳句を知っているね? というか、よくフランス語で言われて、わかるものね?」と、この話を聞かされたときは今日子も驚かずにはいられなかった。
 「たまたまだよ。フランス文学の詩の授業で、マラルメがエドガー・ポーのRaven = 大鴉という詩をフランス語に訳したという話のとき、先生がついでにこの芭蕉の俳句も紹介してくれたんだ。烏はフランスでもイギリスでも、そして日本でも不吉な鳥と思われているのが面白いと言ってね。そのときついでに、フランス語では枯枝のことをbranche morteというと教えてくれたから、面接のときにもすぐに思い出したってわけ」と言った。
 そんな偶然に恵まれたなら、波瑠がフランス大使館に就職するのは、ほとんど必然のようなものではなかったのかとさえ今日子には思われた。そう思うと、彼の名前もまたその仕事に向いていると信じられた。
 「それで、就職するってどうして今日決めたの? というか、せっかくそんな面白そうな仕事に決まりそうになってるのに、どうして躊躇っていたの?」
 「フランス大使館の話は、突然降って湧いたようなことだったから、最初は『とりあえず行っておくか』という程度で、実は相変わらず『そもそも何のために、どうして仕事をしなければならないのか?』って、やっぱりわからなくて。それがわからないと、本当にちゃんと仕事を続けることができるのか、自分でも不安になるというか、自信がなくなるというか…だから、大使館からどうぞと言われても、なんて返事をしたらいいのか、どうしても決めかねていて、ずるずる時間だけ迫っていたところ」
 「それがね」と、波瑠は話を続けた。
 「今日子さんから『妊娠したかもしれない』と言われたとき、『もうしそうなら、否が応でも自分もその子の親になるんだ、そしてそういうことなら、今日子さんにすぐにでも結婚を申し込まないといけないし、それなら当然ご両親の許可も貰わないといけない。となれば、絶対に何かちゃんとした仕事に就いていないと話にもならないだろうな』と思った途端、今までずっとわからなかったことが、全てすっきりとわかったような気がしたんだ」
 「何がわかったの?」と、波瑠の話の流れが見えず、焦れったそうに今日子は重ねて尋ねた。
 「どうして、なぜ人は働くのか、働けるのかってことがわかったんだよ」
 「どういうこと?」
 「ぼくはね、ずっと『どうして自分は就職しなければならないのか?』がわからなかったんだ。生きていくためには何らかの労働をして、ある程度のお金を稼がないと生きていけないってことくらいはわかっていると思うよ、さすがに。でも、『自分が生きていくためだけなら、特に今就職する必要なんて何もない、今就職しなければならない必然性もない』としか思えなかった。それで、ご存知のとおり、就活にもどうしても身が入らなくてね。でも、さっき、突然わかったんだ。そうか、人は自分のためではなく、他人のために働くんだなって。ただ家族を養うとか、そういうことだけじゃなくてね。もちろん家族を養うというのもとても大切なことだろうけど。ぼくも、もしかしたら親になるのかもしれないと思って、『それなら仕事をしなければならない』とごく自然に考えたくらいだから。それにね、今さらだけど、とにかく、好きな女性と愛し合うためにだって、それが子どもが生まれるかもしれないということと繋がっているのなら、ちゃんと真面目に、真剣に恋愛するためだけにでも、多分仕事に就いていた方が本来はずっといいんだろうなと思ったよ。動物だって、ちゃんと成長して、自分で食べ物を集められるようになり、自分で子育てできる程度になってから初めて恋のシーズンを迎えるわけだから、人間だって同じようなものなんだよ、きっと。
 でもね、ぼくが『仕事は自分のためではなく、他人のためにするものなんだ』と言ったのは、家族や子どものためというだけではなくて、本当に全ての仕事は他人のためなんだってことがすとんと腑に落ちたってこと。例えば、医者の仕事は病人のためだし、先生の仕事は生徒のため、料理人の仕事はお客さんのためだろう、って。そして、大使館の仕事は、その国に住んでいる自国民と、自分の国に興味関心を持っているその国の人たちのためなんだろうね。そう思ったら、『なんだ、それならぼくでも十分働ける』と思えたんだ。でも、それよりも何よりも、今度また同じようなことがあって、もしも本当に子どもができるようなことがあっても、そんなに困らないようにしておきたいと思ったんだよ」
 波瑠が一生懸命に話せば話すほど、今日子としてはどこか話についていけないような気もしていたのだが、いよいよ波瑠が、
 「いっそのことぼくたち結婚しようか」と言い出したときにはすっかり呆れてしまった。
 「そんな、何かのついでみたいな申し込みには答えたくもないわ。それに、私も今決めたの」
 「何を?」と、今度は波瑠が心配そうな顔をして聞き返した。
 「来年も学生を続けるってことを。だから、少なくとも今年や来年は誰とも結婚できないわ」
 今日子の軽い口調に安心した波瑠は、今度は真面目なのか冗談半分なのか判然としないいつもの調子に戻って言った。
 「でも、学生結婚ってのもあるよ」と。  (了) 

(H.H.)
posted by 冬の夢 at 00:20 | Comment(0) | 創作(詩・小説) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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