2020年07月26日

小説:二人だけの話 #3

(これは『二人だけの話』#3です。)#2はこちらで、#1はこちら

 大体こんな話を今日子はした。波瑠はその間、ときおりちょっとした質問はしたものの、ずっと真剣に耳を傾けていた。そして、話し終わって少し照れくさそうにしている今日子に向かって言った。
 「やっぱり今日子さんはすごいよ」
 それを聞いて今日子は本心から驚いた。
 「どこが? 今の私の話、ちゃんと聞いてくれていたの?」
 「すごく真剣に聞いてたよ」
 「だったら、結局私も波瑠と同じで、どうしたらいいのか悩みまくりだってことはわかったでしょ? それのどこが、どうすごいっていうのよ?」
 「ぼくとは全然ちがう。本当に、ちょっと自分でも情けないほど。もう大人と子どもくらいの差を感じたよ」
 「それ、真面目に言っているの? 私が年上だってことを当てこすっているわけじゃなしに?」
 「とんでもない! それにぼくは今日子さんが二歳年上だなんてこと、ほとんど何も気にしてないというか、そもそも人の年齢にほとんど何の興味もないというか……」
 「そうそう、そうでした。波瑠がそんなことを気にしたり、まして当てこすったりするような人じゃないなんてこと、よーっく知ってました」
 波瑠は今日子の言葉を聞き流すようにして、その日一番の真剣な表情と口調で言った。
 「今の話を聞いていて、今日子さんがすごく真面目に、真剣に生きてきたんだなって思ったんですよ。好きな絵を我慢していた受験のときも、そしてそのときの嫌な気持ちを繰り返さないようにしたことも、そして、今悩んでいることも。おかげでぼくに何が足りないのか、すごくよくわかった気がする。本当に話してもらってよかった。とても参考になりました」
 今日子は波瑠の思いの外に真剣な調子が少し気恥ずかしく、半ば無意識に、まるで逃避先を求めるかのように、およそ場違いなことを思っていた。
−−波瑠はいったいいつまでこのちょっと変な丁寧語交じりの話し方を続けるのだろう? 私が年上だってことを気にしてないって言いながら、本当はすごく気にしてるんじゃないかしら?−−
 「それでどうするの?」
 「それをもっと真剣に考えてみる」
 それがあまりにきっぱりとした口調で、そしてそう言う表情があまりに真剣だったので、今日子もそれ以上この話を続ける気にはなれなかった。

 ところが、そんなことがあったにもかかわらず、その後も波瑠は以前と特に変わった様子を示すわけでもなく、もちろん新しいスーツを買うなんて素振りを見せることもなく、充実した大学生活の最後の冬を過ごしていた。
 一方で今日子にしても、専門学校の二年間が終わろうとする今、将来どころか、さし当たって来年をどうするのか、身の振り方を決めなければならなかった。波瑠に相談してみようかと考えなかったわけではないが、おそらくはその相談相手の方がいっそうややこしいことになっているだろうと思うと、それも自然と躊躇われた。それに実のところは、相談するまでもなく、波瑠の言いそうなことは簡単に予想がついた。波瑠はおそらく何の逡巡もなく、「せっかくしてみたいと思うことがあるのに、そしてそれをすることが可能なのに、それをしないのはもったいない」なんてことを言うにちがいない。それはありがたい励ましではあるけれど、今日子の現在の悩みに対しては特に参考になりそうもなかった。と同時に、そしてやや遅まきながらも、なぜ波瑠が就職の悩みを自分にはあまり話してくれないのか、その理由もわかったような気がした。それは、彼が悩んでいないからでは決してなく、また自分の助言を必要としていないとか、他人の助けを借りたくはないとか、そういうことでもなく、むしろすでに自分一人で十分過ぎるほどに悩んできたので、考えるべきことはもう何もない、残っていることは、自分の考えたことを実行するかしないかということだけなのだろう。
 今日子の場合、言ってみれば自分自身の奇妙な、理不尽とも言えそうなプライドとの、かなり不毛な争いに悩んでいるだけだった。つまり、彼女自身はこれからもとにかく絵は描き続けていきたいと思っていた。二年間の専門学校での日々は決して無駄ではなく、むしろかなり充実していた。技術も向上したし、ほんの時折ではあるが、お金の入る仕事も見つけられるようになってきた。同級生の多くは、二年間の正課が終わったら、研修生という肩書きで単年ごとに学生の身分を延長することにしており、「普通」なら今日子もそうするのが極めて自然な成り行きだった。が、彼女はその「普通」を躊躇っていた。理由はごく単純なもので、「二年間と決めていたのに」ということだけだ。
 いったいいつまで今のような生活を続けるつもりなのか。それが彼女の不安の核心だ。もし仮にもう一年延長するとして、そしたらその翌年はどうするつもりなのか? またさらに一年延長するのか? だとしたらその次は? 自分はいったいどうしたら満足するのか。それがわかっていないのなら、それならいっそのこと今止めてしまっても同じだろうし、その方が両親だって安心するのではないか。
 今日子はこんなことを考えながらその年の年末を迎えようとしていた。そして、クリスマスのシーズンに至って、さらにもう一つ、思いもしなかった難題が突然彼女の上に降りかかってきた。最初のうちは何でもないと思っていた。しばらくすると、少し気にはなったけれども、やはり以前にも似たようなことがあったことを思い出し、自分を安心させた。しかし、来るはずの生理が二週間近くも遅れるのは、今日子には初めての経験だった。生理不順で悩んでいた友人は半月くらいの変動はよくあることだと言っていたから、十日以上遅れたからといって何てことはないと思えなくもなかったが、それでも日が経つにつれ、次第に気懸かりは募る一方だった。そして、二週間が過ぎても何の変化も感じられない事態になり、とうとう「もしかしたら妊娠したのかもしれない」という「不安」を払拭することができなくなってきた。
 それは確かに「不安」だった。初めての出来事、全く未知のことを前にして不安にならない人はいないだろう。身に覚えがないわけでは決してないのだから、もちろん責任は全て自分と波瑠にある。そんなことは百も承知していた。けれども、こうなることを予期していたのかと言えば、その答は明白だ。
 しかし、一方では、今日子自身も驚いたことに、彼女は自分でも不思議なほどに冷静でいられることができた。全く予期していなかった不意の妊娠−−しかも未婚で−−という事態が迫っているにしては、自分が予想外に落ち着いていられることが不思議だった。もっと取り乱してしかるべきなのではなかろうか。
 大学生の頃、周囲の女子学生たちが「失敗した」とか、中絶費用にいくらかかったとか、そんな噂話が聞こえてくるたびに、今日子はそんなことにだけはなるまいと強く思っていた。しかしそれは彼女の貞操観念の問題ではなく、言ってみればいっそう古風な倫理観と関係していた。今日子は結婚という制度に対しては、それがかなり時代遅れの制度であると感じていた。フリーセックスがいいとも思ってはいなかったが、いわゆる結婚と同棲を区別する根拠は何もないと確信していた。しかし、中絶に対しては、彼女はどういうわけか、心理的かつ生理的な反発を感じてしまうのだ。頭では避妊も中絶もある点では同じような問題であり、中絶は女性の重要な権利だと理解できた。しかし、我が身に置き換えて生々しく想像した途端、彼女は自分でもぎょっとするほど「保守的」になるしかなかった。つまり、中絶は快楽殺人に匹敵するほどの人道的犯罪に思えてしまうのだ。
 それを愛と呼ぼうとも快楽と呼ぼうとも、ともかく自分たちの欲望に促されて何ごとかを為し、その結果生まれた命を自分たちの勝手な都合で殺すというのは、今日子にはどうしても受け入れられなかった。おそらくこの考え方のために、彼女は恋愛に対しても幾分かは臆病にもなっていたはずだ。
 そんな彼女であったのだから、妊娠の可能性に対する不安が人一倍大きいのが当然であろう。それはそのまま未婚の母になることを意味したのだから。彼女自身、いつかそんなことになったなら、自分は大いに取り乱すにちがいないと何度も想像したことがある。それなのに、今日子は意外にも落ち着いている自分が不思議だった。
 「もしも本当に妊娠したのなら、当然ながら、今のような学生生活を続けることは絶対に無理だ。学校は辞めるしかない」
 こう考えるのは悲しく、また情けないことでもあった。そして、こんな事態になってようやく自分が学校を続けたいと思っていたんだということに気がつく自分に呆れもした。学校を辞めて実家に帰ることになったとしたら、両親は何て言うだろうか。そもそも、子どもの父親は? 波瑠と結婚するのだろうか?
 ここまで考えてようやくもう一人の当事者である波瑠に伝えなければならないことに思い至った。すると、考えようによっては極めて当然なことに、しかしまったく別様な考え方によっては極めて不思議なことに、今日子は心の中が少しばかり軽く、明るくなったことを感じた。
 「『子どもができちゃった』と言ったら、波瑠はいったいどんな顔をして驚くだろう? どんな反応を示すだろう?」
 それは今日子にも全然想像できなかった。しかし、何の根拠もなかったにもかかわらず、なぜだか絶対に不愉快なことにはならないだろうという確信のようなものを感じていた。
 すると、また面白いことに(そう感じてしまう自分を「面白い」と思えるだけの余裕と冷静さがそのときの今日子にはあった)、今度は俄に波瑠に対して少々腹が立ってきた。責任は両者に等分にあるはずなのに、この三週間悩んでいたのは自分だけで、波瑠の方は相変わらずに暢気な時間を過ごしているにちがいない。それではあまりに不公平だ。一刻も早く波瑠にも伝えよう、伝えたい!
 しかし、何を伝えようというのだろう? 
 「もう三週間も生理が来ないの、どうしよう?」と言うのでは、いかにも女々しく、自分一人では何も考えることができない甘えん坊のような感じがする。「妊娠したかもしれない」と単刀直入に言うのも少し違う気がする。そして、やはり自分は妊娠したのかもしれないという可能性が怖くて、それを確かめることが怖いのだなと、あらためて今日子は思い知らされた。さらには自分の、自分たちの計画性と責任感の欠如に対して、何とも言えない嫌なものを感じずにはいられなかった。そして閃いた。
 「そうだ、波瑠と一緒に確かめることにしよう!」
 そう思った彼女はすぐに波瑠にメールを書いた。
 「今日は一日家にいるので、なるべく早く来て下さい。ぜひ二人で相談したいことがあります。もしも忙しくて時間がないようなら、『今日は無理』と必ず連絡を下さい。待ってます」
 メールを送ってからしばらくすると、「五時には行けます」という返事が届いた。今日子はできれば検査薬も二人で買いに行きたいと思った。(まだ続く)

(H.H).
posted by 冬の夢 at 22:51 | Comment(0) | 創作(詩・小説) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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