2020年07月24日

小説:二人だけの話 #1

 「この曲、何? なんていうの?」
 今日子はブランケットから顔だけを出して(その下はまだ真っ裸だった)、しかしすでに十分目覚めていることを示すはっきりとした口調で波瑠に尋ねた。尋ねられた方は、とっくの昔に着替えを済ませ、一畳ほどの広さしかない名ばかりの台所でコーヒーを淹れながら
 「モーツァルトのピアノ協奏曲23番、イ長調、ケッフェル488」と、こともなげに即答した。
 (そこまで訊いていないから。やっぱり絶対にオタクだ)と内心で思いながらも、「なんでせっかく一緒に過ごした翌朝に、こんな悲しい音楽をかけるかな?」と、純粋に心の底から不思議に感じていたことを、重ねて尋ねてみた。本当は「なんでせっかくエッチをした翌朝」と言いたかったところだが、それではあまりに露骨すぎると思い、言いよどんでしまったのだ。
 確かに、流れている音楽は波瑠の「イ長調」という朗らかな答とは裏腹に、すでに中間の第二楽章に入っていて、嬰ヘ短調の沈み込むような悲しみ、淋しさに満ち満ちていた。
 「悲しい? そう? 『美しい』音楽だと思っていたんだけど…そうか、ここだけ聴けば確かにそうだね。ひょっとしたら、昨日の無駄に流された三億の精子の別れを悲しんでいるのかも。でも、もう少し待っていて」
 (あー、なんでこんな変人を好きになっちゃったんだろ?)
 この、何を待てと言っているのか判然としない返事をどう扱えばいいのか。今コーヒーを淹れているところだから、その単純だけど面倒な質問の答を少し待てと言っているのだろうか。別にそれくらい待つのはかまわないのだが、突如まったく別の疑問が湧いてきてしまった。
 「どうして『三億』って数字までわかるの? それに、無駄って何よ、無駄って?」
 今日子がそう言い終わるのを待っていたかのように、突然、曲調がすっかり変わった。
 「ねっ、少しも『悲しい』音楽じゃなくて、どちらかというと『ほら、コーヒー、はいったぞ! 起きろ!』って音楽でしょ?」
 こう言いながら、波瑠はさも愉快そうに勢いよくブランケットを剥ぎにかかった。
 すぐさま「バカ! エッチ! ヘンタイ!」と嬌声を上げてベッドから飛び出し、ブランケットを相手から奪い返すと、我知らず風呂上がりのバスタオルのようにして身体に巻き付けた。そうしながらも、もうすでにお互いの恥ずかしい部分を存分に確認し合った間柄なのに、なぜ今さらこんなことがこんなにも恥ずかしいのか、今日子は自分でも不思議に思い、そして事実、自分の顔が熱くなるのを感じていた。
 「そうすると、なんか、映画のヒロインみたいだね。すごくきれいだ」
 (すごくきれい? こういう言葉を平気で面と向かって口にできるところが、波瑠がこれまでに付き合った男たち――といっても、親しく交際した男性なんて他に二人しか知らないのだが――と違うところだ。)
 そう思いながらも、口に出た言葉は「バカ!」の一言だった。そう言ってすぐに後悔したが、波瑠の方は全く気にしていないようで、むしろ嬉しそうに笑っている。だからこそ、思わず口を突いた「バカ」という響きが余計にうとましく感じられてしまった。

 二人が出会ってから一年と三ヶ月以上の時間が、同じベッドに眠るようになってからは三ヶ月近くが経とうとしていた。波瑠には申し訳ないと思ってはいるが、今日子にはどうしても最初の出会いの第一印象が思い出せない。つまり、第一印象はなかった、ということになる。
 ただし、初めて波瑠がお店に来たときのことはよく覚えている。常連ではないが顔だけは見覚えのあるお客と一緒だった。後で聞いたところでは、大学のゼミの先輩で、教授に紹介してもらい、就職のことで相談にのってもらった帰りに、お酒付きの夕食をご馳走になり、そのまま今日子の働いているお店にまでたどり着いたらしい。世間の常識ではそれは「相談」ではなく「面接の始まり」だったはずだし、そうであるなら、ゼミの教授としては波瑠のことをそれなりに高く評価して、目にもかけていたのだろうけれど、波瑠にはそうした常識は全く通用しない。常識がない点においては人後に落ちないつもりだった今日子から見ても、波瑠の浮世離れには度外れたところがあり、親しくなって以来もう何度となく驚かされている。おかげで、今日子は自分が意外にも常識人なのではないかと考え込んでしまうほどだ。
 なぜ第一印象がないのだろうかと考えてみると、思い当たるのは、その先輩という人がやたらに声が大きく、そのうち周りのお客が腹を立てるのではないかと、今日子が内心ずっと気に病んでいたためかもしれない。ともかく、そのやたらと目立った先輩のおかげで、その晩の波瑠の印象は何も残っていない。だから、その次に波瑠が一人でお店に来たときも、声のやたらと大きかったあの迷惑な客の連れだと最初は気づかなかった。
 一人で再訪したその夜の波瑠は、お店の自慢にもなっている地ビールで作った自家製のシャンディガフを、「これは何か?」と今日子に訊いてから注文した。それでも今日子にはまだ何もわからなかった。波瑠の方はといえば、もちろん地ビールもシャンディガフもどうでもよく、最初にこの店を訪れたときに、ゼミの先輩のありがたい助言や忠告を上の空で聞き流しながら、さりげなく目で追いかけた女性のことしか頭になかった。お店を再訪したところで、そんなことで知り合いになれる、まして親しくなれるなどと虫のいいことを夢見ていたわけでは決してなかったが、せめて口をきいてみたいと強く願っていた。だから、たとえバーの店員と客の間で交わされた、全く平凡な業務用の会話であったにしても、今日子からの返答は、それがどんなに紋切り型の言葉の羅列であったにしても、波瑠には途方もなく貴重なものと感じられたにちがいない。
 ところが、波瑠の弱気な予想を裏切って、今日子の説明は紋切り型からはほど遠い、非常にパーソナルな、話している本人の実感が反映された、つまり、恋愛の初期症状を呈していた波瑠の耳には十分に親密に響く、そのような返答だった。今日子にしてみれば、この店で働き始めた当初はカクテルの名前も知らず戸惑っていたのが、いつの間にかお酒の甘い辛いくらいの知識が身についたことに多少の喜びを感じていたため、地ビールとジンジャーエールに関する自分のささやかな蘊蓄を披露してみたい欲求に従っただけだったともいえる。が、事実として、シャンディガフについて彼女はかなり詳しい説明をした。その間、波瑠は「優しくてはっきりした声だな」と夢心地を感じている一方、「一杯900円もするのか。結構高いな」とも考えていた。
 実際のところ、学費を大学の奨学金で、日々の生活費を主にアルバイトでやりくりしていた波瑠にとって、夜のバーに出向くことは法外な出費を意味した。少なくともまともな理性ならそう思うのが当然だった。シャンディガフを二杯も飲めば、それだけで優に三日分の、倹約すれば四日分の夕食代になるのだから。ところが、そのときの波瑠の「計算」では、三日分の夕食代を削り、ビールを一杯だけ飲むことにすれば、月に二回は今日子の勤めるバーに通えるということになった。そして、事実、一週間分も夕食を食べずにいったいどうしていたのかは不明だが、それ以後は少なくとも二週間に一度の頻度で今日子の働く店に顔を出すようになった。
 後になって二人ともがそれぞれに気づくのだが、その間には小さな幸運とも呼ぶべきことがいくつも重なり合っていた。例えば、今日子の働いていた店が銀座にあるような高級なお店だったら、もうそれだけでさすがの波瑠もお手上げで、お店に通い詰めることは断念しなければならなかっただろう。あるいは、今日子の勤務時間が平日の、月曜日から金曜日の八時から十二時までと定まっていなかったら、せっかく生活費を切り詰めてまでした波瑠の努力も空振りに終わることが幾度となくあったはずだ。ところが、波瑠は何の根拠もないままに、土曜の夜はお店が混むだろうから、もしも万一にも今日子に向かって話しかけられるような機会があるとしたら平日の夜だけだろうと単純に思い込み、今日子の勤務日も、さらにはお店の定休日も確かめずに行動を起こしていたのだった。
 さらには、もしかしたら、波瑠が貧乏学生だったことさえも幸運の一つだったかもしれない。というのは、最初に波瑠の意図を、つまり、波瑠が今日子を目当てにして通ってきていることを今日子に教えてくれたのはマスターだった。どうやらそれなりに苦労人らしいマスターは、いかにも学生風の身なりをした波瑠がいつもシャンディガフを一杯しか頼まず、しかもそれがきっと室温になってしまうほどゆっくりと飲んでいることに、とうの昔から気がついていて、しかもそのことを半ば直感的に好ましいことだとも感じていた。もちろん飲み屋の店主にしてみれば、それはかなり奇妙なことでもあった。というのは、言うまでもないが、バーとしてはたった一杯のビールで一時間どころか二時間近くもねばる客よりも、半時間で何倍もの酒を注文する客の方が好ましいに決まっているのだから。しかし、波瑠の、ある意味で非常に律儀な飲み方――曜日こそ決まってはいなかったが、おおよそ九時半に来て、日付の変わる前に静かに店を出て行く――は、たとえ店の収益には貢献しなくても、マスターには決して不快なものではなかったのだ。ひとことで言うと、どういうわけか、波瑠の姿はなぜかその店に不思議によく馴染んでおり、マスターにはそれがことのほか好ましく感じられのかもしれない。
 そして、そのマスターがある夜、客が一人もいなくて所在ないときに、おそらく本人には何の他意もなく、ぽつりと波瑠のことを口にした。
 「あの子、今夜は来ないのかな?」
 「あの子って、誰ですか?」と、すでに十二分に磨き込まれているカウンターを磨きながら、今日子も何気なく聞き返した。その時点では見当もつかなかった。
 「ほら、いつもシャンディガフを一杯だけ飲んで帰る、たぶん学生の子」
 「ああ、あの人ですか。この半年くらいですかね、よく来てくれますよね、確かに一杯しか注文してくれませんけどね」
 「へえ、それじゃあ今日子ちゃんも気がついていたんだ」と、今度は少し意味ありげな口調でマスターが続けた。
 「わたしだって常連さんの存在くらい、ちゃんと意識してますよ」
 「あっ、そういうことじゃなくて……じゃあ、やっぱり気がついてないね」と、いかにも楽しげな、軽い調子でマスターが続けた。
 「あのシャンディガフの子、どうしていつも一人で来て、シャンディガフを一杯だけ飲んで、それだけで帰るのか? どう思う?」
 「どう思うって、マスターのシャンディが美味しくて、他所では飲めないからじゃないですか?」
 「今日子ちゃんのそういうところ、本当にいいよね」と、心からの本音のつもりでマスターは言ったのだが、今日子の方は、
 「もうわたしのことはからかわなくていいですから。どうしてマスターのシャンディのファンでもないのに、ほとんど毎週やってきて、いつもシャンディばかり飲んで帰るのか、謎々の答を教えて下さい」
 「そりゃ、今日子ちゃんのファンだからだよ。かわいそうに、シャンディはおまけ。このオレ様の大事な店こそいい面の皮ってことさ」
 この返事に今日子は思わず吹き出しそうになった。マスターの口調も愉快ではあったが、それ以上に、マスターの口にした中身が彼女には全くの予想外のことだったから。
 「やっぱり。全然気がついていないと思っていたんだ」と、今度はいかにも満足のいった様子でマスターは説明を加えた。
 「だって、あの子は今日子ちゃんを前にするとガチンガチンに緊張しているのに、今日子ちゃんの方は全くのマイペースだもの」
 「だって、それはまだこういう場所にあの人が不慣れだからだけじゃないですか?」と、本心から反論を試みた今日子の言葉をマスターは、いかにももっともな理由で言下に否定した。
 「それはないよ。いくらお酒を出すといっても、この店は喫茶店に毛の生えたような、いたって健全、安全な店だもの。学生だからといって、注文するくらいで誰も緊張なんてしないよ」
 その客がいつもどことなく緊張していることは、実は今日子も気がついていた。しかし、それは一人でお酒を飲むことに慣れていないのか、あるいはお店の雰囲気に馴染めていないからだと考えていた。たとえマスターが「健全、安全なお店」とユーモアを込めて称したとしても、分厚い一枚板のカウンターと、その背後に麗々しく並ぶ洋酒の瓶の群れ、そして何よりも、決して気取ってはいないくせに、いかにも「バーのマスターです」といった空気を作り出している当のご本人の存在感は、少なくとも今日子の目にはかなり重厚な、重厚が言い過ぎなら、大人の世界とも言うべき雰囲気を作り出していた。
 「わたしのファン? それはないですよ」
 「どうして?」
 どうして、と問われても返す言葉はなかった。
 「今夜くらい、来そうな気がする」
 マスターはなぜか嬉しそうに笑っていた。
 返事に困った今日子は黙ってカウンターを磨き続けた。
 はたしてその晩、マスターの予想通り、波瑠がやってきた。先に気がついたのはマスターの方だった。そうでなかったら、波瑠の姿を見たときに、今日子は小さく驚きの声を上げなければならなかったかもしれない。彼女はいつになく、というか、端的に言えば波瑠を前にして初めて緊張を感じつつ、いつもの「シャンディガフ」と小さな声のオーダーを待っていた。ところが、その日に限ってその客は予想外の言葉を口にした。
 「あの、他に何かお薦めの飲み物はありますか?」
 おそらく波瑠はそんなことは予想も期待もしていなかっただろうけれど、「他に」という何気ない言葉は今日子には、後になって思い出せば思い出すほど不思議な、魔法のような作用を及ぼした。
 (この人は前にわたしがシャンディガフを薦めたことを覚えているんだ)
 そう思った途端、今日子は自分の顔が我知らず上気するのを感じた。店内が適度に暗いおかげで自分の顔色までは相手に見えないはずだと瞬時に思わなかったら、両頬はおそらくいっそう赤く染まっていたことだろう。内心の動揺を気づかれないようにと気をつけながら、なるべく平静を装って答えた。
 「もしもビールがお好きなら、ベルギーの地ビールがあります」
 そう言われた方はただ単に「ベルギーの地ビール?」と繰り返した。それはまるで興味関心が少しもないか、あるいは全く予期していなかった言葉を耳にしたときの反射のように聞こえたので、今日子は何かまちがったことを言ってしまったかのような気さえした。
 「すみません、ビールが好きとばかり思っていたものですから」
 ようやく我に返った波瑠は、しかしほとんど反射的に「じゃあ、それを下さい」と応え、それから慌てて「シャンディガフ、美味しかったです」と言いたした。
 やがて秋が過ぎ、冬が去って、春が訪れ、学年が変わる頃になると、いつの間にか波瑠の指定席はテーブル席からカウンター席に移っていた。五月には今日子は波瑠が大学四年生になったばかりで、フランス文学を専攻していることを知っていたし、波瑠は今日子がすでに大学を卒業して、今は昼間は絵の専門学校に通っていることを知っていた。
 フランス文学を専攻していると聞いたからなのか、波瑠の容貌はよく見れば日本人にしては彫りの深い、二枚目俳優じみた、つまりは、ハンサムといってもあながち間違いではないものだった。そんなことに気づくのになぜ半年もの時間が必要だったのかといえば、一つにはそもそも今日子がやや近視であることに加え、働いている最中にお客の容姿を観察するような興味や関心がきわめて薄かったことにあった。それを言うなら、彼女にとっては人の容貌よりも姿勢の方がずっと面白く感じられた。そして、ついでながら、波瑠の姿勢は猫背なんて生やさしいものではなく、ほとんど背骨の存在を感じさせないような、猫というよりもむしろクラゲ、いつ見てもまるで泥酔しているのではないかと案じられるほどに不健全な姿勢だった。波瑠が意外にもハンサムであることに今日子が気づかなかったもう一つの理由は、その無様な姿勢に加え、波瑠がまるで冴えない眼鏡をかけていて、主にその眼鏡のおかげで、全体の印象が典型的なオタクを強く思い起こさせたからだ。ひとことで言うなら、波瑠が今日子に与えた印象は、長らくの間、「おとなしくて礼儀正しいオタク」という類型に属するものだった。 

 「それで、波瑠は就職はどうするの?」
 夏はとうの昔に終わり、すでに秋の長雨の時季になったのか、朝から雨が断続的に降り続いていた。(続く)

(H.H.)
posted by 冬の夢 at 22:40 | Comment(0) | 創作(詩・小説) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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