2020年05月05日

TVドラマ『沈まぬ太陽』 〜 単純化と対立化による引き込み力

 昭和六十年八月。私はつくば万博の会場にいた。つくば万博とは「国際科学技術博覧会」の略称で、その年の三月から九月まで筑波研究学園都市で開かれた国際博覧会。会場には世界各国や日本企業によるパビリオンが立ち並び、その合間に来場客向けの飲食店や土産物屋が出店した。社会人二年目の私は、在籍していた北関東の営業店から近いという理由で、つくば万博の出店へ数ヶ月間派遣されていた。饅頭の詰め合わせやマスコットグッズを販売するために。
 八月十二日。夜まで営業しているため遅番で勤務していた私は午後6時過ぎに従業員食堂で食事をとっていた。昼時は人いきれでむっとするその食堂も夕方以降はひっそり閑としていて、柱の上方に据え付けられたTVが薄暗い中で侘しい光を放っていた。定食の味噌汁を啜りながら、ぼんやりとその画面を見ていると、突然電子音とともに臨時ニュースのテロップが現れた。「日航123便がレーダーから消え、現在運輸省などで調査中」。茫然としながら、すぐに現実のこととは思えなかったそのとき。午後6時56分。JAL123便は、乗客乗員524名を乗せたまま群馬県上野村御巣鷹山に墜落したのだった。

 『沈まぬ太陽』は、その日本航空123便墜落事故を取り上げた山崎豊子の小説。2009年に映画が公開され、2016年にはWOWOWでTVドラマ化された。小説は文庫本で五巻に及ぶ長編で、私は第三巻の「御巣鷹山篇」のみ読んだことがある。墜落事故自体が非常にショッキングだったので、事故発生以降に出版されたルポルタージュなどを読み漁ったことがあった。それがどのように小説化されているのかを覗いてみたくなって、中途半端に三巻に手を出した。その感想は、既出の事実を適当に並べただけで、小説にする意味がどこにあるのかよくわからないというのが正直なところ。山崎豊子氏本人によると「御巣鷹山篇を先にお読みになって、こんな事故をおこす会社はどんなところかとアフリカ篇を読む、それから事故後どういう改善をしてくれたかということで会長室篇を読まれる読者が多い」(※1)と言うことだが、他の四巻を読む気にはならなかった。けれども読まない分だけ、あの労組出身の主人公は何がどうしてこうなったのかという興味だけが残滓となっていた。

 そんな引っかかりがあったものだから、映画化された『沈まぬ太陽』を昨年やっと見てみた。3時間22分の長尺で、途中にインターミッションまで挟まる大作。登場人物もエピソードも満載なのに、どれも中身がスカスカで端折った感に溢れていた。その不満足さがさらに関心をそそることになる。渡辺謙ではあまりに偉そうに見え過ぎた主人公恩地元は、本来はどんな人物として描かれていたのだろうか。小説を読めばいいじゃんって話なわけだが、どうも食指が動かない。などと煮え切らない態度でいたらば、外出自粛を契機に見始めることになったAmazon Prime Videoで、有料放送のWOWOWがTVドラマ化した『沈まぬ太陽』全20話が配信されているではないか。と言うわけでやっとここで本題のドラマに辿り着いた。

 TVドラマ版『沈まぬ太陽』では毎回エンドロールの終わりに次のような但し書きが映される。

このドラマは山崎豊子原作『沈まぬ太陽』に基づき製作したフィクションです。登場する人物や団体等は、実在のものとは一切関係ありません。

 『沈まぬ太陽』に出てくる国民航空とはほぼ100%日本航空のことであるし、NAL123便墜落事故はJAL123便の悲劇に他ならず、主人公恩地元には労組出身の日航社員のモデルがいる。それでもフィクションと言い切ることが本ドラマ製作陣の矜持でもあるのだろう。
 しかしながら、全20話を見続けてみて、まさにこのドラマは真のフィクションであると感心してしまった。フィクションとは「想像によって架空の筋や事柄をつくること/仮構/虚構」であり、虚構とは「実際にはない、作り上げたこと」(岩波国語辞典)を言う。山崎豊子の小説世界を映像化する際に、最重要視すべきなのはその虚構性だ。その意味でWOWOW版TVドラマは見事な成果を収めている。Amazon Prime Videoで次から次へと寸暇を惜しんでエピソードを見続けてしまう中毒状態。その毒は虚構性にある。虚構の要素は「単純化」と「対立化」。単純化は一面化に等しい。登場人物は誰もがただひとつの側面のみで性格づけされる。主人公の恩地は信念の男だし、恩地の妻りつ子は内助の功を貫く。その他、策士、変人、そして尊大、従順など、ほとんどひと言で表現出来てしまうキャラクターが勢揃いする。そんな単純化されたキャラクターをわかりやすくするためのキャスティングもバッチリ。適材適所そのものの配役で、俳優は与えられた役をあえて誇張して演ずる。単純化の誇張化。これが視聴者をドラマに引きずり込む。
 そのようにわかりやすく膨張化された登場人物たちが、ストーリーのうえでは対極に配置され対立する。両極の位置づけは誰が見ても明らかだ。善か悪か。良心か悪意か。左か右か。登場人物のコマは何の曖昧さもなく、盤上の離れたところに置かれる。極めて多くの人物が出てくる連続ドラマにおいて、視聴者が見続ける際に戸惑いの元となる要因はすべて排除されている。単純化・誇張化と対立化・対極化の産物である。
 主人公恩地元は「労働者」サイドの象徴だ。対するは、社長に登り詰める堂本。彼は悪意に固まった悪人であり、経営陣の代表である。恩地を上川隆也、堂本を國村隼が演じる。本作の感想の中で、後半に登場する陣内孝則や高嶋政伸の演技が大仰でわざとらしいという意見が見られる。けれども単純化された誇張性というキャラクター設計の基盤から言えば、上川隆也も國村隼も同じ穴の狢だ。会社からの抑圧に耐えながら感情を抑えて正論を低い声で唸り続ける上川隆也の演技。あるいは表情を変えずに冷酷無比に淡々と要件のみを伝える國村隼。わかりやす過ぎて、見ていても何の疑問も起こらない明快さである。

 このように言うと茶化しているように思われてしまうが、ある側面のみを誇張して大袈裟に演技することを揶揄しているのではない。見る者が迷わないようにあえて極端に振れた演じ方をするのは、伝統芸能である歌舞伎においては当たり前のこと。隈取は役者の表情を読み取りやすくするための工夫だし、隈取が青ならその人物は悪人に他ならない。また顔全体を赤く塗る「赤っ面」も、ひと目見ただけで悪役とわからせる記号だ。
 話を戻すと、陣内孝則演じる国航開発の岩合も、高嶋政伸がやる轟も、いかにも悪役らしく演じているだけのこと。そこにリアリティは米粒ほども存在しないが、フィクションにおける記号としては十二分に機能している。無論、誇張して演じることに臭みを感じさせる場合もあって、陣内孝則と高嶋政伸に不快感を抱く視聴者は、演技の臭さが気になるのではないだろうか(この二人だけは登場人物としての単純化を超えて、不必要なウケ狙いの演技が見え隠れする)。
 対立の構図も言うに及ばず同様だ。労働者と経営者。油にまみれた現場と陽光が注ぐ本社。労働者のための旧労組と経営者のための新労組。安全重視と効率重視。保守与党と革新野党。誰が見ても納得のわかりやすさだ。
 とは言え、わかりやすさだけで見る者を飽きさせず提供出来るものではない。山崎豊子の原作は、そこに大衆小説家としての技量が備わっている。すなわちわかりやすいと同時に、勧善懲悪ではない。否、善は常に迫害され、悪がのさばるように構成されている。こんなことが許されるのはおかしい!読者は山崎豊子のストーリーテリングにのせられて、義憤を感じ、余計に「善」サイドにいる登場人物に思い入れを強くする。再建請負人として担ぎ出された関西紡績の国見会長は、正面から改革に取り組んだため、首相に裏切られて解任される。このような理不尽な展開が、視聴者を引き込み、取り込んで離さない。なんともよく出来たドラマなのである。
 そんな中でただひとり、単純化されない人物がいる。行天四郎。主人公恩地とは同窓の親友で労組の同志。しかし恩地が経営陣から反分子だと睨まれると、徐々に距離を置き、物語の後半では取締役常務に登り詰めたことで恩地と対立する副主人公だ。この行天だけが『沈まぬ太陽』では異色の存在になっている。友情か出世か。義か利か。誠実か不実か。この人物だけは両極の間を割り切れずに彷徨っている。唯一陰影のあるキャラクターが行天だ。演じるのは渡部篤郎。そんなに好きな俳優ではないが、この行天には見事にハマっていた。善にも悪にもなり切れない中途半端さが醸し出されていて、ドラマの中で唯一割り切れないままでいる素数の役割を果たしていた。

 小説でもドラマでも、旧労働組合が肯定的に描かれ、圧倒的多数派である新生労組が悪玉の位置に置かれているが、それはもちろん単純化と対立化のあおりを受けてのこと。虚構だからこその設定であって、このドラマだけを見て、実際の労働組合活動を云々するのは全くの筋違いだ。しかしながら、労組問題を正面から取り上げた作品は多くはなく、だから余計に私はかつて見聞きした労働組合活動の異質な側面に思いを及ばせてしまう…。
 つくば万博が終わって数年後、私は北関東の営業店から関東圏の営業店を統括する部署に異動になった。統括担当役員が頭を悩ませていたのが、管轄する中の主力店の労組問題。首都圏労働組合の一支部に過ぎないのにも関わらず、支店長が毎月支部委員長に付け届けに行かなければならないと言う。実際の届け先は委員長ではなかった。支部委員長を背後から操る外部アドバイザーなる人物に呼び出されていたのだ。
 アドバイザーA氏は、労働条件の違いから組織統合から外れていた北海道地区と北陸地区の労働組合を牛耳っていた人物。労働問題の専門家としてアドバイザー契約を結んだのを踏み台として巧妙に地域の労働組合に入り込み、執行部を籠絡していた。組合活動の名目の元、地域の組合員だけの集会を開く。東京から管理職として出向してくる幹部社員を悪玉に仕立て上げ、地元出身者が搾取されていると洗脳するために。一緒に働いたことがある先輩社員が北陸の営業店に転勤になった後、私は電話を貰ったことがある。「この電話は盗聴されているかも知れないからまた今度会ったときに詳しく」とか「出向者同士で呑み屋で話した中身が、次の日には支店中の人間に伝わっている」とか、北陸での日々を恐々した様子で話してくれた。そのA氏がいよいよ支配力を首都圏に拡大しようとしていたのだった。
 その後、会社自体が業績悪化により経営破綻寸前まで追い込まれる中で、過去の腐敗と膿みが暴かれ、アドバイザーA氏による労組支配は終幕を迎えた。しかしながら、地域における労働条件格差や出向者による管理職ポストの占有などを逆手にとって、「東京本社=悪、地域組合員=善」と単純化・対立化して人心を掌握し、権力を奪い取ったその手法は、今にして思えばなかなか良く出来た権謀術数であった。話題が思わず脱線してしまったが、そんなわけで労働組合にもいろんな側面があり、所変わればその有り様も様々であると言う事例のひとつが思い出されたのだった。

 WOWOW版『沈まぬ太陽』のオープニングタイトルはアフリカで撮影された夕陽である。TVドラマなのにその作り込み方には敬服させられる。アフリカの大草原の空撮やイランなどでの現地ロケ。しかも1960年代の時代設定に合わせて現地で大規模なセット作りまで行っている(※2)。また、悲惨な墜落事故現場も大規模に再現されていて、ドラマの製作目的が二度とこのような事故を起こさないための記録かつ啓蒙にあるのだと伝わってくる。そんな本格的な製作体制のうえに多種多彩な俳優の揃い踏み。外出自粛の折、一気見に耐える良質なドラマだった。(き)


沈まぬ太陽.jpg


(※1)国公労新聞 2000年1月1日号より

(※2)WOWOW『沈まぬ太陽』HPより



posted by 冬の夢 at 22:18 | Comment(1) | 映画 邦画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 このドラマを見ていないので比較はできず、感想につきるコメントになりますが、この文を読むと田宮二郎を思い出さずにはいられません。
 この文でもよくわかりますが、たしかに極度に分かりやすく設定され、しかも親切なことに対立構図で配置されてもいる役でした。そのいっぽうを、劇映画だテレビドラマだとわかって見ていても、どこか異様に見えるほど入れ込んで演じてしまう田宮二郎。くさい芝居というなら限りなくくさい芝居で、ときには見ていられないほど。しかし、つくり話の世界に、逆説的にリアリティとしかいいようのない空気感をもたらし、その話のテーマについて、かえってこちらに考えこませてしまうのも、この人の存在あってだったと思います。
 田宮の役作りへの異様な執念は現場でも有名だったそうで、おそらく関係者の多くが、なにごとも極端で、こだわりをゆずらない人だと思っていたのではないでしょうか。しかし、田宮と同じ意味でだったかどうかは分かりませんが「演じる」ことについて「わかっていた」に違いない太地喜和子は、田宮を理解していたと思われます。自殺にいたる田宮の不調に最初に気づいたひとりも、たしか太地でした。
Posted by (ケ) at 2020年05月12日 00:48
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