2020年02月19日

追悼・野村克也監督 〜 1992年日本シリーズを振り返る

 子どもの頃、子どもたちはひとり残らず野球をして遊んでいた。誰かが投げて、誰かが打つ。マウンドもホームベースも外野手もいない。たぶん捕手もいなかった。空振りしたら打者が後方に転がったボールを取りに行き、投手に返した。それは試合ではなく遊びだった。けれども背番号はあった。揃いのユニフォームはとても高価で手に入らない。だから白い半袖シャツの背中に油性マジックペンで数字を書いた。歪んだ線で平行も取れていない手書き番号。それでも憧れのプロ野球選手になり切れた。年長の子どもが年少の子たちと揉めた末に長島茂雄の「3」と王貞治の「1」をとる。私は争いを避けて高田繁の「8」。あぶれた子たちは渋々ながら黒江の「5」や土井の「6」に落ち着く。そんな中でいきなり「19」にすると言い出す子がいた。南海ホークスのキャッチャーで四番打者。史上二人目の三冠王(※1)。野村克也の背番号19を選ぶ子どもは当時ではかなりの変わり者だった。TVの野球中継はすべて巨人戦だったし、少年誌の表紙は長島か王。そして何より野村克也には子どもたちを惹きつける華やかさがなかった。だから野村が南海で選手兼監督になっても、ロッテから西武へとさまよった末に引退しても、さしたる興味を呼び起こさなかった。

 野村克也は引退後、野球解説者になっていた。当時はフジテレビが夜11時台に放映していた「プロ野球ニュース」の全盛期。関根潤三や豊田泰光らの解説者とアナウンサーの掛け合いで、ナイトゲームの結果をワイドショー的に伝える番組が人気だった。派手なフジテレビの対極にあったのが地味なテレビ朝日。そのテレビ朝日の野球中継解説者が野村克也だった。ところが野村の解説が段違いに面白い。他の解説者が投げた後と打った後に話をするのに、野村だけは打つ前、投げる前にコメントを呟く。「盗塁してくる場面だからカーブは投げたらあかんです」「前の打席でストレートを打たれてるんで、ここは同じ直球を内角高めにボール気味に放れば空振りですわ」。それまでの解説者は「今のは鋭いカーブでしたね」とか「ライトの守備位置が前過ぎました」とかプレーの結果の感想を述べているだけだった。それに対して野村は次に起こるプレーを予測し、なぜそうなのかを解説した。野村の野球解説は特別に革新的に聞こえた。それは内外の野球理論を知悉したうえで、深く長い捕手経験をベースに選手の癖や心理までを読み取って分析を加えたものだった。
 その解説が野村克也の次の道を拓く。現役引退から九年経った1989年の秋、野村の自宅を訪れたのはヤクルトスワローズ球団社長の相馬和夫。「ぜひヤクルトの監督をやっていただきたい。もう一度ユニフォームを着てくれませんか」。相馬は野村の野球解説を欠かさず聞き、新聞に掲載された評論をもれなく読んでいた。「ヤクルトの選手に野球の真髄を教えてやってほしい」という誘いに野村は肯いてこう答えた。「一年目に種を撒き、二年目に水をやり、三年目に花を咲かせましょう」。(※2)

 野村克也の言葉は現実のものとなる。監督就任初年度の1990年こそ5位に終わったものの、1991年は3位とヤクルトを十一年ぶりのAクラスに浮上させ、1992年にはついにセ・リーグ制覇を成し遂げたのだ。
 野村が掲げたのは「ID野球」。インポータント・データの言葉通り、データを徹底的に分析して、選手たちの頭に叩き込む。同時に選手起用を見直した。新人キャッチャーの古田敦也を正捕手に指名。捕手だった秦を外野手にコンバート。飯田は捕手から内野手へ、さらには外野手へと移された。ベンチで野村から付きっきりの指導を受けた古田は「頭を使う野球」をマスターして、投手の全配球を差配した。92年のセ・リーグは、ヤクルト・巨人・阪神・広島の四チームが勝率五割を超す大混戦となったが、最後にヤクルトが阪神戦を制しリーグ優勝を果たした。広岡達朗監督による初優勝から十四年ぶりの快挙だった。

 日本シリーズの対戦相手は西武ライオンズ。西武はヤクルトを辞めた広岡達朗を監督として招聘して、1982年に日本一を達成。広岡から監督の座を受け継いだ森祇晶のもと、ほぼ毎年のように戴冠を重ねていた。
 西武の圧倒的強さは巨人に四連勝した1990年の日本シリーズが物語る。一番辻が安打で出塁し二番平野が犠打で送る。三番清原が四球で歩き、四番デストラーデに長打が出て、一回で早くも先制する。なんとこのパターンが第一戦から第三戦まで同じように繰り返されたのだ。球界の盟主だった巨人をぐうの音も出ないほどに叩きのめしたその強さを前にすると、野村ヤクルトはとても西武の相手ではないように思われた。リーグ優勝したと言ってもヤクルトは69勝61敗1分の勝率.531。かたや西武は80勝47敗3分で、勝率.630と独走でパ・リーグを三連覇したのだ。
 しかし、予想はあくまで予想に過ぎなかった。1992年のヤクルトスワローズと西武ライオンズによる日本シリーズは、今日まで語り継がれるほど波乱万丈の大激戦になったのだ。

第一戦(延長サヨナラ)
ヤクルト7-4西武
先発投手はヤクルトが岡林、西武は渡辺久信。九回表に西武が追いついて3-3のまま延長戦へ。十二回裏ヤクルトは一死満塁のチャンスに代打杉浦。2ストライクと追い込まれた杉浦だが、鹿取からサヨナラ満塁ホームラン、ヤクルトが先勝した。

第二戦(投手戦)
西武2-0ヤクルト
荒木大輔と郭泰源の投げ合いを制したのは清原の2点本塁打。舞台は西武球場へ移動するが第三戦は雨で一日順延に。

第三戦(この試合だけ普通)
西武6-1ヤクルト
このシリーズで唯一の一方的な試合。ヤクルト石井一久の先発は高卒ルーキーではシリーズ史上初という奇策。打線も西武の石井丈裕に抑え込まれた。

第四戦(投手戦)
西武1-0ヤクルト
ヤクルトが再度岡林を先発させる一方、西武は渡辺智・鹿取・潮崎の継投策。岡林が秋山のソロ本塁打のみに抑えるも、ヤクルトは打線が不発のまま三連敗。後がなくなった。

第五戦(延長戦)
ヤクルト7-6西武
ヤクルトが6点先行して楽勝かと思われたが西武が6点取り返して同点のまま延長へ。十回表、不調だった主砲池山が本塁打を放ち、その裏をベテラン伊東が抑える。舞台は再び神宮球場へ。

第六戦(延長サヨナラ)
ヤクルト8-7西武
荒木と工藤の先発で始まった試合は逆転に次ぐ逆転の連続。ヤクルトが三度目の逆転に成功し逃げ切りを図った九回表、西武が秋山の長打で追いつき7-7でまたまた延長戦に。しかし十回裏、秦のサヨナラ本塁打でついにヤクルトは三勝三敗のタイに持ち込んだ。

第七戦(延長戦)
西武2-1ヤクルト
ヤクルトは第一戦と第四戦を完投した岡林が三度目の先発。西武石井丈から一点先取したヤクルトは七回表に追いつかれ同点に。その裏、一死満塁の好機に代打はまたしても杉浦。鋭いゴロを二塁辻がキャッチし本塁へ送球するも高く逸れる。跳び上がって捕球した伊東はホームベース手前に着地。その足が三塁走者広沢をブロックしてタッチアウト。ヤクルト最大のチャンスは潰えた。同点のまま試合はシリーズ四度目の延長戦。七戦のうち三試合をひとりで投げ抜いた岡林から秋山が犠飛を放つ。十回裏を石井丈が抑え、西武ライオンズが日本一を決めた。(※3)

野村02.jpg

 第七戦までもつれ込む白熱したシリーズ。そのうち四試合が延長戦。二試合がサヨナラホームランで決し、息詰まる投手戦二試合。ヤクルトが逆王手をかけた第六戦は逆転に次ぐ逆転のシーソーゲーム。野球は筋書きのないドラマであるとは誰が言ったか知らないが、まさにドラマ以上にドラマティックな日本シリーズだった。
 同時に第三戦が雨天順延になったことも見逃せない。短期決戦の雨は両チームの勢いを削ぐ一方で、投手起用に影響を及ぼした。結果的に三試合をすべて完投した岡林は、雨天順延がなければ第七戦には投げられなかったはず。また、当時の日本シリーズはデイゲームでの開催。連日の延長戦で、夕闇迫る中、球場には照明が灯される。太陽の陽射しから照明塔のカクテル光線へ。十月下旬だから徐々に下がる気温も選手は気になったことだろう。そして、何よりも日本一を決める短期決戦が昼間に開催されているという非日常感には、特段の雰囲気があった。
 翌年の1993年。ヤクルトと西武は再び日本シリーズで対決する。やはり第七戦までもつれるも、最後にはヤクルトが制し、西武の四連覇を阻止。十五年ぶりの日本一に輝いたその年が、日本シリーズにおけるデイゲーム開催の最後となったのだった。

 1992年の日本シリーズは、野球ファンなら誰もが思い出す名勝負だった。あれから三十年近くが経ち、球場はほとんどがドーム化されて雨の心配はなくなった。ナイトゲームだから平日でもTV観戦が可能で、誰もが普通に見られるようになった。しかし誰もが日本シリーズを見ることはなくなってしまった。両リーグの覇者が争っても、毎年パ・リーグのチームが勝つのだ。第七戦まで行ったのは七年前。そもそもリーグ優勝チーム同士が戦うわけではない。クライマックス・シリーズを勝ち上がればリーグ三位でも日本一になってしまう。そんな日本シリーズでは、野村ヤクルトと森西武のようなドラマ以上のドラマを見せることは不可能だろう。
 かくしてプロ野球史上最も面白い日本シリーズは終わった。第七戦で160球を投げ切った岡林は「使ってくれた監督に感謝したい」と言った。インタビューに答えた野村監督はひと言「選手を褒めてやりたい」(※2)。ID野球を掲げながら、実は情の人でもあった。野村克也監督のご冥福を心よりお祈りしたい。(き)

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(※1)野村克也は1965年にパ・リーグで三冠王を獲得した。プロ野球最初の三冠王は1938年の巨人軍の中島治康。

(※2)「捕手ほど素敵な商売はない 野村克也VS森祇晶」(松下茂典著・朝日新聞出版刊)を参考にした。

(※3)Number303「'92日本シリーズ速報」(1992年11月20日号・文藝春秋発行)を参考にした。

(※)野村克也氏は2020年2月11日、八十四歳の生涯を閉じた。


posted by 冬の夢 at 00:35 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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