2020年02月15日

Orleans − Dance With Me 元気が出る曲のことを書こう[45]

 好きなヒトとペアで踊るなら、どんな曲で、どんなダンスをしますか?
 と書きながら、最後に女のコと踊ったのって何十年前だっけと、わびしく思い出している自分がいたりする。

 とうに影も形もない東京・六本木のスクエアビル、そのどれかの階が最後だったかもしれない。
 バブル前哨戦、いまになって第一次ディスコブーム──の終わりごろ──といわれる、一九八〇年代前半のこと、わたしは二〇歳前後だ。
 夜遊び派ではなかった。同世代が楽しんでいることをしてみたかっただけ。貧乏学生だったので遊び歩けず、勤め人になると小づかいはできたが、忙しくて夜遊びどころではなくなってしまった。
 しばらく後に第二次ディスコブームとなり、そちらのほうが華々しかったようだが、そのころの「マハラジャ」にも、さらに後の「ジュリアナ東京」にも、イベント関連の仕事でしか行ったことがない。したがって安倍首相夫人と知り合う機会はなく、むろん、その夫にも、なんの縁もない。

 ばかげた冗談はともかくとして。
 八〇年代前半のディスコで流れた曲やダンスだが、どうしても思い出せない。
 運動神経がないので、ダンスでなく御祈祷みたいな動きをしていた記憶はあるが、音楽は、どうしても思い出せない。
 そして、いまダンスといわれたら、ディスコとはぜんぜん関係なく、ダンスビートでさえない、この曲を、なぜか思い浮かべる。
 最初にレコードに収録されたのは一九七四年、そのレーベルとのトラブルで移籍後に出した盤に再収録され、ヒットしたのが翌一九七五年だ。六本木のディスコにつながる線はどこにもない。

 Dance with me
 I want to be your partner
 Can't you see the music is just starting
 Night is calling and I am falling
 Dance with me

  ぼくと踊ってよ
  ぼくをパートナーに選んでよ
  わかんないかな 音楽は始まったばかりで
  夜は招いてて ぼくは恋におちてる
  ぼくと踊ってよ

 Fantasy could never be so giving
 I feel free I hope that you are willing
 Pick the beat up and kick your feet up
 Dance with me

  夢は簡単にはかなわないけれど
  ぼくは自由だよ きみもそう感じてくれるといいな
  鼓動を熱くし 足を思いっきり上げなよ
  ぼくと踊ってよ

 Let it lift you off the ground
 Starry eyes and love is all around us
 I can take you where you want to go

  そのまま地上から空へ飛び立つにまかせよう
  瞳は星と輝いて 愛がぼくたちをつつむ
  きみが行きたいところに どこでもつれていってあげられるよ


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dance with me single 1975

 アコースティックギターが重なった響きが美しく、歌も、さわやかなハーモニーを聴かせる。
 ディスコミュージックでもブラックコンテンポラリーでもない、いかにも一九七〇年代の米西海岸で、コットンシャツにジーンズの気のいいお兄さんたちが演奏したような曲だ。
 バンド名の「オルレアン(ズ)」も、ジャンヌ・ダルクの歴史ロマン風につけたのではないか──日本では、ほとんど注目されなかったバンドなので、この曲を聴いたきり、そう思っていた。

 ところが、みな大間違いだった。
 一九七二年にウッドストックで結成されたバンドなのだ。

 ニューヨーク州ウッドストックといえば、もちろん「ウッドストック・フェスティバル」。ただ、フェスティバルの開催地は正確には隣郡のベセルというところで、ウッドストックはボブ・ディランやジミ・ヘンドリックスがいた、いわゆる「芸術村」らしい。ウッドストックとマンハッタンが同じ地域とは想像しにくいのだが、ニューヨーク州はえらく広いのだ。
 バンドリーダーで、この曲を作ったジョン・ホールはボルチモア生まれ。ニューヨーク州西部で育っている。
 音楽的な影響は、ニューヨーク(市)へ出て、六〇年代のグリニッジ・ヴィレッジのフォーク・カフェで受けた。シンガーソングライターたちの登竜門だった、オーディション形式のライブ・カフェだ。のちに有名になった人たちと知り合い、呼ばれて演奏することにもつながったそうだ。
 当時の南部の音楽や、ブラックミュージックにも関心が強く、バンドの名はルイジアナ州ニュー・オーリンズからとった「Orleans」、日本では「オーリアンズ」だが「オーリーンズ」である。
 だからか、かなり泥くさくて粘っこい、R&Bっぽいロックを演奏もしているので、この曲は、バンドのもともとのイメージとはかなり違う。

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LET THERE BE MUSIC 1975

 ホールは、家でギターを弾きながらメロディを作った。
 アコースティックギターでハーモニーとストロークをおりまぜて弾く、一発で記憶に残る美しいイントロと伴奏も、ほぼ作ったらしい。
 それを別の部屋で聴いていた奥さんが、その曲、いかにも「Dance With Me」って感じね! とどなった。ホールが、そんなの当たり前すぎるよ、もうちょい特別な何かじゃなきゃ、だめだよ! といい返して終わり。
 しばらくたって、バンドメンバーのラリー・ホッペンに、ギターとメロディだけを聴かせてみたところ、ホッペンに、こういわれる。
「お前な、絶対に完成させなきゃだめだ。これ、ヒット曲に聞こえるぞ」
 さらに間があき、ブレイクスルーさせたのは、また奥さん。
 夫婦で乗っていた車内で、「Pick the beat up and kick your feet up.」を思いつき、手近の封筒にメモ。帰宅して、歌詞がつながり、「Dance With Me」は完成した。
 その奥さんとは別れることになり、バンドメンバーとのいき違いから──ホッペンとだったかどうかは知らないが──ホールはオーリアンズを抜けることになるが、音楽を大切にする仲間たちの話として、いいなと思う。

 二〇歳代の若者だった、彼らの音楽を尊重し大切にした制作者たちもいた。
 はじめに書いたように、デビュー契約したレコード会社は、「Dance With Me」を収録した二枚目を、売れっこないと踏んで宣伝もろくにしなかった。しかし、移籍後の三作目を制作したチャック・プロットキン──のちにブルース・スプリングスティーンの「BORN IN THE U.S.A.」の共同プロデューサー──は、いいと思った曲は何度も録音し直させた。「この曲は、間違った作りかたをしちゃいかん、大切すぎる曲だからな」といって。
 ホールは、いまもスーパーマーケットの野菜売場などで、プロットキンと制作したオーリアンズの曲を聴くたび、それがいかに正しいことだったか感じるそうだ。

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John Joseph Hall
Public domain

 ジョン・ホールのことで、もうすこし書いておくべきことは、まず一九七九年三月のスリーマイル島原子力発電所事故の直後、MUSE(Musicians United for Safe Energy)をジャクソン・ブラウンやグレアム・ナッシュたちと立ち上げ、同年秋にニューヨークで開いたコンサート「NO NUKES」の中心にいたことだ。二〇一一年夏にMUSEが開いた、福島への募金も集めた慈善コンサートにも参加している。

 一九八〇年代以降は、地域の違法投棄所撤去運動や、原発立地反対活動にかかわり、地方議会議員として政界入りする。二〇〇七年から二〇一一年までは、民主党リベラル派のニューヨーク州選出下院議員となった。そのころ、議員よりも音楽家のほうが多くの人に届けられるものがあるとホールにいった上院議員もいたそうだが、ホールは立法をつうじて、暮らしを変えようという道を選んだ。
 議員時代の、米国旗を背景にしたプロフィール写真を見ると、とうていこの人が人気バンドのセンターにいたとは思えず(笑)、オーリアンズのアルバムジャケットに写ったメンバーの誰が、この米下院議員なのか、当てることは難しい。
 それほどカンペキに政治家然として、政策活動や選挙戦にかかわってきたホールだが、共和党の女性候補に再選を阻まれたことで、あっさり議会活動はやめ、また音楽の世界に戻ってきている。

 作るべき曲、やるべきライブがあると感じていて、事務所に積み上がった書類を処理できる気がしなくなったんですよ。
 六度の選挙で五度当選し、最後に議席を失ったとき、もう他の人がやる番だから、っていったんです。


 と、あっさり語ったジョン・ホール。
 二年飛び級して大学に行ったほど物理ができた少年ジョンは、お父さんの希望どおり物理学者かエンジニアに、あるいは、熱心なカトリックだったお母さんの望んだ聖職者になるはずだった。
 が、専門職になったのは三人兄弟の兄、聖職者になったのは弟で、次男のホールは「わたしは二つの木の間に落ちたリンゴですよ」と冗談をいう。
 せっかくの大学を一年と一学期で中退し、バンドをやると宣言したとき、なんとかやめさせようと、音楽生活がどんなに辛いか諭したものの、結局は、幸福で生活がなんとかなればいいと認めてくれた親御さんがいたから、ホールは音楽がやれて全米に知られ、ミュージシャンたちの応援で、政治家となって仕事もできた。
 息子の演奏がラジオで聴けて、さらには聖書に手を置いて宣誓する姿まで見られて、ホールの両親は、息子を許した「成果」を経験できたのだった。

 ただ、それはおそらく、ホール家の家訓だった「より高く達成しよう」がもたらしたものだろう。いかにも白人中産階級っぽい。
 そんなのロックンロールじゃないぜと、ちょっとつぶやいてみたくもなるし、いま書きながらオーリアンズの盤を回していると、どっか、お上品だよなって気もしなくない。
 けれども、「ダンスミュージック」といわれるものを、いままでにいったい何曲聴いたかしれないが、ダンス、といわれたら、この曲を思い出す。社会的なことは何も歌われていないけれど、よりよい場所へ行きたい、よりよい自分を求めて、この場所からジャンプしたいから手をとってほしい、という気持ちを、忘れずにいられる。できれば一人ぼっちでなく、好きな女のコに勇気を出して声をかけ、手をとってもらいたいしね。

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DANCE WITH ME The Best Of Orleans 1997

「Dance With Me」の聴きどころは、もちろんアコースティックギターや歌の美しいハーモニーだが、「この曲、ぜったい仕上げろよ」といった、ラリー・ホッペンの役割も、とても大きい。
 昔、小学校の学芸会などで使ったメロディカ※1でつけている間奏やオブリガートが、ほのぼのと泣かせるし、ハーモニーの高音部を歌い、サビの終わり「I can take you where you want to go」を、ピックアップでせつなく歌い上げているのもホッペンだ。※2
 それから、ベースが「歌っている」のも、この曲の心地よさだ。もともとベース担当だったホッペンが、歌と鍵盤に専念するため、弟をバンドに入れた。そのランス・ホッペンのベースもいい!
 いつまでも心にとどく、ころがるようにメロディにぴったりはまったシンプルな歌詞と、素直で美しい伴奏。日本のスーパーやコンビニエンスストアにも、こういう曲が「ときどき」流れてほしいものだ。(ケ)

※1 ヤマハの「ピアニカ」の名が知られている。
※2 2012年に亡くなっている。残念だが自殺だった。


【資料】
「Whats Up Rhode Island」2018
「Musicguy247」2016
 などの、インタビュー記事を参考にしました。

※二〇二〇年一〇月九日、わずかに直しました。演奏用語の間違いです、すみません。 



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posted by 冬の夢 at 01:37 | Comment(0) | 音楽 ロック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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