2019年12月17日

夜の千切れ雲(2):月の光は流れる水(其の三)

月の光は流れる水(其の三)
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 隣の部屋とは襖で仕切れるようになっていたが、二人が入ったときには襖は開かれていた。その隣の部屋にはテレビや立派な座卓が置かれていたけれど、邦郎は特にテレビが見たいとは思わなかった。ただ、いかにも疲れて眠そうな母には申し訳ないが、たっぷり昼寝をしてしまった身としては、すぐには眠れそうになかった。そこで、すでに寝間着に着替えた母に向かって尋ねてみた。
 「少し起きていてもいい?」
 「そう? もう眠くないの?」
 「うん。多分」
 「そうね、五時間は寝ていたものね。お母さんはもうすぐにも眠れそうだから、先に寝るわよ。邦郎は、起きているなら、襖を閉めて隣で本でも読んでいたら?」
 由美子の了解を得て、邦郎は隣の部屋で本を読むことにした。持ってきた本を読み切ってしまうことになるけれど、もはや仕方なかった。それに、きっと帰りの電車は眠って過ごすことになるだろう。
 (それにしても、さんざんな一日だったなぁ)
 踵の包帯を見つめながら心の中で一人愚痴を言ってみた。そのくせ、実はそれほどには惨めな気分でないのが不思議でもあった。たっぷりの昼寝にはそんな効果もあったのかもしれない。邦郎は怪我したところに障らないように気をつけて座卓に向かい、いつしか本の世界に夢中になっていた。本好きの子供だけが示す、いったん本の世界に入ってしまったら、まるで夢遊病者か何かのように、周囲の物事に対する関心と注意力をすっかり失ってしまう、そんな集中力を発揮して。だから、誰か他の人が部屋に入ってきたことにも気がつかなかった。その人が静かに声をかけ、ようやく邦郎は気がついた。
 「眠れないの?」
 本から目を離すと、すぐ近くにお婆さんが立っていた。長い昼寝から目覚めたときに、心配そうな顔つきで邦郎の顔を覗き込んでいたお婆さん、上原のお婆さんだった。そのときの第一印象と同じく、静かなくせにやけに明瞭な口調と、何よりもお婆さんにしては背の高い、背筋がぴんと伸びた着物姿は、邦郎には少しばかり威圧的にも映らないではなかった。けれども、邦郎をしっかりと見据えるその両目は、決して柔和に微笑んでいるとは言えなかったにしても、厳しさとは無縁の、それとは何か別のものを示していた。今になってみれば、それは旧い家を守る女家長としての責任感や自負と深く関係していたのだろうと信じられるのだが、子供の邦郎にはそれこそ全く無縁なものだった。その代わり、その一見冷たくも感じられる目の底に、邦郎は一種の正直さ、作為の無さを見出していた。東京の祖母に接するたびに意識せずにはいられなかった気詰まりな感じが、この初対面のお婆さんからは少しも感じられなかったのだ。それで邦郎も何の屈託もなく返事をした。
 「はい。昼間に寝すぎたからだと思います」
 お婆さんは邦郎のこの返事には直接応えず、
 「怪我したところは大丈夫なの?」と、彼女としてはおそらく一番重要な点を問い質した。
 「全然平気です。もう軽く触ったくらいでは痛くも何ともありません」
 「そう、それは良かった」というその言い方が、不注意に聞くだけでは良かったと思っているとは決して思えないほど冷淡に聞こえるのを、邦郎は内心では可笑しく感じていた。というのは、その口調とは裏腹に、邦郎の返事を聞いたお婆さんの目の光がにわかに柔らかくなったことに目ざとく気がついていたから。自分でも不思議だと思いつつ、邦郎はすでにこの上原のお婆さんに奇妙な親近感を覚えていた。
 お婆さんは閉まった襖を見ながら、
 「由美子はもう横になっているのね?」と、やはり小さな声で尋ね、邦郎が頷くのを認めると、続けて、
 「あなたは本が好きなの?」と、点灯したままの卓上ライトとその前に置かれた本を目にして尋ねた。
 「はい」とだけ邦郎は答えた。
 「今は何を読んでいるの?」
 著者や本の名前を答えたところでこのお婆さんには分からないかもしれないと考えた邦郎は、「これです」と言って、座卓に置いてあった本を取り上げて手渡した。北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』だった。
 上原のお婆さんはその表紙を見るや、
 「もうこんな本が読めるのね? 面白い?」と、少し驚いたように聞き返した。
 お婆さんが感心してくれたのをやや誇らしく思いつつ、邦郎は正直に返事をした。
 「面白いです。ときどき知らない漢字や、よく分からないところがあるけど、それでもすごく面白いです」
 「そうね、男の子はこういうのが好きね。あなたも船に乗ってみたいの?」
 そう言われて、《お婆さんもこの本を読んだの?》と邦郎は聞き返したくなるのを押さえられなかったが、「お婆さん」と呼びかけることも、「おばさん」と呼びかけることもできず、とはいえ「この本を読んだのですか?」と聞くことにも何か不自然さを感じて、その一番尋ねたいことは伏せたまま、
 「船でなくてもいいけど、外国には行ってみたいと思います」と、いつも思っていたことをそのままに答えた。
 「そう。大人になったら行けるわよ。どこへでも、好きなところへ。でも、今はまだ本が一番簡単な旅行かもしれないわね」
 邦郎が何と答えてよいかわからずに黙っていると、お婆さんは少し別の話をした。
 「あなたのお母さんもあなたくらいの頃はとても本が好きでしたよ。何か欲しいものがあるかと聞いても、いつも本ばかりお願いされたことを覚えているわ」
 「お母さんが今のぼくくらいだった頃?」
 邦郎のその言葉を聞くと、上原のお婆さんは少し怪訝そうな顔つきになった。そして、
 「あなたはお母さんからこの家のことを何も聞いていないの?」と尋ねた。
 「母からは『上原の叔母さんには小さい頃からとてもお世話になった』としか聞いていません」
 「そうなの。でも、確かに、話すとなると案外と面倒なことに思えるのかもしれないわね」と、また邦郎の顔を覗き込むように真っ直ぐに見据えた。
 「そんなに心配するような難しい話ではないのですよ。由美子は小さいとき、今のあなたくらいのときにこの家にしばらく預けられて、ここで四年ばかり暮らしていたのよ。ちょうど戦争が終わった頃のお話。そして、ここの小学校を卒業してから、東京の学校へ進んだの」
 「それはさっき、ここの家に着いたときに初めて聞きました。お母さんがここに小学校までいて、それから東京へ引っ越したって」
 「由美子と律子は小学校の頃からの友達。律子は高校までこっちの学校に通って、大学だけが東京だったけれど。由美子もこの家に始終帰ってきていたから、二人とも小さい頃からずっと仲良しのまま。詳しい話はお母さんから聞くといいわ」
 そう言うと、お婆さんはまた話題を変えた。
 「あなたのこのご本、ページの折ってあるところまで読んだのなら、もう数ページしか残っていないわね。他に読む本はあるの?」
  邦郎は黙って首を横に振った。
 「一泊の旅行にそう何冊も持っては来ないわね。そこの本棚にある本は全部私の本だから、そこの本なら好きに読んで結構ですよ。難しい本もあると思うけれど、読める本もあると思うから。でも、あまり遅くまで起きていないように。明日は東京まで帰らなくてはならないのだから。じゃあ、お休みなさい」
 そう言い残してお婆さんは静かに襖を閉めて去って行った。
 実際、その夜すぐに、邦郎は持ってきた『どくとるマンボウ航海記』を読み切ってしまった。時刻はまだ十二時前で全然眠くなかった。お婆さんの書棚――扉のついた四段ほどの、比較的小さな書棚だった――を見ると、はたして予想通り、邦郎の知っている本は一冊もなかった。背表紙の著者名を見てもほとんど知らないものばかりだった。その中で唯一聞き覚えのあったのが壺井栄という名前だったので、特に何も考えずにその本を取り出してみた。小豆島について書かれた、小豆島で暮らした思い出が書かれた本だった。
 当時の邦郎はまだ『二十四の瞳』も読んだことがなかったので、どうしてその作者の名前を知っていたのか不思議だが、その小豆島に関する本は意外にも面白かった。小豆島という田舎と、そして今自分がいる長野の田舎が奇妙に重ね合わされたかのような気がしたのだろうか。それとも、文章から感じられる作者の雰囲気が、なぜか上原のお婆さんやりっちゃんを思わせたからだろうか。それとも、文章のあちらこちらに出てくる島の子供たちの姿が、昼間見たヨーコやマサルと似ていると思ったからだろうか。いつの間にかすっかり夢中で読み耽っていた。
 「本当に小さい頃の由美子にそっくりね。あの子もそうやって夜遅くまで本を読んでいたわ」
 今度はもう顔を上げるまでもなく、その声の主が上原のお婆さんであることは分かっていた。
 「でも、さすがにもう寝なさい。子供がこんなに遅くまで起きていてはだめよ」
  時計を見るとすでに三時を回っていた。ときに夜更かしをすることがある邦郎にとっても、こんな時間まで起きていたことはついぞなかった。
 「本を読んでいて全然気がつきませんでした。もう寝ます」と、まるで修学旅行か何かで学校の先生に見咎められた生徒のような返事をする邦郎に、寝間着姿のお婆さんは、
 「叱っているわけではないのよ。もしかしたらまだ起きているかしらと思って、ちょっと覗いて見たのよ。さっきも言ったけれど、由美子もよく夜更かしをしていたから」と、不思議に優しい口調で応じていた。
 「でも、そんなに夢中になる本がそこにあったかしら? 何を見つけたの? 見せて頂戴」と、いかにも興味津々といった様子で邦郎の方に近づいてきた。そして、邦郎の示す本を手に取ると、
 「まあ、壺井栄の『小豆島』ね。それは良い本を見つけましたね。本当にそれは良い本よ」と、邦郎を大いに褒めてくれた。そして、しばらくその本を眺め回すと、
 「でも、いくら良い本でも、やっぱりもう寝ないといけません。お母さんを起こさないように静かにお布団に入りなさい。電気は私が消します」と、今度は有無を言わさぬ口調で邦郎に告げた。邦郎にしても、今や魔法が解けたように一気に眠気が押し寄せてきたように感じ、言われるままに布団に入ると、そのまますぐに眠りに落ちてしまった。


 父と母が離婚し、やや面倒な話し合いが数回行われた後に、結局は父と一緒に住むようになって数年が経った頃、ようやく邦郎はそのときの旅行が母が親族に離婚の相談をするため、いや、むしろ離婚の決心を生母の墓前に報告するためのものだったことを知った。そう、東京の祖母は祖父の後妻で、生母を失った由美子は生母の妹である「上原の叔母さん」に数年間、ちょうど小学校に通う間託されていたのだった。だが、そんなことを邦郎が知ったのもずっと後年のことだった。
 二日目は慌ただしく過ぎた。まだ読みかけだった壺井栄の本に未練を感じながら(上原のお婆さんは持って帰っていいと言ってくれたのに、母がそれを「そんなに面白い本なら、東京に戻ってから買います」と固辞したのだ)、もしかしたらもう一度ヨーコとマサルに会えるかなと期待しているうちに、上原の家の前にタクシーが到着した。右足はまだ包帯されたままだったので、靴を履くのは諦め、上原の家にあった草履を借りることにした。それも邦郎には不満だったが仕方なかった。タクシーに乗り込むとき、上原のお婆さんとりっちゃんが「また来なさい」と代わる代わるに言った。ヨーコとマサルがその場にいないことが何だかつまらなかった。
 走り出したタクシーの中で邦郎は頭に引っかかっていたことを口にした。
 「お母さん、ヨーコちゃんのリボン、どうした? 怪我したところを自分のリボンで縛ってくれたんだ」
 「あら、そうだったの。親切な子ね。とてもお利口さんなんですって。でも、リボンは気づかなかったわ。汚れたから捨てちゃったのかしら。また今度来たときにお礼をしないとね」

 だが、邦郎が祖父の実家、由美子の故郷を訪ねたのはそれが最初で最後となった。正式に離婚する前から、邦郎には知る由もなかったのだが、両親の仲はすっかり冷え込んでいた。それは二人ともが承知していたはずの事実だったのに、夫の方は妻が離婚する前から別の男性と親しくしていたことを死ぬまで許せなかったようだ。それで邦郎が母に会うことを快くは思っていなかった。まして、由美子の方が面会に来ることは決して認めなかった。裁判所の調停でも由美子のしたことは限りなく浮気に近いと判断されたらしく、邦郎が求めない限り、そして父親が許可しない限り、母子はそう簡単には会えないことになった。その上、由美子が再婚し、新しい家庭が出来てしまうと、邦郎の方でも母に会いづらく感じはじめ、いつの間にか疎遠になっていった。そうなれば当然のことだが、東京の祖父母の家にも足を運ぶことはなくなった。しかし、それを残念だと思ったことは一度もない。それなのに、あの上原の家は何かの折に不意に思い出され、ひどく懐かしい気分を運んで来るのだ。しかし、あれは実は自分の身の上に起こった本当のことではなく、小さな頃に読んだ本か何かの中のエピソードだったのではなかったか。ヨーコとマサルも、熱にでもうなされた夜に勝手に創り上げた架空の人物だったのではなかったか。そして、あの家で読んだ壺井栄の本も、母は約束通りに東京に戻ってから買ってくれようとはしたけれど、すでに版元で品切れになっていたようで、どうしても入手できず、今では幻の本のようになってしまった。 

− 完 − (H.H.)


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posted by 冬の夢 at 00:13 | Comment(0) | 創作(詩・小説) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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