2019年12月16日

夜の千切れ雲(2):月の光は流れる水(其の二)

     月の光は流れる水(其の二)

※「其の一」はこちら

 「それじゃ、お母さんは少しご用事を済ませてくるから、1〜2時間ばかりこちらで大人しくしていなさい。りっちゃん、お願いね」
 母はこれから一人で本家とか在所とかいうところへ出かけるのだろうと思いつつ、それならなぜわざわざ自分を連れてきたのだろうと、邦郎は今さらながらに不審に思えてきた。こんな知らないところで、いったい何をして待っていればいいのやら。一冊だけ持ってきた本ももう残りは数十ページだから、今読んでしまったら帰りの電車の中ですることがなくなってしまう。
 邦郎のそんな気分をいち早く察したのか、突然りっちゃんが
 「お母さんを待っている間に沢に水遊びに行ってきたらいいわ。ヨーコもマサルも毎日のように行っているようだから。きっと今日も行くから一緒に行けば」と言い出した。
 「それはいいわね。すごくきれいで冷たい水なのよ。お母さんたちも子ども頃は夏はいつもそこで遊んでいたのよ。今も変わらない?」と由美子はりっちゃんに尋ねた。
 「この辺りは私たちの子どもの頃から本当に何も変わっていないみたいよ。道がきれいになったことくらいじゃないかな、変わったのは。沢の上流も何も変わっていないから、水も驚くくらいきれいよ。ただ、最近は昔よりも水量が減ったという人もいるみたい。私にはよくわからないけど、伐採のせいだって」
 こうして、いつの間にか沢へ水遊びに行くことが決まった。知らない子どもたちと一緒に水遊びになんか行きたくないと思った邦郎が、水着なんか持ってきていないと言うと、由美子は「この辺の子は誰も水着なんか着て行かないわよ。プールみたいに全身水に浸かったら、冷たくて死んじゃうわよ」と笑い飛ばすだけだった。りっちゃんも助け船を出すように言い添えた。
 「泳ぐようなところじゃないのよ。足をつけて水遊びするだけなの。でも、運が良ければ水晶が見つかるかも。それに、何といっても涼しいし、溺れる心配も全くないから、楽しんできたらいいわ」
 母が出かけてしばらくすると、知らない間にヨーコとマサルが来ていた。ヨーコは邦郎と同学年くらいに思われた。りっちゃんが邦郎を「東京からのお客さん。沢に一緒に連れて行ってあげて」と言ったとき、ただ黙ってうなずき、邦郎の方を見ようともしなかった。それで邦郎も「感じの悪い、暗い子だな」と思っただけだった。それでも、真っ直ぐに切り揃えた前髪がよく似合う子だとも思った。しかし、それよりもマサルのインパクトの方がはるかに強かった。一目見た途端、ひょっとしたら障害児なのではないかと思ったほどだ。背はヨーコと邦郎と同じくらいだったけれど、丸々と太っていた。年齢は明らかに年下で、多分まだ1年生か、もしかしたら小学生にもなっていないかもしれない。それほど、マサルという少年は幼く感じられた。黙っているのはヨーコと同じだったけれど、彼女とは対照的に、何が楽しいのか、ずっと笑っていた。りっちゃんが「マサルは水遊びが好きね」と声をかけると、それはわかるのか、「あー、あー」と返事をするのだが、それがやはり邦郎には常軌を逸しているように感じられて、ますます沢に行くのが億劫に感じられてきた。しかし、りっちゃんの「気をつけて行ってらっしゃい」という合図と共に、ヨーコはマサルの手を引いてすたすたと歩き始めた。今となっては、邦郎にはその後に付いていくことしかできなかった。

 おそらく十五分とは離れていなかった沢に着くまで、ヨーコは一言も話さなかった。ときおり確かめるように邦郎の方を見るのだが、邦郎がちゃんと付いてきているのを確認すると、また黙々と歩き続けるだけだった。ただ、もう車が来ない脇道に入ると、心なしか歩く速度が遅くなったように感じられた。今になってこそ、見も知らぬ都会の男の子の案内をしなさいと突然頼まれた少女の方こそ大迷惑なことだったろうとは思うし、気まずい思いをしていたのは自分だけではなく、ヨーコの方こそ、それこそ何か口を利こうにも何を話せば良いのかわからなかったにちがいないと容易に想像がつくが、そのときの邦郎には「愛想がない上に、やたらと歩くのが速い子だな」と思うのが精一杯だった。
 ヨーコから手を放されてもマサルはヨーコの横から離れようとはせず、二人が仲良く並んで歩く後姿を邦郎は数メートル離れた背後から眺めながら、やはり一言も話さずについていくしかなかった。
 「随分と体型がちがうけれど、二人は姉弟なのだろうか。仲が良さそうだな」と、一人っ子の邦郎が思うともなく思っていると、不意に目の前の視界が開かれ、川と言うには水量の乏しい、子供だけで遊んでいても何の危険もないと十分信じられる、小さな流れが現れた。水辺に近づくまでもなく、周辺の白さに邦郎はすっかり目を奪われてしまった。川辺がこんなに白いなんて! 
 その白さは周辺の岩盤の白さだった。おそらく石英か長石を多く含んだ花崗岩が大規模に露出し、その上を水が流れていた。もしもそれがもっと大きな流れであったなら、おそらくもっとずっと多くの人が訪れる景勝地になっていたことだろう。

 ヨーコに促されるように、道を外れ、川に向かい、再び邦郎は不思議な喜びと驚きに捉えられた。水は、りっちゃんが言ったように、飲み水と変わらないほどに透き通っていて、夏の太陽からエネルギーを貰ったかのように、元気に、いかにも気持ちよさそうに、適度な勢いで流れていた。思いの外に傾斜があったのだろう。そして、むき出しの花崗岩の岩盤の上を絶えず水が流れ続けているからこそ、水草は言うまでもなく藻の類いさえも育たず、そのためにこれほどの水の透明度が保たれていたのだろう。
 ここまで来ると、マサルは自分からヨーコの傍を離れ、サンダルを履いたまま流れに足を浸け、いかにも楽しげな、しかし、やはり邦郎には意味不明な叫び声を上げた。ヨーコはそんなマサルに向かって「転ばんようにね」と、ちょうど聞こえる程度の声量で注意した。マサルがここでも「あー、あー」と返事するのを目にして、ようやく邦郎は自分が大きな勘違いをしていたことに気がつき、内心では自分の勝手な思い込みを強く恥じることにもなった。マサルは、邦郎が思い込んでいたような「おバカさん」ではなく、言葉はちゃんと理解できて、しかしおそらくただ上手く話せないだけなのだと理解した。そんな自分の恥ずかしさを隠そうとするかのように、邦郎は二人から少し離れ、透き通った水に手をつけてみた。水は予想していたよりも遙かに冷たく、きっとマサルの叫び声は「冷たーい!」と言っていたのだろうと、何の根拠もないままに信じられた。「そうだろ?」という思いで二人を振り返ると、すでにヨーコもサンダルのまま水の中に入っていて、二人で楽しそうに笑っていた。その途端、邦郎は目を伏せるように、自分がヨーコたちの方を振り向いたことを知られないように願いつつ、自分の指先に視線を移した。指が水槽の中の魚のように揺らめいていた。
 二人のようにサンダルではなく運動靴だったマサルは水の中に入ったものかどうか、しばらく躊躇していたが、夏の水場の誘惑に勝てる少年は滅多にいない。いっそのこと運動靴のまま水の中を歩き回ろうかとさえ考えたのだが、明日までに乾かない可能性を考えると、それも躊躇われた。となれば、裸足になるしかない。靴と靴下を脱ぎ、まるでプールサイドを思わせるほどに真っ平らな巨岩の縁に座り、恐る恐る両足を水に浸けてみた。手のときとは比較にならないほど冷たく感じられたが、それもほんの最初だけで、その爽やかさは夏の暑さを忘れさせるのに十二分だった。足下の岩肌が滑らかなことにも驚いた。裸足になるのが嫌だったのは、貝殻だらけの海岸のように痛いのではないかと心配したことが大きな理由だったので、冷たい水とつるつるした岩の感覚にすっかり心を奪われてしまった。そして、ついさっき感じた淋しさも暑さと共にどこかに消え去っていた。
 沢は露出した岩盤の上を流れる幾筋もの流れで出来ていた。ところどころに適当な大きさの窪みがあり、大きな窪みは直径が二メートルくらいのもあって、そこでなら小さな子供であれば泳ぐ真似事くらいはできたかもしれない。実際、マサルはすでにパンツ姿になって、そんな小さなプールの一つを独占し、顔を水の中につけては、やはり嬉しそうな叫び声を上げていた。ヨーコはと言うと、いかにも保護者然とした様子でマサルが水遊びをするすぐ横の小さな流れに立ち、マサルの振る舞いを見守りながら、ときおり両手で水を掬ってマサルの頭にかけたりしていた。
 そんな二人を横目で見つつ、気安く仲間に加わることができなかった邦郎は、仕方なく一人で沢の上流に向かって歩き始めた。すると背後から「滑るから気をつけて」と、ヨーコの声がした。確かに、苔ではないのだが、流れのところどころで足の裏が取られそうになるのを邦郎自身も気がついていた。「わかっている」ということを示すつもりで、邦郎はヨーコに手を振った。ヨーコからは何の反応もなかったけれど、邦郎は特に気にはならなかった。
 こんな浅い流れに魚がいるはずないだろうけれど、何か生き物がいるかもしれない。それよりも何よりも、りっちゃんは水晶がみつかるかもしれないと言っていたではないか! そう思うと、いつの間にか邦郎はすっかり沢遊びに夢中になっていた。小さな流れを次から次へと移動し、それらしき岩を見つけると、どこかに結晶しているところはないだろうかと目を凝らした。運良く結晶らしきものを見つけると、今度はその辺りに水晶らしき小石でも落ちていないか、かなり熱心に探し回っていた。
 が、それがいけなかったのだろう。にわかに足裏に鋭い痛みが走った。そして、その痛みと同時に、得体の知れない不安とも恐怖とも言えそうな、不気味な戦慄が一気に足から背中を駆け抜け、頭にまで達し、邦郎は顔を歪めた。すぐに近くの乾いた岩場に腰を下ろし、痛みを感じた箇所を見ると、はたして血が流れていた。2〜3センチの真っ直ぐに引かれた赤い線から湧き出るように血が流れ続けている。何か鋭利なものを踏んでしまったのだろうとすぐに予想がついた。が、傷口には異物らしきものは何も残っていない。そして、先ほどまで自分が立っていた場所をあらためて見つめ、邦郎は自分でも愕然とし、それから身震いするほどの恐怖と嫌悪を感じないではいられなかった。くるぶしほどの浅い流れには割れたコーラの瓶が転がっているではないか! 確かめるまでもなく、その破片の一つを踏みつけてしまったにちがいない。しかし、これほどに歴然とした危険、手に取るまでもないほどに自明な危険に気がつかなかったとは、なんて迂闊なことをしてしまったのだろう。
 邦郎には怪我の痛みよりも、自分の不注意、愚かさの方がいっそう苦痛に感じられた。事実、冷たい水に足を浸けていたため足先の感覚が鈍くなっていたからか、最初の瞬間こそ鋭い痛みを感じたものの、その後は痛みに関してはほとんど何も感じてはいなかった。むしろ、その無感覚の方が怖かったともいえる。そして、再度勇気を出して、自分の愚かな傷口を、今度は調べるように点検してみた。傷は右足の踵を斜めに真っ直ぐ切り裂いていた。それが深刻な怪我なのかどうか、邦郎には判断する術がなかった。が、最悪な場合でも、踵をつけないようにすればりっちゃんの家まで何とか歩いて帰れそうだと思われた。そして、そう考えることで少しだけ心に余裕が生まれた。
――膿むと嫌だなぁ。でも、こんなにきれいな水だから大丈夫かな。でも、ばい菌はどこにでもいるって言うし。あーあ、とんだ旅行になっちゃったな。でも、さっきから全然血が止まらない。かなり深く切っちゃったのかな。誰だよ、こんなところに瓶を捨てたバカ者は? でも、一番のバカ者はこのぼくだ。
 そんなことを考えながら、傷ついた右足を左の膝の上に載せ、ちょうど半跏思惟像のような姿になって、左手で傷口を押さえていた。
 「どうかした?」と、ヨーコの声がすぐ横で聞こえた。そして、邦郎が振り向くのとほとんど同時に、左手の指先に付いた血の色に目ざとく気がついたのだろう、ヨーコの方が「怪我したの?」と、やや緊張した声で言った。
 「うん、足をガラスで切ったみたい」と、邦郎は努めて平静に返事をした。
 「痛いの?」
 「痛くはない。でも、血が止まらないんだ」
 「ちょっと見せて」と言って、ヨーコは邦郎の横でしゃがむ姿勢になった。それまで圧迫していた指を放してみると、どうやら血は止まったようだが、傷口は最初に見たときよりもずっと酷い様子になっていた。赤い線を引いたようだった傷口は今ではパックリと口を開き、皮膚の下にあるはずの肉が盛り上がって、それがいかにも痛々しそうに見えた。実際はさほど大した怪我ではなかったのだが、子供の目にはそうは映らなかった。
 「マサル、マサル、ちょっとこっちに来て、すぐに、急いで」とヨーコが大声で叫ぶように言った。そして、そう言い終わると、自分の髪を留めるために使っていたリボンを解き、それを一度水でゆすぐと、何も言わず邦郎の傷口に包帯のように巻き始めた。
 「何かで押さえていた方がいいから」
 「だけど、リボン、汚れちゃうよ」
 「そんなの、たくさんあるから」
 そうしているうちにマサルもやってきた。「あー、あー」と不審がっているマサルに向かってヨーコは、
 「お兄ちゃん、足を怪我しちゃったの。小母さんを呼んでくるから、マサルはここにじっとしていてね。動いちゃだめよ。水遊びするならここでしているのよ。いい? すぐに戻ってくるから、ここにいるのよ。お兄ちゃんのすぐ近くに」
 邦郎は自分が「お兄ちゃん」と呼ばれるのが不思議だったが、確かにまだ自分の名前さえ告げていなかったのだと今さらに自覚し、何とも気まずい思いがした。
 そんな邦郎の思いとは無関係に、ヨーコは今度は邦郎に向かって、
 「お母さんを呼んでくるから」と言って、そのまま小走りに駆けていった。

 その後のことはよく覚えていない。おそらくりっちゃんの自転車の後ろに乗せられて帰ったのだろうけれど、大人たちがあれこれと相談した結果、はたして医者が呼ばれたのか、あるいは誰か看護の経験がある人が治療して包帯を巻いてくれたのか、何一つはっきりとは思い出せない。
 ただ、目が覚めたとき、もうすっかり夜になっていて、母が座卓に座って手元の卓上ライトだけを頼りに本を読んでいた。最初は何が何だかよくわからず、自分がどこにいるのか、それさえも思い出せず、ぼんやりしていた。多分、足の怪我そのものは本当に大した怪我ではなかったのだろう。が、陽に当たりすぎたためか、あるいはやはり心労のためか、いつの間にか眠ってしまい、そのまま布団に寝かせられ、すっかり熟睡して、夕食の間も眠り続けていたのにちがいない。
 「目が覚めたのね。足は痛くない? 大丈夫?」
 そう言われて、邦郎は包帯された自分の右足に神経を注いでみたが、別段痛みはなかった。そうっと触ってみても、ただ包帯のざらざらした感触がするだけだったので、今度はさらに慎重に怪我した辺りを軽く押してみた。それでも特に不安を感じさせるような痛みはなかった。
 「うん。全然平気みたい」
 「そう、良かった。みんなとても心配しているから、お母さん、もう大丈夫って言ってくるね。お腹すいているでしょ? おにぎりを作っておいたから、それを食べちゃいなさい」
 そう言い残して、由美子は部屋から出て行った。昼間と同じ半袖半ズボンのまま眠っていた邦郎は、布団から起き上がり、部屋の中を少し歩いてみた。怪我をした踵に全体重を乗せるのはさすがに躊躇われ、右足をかばうように歩いてみると、それなら全く問題なく歩くことができた。それですっかり元気が戻ったのか、その途端に猛烈といっても過言ではない空腹感に襲われた。おかずの中には苦手な椎茸も入っていた。自分の家なら当然残すところだけれど、他所の家ということもあり、さらにはお腹が空いていたこともあって、邦郎は二つのおにぎりと共に出されたものをぺろりと平らげた。ちょうどそこに由美子とりっちゃん、そしてもう一人、細身で長身のお婆さん――といっても、せいぜい六十歳程度だったはずだが、その頃の邦郎の目には十分な「お婆さん」として映った――が入ってきた。
 そのときどんな会話が交わされたのか、これも全く記憶に残っていない。次に思い出されるのは、その夜はお風呂に入らず、その代わりに手拭いで身体を拭いたことだ。背中は自分でできなかったので母親に拭いてもらったのだが、それが妙に気恥ずかしかった。それから、由美子がそれまで邦郎が眠っていた布団を自分たちの寝室まで運んでいった。用意されていた寝室は廊下の突き当たりを折れ、二部屋くらい通り過ぎたところにあった。
 母と一緒に眠ることが久しくなかった邦郎にとって、母の布団と自分の布団が並んでいることが妙に新鮮に感じられた。そして、覚えている限りでは、それが母と同じ一つの部屋で眠った最後の機会でもあった。  (H.H.)

「其の三」に続く

posted by 冬の夢 at 01:04 | Comment(0) | 創作(詩・小説) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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