2019年12月13日

追悼:中村哲

 直接の知人でもない人の突然の死を知って衝撃を受けた最初の経験は、元ビートルズのジョン・レノンがニューヨークで凶弾に倒れたときだった。1980年の12月、ジョンが長い沈黙の後に『ダブル・ファンタジー』というアルバムを発表し、それが巷で大評判になっていた。もちろんぼくもすぐに購入したし、そのアルバムに収録されたジョンの曲に限るなら(『ダブル・ファンタジー』という名に示されるように、このアルバムの半分はオノ・ヨーコの曲になっている)、もしかしたらソリストとしてのジョンの最高傑作かもしれないと言ってもいい出来映えだと思った。そして、ヨーコには悪いが、「次のアルバムはジョンの曲だけで構成してもらいたい、きっと恐ろしいほどの大傑作になることだろう」と期待していた矢先だった。その年のぼくは大学浪人中の身の上で、いわゆる「滑り止め」の私立大学を受験している頃だった。地下鉄に一人乗っているとき、前に立っている人が読んでいたスポーツ新聞か何かの裏面に『ジョン・レノン撃たれる』といった意味の大見出しがあるのが目に飛び込んできた。瞬間、「嘘だろ!」と思い、次に嘘であって欲しいと願った。そして、ジョンが本当に死んだ、殺されたとわかったとき、涙が出るのを止めることはできなかった。それが自分でも不思議だった。自分の身内でも友人でもなく、直接会ったこともないのに、なぜ彼の死がこんなにも悲しいのか。

 そして、つい先日、今度は職場でパソコンの画面を見ているとき、中村哲がアフガニスタンで銃撃されたというニュース速報が飛び込んできて、1980年12月の地下鉄に乗っているときと同じ衝撃を受けねばならなかった。「嘘だろ! 嘘であれ!」と願い、「命だけは助かって欲しい」と空しく祈った。第一報では「銃撃されたが意識はあるようだ」とあったと聞くが、ぼくが知ったときはすでに事切れていたようで、「死亡」という残酷な文字がパソコン上に転がっていた。自宅に戻ると、妻も同様にショックを受けており、お互いに交わす言葉が見つからないほどだった。

 ペシャワール会の現地代表でもあった中村哲と個人的面識はない。しかし、彼がマスコミに登場したごく最初の頃から「凄い人がいるもんだ!」と注目していた。アフガニスタンのような危険な紛争地の地域医療に従事するだけでも、凡人の目に偉業と思われるのに、その上彼は、元来は素人であるはずの土木作業を指揮し、干魃に苦しむ地で井戸掘りを始めた。その彼が「アフガニスタンの復興に何よりも必要なのは、継続的な食料の確保、水の確保であり、そのために砂漠に運河を掘削するので、寄付を募りたい」と広く訴えたときには、日々の蓄えの中から幾ばくかの額のお金を送るのに躊躇いはなかった。アメリカの言いなりになって、後先も考えずに自衛隊の海外派兵に踏み切り、そのくせ有効な援助を行えないでいる日本政府を尻目に、現地で着実な成果を積み重ねていく彼の活動は、本人は決して認めようともしなかっただろうけれど、真に「英雄的」な行為だと思われた。だが、全ての英雄は倒される運命の下にあるのだろうか……

 世の中に偉人と呼ばれる人は数多くいる。そして、偉業と呼ばれる行いも数知れない。だが、その偉業の中身と意義を世間はいったいどの程度理解しているのだろう? 例えば、ノーベル**賞というものがあり、その受賞者は大いに称揚される。しかし、いくら受賞理由を聞かされたところで、素人の身としては、その意味がよくわからない。卑近(?)な例でいえば、いまだにips細胞とSTAP細胞の違いがわからない。そして、いまだにSTAP細胞が実在するのかしないのかもわからない。しかし、一方は国民的名士であり、他方は……
 
 過去に溯れば、その偉業が明白な偉人はいくらもいる。シェイクスピアだってドストエフスキーだって、その偉大さ、その巨大さについてはほぼ自明と言って良い。歴史が彼らの偉大さを証明している。だからこそ、同時代の偉業については、人はあまり確かなことは言えないようだ。そして、この意味で、中村哲の偉業は例外的なものだったように思われる。つまり、彼が成したこと、成し遂げつつあったことは、その実態と意義を知るのにさほどの苦労はなく、彼の日本政府批判を不快に感じる一派を除けば、誰の目にも立派で崇高な行為と認識できる。マザーテレサに匹敵すると言っては言い過ぎだろうか? あらためて言うが、危険な紛争地に長期間留まって地域医療に従事するだけでも、すでに十二分に英雄的だ。そして、外国人でありながら現地の人々を指揮して不慣れな井戸掘りに従事するとなれば、それは2倍にも英雄的だ。英雄の一人二役といっていい。その上、25キロにも及ぶ用水路を砂漠に作り、現地の農業を復活させたのだ。いや、復活したのは単に現地の農業だけではなかっただろう。自分たちの手で用水路を造り、砂漠に水を引くことに成功した現地の人々の自負心もまた復活したにちがいない。実際、この用水路設営事業に関してぼくが大いに感心したのは、この用水路を設計するに当たり、現地の人間だけでも恒久的にメンテナンスできるように、あえてローテクな技術を利用し、さらにはこの用水路設営を通して、現地の人々が技術習得することをも考慮に入れていたという点だ。一時的な支援では支援にならない。どうしたら継続的な支援が可能になるのか? 中村哲はいつもこのことを考えていたように思う。彼は分かりにくいアフガニスタンの情勢を日本に紹介し、政治的・文化的に複雑な地域への支援に対するモデルケースを提示し続けたのだ。これは彼の死後に知ったことだが、中村哲はクリスチャンだったらしい。その事実を知って、すぐに「一粒の麦」を思わずにはいられなかった。本当に彼の生き様は一粒の麦のようだ。彼は基本的にはたった一人で現地に赴き、ハンセン病に苦しむ人々を訪ね、現地の人々と井戸を掘り、信頼を集め、最後には砂漠に緑をもたらすことに成功した。だから確かに、砂漠に落ちたその一粒は実に豊かな実を結んだと言える。けれども、その一粒の麦がそのために死ななければならなかったとは……

 彼の追悼文を書きたいと思っていたのに、ろくなことが書けない。代わりに、イギリスの有名な詩人、アルフレッド・テニスンの詩を引用したい。ある程度今の気分を表してくれるようにも感じられる。

Alfred Tennyson: Break, Break, Break

砕けろ、砕けろ、砕けろ、
海よ、冷たい灰色の岩にぶつかって!
そしてぼくも砕けるがいい、
心の内にせり上がるこの想いを言い表すことができるのなら。

あの漁師の子どもが羨ましい、
妹と遊びながら大声を上げている!
あの船乗りの若者が羨ましい、
停泊した舟の上で歌っている!

そして立派な船が次々と
岬を回って港へ戻っていく。
それなのに、消えてしまった手のぬくもり、
もう話すことのない声の響きを空しく求めるばかり。

砕けろ、砕けろ、砕けろ、
海よ、険しい岩山の足下で!
だが、死んでしまった陽の光が
ぼくの元に返ることはもう二度とない。 


Break, break, break,
On thy cold gray stones, O Sea!
And I would that my tongue could utter
The thoughts that arise in me.

O, well for the fisherman's boy,
That he shouts with his sister at play!
O, well for the sailor lad,
That he sings in his boat on the bay!

And the stately ships go on
To their haven under the hill;
But O for the touch of a vanish'd hand,
And the sound of a voice that is still!

Break, break, break
At the foot of thy crags, O Sea!
But the tender grace of a day that is dead
Will never come back to me.


(H.H.)

中村哲(1946年9月15日 – 2019年12月4日)
posted by 冬の夢 at 01:06 | Comment(0) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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