2019年07月03日

スマフォとワルサーP38 ─ 都立校・都内公立校でスマフォ持込み容認へ

 中学生の娘からスマフォを取り上げるのは至難のわざだそうだ。
 知り合いから聞かされた話である。

 帰宅後、スマフォからいっときも手を離さない。
 せめて食卓ではやめなさいなどと叱ると、不承不承、手離すが、目は画面にいったまま。
 むろん自室では深夜までやっている。朝なかなか起きられないわけだが、起きたら、まずスマフォだ。

 お母さん、さすがに業を煮やし、ある日、娘のスマフォをむりやり取り上げた。
 そうしたら大変なことになった。
 娘は、家が壊れるほど暴れまくり、わめき叫んだ。お母さんは怖ろしくなり、たちまちスマフォを返すはめに。娘の瞬殺勝利である。

 娘の反応は、典型的な薬物中毒症状だ。ということはスマフォをやめさせたければ、すべきことは禁止でなく治療である。
 ただし、なんらかの治療をして、中毒ではなくなったように見えるからとスマフォを返したら、たちまち中毒に逆戻りだ。わざわざ説明しなくても大人なら、大量喫煙者やアルコール中毒者、薬物でアゲられた人の経験談で知っているはずだ。いや、自分らは酒もタバコもクスリもやらないし、身近にそんな悪人はいないから知らん、という人がほとんどなんだろうな。

 東京都教育委員会は、二〇〇九年一月に出していた通知、「子供の携帯電話の利用に係る取組について」をこのほど廃止し、新基本方針を示した。
 ごく簡単に整理すると、都立高、都内公立小・中で原則「持込禁」だったのが「条件付き持込可」になる。都立校は校長判断・校長方針で持込・使用許可、区市町村立校は当該教委の判断に委ねる、ということで、ほぼ自動的に全面持込可、実質使用可になるとみていい。
 都教委は、この発表のバックグラウンドとして、生徒のスマホ使用率がすでにとても高いこと、授業で情報端末を使う有効性、災害や登下校の安否確認に必要という現状をあげ、「一律に禁止するのではなく、必要に応じて、学習指導や安全確保のために適切に活用できるようにする」としている。※
 いっぽう、都は1年半ほど前、都庁業務改革の柱に「3つのレス」=「はんこレス」「ペーパーレス」「キャッシュレス」を掲げていて、先日も知事自身が、キャッシュレス支払パフォーマンスを大田区の商店街で行っているから、若年時からスマフォの積極利用を、という関係業界のプッシュもあるのかもしれない。

 とくに反論はない。授業でスマフォをどう使うのかわからないが、子どもの安否確認が出来なきゃ心配でしょ! と怒られたら一言もない。近ごろの世間は現状肯定路線であることを思い知らされているから、子どもの六〜七割以上が実際にスマフォを使っているなら禁止なんて時代遅れだというなら、そうでしょうねと思う。
 ただ、中毒症状が心配で取り上げようとすると子どもと大喧嘩になるようなブツが、学校ではOKです、というのは、どうもおさまりが悪い。時代に合わないから憲法を変えましょう、というのに似ている。反時代的な憲法条文があるなら、それを修正する議論はすべきだと思うけれど、憲法に書かれた絵空ごとの精神論より、時代の現実を見ることのほうが大事ですと決めつけるのは、どうかと思うから。

 授業中の調べものに、高速大量検索が可能な端末が必要なのだろうか。ひとつかふたつ、ゆっくり「本」を調べ、よく読んで書きうつすのではダメなのか。学校の授業のときぐらいしか、そういう調べかたはできないと思うけれど。
 いちいち親と連絡を取り合わなくても、自分で俊敏に行動できる子どもになってほしくないのだろうか。
「津波てんでんこ」、あれは、他人のことは無視して自分は助かれという教えではなかった。万一のときそれぞれがどう行動するか、ふだんから家族や地域で話し合っておき、緊急事態にはグズグズせず動こうという意味だ。スマフォ中毒は、話し合う機会も、自主判断力も、奪っている。

 子どもがウチに帰るとスマフォで「読書」ばかりしている、ということだったら、いったい誰がスマフォを禁止したり取り上げたりしなくちゃいかんと思うだろうか。
 わたしには、小・中・高に通学する子どもがいないから、学校教育にはスマフォの活用が必須だといわれたら、さきほどのとおり反論はない。しかし、子どもにとってのスマフォは、世界の窓となり友だちと親密になれる道具としてより、他者を傷つける道具として、おもに使用されているのではないかと、心のどこかで思い続けてもいる。
 だから、学校へスマフォを持ってきてもいいですよ、というのは、学校へ銃を持ってきてもいいですよ、といっているのと同じことに、感じられなくもない。(ケ)

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※ 東京都のサイトに、二〇一九年六月二〇日付の報道発表資料があります。
  www.metro.tokyo.jp/tosei/hodohappyo/press/2019/06/20/23.html


posted by 冬の夢 at 01:13 | Comment(1) | 時事 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
おそらく全ての依存症に多かれ少なかれ共通すると思いますが、問題の核心は、「スマフォしかない」と「スマフォもある」の微妙かつ決定的な差異にあるのではないでしょうかか? つまり、数ある娯楽・気晴らしの中に酒なりタバコなりが収まっているのなら、ある日それがなくなったとしても、残りの気晴らしを総動員して何とかしのげるかもしれない。同様に、始終スマフォを見ている人たちも、それなりの人間関係や読書、映画鑑賞などの気晴らしがあれば、スマフォがなくても何とかやっていけるのかもしれない。しかし、酒しかない、タバコしかない、スマフォしかない人間から、その唯一のモノを奪ってしまうと、ケダモノのような反応が生じてしまう。そんな気がします。とすれば、彼らの問題は、スマフォ依存というよりも、「それしかない」という貧しさにあるように思われます。我が家の娘もスマフォを手放せないようですし、自分の部屋ではパソコンばかり見ているようですが、居間にいるときは、仕事やら趣味やら食べ物の話を楽しそうにします。父親のアルコール依存よりはマシか、と思うのは親の贔屓目かな???
Posted by H.H. at 2019年07月04日 00:27
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