2019年06月26日

歌舞伎座六月公演『月光露針路日本』 〜 歌舞伎らしくなく歌舞伎らしくもある

六月の歌舞伎座夜の部『月光露針路日本』(つきあかりめざすふるさと)を楽日の前の日に見に行った。人気作家である三谷幸喜の脚本・演出なので「三谷かぶき」の冠がついている。三谷幸喜はかつて『決闘!高田馬場』なる新作歌舞伎をPARCO劇場にかけたという。今回が二度目の歌舞伎、そして歌舞伎座初登場というふれ込みであった。
原作はマンガ『風雲児たち』の中の一部分。幕末の志士たちを描いた群像劇で、『ホモホモセブン』でパロディマンガの地平を開拓したみなもと太郎の作品だ。海で遭難した大黒屋光太夫がロシアに漂着して生きながらえて、なんとか日本に帰ろうとついにはエカテリーナ女帝に謁見して帰国するというあらすじを、三幕三時間弱の歌舞伎に仕立てている。

大黒屋光太夫は歴史的人物であるらしく、井上靖や吉村昭が小説にしている(※)。十年間かけて日本に帰った光太夫は、幕末にあって蘭学の普及を助け、自らの体験を通じて得たロシアの実情を日本に広める役割を果たした。
その光太夫を幸四郎が座頭として務める。脇を猿之助と愛之助が固め、種之助や新悟らの若手も登用された。三谷幸喜の新作歌舞伎とあって、場内は大入り満員。幕見席も立ち見が出るほど注目の舞台であった。

三谷幸喜だから喜劇なんだろうと思って見ていた。そして第二幕までは実際に喜劇で、しかもその笑いはあまり冴えなかった。そもそも漂流するという設定自体がおかしいわけではなく、台詞にさほど妙味は感じられないし、役者の動きが少ないのでアクションで笑わせてくれるのでもない。
その意味で客席が最も盛り上がったのは第一幕の冒頭に出てくる尾上松也のアドリブだった。口上代わりに物語の前提や設定を紹介する教授という役どころで、歌舞伎座ではこれまでお目にかかったことがないライヴパフォーマンスを見せてくれた。「わかったかね?」という問いかけに三階席から順番に大きな声で「はーい」と返事をさせるところでは、客席の誰もが笑顔で声を上げていた。大向こうさんのいる前では掛け声をかけたくてもかけられない普通の観客たちは、歌舞伎座で思い切り大声を出せて大満足だったはず。スーツ姿で見得を切ったりして、少なからず歌舞伎の味付けもされていたので、期待させる出だし。しかし笑いはここだけで終わってしまった。

第一幕の漂流船。第二幕の漂着地の変遷。日本に戻るつもりなのに、どんどんとロシアの奥地に進み、オホーツク、ヤクーツク、イルクーツクと逆に日本から離れていく。ヤクーツクから一行は極寒の平原を犬橇で移動することになる。この場面では着ぐるみのハスキー犬たちが思う存分に大暴れ。なのだが、ここがちっとも笑えない。鼠や猪などを着ぐるみを着た役者が演じる「歌舞伎風」を取り入れて満足至極と言った体で、それは正直なところ三谷幸喜の自己満足のように見えた。
三谷幸喜はTVにしろ舞台にしろ、シチュエーションコメディでその才気を存分に発揮してきた人である。異国の大氷原の上を必死で目的地に辿り着こうとして犬橇を走らせる日本の船乗りたち。十七名いた仲間はひとり減りふたり減りして、ここでは六名。異国の地で亡骸になる悲惨な運命を、観客が単純に笑い飛ばせるわけがない。三谷幸喜ほどのコメディのプロフェッショナルが、このシチュエーションを笑えると思ったのだろうか。もし笑えるとしたら、登場人物たちにひとかけらも共感せずに感情移入なしで舞台を見る必要が出てきてしまう。どんなにハスキー犬の着ぐるみが剽軽な動きを見せたところで、雪原でもがき苦しむ姿には涙こそあれ笑いが入る余地などない。かくして第二幕が終わる頃には「三谷かぶき」は失敗したと思われた。

ところが、この芝居、第三幕になるとガラリと様相が一変する。笑えない中途半端な喜劇が、三幕では涙が滲む悲劇に変わる。そしてそれが歌舞伎座の大舞台にぴったりとフィットしてしまうのだ。
イルクーツクに着いた一行だが、代償は大きかった。最年長の久右衛門が発作で倒れ、毒舌家の庄蔵は凍傷で片足の切断を余儀なくされる。一方で光太夫はラックスマンという宮廷御用聞きの助けを借りてエカテリーナ女帝に謁見を許される。それを知った庄蔵は、片足となった自分が光太夫たちの足手纏いとなることを危惧し、洗礼を受けロシアに帰化してしまう。さらに地元の娘と懇意になった皮肉屋の新蔵もロシアに残ることを決意する。
女帝から許可が下りて、いよいよ日本に向けて帰国しようという日。別れを告げる光太夫とそれを見送る新蔵と庄蔵。しかしすんなりあっさりとは行かない。新蔵も庄蔵も、もちろん日本に帰りたいのが本心。でもそれは無理。庄蔵は、足の切断手術の借金を返すために日本語学校の教師として残らざるを得ない。そんな庄蔵をひとり残しておけない新蔵。ロシア娘と結婚して、庄蔵を見守る道を選んだのだ。無理だとわかっていても、光太夫の帰国が決まると望郷の思いが沸騰する。庄蔵は光太夫の足にすがって「帰りてえよー」と泣き叫ぶ。格好悪く、思い切りも悪い。けれど、この機会を逃せば永遠に帰国のチャンスはない。どんなに無様であろうと、どんなに無理であろうと、帰りたい気持ちを抑えることなどとても出来ない。それが本当の感情の在り方なのだ。

ここが見事に歌舞伎になっていた。役者が登場人物になりきり、故郷への思いがありのままに伝わってくる。泣き叫ぶ庄蔵と必死に思いを堪える新蔵。それでも二人を置いていくことになる光太夫。三者三様の心情が舞台から客席に溢れるように雪崩れ落ちてくる。大向こうからは「高麗屋!」「澤瀉屋!」の掛け声。エカテリーナ女帝の宮殿の場面では、この掛け声がなんとも場違いで間抜けに感じられたが、ここではしっくりとハマる。第二幕とは正反対に、これこそが「三谷かぶき」なのだと正面切って大見得を張れる出来栄えなのだった。

立ち尽くす三人。サーッと定式幕が引かれてこれはなかなかだったなと席を立とうとすると、なんと!まだ芝居は終わっていなかった。ロシアを出た光太夫らの船が蝦夷地の根室沖まで近づいたという設定。とぼけ者の小市が日本を目前にして死ぬ。小市が幻に見た富士山が舞台に現れ、海で遭難した十七名全員が勢揃いする。幕。そしてカーテンコール。
いやはやなんともだが、せっかく歌舞伎座の芝居として最高の盛り上がりを見せたのに、他のどの芝居小屋でもやっているような劇団風のエンディングになってしまった。勢揃いやカーテンコールは劇団公演のお約束なのだろう。だとしても、観客の昂まった気持ちをぶち壊しにしてまでやることなのだろうか。
一度までは付き合ったが、二度目のカーテンコールで席を立つことにした。庄蔵が慟哭する泣き叫びの声が頭から消えないうちに。

役者の中では、庄蔵を演る猿之助が一歩リード。それでも第二幕までは当たり前だが香川照之にも似ていて、クセの強さが前面に出ていた。しかし第三幕、二役で演じたエカテリーナ女帝の威圧感はあっぱれ。堂々とポチョムキンを演じる白鸚と互角に渡り合っていた(もちろん白鸚がこの芝居全体の重しになっていて、他のどの役者もその足元にも及ばない)。幸四郎は持ち前の軽さが生かせる役どころで躍動するし、愛之助は最も自己中心的のはずが最終的には誰よりも自己犠牲を厭わない新蔵をアイロニカルに演じて好演。染五郎はあっという間に背が伸びて大人の雰囲気が出てきた。台詞も多いのに、ロシア語も含めて大奮闘だ。そして、普段は役にも恵まれずパッとしない男女蔵。聖痴愚とも言える小市は儲け役であった。

特記するならば、ラックスマン役の八嶋智人。TVドラマ「古畑任三郎シリーズ」のときから三谷幸喜に重用されている俳優が、歌舞伎座では突出してケレン味を発揮していた。好きな人は大笑いだったが、やり過ぎが苦手な観客には、コショウをふり過ぎたラーメン、あるいは山椒をかけ過ぎたうな丼のようであった。(き)


三谷かぶき.jpg


(※)井上靖『おろしや国酔夢譚』(1968年刊)/吉村昭『大黒屋光太夫』(2003年刊)




posted by 冬の夢 at 22:34 | Comment(0) | 伝統芸能 歌舞伎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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