2019年04月21日

歌舞伎座四月公演『新版歌祭文』 〜 芝居を支える近松半二の台本

今月の歌舞伎座昼の部は、嬉しさと豊かさに溢れた充実のラインナップ。平成の掉尾を飾るに相応しい役者の揃い踏みと将来にわたって記憶に残るだろう出し物が愉しめる。

まずは『平成代名残絵巻』(おさまるみよなごりのえまき)。平成最後の公演用に誂えた源平もの。踊りあり、立ち回りあり、家宝の争奪ありと、歌舞伎らしさをテンコ盛りした一幕。
常盤御前の従者と侍女たちが入り乱れて踊る序幕からして豪華絢爛。その中でハッとするほど美しい侍女に目を惹きつけられる。最近筋書を買わなくてなってしまって、誰なのかすぐわからなかったのだけど、その人は中村芝のぶ。以前は十八代目勘三郎の芝居に必ず出ていて、見る度にその美貌に見惚れてしまう役者だった。
美しさで言えば、坂田藤十郎米寿記念と銘打った『寿栄藤末廣』(さかえことほぐふじのすえひろ)の壱太郎も負けてはいない。躍進著しい女形として一番の注目株は米吉だと思っていたが、壱太郎の存在を見落としていた。壱太郎、米吉、児太郎の三人が揃って、藤十郎に見守られながら踊っていると、壱太郎だけにスポットライトが当たっているように見えてしまう。踊りの所作もしっかりしていると言うことなのだろう。
壱太郎は鴈治郎の長男で、将来は成駒家を継ぐ立場。平成二年生まれの二十八歳。かたや米吉は平成五年生まれで歌六の長男。平成時代に基礎を作った次世代の役者たちが、令和の時代にどんな舞台を紡いでいくのか。大いに楽しみである。

もうひとりの児太郎にとっては、父福助と共演が実現した重要な舞台でもある。
福助は2013年秋に歌右衛門襲名が発表された直後に脳内出血で倒れた。昨年秋に約五年ぶりに復活した舞台は見ていないので、その回復ぶりはいかほどかと心配していたのだったが、常盤御前の朗々たる台詞回しはお見事。源氏の白旗を受け取る動作が左手のみだったので、右半身麻痺の後遺症がある様子。ということは発症は左半球だったはずで、言葉を話す機能にも障害が残ったと思われる。それでも歌舞伎座全体に響き渡る福助の声は、高貴さを表しながらも重みを持って場内を満たす迫力に溢れていた。
華やかな舞台に立つまでには、どれだけの苦労があったことだろうか。とても他人に推し量れるものではない。そうした父の姿を見ながら、ひとりで役をこなしてきた児太郎。この二人の共演は、今月の歌舞伎座の中でも最も嬉しいキャスティングだった。

この二幕、三階席から幕見席を眺めると立ち見が出るほどの大入り。大半は訪日外国人で、桜見物のついでに「ザ・歌舞伎」とも言える典型的な舞台を楽しんでいるようだった。どちらも今月限りの出し物で、福助の復活なども知らずにいたのだろうけれども。

その幕見に空席も目立ったのが『新版歌祭文』(しんぱんうたざいもん)。お馴染みの「野崎村」に「座摩社」という珍しい一幕がつく二時間の舞台。確かに観光気分の観劇には向かないかも知れない。けれども今回の上演は、歌舞伎の台本がいかに優れた文学であるかが鮮明になった舞台だった。同時にそれを表現する役者によって、舞台が生き物のように息をするものだということも、あらためて実感出来る芝居でもあった。

「座摩社」は、丁稚奉公をしている久松が、奉公先の手代小助の奸計にはまり得意先から預かった一貫五百匁の金子を騙し取られてしまう場面。普段「野崎村」しか出ないので、なぜ久松が奉公先から故郷に帰ったのか、あるいはなぜ奉公先の後家お常が久松の養父久作に金を返しに来るのかが全くわからなかった。
同時に久松は奉公先の娘お染と深い仲になっている。小助が久松を騙す手口を仲間と仕込んでいる間、久松はお染に誘われて昼間から密事に耽っている。その様子を小助が覗き見るので、見物たちも同様にお染と久松が今なにをしているのか想像することになる。お染が久松を追いかけて野崎村まで行くのは、そうした深い関係にあるからだし、深いからこそお染はそこから抜けられないのだ。

「座摩社」があって初めて話が繋がることになって、だから「野崎村」は手代小助が久松を引っ立てながら実家である久作の家に連れ帰るところから始まる。
実家にいるのは久作の娘、お光。たすき掛けをして家事に勤しむ姿も甲斐甲斐しく、お光は久松の帰省に大喜びするのだが、小助は久松が紛失したのだから金を弁償せよと迫る。
そこへ久作が帰って来る。もともと久作は、娘のお光と祝言を挙げさせようとしていて、奉公先に金を預けて久松を連れ帰ろうと準備していたところ。小助はその金を受け取って退散、久松を窮地に追い込む役回りは完了となる。小助をやるのは又五郎。本当に脇を固めるのに重宝な役者になってきた。

久作は良い機会だから私の希望を伝えようと、お光と久松に祝言を挙げなさいと言い渡す。元から久松を慕っていたお光は有頂天の喜びよう。かたやお染と契っている久松は、お光との祝言はあり得ないと思いながら、失くした金の肩代わりをしてくれた久作の勧めを断ることも出来ない。「座摩社」があるから、ここらへんの事情がストンと腹に落ちてくる。
久作は病にふせっている母親に祝言の報告をしようと久松と一緒に奥に入る。舞台には婚礼用のなますを作ろうと大根を刻み始めるお光。いつもの「野崎村」はここから始まるので、なぜ久松が実家にいるのかがよくわからなかったのだ。
そこへ訪ねてくるのがお染。そして「野崎村」の見せ場はここから先。しかも連続技で畳み込んでくる。
まずはお染の訪問を拒絶するお光。たった今、久松との祝言が決まったばかりなのに恋敵が目の前に現れたのだ。お光はあの手この手でお染を門の中に入れない。久作と久松が戻ってくると、久作を真ん中にお光と久松が囲み、下手からお染が覗き込むという構図になる。肩を揉んでもらって良い気分の久作。祝言を挙げるので気もそぞろなお光。お染が来たことに気づいた久松は、今はまずいと目で合図する。これはもう歌舞伎の中のシチュエーションコメディと言うべき展開で、大いに見物は笑わされる。
お光と久作が婚礼の準備に下がって、ひとりになった久松のところにお染が駆け込んでくる。ここからはお染の独壇場。久松を忘れられないというその姿は、「座摩社」でふたりの密会現場に立ち会っている見物からすると、若い娘のむんむんと匂い立つ肉感的圧力に見えてくる。だから、思い余って剃刀を取り出すその取り乱しようがリアルにも感じられるのだ。
そして次の主役は久作。お染と久松の恋仲に気づいたうえで、互いのためにも別れてくれと頼み込む。本来は禁じられた恋なのだし、大枚をはたいて奉公先から取り戻した久松を可愛いお光と添い遂げさせてやりたい。そんな親心をしみじみと語る。この真心の前では、お染と久松の肉の関係は力及ばない。情は欲を上回るのだ。渋々ながらお染と久松は、久作の願いを承知してしまう。
そこへお光。角隠しを取るとお光の髪が切られていて、婚礼衣装の下から紫色の袈裟が現れる。お染と久松の関係を知って、お光は出家する決意なのだ。「嬉しかったはたった半刻…」という有名なクドキとなって、やっぱり「野崎村」のメインはお光なのだと得心するのだった。

このように登場人物ごとに立場があり、エモーションがあり、それが言動となって立ち現れる。それを演じる役者ごとに見せ場があり、絡みがあり、芝居のアンサンブルがある。久しぶりに再見して、『新版歌祭文』の台本がいかにしっかりと構成されているか、あらためて感心させられた。
作者は近松半二。安永九年(1780年)に竹本座の人形浄瑠璃のために書き上げた。調べてみると『妹背山婦女庭訓』『伊賀越道中双六』も近松半二の作品だった。あまり芝居の出し物について作者が誰かという視点で見たことはなかったが、映画でも舞台でもまずは台本や脚本が良くないと始まらない。そんな当たり前のことも「野崎村」が思い知らせてくれたようだった。

後家お常が紛失した金の始末にやって来て、お染と久松の関係を公認する。でも一緒に帰るのは憚りがあると、お染は舟に乗って、久松は駕籠に乗せられて奉公先に戻ることに。
久作の家が回り舞台の上でぐるりと回って、裏を流れる川べりに場面が変わる。三階席から眺めていると、自分がドローンカメラになって、久作の家から川べりに変わる舞台を空を移動しながら俯瞰撮影してしているような錯覚を感じる。
さらに三階席西からは花道は全く見えないが、今回は仮花道が設けられていて、仮花道は端から端までバッチリ見える。仮花道は久松を乗せた駕籠にとっての晴れ舞台。駕籠かきの杖が仮花道の床板をつく度に、固く短く跳ねるように「タン、タン、タン」と心地良い音が響き渡る。途中に駕籠かきの二人が裸になって汗を拭く間が入り、タントンタントンと揚幕まで走り去る。そして、舞台ではお光が久作に「おとっつぁん…」とすがりついて泣く。涙、涙の終幕となる。

お光を演るのは時蔵。世話物のイメージが薄い時蔵であったが、以前に見た先代芝翫とは違った素朴さと哀れさが漂っていて、胸に迫る存在感であった。
お染は雀右衛門。肉づきが良いので女を感じさせるお染になっていて、「座摩社」を加えた上演にぴったりとフィットした。久松の錦之助は持ち味の優男風だし、歌六は十二分にどっしりと久作を演じる。主役四人の適役ぶりも、台本と同じくらいに芝居を土台から安定させていた。

『新版歌祭文』で大満足のうえに、昼の部には、この後に『御存鈴ヶ森』(ごぞんじすずがもり)までつく。メインディッシュの後に大盛りの丼物を食べるようであるが、この御馳走もモリモリと食べられる。なんと言っても菊五郎と吉右衛門のがっぷり四つの共演なのだ。互いの息子と娘が夫婦でもある親同士。そして今の歌舞伎界にとっての正しく真っ直ぐな重しとしての役者ふたり。佇まいから台詞回し、所作、見得まで、どれをとっても真芯で捉えた弾丸ライナー。場外にまで飛んでいくその球筋が美しく尾を引くのが、目に見えるようであった。

個人的に言えば、「野崎村」は数多い歌舞伎の演目の中でもトップ5に入るほど、大切で大好きな出し物だと再認識した次第。『弁天小僧』や『助六』などのスペキュタクラーも良い。一方で『新版歌祭文』のように情愛溢れる世話物も歌舞伎の真骨頂のひとつ。大満足の四月の歌舞伎座であった。(き)


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三階席西から見た仮花道。一階の座席を50席くらい取り外して設置するので、興行的に見れば収入減になる。


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観劇中は気づかなかったが、よく見ると片側だけ照明が組み込まれている。駕籠かきも下からのライトを浴びていたはずだ。


仮花道02.jpg

仮花道の突きあたりには仮設の鳥屋(とや)が設置され、鳥屋揚幕が吊られている。描かれている座紋は「鳳凰丸」。


posted by 冬の夢 at 00:33 | Comment(0) | 伝統芸能 歌舞伎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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