2019年03月23日

ボクもバッハ、キミもバッハ ─ BachDoodle で遊ぶ

「Google」のトップページにある社名ロゴは、ときどき、記念日や先人の業績を讃え、遊び心もあるアレンジ版になる。
「Doodle(ドードル)」というそうで、オリンピックやワールドカップのときアニメになった Doodle を楽しんだ人も多いだろう。
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 三月二十一日は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(一六八五〜一七五〇)の誕生日ということから、お祝いの Doodle が表示された。
 いつもの Doodle と違うのは、昨今話題のAIが初めて導入されているそうだ。インタラクティブな機能があり、人工知能の創造力の一端を体験することができる。

 プレイボタンを押すと、前説の後にメイン画面が現れ、五線紙が表示される。クリックで好きな音符を書き込み「ハーモナイズ」ボタンを押すと、バッハふうの四声のラインが自動的に生成される仕組みだ。
 入力できるメロディは単音で二小節、複雑なことはできないが、臨時記号はつけられ、キーや速度の設定もできる。操作説明も表示されるが、いちいち見なくても、ごく簡単な音楽の知識があれば、いや、ぜんぜんなくとも、たちまち「あなたもバッハ」だ。
 たとえば、わたしがいきなり入力してみた結果がこれ。バッハの曲に聴こえますか?


 ちなみに、わたしはこのブログに偉そうに音楽の話を書いているが、音符や譜面は、ほとんどダメ。
 どんな音楽についても、すこし弾ける唯一の楽器、ギターに置き換えて考えているだけだ。
 弾けるといったって譜面は苦手だから、コード(和音)を弾くにも、たとえば「Gマイナー7thフラット5th」とあったら、まず知っているGマイナーの押さえかたをして、その後にくっついている音は「え〜と、ソ、ラ、シ……」と数えて足したりしている。
 待てよ、コードの組み立てかたとしては合っているか。ま、とにかくその程度の知識しかない。バッハの Doodle では、バッハってこんな感じの旋律かなぁと、適当に音を並べただけ。そうすると Doodle が、その「旋律らしきもの」をトップノートにして、下三声を自動的につけてくれる。和音になるだけでなく、いかにも対位法っぽいラインができるところが面白い。

 ならば、誰でも知っているメロディはどうなるかと、これをやってみた。ドミソのハ長調がわかり、小学唱歌の「階名唱」ができれば、かんたんに入力できる。
 四小節分あるが、二小節ずつ作り、簡単な音源編集ソフトでくっつけた。ちょっとつながりが変だが、ご愛嬌ということで。


 コードネームや演奏ジャンルを入力すると伴奏を作ってくれる音楽ソフトはすでにあるが、AIが採用された Doodle は、どう違うか。
 AIは、約三百曲のバッハの曲を学習している。その「知識」をもとに入力されたメロディを分析、和声をつけつつ、カウンターメロディを「作曲」しているようだ。あらかじめ作ってメモリしてあるいくつかのパターンを、こちらの指示で並べているわけではないのが「知能」たるゆえん、と理解しているが、あっているだろうか。
 ほかにも、スペックがやや低いパソコンでも動く仕組みが援用されたり、アニメは別途開発だったり、ということのようだ。
 超メガ企業だからこそ、先端的なチームワークが設定でき、こういうものを作る余裕もあるわけだが、facebook や LINE、そして Amazon にも直接には手を出しておらず、むろん Google にも手放しの賛意は持たないわたしは、複雑な気分にもなる。

 それはともかく、じつはバッハの曲でこそ、こういうことが可能なのだそうだ。バッハの曲は数学的な論理性を持っているから、ということらしい。

 惑星探査機「ボイジャー」の2号機が、昨年11月に太陽系外への旅に出て話題になったが、さきに行った1号ともに、「ゴールデン・レコード」という、未知の知的生命体向けのメッセージ音盤が積載されている。
 各国語の挨拶や、さまざまな音楽にまじり、バッハの音楽が収録されている。グレン・グールドが弾いた、平均律クラヴィーア曲集からの一曲だ。
 バッハの曲を収めたのは、当時NASAにいた日本人科学者の提案で、「別の星の生命と会話をするなら、純粋な論理の形式である数学しかない」との考えだった。で、バッハは曲を数学的に構成しているから、なのだそうだ。

「らしい」「ようだ」「そうだ」ばかりの文になってしまった。
 古典音楽の知識も先端技術の知識もないことをバラしているだけだ!
 数学的に理解して説明できたらいいが、それは譜面の読み書き以上に無理!
 ただ、Doodle が、バッハに「学んで」、垂直・水平の音符の組合せを作っているところをパソコン画面で見ていると、バッハの音楽は、無音の時間(空間)をロジックで埋めていくものなのだ、ということは確かに実感できる。
 いえ、それも、あくまで見た目の印象ですが……。

 バッハの音楽は、時間という味もそっけもないものを美的秩序で満たし、時間の存在と、その豊かさを、実感させてくれる。
 ところが、そもそも時間は、秒・分・時という後付けの区切りで作られたものにすぎない。万人を共通に管理して運動し続け、生から死までを絶対的に支配する時間とは、じつは相対的なものだ。

 ということは、バッハの曲を演奏すること、つまり論理的に再構築された時間の姿を再現する場合、ふたつの大切なポイントがある。

 ひとつは、譜面に純粋に忠実に、機械のように演奏してはいけない、ということだ。
「まるで機械のような」というと、できの悪い演奏のことだから、当然のようだが、バッハの音楽は数学的論理で時間を再構築するという理屈からすれば、一個の八分音符は、どのフレーズの中にあろうと、和音のどの構成要素だろうと、すべて同じ長さ・音色・音色で演奏されなければならないはずだ。
 ではなぜ、そう演奏してはならないか。
 演奏によって再構築されようとする時間が、そもそも相対的なものだからだ。

 もうひとつのポイントは、そこから生じる。
 機械のようにすべてを等価に演奏してはいけないなら、すぐれた演奏者が、同じ音符でも、より美しく聴こえるよう音量・音色・長さなどを調整し、あるいは緩急やビブラートをつけ、「心をこめて」演奏すべき、という、あたりまえすぎる話になるが、それもいけない、ということなのだ。
 というのは、さきほどいったとおり時間は、そもそも相対的なものであり、だとすればなおさら、演奏者が時間を支配して、聴衆がそれに共感するというような関係は、おかしいからだ。

 だったら、どう弾けばいいかとか、すでに発表されたどの演奏なら、矛盾するように思えるふたつのポイントをクリアしているか、というのは、わたしには譜面の読み書きや算数より答えがむずかしい。
 ただ、ふたつのポイントの両極を、どう汲むかという振れ幅のどこかあたりに、時間という抑圧から逃れられる、あるいは時間の支配が相対化する無限の星間を通り抜け未知へと開かれた、ひとつの扉があることは間違いない。

 そのさきにあるのは、邂逅か、それとも虚無か。それはわからない。
 しかし、それもふくめて、単純なことから始まり無限や相対へとつながっていくところが、わたしがバッハの曲を好きな理由だ。だからこそ、バッハの曲をことさらに「そっけなく」弾いているようでいて、きわめて情緒的に聴こえもする、グレン・グールドの演奏が好きなのだと思う。(ケ)
 
 
190323bp.jpg 
 故国・ドイツの記念切手になっているJ・S・バッハ(二〇〇〇年発行/没後二五〇年記念)
ベートーベンなんかと違い、
どの肖像画も、すごい音楽を創造する人にはぜんぜん見えない。
 


※切手の写真は解像度を低くしてあります
posted by 冬の夢 at 12:28 | Comment(0) | 音楽 クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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