2019年03月10日

映画監督・藤田嗣治と「明星チャルメラ」

 藤田嗣治(一八八六〜一九六八)が監督した映画が見られると知り、興味を持った。
 といっても三年半前の話で、東京の国立近代美術館で開かれたコレクション展、「藤田嗣治、全所蔵作品展示。」で、同館のフィルムセンター──昨年四月に近美を離れ『国立映画アーカイブ』になっている──所蔵作が上映されたときのことだ。
 八分半ほどの短編である。一九三五年に外務省の委嘱で作られた対外文化宣伝映画、『現代日本』十本組のうちの一本だ。
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東京国立近代美術館「藤田嗣治、全所蔵作品展示。」(二〇一五年)

 企画担当の国際映画協会は、同じ一九三五年に発足、翌年に外務省の外郭団体になっている。前年にできた、よく知られる外務省の外郭団体、国際文化振興会※1の、映像企画を受けた組織だろうか。
 制作は東亜発声ニュース映画製作所となっているが、これは『現代日本』撮影のため作られた制作会社らしい。
 国際文化振興会が日本文化の海外広報で重視したもののひとつに、映像の伝達力がある。
 そこで、写真による報道・広報メディア制作の先駆者、名取洋之助に、さまざまな仕事を発注した。また、小津安二郎の幻のトーキー第一作といわれる、短編ドキュメンタリー『鏡獅子』──一九三四〜三五年撮影/小津は映像のみで音には関わっていないという──も、国際文化振興会の海外広報映画だ。

 藤田嗣治は、すでにフランスで名声を得ていて、日本でも知名度と人気があったから、小津や名取に、まさるともおとらぬ存在だった。
 ただし映画制作経験はなかったはずで、その藤田を、日本を海外に広報する映画づくりに起用したのは、外務省の文化交流担当者で詩人でもあり、日本ペンクラブ設立(一九三五年)に尽力もした柳沢健(一八八九〜一九五三)である。外務省文化事業部で、小津の『鏡獅子』の実現にも動いたそうだ。
 パリ在任時に藤田を知った柳沢は、はじめはあまり評価していなかった。しかし、藤田の仕事の徹底ぶりに感心し親交を結ぶ。藤田がメキシコ滞在時に撮った16ミリが、監督起用の決定打だったという。
 柳沢をして「セ・ヴレエマン・パッシオナント!」と言わしめた──"C'est vraiment passionant” か?──藤田は、『現代日本』のうち五本、「田園日本」「子供日本」「婦人日本」「娯楽日本」「都会日本」編を監督することになった。

 一九三五年秋、撮影は東京で始まり、南は九州から北は秋田まで、主演者を探しながらの全国ロケが敢行される。
 滞日時には動静を追う番記者がいたほどの藤田。当時の新聞には撮影進行が報じられ、難航した主演者探しや、出演が決まった娘たちの詳報が話題を盛り上げた。
 おかっぱカットに丸メガネ、あるいは奇行といわれたパリでのパフォーマンスめいた行状など、自己演出にたけた藤田のこと、銀座でのクランクインはメキシコのカウボーイに扮しての采配だ。東劇で「三番叟」の撮影を仕切ったかと思うと、べつの一篇では自らが道化役となって出演もし、派手な動きを展開する。
 一九三五年といえば、二・二六事件前夜の暗雲が立ちこめているはずだが、市井の暮らしや流行を調べると、そうは思えないほど明朗だ。ことさら明るい話題が求められていたのかもしれず、国際級の日本人画家が海外向け映画を作る話は、国民注視の同時進行イベントだったのではなかろうか。

 ところが東京での全編試写で、藤田が監督した編に非難が集中する。なんと「国辱映画」ということになってしまったのだ。
 一九三七年春には、外務省が藤田の撮った分を輸出禁止とし、制作目的の海外上映が帳消しとなる。国辱か否かの投票を伴う試写や、「果して国辱か?」「問題に問題を生んだ問題の映画」など逆説的な惹句を付された併映扱いの一般公開をへて、おおいに期待されたはずの映画は忘れられていく。現在は一篇が保存されるのみで、その再公開も、ほとんどなかったようだ。
       *

 どの点が「国辱」とされたのかは、既掲の映画誌記事※aを参考にさせていただきながら、見ることができたその一篇に限って、ふり返ってみる。

「SONS AND DAUGTERS OF THE RISING SUN」と題された、八分半の「子供日本」編が、藤田嗣治監督作として唯一残っている映像だ。
 近美の展覧会で存在を知り、気になって、また見たいと思っていた。
 さいわい、東京都美術館で昨年に開かれた「没後50年 藤田嗣治展」でも投映され、見ることができた。いずれの機会も二、三回ずつ、つごう五回ほど見ている。
 都美術館の上映では、「国辱的と評価され」「海外での公開は見送られる」と説明が付され、そこで初めて国辱と貶められたことを知った。ここまでに書いた事情は、ふたつの美術館で見た後に知ったことだ。

 映画は松山でロケされていて、ひなびた城下町を舞台に、かくれんぼしたり、散髪したり、紙芝居に集まったりする子どもたちの姿が撮られている。
 松山城であろうか、チャンバラごっこに興じる男の子たちや、街場へ場面を移し、獅子舞に集まったり、面をかぶって踊ったりする子どもたちが、おおらかに画面に躍る。
 主演者探しに行き詰まり、高等女学校の校長に頼んで全校生徒を見て選んだという女生徒を姉の役に、弟役ふたりとで主演、ということのようだ。というのも長い台詞はなく、テロップもナレーションもない。ドラマもメッセージもなく、古い城下町のそこかしこに「現代日本の子ども」がいる様子が、スナップふうに現れる。
 なんでもない記録映像だともいえるが、すこしテロップを補えば、日本の田舎の子どもの姿を紹介する短編映画としては必要十分な構成だ。上映を見ていた年配の鑑賞者たちから「懐かしい」という声も聞こえた。伝わるべきことは伝わっているわけで、どこがどう国辱なのか、よくわからない。
 孫引きだが、資料ではチャンバラごっこ(切腹のマネがある)や、それに興じる男の子がふざけて顏に隈取をしていることが、よくないらしい。「グロテスク」だという評がある※a1。この映画をさしてかどうかはわからないが、外国のカメラマンが日本の珍風景をことさら探して撮ったようで、国辱的だという筋の評もあった。

 そのころ渡仏できた美術家はそもそも多くないが、日本でいくら嘱望されようと、フランスで藤田ほどに認められた者は、ひとりとしていない。
 藤田は、なぜ成功できたか。
 ジャパネスクあるいは東洋趣味を注目されたことは知られているが、観光土産ふうのイカモノ商売だったら、一流の仲間入りはできなかっただろう。
 藤田は、当時のフランスで認められた西洋芸術絵画との「コラボ」を試みた。巧みな発想だ。
 藤田は「早描き」でも知られ、それも日本の美術界では軽んじられた理由だったかもしれないが、日本文化をおちゃらかしたようなパリでのハデハデしい行状から想像される、描きなぐりの絵をばらまいたのではない。工芸的な作り込みを感じさせもする、繊細で端正な画面を持ち味としたのだ。奇妙な外見や行動は、遠く日本へ揶揄とともに伝わり、良識派の顔をしかめさせたが──そのせいで、そもそも国辱的存在とみなされたのかもしれない──パリの芸術界や美術愛好家たちは、街区で見かける本人と作品との落差に、ますます魅力を感じたに違いないのだ。

「普通の人が考えているような事でもなくもう一つ先のことを考えねばならぬ。どうしても初めに突飛なことをすると皆あれは気違いとか、あるいはへんてこりんな奴と世間では馬鹿にしますがそれは唯気違いという字を借りて一時その人を解釈して皆安心しているのであります。だから画家は皆より一歩先に進んでいるのでありまして、それを世間はちょっとも分かってくれない」※b1

 いまの時代なら、アーティストを売り出す考えかたや方法として、やり尽くされてしまったほどのもので、驚くようなことではないが、前例がなく徒手空拳でいくしかない当時のフランスでの話だ。「どうすれば、どう見えるか」というプロデュースを自ら、作品のみならず行動や外見にまで行きわたらせることができたのが、「もう一つ先」をきっちり見据えることができた、藤田のアドバンテージだったといえるだろう。  
 ちなみに、チャンバラはとても好きで──柔道の心得もあった──パリでは自分で演じてフランス人を驚かせたりもしたそうで、外国人に視覚的にアピールする「日本ネタ」の扱いなどは、お手のものだったに違いない。
 ということは、よい技術陣がバックアップすれば、海外向け広報映像の監督に適任であり、そういう体制で撮影やポストプロダクションを行ったに違いないのだ。国辱的かどうかの感想アンケートつき試写も、ほぼ藤田を支持する結果だったのである。
 こうなると問題は、映画が「国辱」かどうかではなく、「国辱」と決めつけた評者の心理だろう。
 要するに「ねたみ、そねみ、やっかみ」ではなかったのか。

 試写を見た業界人(制作関係者や映画記者だったようだ)のほとんどが、時代からして観光にさえ行ったことがない夢の芸術都市、パリ。そのパリで誰にも出来ない成功をしている画家が、得意のパフォーマンスでヒョイと映画を作ってしまったのだ。
 いま見ても、それなりにまとまってはいる。
 ひなびた地方色に彩られた、歴史ある城下町を舞台に、筒袖、下駄ばき、兵児帯などの、いかにも日本の子どもらしい出演者たち。
 よどみなく切り替わる場面とともに、画面にあふれる子どもたちの姿には、日本の田舎の子どもの姿に、世界共通の「いまどきの子どもらしさ」を盛りこもうとした感さえある。日本の後進性を強調しているなどというのは、完全なイチャモンだ。
 試写かいに集まった人たちの思いは、「やられた!」だったのではないか。それを発火点に卑屈な嫉妬がメラメラと燃え上がったのでは。
 そういう場合に当時は、理屈なしで使える非難、ことに藤田のような存在にぶつけるにぴったりの言いようがあった。

 お前それでも日本人か!

 つまり「国辱だ!」である。これが、みごとに効を奏したのだ。
 評伝を読むかぎり、藤田嗣治という人はどうもお調子者というか、サービス過剰なところがあり、かえって不利を招くほどだったと思う。おそらくそのせいで、日本の美術界では羨望とうっとうしさがないまぜになった敬遠をされていたのではないか。
 戦争画制作の先頭に立って旗を振ったのは確かだが、戦後なぜか、ほとんどひとりでその責を負う形となり、日本を追われるようにしてフランスで亡くなることになってしまった。また没後も、事情はあったにせよ、総合的な回顧や研究が避けられるかのような状態が、かなり長く美術界や専門家の間にあったという。※2。
 そうした扱いの背景には、さして文句のつけどころがない──議論するほど芸術性はない──短編映像を「国辱」だと蹴落とした態度にうかがえる、感情的で理不尽な排斥心があったのではないか。藤田嗣治に対する「国辱だ!」と「戦犯だ!」には、同じ響きを感じるからだ。

       *

「SONS AND DAUGTERS OF THE RISING SUN」の感想が、後まわしになってしまった。 
 といってもこの映画、さきほどの内容説明に尽きていて、それ以上の見どころはない。
 正直なところ、かなりつまらない。
 個性的な映像表現があるわけでなく、報道でなく演出して撮るのだから、この題材なら地方ロケの必要もなかったのでは。

 映画監督・藤田嗣治を知ったことで、画家・藤田嗣治を擁護するような話になったのだが、それとは別の問題もある。
「SONS AND DAUGTERS OF THE RISING SUN」の「つまらなさ」は、藤田嗣治の画業を時代を追って見るときの「つまらなさ」に、きわめてよく似ているのだ。
 西洋絵画の本拠地で、ほかの日本人画家の誰ひとり得られなかった高い評価を受けたこと。
 日本の美術界では厚遇されなかったが、大衆的認知度は圧倒的にあったこと。
 それらは揺るがない事実だ。
 なのに作品は、ひたすらに「つまらない」。
 印刷でなく実作を年代順に多く見たのは、ここ数年の回顧展が初めてで、好みだけで「つまらない」といっている面もある。呪文のように「つまらない」と繰り返さないで、その理由を探しながら見ればよかったのだが。そこまではしなかった。
 その点では説得力に欠けるけれども、実作の記憶を頼りに、話をもうすこし進めてみよう。

       *
 
 きわめて器用であることと、ひどく緻密な描き込みの力は、すぐ目についた。
 天分より鍛練の成果が大きく、非常な集中力で作業したに違いないことも、うかがえた。
 ところが、それらとはうらはらな希薄さが、どの絵にもつきまとっている。
 背景は書き割りのようだし、絵の中の人やモノには存在感がない。描かれた女たちの、あやふやなポジションや、焦点の定まらないぼやけた目線が受け入れづらく、かえって印象に残るほどだ。
 画風というのだろうか、スタイルがしばしば大きく変化するのも、悪いわけではないが気になる。変わるたびに描きこなしているのは、さすがの器用さだが、変化の動機やネタもとが、あまりにバレバレなのだ。見ていてつらくなってくる。本当に描きたくて描いた絵は、どれだったのかと。

 ふと、児童むけの「シールブック」を思い出してしまう。
 お絵描きや塗り絵以前に親しむ、背景が描かれた冊子とシールがセットになっていて、剥がして冊子にペタペタ貼ると、花屋さんやケーキ屋さんが出来ましたと遊ぶやつだ。
 女もネコも子どもたちも、そして兵士たちや聖人までもが、あらかじめ用意された背景用紙に出来あいのシールを貼ったように見えてくるのだ。

       *

「兵士」と「聖人」、すなわち四十歳代前半に集中的に描いた戦争画と、七十歳代以降の晩年の宗教画には──六十九歳でフランス国籍を取得し日本国籍を抹消、七十三歳でカトリックに入信──藤田自身、生涯の誇りを持っていた。
 徹底して情熱を傾け、それに見合った大きな評価も受けた。結果として古典西洋絵画の画題の頂点である宗教画、それにつぐ歴史画を、どちらも極めたわけで、喜びと自負は推して知るべしだろう。

 戦争画については、国威昂揚の太平洋戦争画制作に組織的に起用された画家らの先頭に立ち、描くのみならず勇ましい発言もして、初めて日本で正当に評価され、画壇で地位も得た。
「数多くかいた画の中の尤(もっと)も会心の作」が出来たと、自賛している。
「会心の作」とは、一九四三年の「国民総力決戦美術展」に出品した『アッツ島玉砕』だ。主催は陸軍美術協会。同年に藤田が、亡くなった藤島武二を継いで副会長になっている。
 観覧者たちの中に、藤田が描いた絵の前に膝をつき、祈る人たちの姿があったという。賽銭を投げる人もいたそうだ。

「初めて自分の画がこれほど迄に感銘を与え、拝まれたということは未だかつてない異例に驚き、(略)一人唖然として打たれた」

 とも記している藤田。晩年に書いたこと※b2なので、戦争プロパガンダに協力した「罰」で戦後は国外追放のような離日をしいられたにもかかわらず、藤田にとって戦争画は、罪の記憶にも、抹消すべき画業にも、まったくなっていなかったことがわかる。

 そして、「たった一冊が一億法(フラン)の本 聖書の黙示録という本」。
 一九六一年に完成した、重さ二一〇キロという巨大な限定豪華本『ヨハネの黙示録(L'Apocalypse de Saint Jean)』だ。超豪華本で知られたフランスの版元制作で、オリジナル一点、微妙に違う仕上がりで計七部が世界に渡ったという。
 藤田はダリ、ビュッフェ、フィニ、マチューらとともに挿絵を依頼された。

「廿世紀の記念物として作るものとしても大したものであり/世界中の新聞に出ました/その事で私も今は一生懸命その仕事にかかってます/楽しミと生甲斐阿りです」。※C1

 宗教画を描いては、イタリアで大きな賞を受けもし、ローマ法王に謁見もできた。受洗し信徒になってからなので、まさに「生きがいあり」であったろう。
 
 感銘を与え、拝まれる絵。
 藤田嗣治にとって「会心の作」とは、そういう絵だったのだ。
 そのような「会心の作」へつながる画題なら、何であろうと描いたに違いない。
 日本国籍放棄と、カトリックになったことについて、理由を明瞭には表明していないが、戦争画を描いたことを悔い、贖罪の絵筆で宗教画を描いたという、辻褄合わせの効く物語は、藤田嗣治の宗教画にはまったく含まれていないのだ。

 東京都美術館の「没後50年 藤田嗣治展」で初めて、みごとなまでに伝統的フォーマットにのっとった宗教画を、異様なほどの熱意で描いていたことを知り、この展覧会を二度、見に行った。
 二度目に、いま書いているようなことをふと思い、戦争画を見てから間をとばして宗教画を見にいき、また戦争画へ戻ってきて見る、というようなことをした。
 すると、兵士たちも聖人たちも、絵から剥がれ落ち始めた。
 戦争画の一隅にそれが描いてあることが、反戦ではなくとも、かならずしも聖戦賛美だけで描いたのではないことの証左のようにいわれもする「花」も、たちまち剥がれていった。
 そして、やはり「会心の作」であったにちがいない『礼拝』(一九六二〜六三年)に、かなり大きく描かれた僧衣の藤田自身──見るたびに異様な感じがした──もまた、裏糊が劣化し剥離しつつある薄っぺらいシールのように見えた。

       *

 フランス人になった藤田嗣治の、晩年のフランス生活が「和風」であったことは知られている。
 遺品に膨大な浪曲のレコードがあり、藤田──「フジタ」と書くべきだろうか──の愛聴盤だったそうだ。
 和食を好み、自ら食材を買って調理し、日本からさまざまな食糧・食材を取り寄せてもいた。パリに比較的近いイル=ド=フランスに住んでいたとはいえ、現在でも交通の便があまりよくないところで、しかも一九六〇年代初めの話である。
 もろこ、鯛でんぶ、椎茸、干ぴょう、煎りぬか、でびら鰈、など本格的な日本食材が執拗なほど書きならべられた手紙類が残っており、お好みの食品・食材には二重丸がついている。
 その中に、意外なものがあった。

 ◎明星チャルメラ(特製スープ 木の実のスパイス付)明星食品株式会社

 そう書かれた手紙を収録した評伝の筆者は、藤田の和食材への「こだわり」を「絵画制作に通じるような」「細部におよび、半端なものでない」ものだと書いている。まったくそのとおりだ。※c
「時には思わず微笑んでしまうようなもの」があるとも書かれていて、さだめし「チャルメラ」などはその部類なのだろう。わたしも「チャルメラ」には思わずコケたし、「永坂更科のそばつゆ 北斎漫画入りの罐」も「二重丸アイテム」になっていて笑える。

 しかしすぐに、笑えない不気味さも感じた。
 近年よく経験する、身近な高齢者たちの食への執着に似ているからか。いや、そうではない。
 画家であることもあり、日本(の味)を慈しむよすがを、味そのものもさることながら、味を表象する記号(表徴)に、より過剰に求めたのではなかったか。
「明星」「チャルメラ」「特製スープ」「木の実のスパイス」。そして「北斎漫画入りの罐」。書きもらしなく、正確に記述しておく「細部におよび、半端なものでない」熱意。しかし、それらが書きつけられた手紙やメモをいま手にとれば、またしても目にすることになるだろう。さまざまな食品や食材の、出来あいのラベルシールたちが、つぎつぎと、そしてはかなく、台紙から剥がれ落ちていくのを──。

       *

 晩年の、日本の味への執着、ことに、それをを表象する「ラベル」への「こだわり」を、そのように知ってから見ると、目が離せなくなる絵がある。時代は戦前に戻るが、一九三六年に描かれた『自画像』だ。藤田嗣治の画業の中でも、ひときわ異彩を放つ絵である。

 一時帰国などを別にしても二十年近いフランス中心の海外生活から戻り、日本に腰を落ち着けたのは、一九三三年秋のこと。そのころの自画像として描かれたのは、純和風の雑然とした手ぜまな部屋で、単衣の着物をくつろげて長火鉢に寄りかかる姿である。
 この絵一枚だけ初めて見れば違和感はなく、散らかった和室にいる画家本人、それ以上のものは何とてない。しかし、エコール・ド・パリのフジタの絵として見ると、きわだって奇妙な絵だ。

 華やかなパリ時代につながるものは、その畳部屋には見当たらない。
 鉄瓶がかかった長火鉢にはじまり、膳には食べちらした干物に枝豆、胡瓜の浅漬け。床には急須に湯呑茶碗。竹の物差しや、裁縫箱の中の刺し子の針刺しも──以後、終生つれそった日本人の妻と、五度目の結婚をしたころだ──見える。そして、茶道具が藍染された大きな暖簾。襖紙は紅葉。茶道具の使い回しか風呂先屏風の、薄汚れた破れの描き込みにもぬかりがない。

 そう、この絵もまた、これでもかとばかりに貼りつけた「シール」だらけの絵だ。そして突然、わざわざ過剰なまでに演出されているのは、「日本」なのである。
 当時の心境を後に「私は正に純日本の雰囲気に浸って我が身の幸福をつくづくと感じている」※b3と書いたほど日本を愛し、その日本に芸術家として受け入れられなかった不満を語ってやまなかったという藤田。
 和の道具の描き込みのこまかさは、身をなげかけて帰属を願うほどの──これほどの描き込みもさして苦心なく「早描き」できたのだろうか──儀式めいた日本への帰依さえ感じさせる。ただ、そのいっぽうで絵の中心にいる藤田自身は、文士ふうの崩れた着物姿なのに、あの、おかっぱカットに丸メガネだ。この絵の中で、こじつけではあるが唯一パリ時代を思わせなくもない、ネコを懐からのぞかせながら。
 そういえば、さきほど紹介した渾身の宗教画、『礼拝』にかなり大きく登場している僧衣の藤田自身も、おかっぱカットに丸メガネだった。いずれも「放蕩息子の帰還」に題をとる形で、帰依を告白しているということなのだろうか。
 フランスでは大成功したが、日本への凱旋と受容は、いわば尻切れトンボになり、フランス人としてフランスで生涯を終えた藤田嗣治。その心にはいつも、渇きにも似た日本への思慕があったという説にしばしば出会う。
 日本で受け入れられたい、日本人として生きたい、と念じるような気持ち。戦争画への直情いっぱいの献身もしかり、また、そもそも突飛で屈折した行動は、そのあらわれでもあったらしい。
 しかし、どれほどたくさんのシール──神社の護符や教会への献灯にさえ思えてくる──を画布に貼りつけようと、藤田が帰依を願ったものは、絵に確たる存在をむすぶことは、けっしてなかったのではなかろうか。

 藤田嗣治の絵画を、いまさらポストモダンふうに位置づけようとしているのではない。どこか、そういう話になっているような気もするが、そのつもりはまったくない。
 そうではなく、こんなふうに絵を見たのだ。
 聖戦も、信仰も、あるいは日本も、求めて身を投げ出すような存在ではない。
 そもそも、そんなものへ熱心に心を傾けることそのものが、むなしい妄執なのだ。
 藤田嗣治が描いた絵たちはそのことを、ひたすらに、そしてはっきりと示しているのである。

       *

 ところで藤田自身は、自分が監督した映画、「SONS AND DAUGTERS OF THE RISING SUN」(「子供日本」編)を、「会心の作」と思っただろうか。予想もしていなかったと思うが国辱映画あつかいされて、映像作家・藤田嗣治は誕生しなかったわけだが。

 藤田は晩年ことに、子どもを主題にした絵を多く描いている。
 しかし、やはりどれも、ひたすらに「つまらない」。
 描かれた子どもはみな、あまりにちんまりとおとなしく、空虚な表情で、躍動感がまるでない。
 いや、ある種の魅力がないわけではない。
 むろん藤田の意図ではないだろうが、その道に興味のある人なら、絵を見ればすぐ気づくだろう。わたしはハンス・ベルメール(一九〇二〜一九七五)や、ベルナール・フォーコン(一九五〇〜)の写真作品をすぐ連想し、気づいた。
 人形への偏愛である。
 それもそのはずで、子どものなかった藤田は、晩年フランスの居宅で、人形を買い集めてベッドに並べ、いっしょに寝ていたという。

 ならば藤田は子ども嫌いで、持ち主の意に背かない人形だけを愛したのかというと、それは違うのだ。
 最後の住まいを構えていた、フランスの田舎の子どもたちと日ごろから親しく、お菓子を食べるなどしながら話すのが、なによりの楽しみであったらしい。
 そういえば、あの「国辱映画」をいま一度、思い出すと、おそらくは全員が素人だったに違いない登場者の子どもたちが、演出やコンテから飛び出してしまって駆け回るのを、「それはそれでいい感じだからOK」にしているような感じがあった。ロケ先で起用した主人公の女生徒の、はにかんだような素人っぽさとあいまって、生き生きとして「微笑ましい」のである。

 この映画から浮かんだ「つまらなさ」が、絵画作品を見ていくキーワードだというとらえかたをして、ここまで話を進めてきたが、ひょっとするとこの映画は、そのこととは別に「会心の作」に違いないといっておくべきなのかもしれない。
 報国の映画制作が不評で、「なかったこと」にされたがため、意地になって戦争画制作に邁進したのかどうか。それはさだかではない。おそらく頼まれさえすれば何度でも、時局に応じた広報芸術に注力したのではないかとも思う。
 ただ、もし時局の要請でない映画を監督できて、時局に左右されない評価を受け、かりに戦争広報芸術に関わる機会もなかったなら。
 そして、絵画と映像が相互浸透するかのような表現活動が、その徹底した「描き込み」の力で進められていったなら、藤田嗣治という人は、どのような芸術家になっただろうか。
 そのような想像は、いまさら詮ないことではあるが、映画監督・藤田嗣治が残した唯一の映画を、機会があればもう一度、見直したいと思っている。(ケ)
 
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東京都美術館「没後50年 藤田嗣治展」(二〇一八年)
  

 
※1 現在の国際交流基金の前身。
※2 著作権者(遺族)による作品公開のあいつぐ拒否。正当に評価しないものへは提供しないという理由だったそうだが、美術、出版関係者の事前知識となり、「さわらない」ことになってしまった面がある。

※a「監督・藤田嗣治」藤元直樹/映画論叢(16)/二〇〇六年十二月 制作のいきさつについても、多くをこの記事に教えられた。※a1は、この記事に引用された沢村勉(読売新聞映画記者をへてシナリオライター、太平洋戦争記録映画の制作も)の試写評。

※b1『藤田嗣治「異邦人」の生涯』近藤史人/講談社/二〇〇二年 b1は、同書に引用された、一九二九年秋から翌年初までの一時帰国時に、母校の東京美術学校で行われた公演から。b2は、同書に引用された、藤田が晩年に美術評論家・夏堀全弘の原稿に手を入れる形で残した手記から ※b3は、同書に引用された『地を泳ぐ』(藤田嗣治/一九四二年)の記述。

※c『藤田嗣治とは誰か 作品と手紙から読み解く、美の闘争史』矢内みどり/求龍堂/二〇一五年 ※c1は、引用された藤田嗣治の手紙から  

 ほかに
『評伝藤田嗣治』田中穣/芸術新聞社/二〇一五年改訂新版
『藤田嗣治作品集』清水敏男/東京美術/二〇一八年
 などを参考にしました。



posted by 冬の夢 at 01:26 | Comment(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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