2019年03月06日

今さらだけど、コチシュ・ゾルターンに夢中

 コチシュ・ゾルターン(1952-2016; 西欧風に言い直せばゾルターン・コチシュ)は作曲家のバルトークと同じハンガリーのピアニストだ(※)。極めて残念なことに、数年前に没している。The Guardianの訃報によれば、どうやら心臓病を患っていたらしい。近年はピアニストとしてだけではなく、指揮者としての活動も注目すべきものだったので、64歳の死というのはちょっと早すぎる。真に神々には才能ある人間を少しでも早く手元に置きたがる悪癖があるようだ。

 コチシュとの最初の出会いはこのCD(当時はまだLPだったけれども)だった。

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そしてこの演奏を通じてバルトークが私的には特別な作曲家になった。早稲田の音楽喫茶でバルトークの弦楽四重奏を耳にしたのがバルトークとの最初の出会いだったことはすでに別の機会に記した通り。そしてポリーニとアバドの共演したピアノ協奏曲(1番&2番)の衝撃的体験というのもあったわけだが、コチシュのこのレコードがなかったら、おそらくバルトークへの接近と理解は全く違ったものになっており、今のようにバルトークのCDが100枚にも及ぶ(これは我がコレクションの中でもバッハ、ベートーヴェン、モーツアルトに次ぐ第4位の座を占めている)なんてことにはならなかったと確信する。この意味で、コチシュこそがバルトークのピアノ曲の魅力を明らかにしてくれた恩人であり、バルトーク音楽の使徒としての貢献度はアルバンベルク四重奏団と比べても遙かに高い。

 コチシュのピアノは場合によっては硬く聞こえるときがある。よく聴けば決して硬くはないのだが、おそらくバルトーク特有のアタックを強調する曲調がこうした印象を与えるのだろうか。実際のところ、コチシュのピアノの何よりも大事な特徴は(少なくともぼくの耳には)その清潔な響きだ。文字通りに、美しく、透明感があり、潔い。月並みな表現だが、氷のようだ、ダイヤモンドのようだ、と評することも可能かもしれない。もっとも、このような表現から「冷たい」という印象が生まれてしまうのなら、この二つの常套句にはさっさと退場をお願いした方が良い。コチシュの音楽は決して冷たくない。むしろ熱い。人によっては「彼の演奏には怒りがある」なんて言う人もいるくらいだが、個人的には「怒り」なんてものは彼の演奏のどこを探しても微塵も見つかりはしない。彼の演奏に内在しているものは「怒り」では決してなく、あえて言うならば「力」であり、エネルギーだ。しかし、いわゆるヴィルトゥオーソ(例えばエミール・ギレリスやスヴャトスラフ・リヒテルに代表されるような)的な、重さを前提とした大迫力、圧倒的エネルギーではなく、逆に、格別な集中力から生まれる敏捷性を連想させる、その意味で軽やかさと矛盾しない力強さ……このところずっとコチシュのピアノばかり聴いていて、どこかフリードリッヒ・グルダと似ていることに気がついた。グルダも大好きなピアニストだ……

 それにしても、すでに故人になってしまった今頃になって言うのもいかにも時機を逃した戯言にしか聞こえないが、コチシュというピアニストは何と早熟な若者だったことだろう。このLPが録音されたとき(1975年)、彼はまだ23歳に過ぎないが、天才には年齢を問うことが無意味であることをしみじみと実感させられる。一方、凡人である当方はといえば、このLPが世に出た頃はまだ中学生になったばかりだから、さすがにその存在さえ知らなかった。このアルバムを聴いたのは大学生の頃で、発売から10年近く遅れてのことだ。ポリーニとアバドのおかげでバルトークのピアノ協奏曲の存在は知っていたけれど、単独のピアノ曲についてはほとんど無知だった。そして、たまたま見つけたのがコチシュのこのアルバムだった。

 今でもよく覚えているが、当時は「ハンガリー若手三羽烏」などという碌でもないキャッチフレーズで、今やピアノの大巨匠と目されているシフ・アンドラーシュ、シフほどには名前を聞かなくなってしまったが、しかし今なお活躍しているラーンキ・デジュと一緒に、DENONレーベルがかなり力を入れて売り出していた。面白いことに、シフもコチシュに遅れること5年、1980年にバルトークのピアノ曲集を、同じくDENONレーベルから出している。ということは、当時の貧乏大学生(小生のことです)にはコチシュで聴くか、それともシフで聴くか、という選択肢があったはずだ。そして、極寒の懐具合であった以上、この両方のレコードを手に入れるなんてことは考えられず、結果的にコチシュの方を手に入れた。おそらく、コチシュ盤の方が少しは安かったのか、あるいは中古レコードを見つけたのか、あるいはもしかしたら、当時はあちらこちらに存在した貸しレコード屋で借りただけだったかもしれない……この辺りのことはもう記憶に定かではない。が、いずれにしても、コチシュのこのレコードを聴いたときの衝撃は、ポリーニとアバドの協奏曲を聴いたときの衝撃に匹敵した。特に冒頭に置かれた「アレグロ・バルバロ」(つまり、「野蛮なアレグロ」?)にはド肝を抜かれた。

 それから何十年も経った今となっては、今度は逆に不思議な気がするほどだけれど、そのときは「何てやかましい、凶暴な音楽なんだ!」と思ったように記憶している。そして、その驚き(嫌悪感さえ混じっていたと告白しよう)が冷めやらぬ前に2曲目が始まり、再度驚かされたにちがいない。というのは、2曲目から4曲目には「民謡による三つのロンド Sz.84」が入っていて、とりわけその第1曲目の冒頭の美しさといったら! 我ながら気恥ずかしい表現ではあるが、「珠を転がすような」とはこのようなピアノのことを言うのに相応しいのではなかろうか。おそらく「アレグロ・バルバロ」との対照を十分意識した選曲、曲順だったのだろう。そう思えば、やや作為的過ぎる気もしないではないが、その効果は絶大だ。これまた我ながら極度に恥ずかしい表現であるが、「アレグロ・バルバロ」と「民謡による三つのロンド」が成す対照は、究極のツンデレな気がする。

 しかし、驚きはまだまだ続いて、おそらくバルトークが書いた曲中最もキャッチーな曲であろう「ルーマニア民俗舞曲 Sz.56」を耳にするに至っては、バルトークという作曲家は必ずしも難解で奇怪な音楽だけを書いたのではなく、美しく親しみやすいメロディーを伴った、正に佳品と称したくなるような作品も書き残していることを、論より証拠、否定しがたい明証性の下に納得させられた。これにはコチシュの透明感あふれるピアノが大きく作用したことは確実で、このときから(つまり、大学生の頃から)コチシュというピアニストに注目していたことも同様に確実なはず。だけれども、ずっとバルトークのスペシャリストだと思い込んでいた。実際にはドビュッシーやラフマニノフもそれなりに多く録音していたが、ぼく自身がこの二人の作曲家に対しては特に強い興味がなかったために、コチシュのピアニストとしての全貌を知る機会がつい最近までなかった。

 そう、ぼくにはしばしばあることなのだが、そのアーティストが物故してしまってから、すっかり手遅れになった頃になって、なぜかその人がとりわけ気になってしまう。詩人の田村隆一もそうだったが、コチシュに対しても同様だ。彼が一昨年に亡くなったとき、少なからずのショックを受けた。当然だろう。バルトークのピアノ音楽の大半を彼の演奏で楽しんできたのだから。しかし、現在の「コチシュ熱」の直接の発端は彼の訃報記事ではなかった。

 晩年(いやな言葉だけれど、使うことにしよう)のコチシュが指揮者としても活動していたことは一応は知っていた。が、指揮者としてのコチシュに注目することはなかった。「どうせピアニストの余技だろう」とまでは思わなかったにしても、他に優秀な指揮者はいくらもいるのだから、特にコチシュの指揮で何かを聴きたいと思うことはなかった。

ところが、先日、このブログでも話題にしたように、パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルの実演に接し、その演奏に大いに感銘を受けて以来、youtubeで彼らの演奏を見つけては試聴することを繰り返していた。そして、ベートーヴェンの交響曲の音源を探っていたとき、コチシュがベートーヴェンの第7交響曲を振っている音源に偶然出会した。「あー、コチシュだ」と思い、何気なく、つまりはさほど期待もせずに、「さて、どのくらいの腕前だったのだろう?」という軽い好奇心に誘われて聴いてみた……

 コチシュの指揮、見た目は全然かっこよくない。ちょっと猫背で、素人目には指揮棒をとりとめもなく振っているようにさえ見える。「これでオーケストラはわかるのだろうか」と心配になるほどだ。実際、映像を見る限りでは、演奏中の団員はあまりコチシュの方を見ていないようだし、コチシュもピンポイントでこれ見よがしの指示を出すようなことは少なかった。しかし、その音楽たるや、さっきまで聴いていたパーヴォ・ヤルヴィの音楽がすっかり霞んでしまったほどだ。オーケストラは1997年にコチシュが音楽総監督に就任したハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団。演奏スタイルは今風で、その点ではドイツ・カンマーフィルの演奏と相通じている。贅肉をそぎ落として、きびきびとした、若々しい音楽だ。金管にはどうやらかなり問題があるようで、強奏のところでしばしば素っ頓狂な音が聞こえる。しかし、こうした瑕疵があるにしても、全体としては何と立派な演奏であることか! こんなに高貴に響くベートーヴェンの7番を耳にすることは滅多にない。大方の演奏は、この曲を「リズムの饗宴」とか「バッカスの何たら」とか見なして、馬車馬に乗って疾走するように、つまり、ただ無闇に熱狂的に演奏すればそれで良しみたいなところがある。そのせいか、9つの交響曲の中ではぼく自身は、とりわけ年を重ねてからは、どちらかと言えば敬遠してきた。ところが、コチシュの創り出す音楽は、どこかモーツァルトの39番(K.543)をなぜか彷彿とさせる、つまりはどこかに気高さとしか言いようのない響きがあるではないか! これには本当にびっくりした。

ここまで読んでくれた人は、どうか騙されたと思って、youtubeでこの演奏を自分の耳で確かめて欲しい。お奨めは第4楽章(28分過ぎくらい)。コチシュの不格好で投げやりとも思われかねない指揮姿も拝めるし、ぼくが「気高い」という最高の褒め言葉で賞賛する、溌剌とした音楽が楽しめる。オーケストラの演奏は下手くそと言っても過言ではないくらいミスが目立つのに、それなのに聞こえてくる音楽がどうしてこれほど素晴らしいのか?

それが気になり、先ずは手元にあるコチシュのCDを全部取り出してみたところ、バルトークのピアノ曲9枚、ピアノ協奏曲3枚、そして彼の死によって中断を余儀なくされたシリーズの1枚、コチシュが手兵のブダペスト祝祭管弦楽団を指揮した「管弦楽のための協奏曲」を収めたもの。つまり、この最後のCDだけが指揮者としてのコチシュを知る唯一の手がかりというわけだが、これではいかにも心許ない。もう少しわかりやすい曲(ベートーヴェンとかモーツァルトとか)は録音されていないのだろうか。そう思って探してみたのだが、なんたること、市場からコチシュのCDがすっかり姿を消しているではないか。比較的最近の、フィリップスから出ているバルトークとドビュッシーはお情け程度に残されている。また、死の直前まで続けられていたフンガトロンのバルトーク全集のいくつかは比較的簡単に入手できる。しかし、日本で1975年に録音された上述のCDを唯一の例外に、彼の若い頃のアルバムは軒並み姿を消している。シューベルトもベートーヴェンもモーツァルトも録音していたはずなのに。

それでも、インターネットの網を広げて探してみると、文字通りに有り難いことに、あるではありませんか! 最初に目を惹いたのは、モーツァルトのピアノ協奏曲を弾き振りしているもの(1998年、PHILIPS)。しかも当方の大好物である第17番のピアノ協奏曲が入っている。(19番、11番、17番の順で録音されている。)これは手に入れないわけにはいかない。というわけで、すぐさま購入。同時に、同じくフィリップスで制作されたベートーヴェンのピアノソナタのCD(1991年、「悲愴と「テンペスト」が含まれている」も中古市場で見つけたので、迷わずゲット。

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スクリーンショット 2019-03-06 10.36.13.png(これは再発されたもののようだ)

 これらのCDを聴くと、コチシュのあまりに早過ぎた死を返す返す惜しまずにはいられない。こちらの思い入れを勘定に入れたとしても、何ともチャーミングなモーツァルトだ。自由闊達とはこのことだ。先にyoutubeでベートーヴェンの交響曲第7番を聴いたときにモーツァルトの交響曲第39番(歌劇『魔笛』との共通点がしばしば話題になる変ロ長調の朗々とした楽曲)を想起させたのと同じ雰囲気に溢れている。概してコチシュの音楽に共通した特徴だけれど、テンポは速めだ。彼は曲がダレることを何よりも嫌うのだろう。音楽はいささかの逡巡も示すことなく、淀みなくサクサクと進む。そのくせ、せっかちな感じは少しもない。先述のとおり、どこまでも清潔だ。ついでながら申し添えると、11番の協奏曲ではピアノによる通奏低音を存分に聴くことができる。こんな演奏をライブで聴くことができたら!
 ベートーヴェンのピアノソナタの方は、快速かつ清潔な響きであることは同様だが、残念?ながらそれ以上には今のところ何も言えない。このCDには1番、5番、8番、17番の4曲が収められているが、概して若い番号の方がコチシュには似合っているような気もするが、ベートーヴェンのソナタに関してはもう少し聴き込んでみないと確信をもって言えることはなさそうだ。
 
 ベートーヴェンのピアノソナタはともかくとして、コシュのモーツァルトがこれほどに魅力的とは思いもよらなかった。そもそも彼がモーツァルトを弾いている事実さえ、実はそれまで全然知らなかったのだから仕方ない。調べてみると、若い頃(フィリップスと契約する前)には結構たくさんのモーツァルトをハンガリーのレーベル、フンガトロンに録音している。となれば、これもまた入手する他はあるまい。というわけで、中古市場を探し回って手に入れたのがこの2枚。一つはピアノ協奏曲第12番と第23番、もう一つは第8番、第13番、第25番が収められている。共演は両方とも同じ組み合わせで、表記通りに記せば指揮者がJanos Rolla、オーケストラはフランツ・リスト室内管弦楽団だ。が、この2枚のCDの間には7〜8年以上の隔たりがある。つまり、前者が録音されたのは1983年、後者が録音されたのは1990〜91年だ。もしかしたらシリーズで録音を重ね、他にも音源が残されているのかもしれない……いずれにしても、これらのCDを聴くと、コチシュがかなり明確なモーツァルト像を持っていることがわかる。98年録音のものも含め、いずれも一見(聴)ぶっきら棒とさえ聞こえかねないスピードで駆け抜けていく、本当に爽やかな風のような演奏だ。軽やかで、遊び心にも満ちている。本当は丁寧でデリケートなのに、それが照れくさくて、その照れくささを隠すためにわざと素っ気なく弾いている、きっとモーツァルト自身もこんな風に演奏したのではないか、などという妄想さえ湧きかねない。

 一方、指揮者としてのコチシュの実力については、正直、まだよくわからない。苦労して、数枚のCD を手に入れはしたのだが、まだゆっくりと味わっている時間が取れないでいる。それでも、はたしてそれが本格的な指揮といえるのかどうかは不明だが、木管アンサンブルを指揮した『グラン・パルティータ』K.361の入っているCDはとてもいい! すっかり愛聴盤になっている。いずれにしても、この1〜2ヶ月はコチシュにすっかり夢中になっている。その重篤なこと、彼の音源を求めて、リージョン1(日本の普通の再生機では見ることもできない)のDVDまで買い求めるほど(だって、それにはシューベルトとベートーヴェンのそれぞれ最後のピアノソナタが収められているのだから!)。これでは遅からず続報を書くことになること必定だ。 (H.H.)

R0013185.jpg(とてもチャーミングな「グラン・パルティータ」)

(※)名前の表記にこのような一種の混乱があるのは、ハンガリー語の表記では姓名は日本語と同じように性が先で名前が後になるとのことで、それに従うなら、コチシュ・ゾルターンが正式なはずだが、いわゆる「英語帝国主義」が席巻する現在の経済・文化市場ではゾルターン・コチシュと西欧化された表記の方が主流かもしれない。しかし、ぼくも自分の名前を英語で言うときには、相手が少しでも日本のことを知っている場合は必ず姓を先に名乗るようにしているので、ここでもハンガリー式を踏襲したい。
posted by 冬の夢 at 18:17 | Comment(0) | 音楽 クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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