2019年02月05日

クラウディオ・クルス(Claudio Cruz)と兵庫PACオーケストラ、そしてエルガーのチェロ協奏曲 #2

(興味があれば、#1の方からお読み下さい。H.H.)

 クラウディオ・クルスとPACの実演に接し、クラウディオ・クルスという指揮者に興味を持ち、それをきっかけにしてエルガーのチェロ協奏曲を聴き続ける羽目になったことを書きかけたまま、いつもの如く、すっかり時間が経ってしまった。実を言えば、この数日の音楽の中心はすでにモーツァルトのピアノ・ソナタに移ってしまっているのだが、書きかけたまま放っておくのは何だか気持ち悪いので、我ながら旧聞に接する思いがするけれども、ことの顛末を記しておきたい。

 クラウディオ・クルスというブラジル出身の指揮者のCDをネットで探してみたところ、入手できそうなのはエルガーのチェロ協奏曲とハンス・ガルという、こちらはその名前さえ聞いたことがない作曲家の、同じくチェロ協奏曲が収められたCDだけだった。正直、この曲目に関しては当初はほとんど何の興味関心も喚起されなかった。エルガーがイギリスを代表する作曲家であるとは承知しているが、それなら例えば日本を代表(?)する伊福部昭や芥川也寸志と比較したとき、エルガーの方がいっそう重要かつ充実した作曲家なのか、今のところ自分では全く見当がつかない。そして、今のところ、それならば自ら好んで聴くのは芥川の音楽の方だ。

 しかし、そうは言っても、肝心のクラウディオ・クルスが現に指揮しているのはエルガーの方だから仕方ない。というわけで、本当に何十年ぶりにこの比較的有名なチェロ協奏曲を聴くことになった。冒頭を聴いただけで大学生時代にこの曲を初めて聴いたときの印象と感想が甦ってきた−−まるで映画音楽のようにロマンチックな曲だ。

 この場合の「映画音楽のように」というのは、どちらかといえば否定的なニュアンスが差し挟まれている。表現を少し変えれば、「なんてメロドラマチックな音楽なんだろう」ということになるかもしれない。「メロドラマのどこが悪いのか?」と問い詰められるとさすがに返答に困ってしまうが、あえて頑張って応えてみると、「メロドラマには、大西巨人という小説家の言を借りれば、『俗情との結託』とも評すべき、ある種の不潔感が伴う」ということになるだろうか。言い換えれば、メロドラマとは観客・聴衆があらかじめ身に付けている倫理観や価値基準(当然美的・感性的な価値基準を含む)に迎合し、それを満足させることを主目的とした、場合によっては唯一の目的とした作品ということになる。要するに、耳に心地よいメロディーを提供し、盛り上がるべきところでは期待に違わずきちんと盛り上がり、まかり間違ってもトラウマを刺激するような不気味なものを出現させるようなことはしない。こういうのをメロドラマ的というのではないか。事の正否はさておき、エルガーのチェロ協奏曲に対する当方の事前の思い込みは、おおよそ以上のようなものだった。

 ところが、(案の定?)クラウディオ・クルスとアントニオ・メネセスの共演によるエルガーを聴き進めているうちに、「いや、これは案外といいぞ。少しアナクロニズムのきらいはあるが、これは正当的ロマン派の音楽ということなのでは? 『メロドラマ』とか『映画音楽』と揶揄して済ませていいような音楽ではなさそうだ」という思いが沸々と湧き上がってくるではないか! (こんなこと、エルガーを評価している人が耳にすれば笑止千万なんでしょうね……)

 エルガーという作曲家について少しだけ補足すれば、生年が1857年、没年は1934年、イングランド生まれ、イングランド育ちの音楽家だ。ちなみに何人かの作曲家の生年を並べると、ブラームスが1833年、ドボルザークが1841年、マーラーが1860年、ドビュッシーが1862年、シベリウスが1865年、ラヴェルが1875年、バルトークは1881年となる。つまり、エルガーはマーラー、ドビュッシー、シベリウスらと同世代なわけだ。しかし、エルガーのいくつかの曲を聴いた印象では、イギリスの音楽における後進性を反映しているのか、むしろ前の世代、つまり、ブラームスやドボルザークの音楽にいっそう似ている気がする。(この点で、エルガーはラフマニノフと比較し得るのかもしれない。)つまり、基本的にエルガーには「遅れたロマン派」の響きがあり、それが通俗的に聞こえてしまうことは避けられない。実際、今ここで話題にしているチェロ協奏曲にしても1918年の作品であり、1918年といえば、すでにシェーンベルクやウェーベルンが無調の作品(『月に憑かれたピエロ』1912、『弦楽四重奏のための5つの断章』1909)を作り、ストラヴィンスキーが変拍子と不協和音に彩られた『春の祭典』(1912)を作っていた時代である。エルガーの、あるいはイギリス音楽の後進性が嫌でも透けて見えるではないか。もちろん、時代の最先端に座を占めることが必ずしもその芸術の優位性を示すわけではない。また、時代の潮流に逆らうようにして旧いスタイルに拘ることが旧弊の誹りを受けねばならないという謂われはない。そんなことを言ったら、リストやワーグナーが活躍した時代に古典音楽の形式に頑固に拘り続けたブラームスの立場がなくなってしまう。

 しかし、そうは言っても、エルガーのチェロ協奏曲のあまりにわかりやすい「盛り上がり方」は、一度聴くだけで「もう満足、お腹いっぱい!」という気分にさせられ、以後長く遠ざかっていたことは事実だ。ところが、クラウディオ・クルスとアントニオ・メネセスの演奏で聴くエルガーは予想に反して、あまり盛り上がらない。いや、所詮は同じ曲だから相変わらずメロドラマ風ではあるし、通俗的雰囲気もある程度は漂わせている。が、どこか醒めた感じがする。冷静というわけではないが、メロドラマ的自己陶酔とは離れたところにある。これは聴きようによっては退屈か、そうでなくても、熱意の感じられない、共感に乏しい演奏に聞こえるかもしれない。が、なまじっかの「熱演」がメロドラマに荷担するというのはいかにもありそうなことだし、だからこそ少々熱意に欠けた感じがするこの演奏が、普段はどうしても感じられてしまう通俗性を弱める方向に作用していると考えられなくもない。それに、そもそもエルガーのチェロ協奏曲にはどこか寒々とした寂しさや悲しさが立ちこめているので、一見(一聴)弱々しくも響く演奏は、実は案外とこの曲に似つかわしいのかもしれない。あまりに共感に満ちた熱演によって表現されてきた通俗的甘さがこの曲を敬遠してきた理由だったのだから、それが弱められた以上、この曲が気に入るのは理の当然だ。そう、延々と書き綴ってきたけれど、つまりはここに至ってエルガーのチェロ協奏曲を大いに見直したという次第。

 そうなればいつもながらの悪癖が顔を出し、これまた当然のように、他の演奏家たちの解釈が知りたくなる。そこで、先ずはチェロの伝説的巨匠でもあるピエール・フルニエの演奏を聴いてみることにした。大学生の頃に聴いたのもおそらくはこの演奏だったはずだ(もしかしたらこの曲の決定盤と広く信じられているジャクリーヌ・デュ・プレの方だったのかもしれないが……)。スピーカーから音が流れ出した途端、チェロの達者なこと! さすがフルニエ、現代のチェリストたちとは全然違う。

 誤解のないように急いで書き足すが、フルニエの方が上手いわけではない。おそらく技術的にはかなり劣っているはずだ。というのは、最近のチェリストたち(メネセスなどもその一人だろう)は、音が均一であることを何よりも重視しているように感じられる。先にヒラリー・ハーンのバイオリンの巧みさを話題にしたときも同じことを指摘したが、ロングトーンを弾くときに音のダイナミックスが変化するようなことがほとんどない。ところが、フルニエの演奏を聴くと、まるで演歌歌手かアマチュアの歌手のように、音が微妙に揺れる。いわゆるビブラートの話ではない。また、もちろん音程が変化するというわけではない。ボウイングの問題だろうけれど、おそらく弓から弦にかけられる圧力が微妙に変化してしまうために、発生する音のダイナミックスに微妙な影響が現れるのだろう。そしてそれは現代的規準ではおそらく修正が求められる類の特徴なのだろう。しかし、正直にいえば、フルニエのチェロの方がずっと心地よい。人間的な響きがする。あまりに完璧だと機械を連想し、少々疵がある方が人間を連想させるというのは、考えてみればかなり興味深いことだけれども、このことについてはまた別の機会にゆっくり考えることにして、肝心の演奏に戻ると、フルニエのチェロは素晴らしく魅力的だが、曲はやっぱり甘ったるく奏でられている。これでは丸っきり映画音楽だ。

 あえてメロドラマ風に「解読」してみよう。フルニエ盤で聴くと、場所はイギリスの小さな港町。明け方か夕方、つまりは薄暮の中、小雨か霧が全てを濡らし、係留された船も船首の方は判然としない。その船のデッキに一人の女が立ち、埠頭では男がそれを見送っている。やがて船は霧の中に消えていくが、残された男はいつまでも立ち尽くしている。こんな情景だ。一方、クルス=メネセス盤で聴くと、全てが回想になっている。ここには別離を悲しむ男女の姿はない。あるのはただ孤独な一人の男だけだ(女でも構わないけれど)。同じように寂しさや孤独を描き出している(これがこの曲の特性なのだろう)が、前者の方が明らかに扇情的だ。

 念のためにもう一つ、現在存命中の演奏者によるCDを聴いてみた。アルト・ノラスというチェリストがユッカ・ペッカ・サラステの指揮するフィンランド放送交響楽団と演奏しているもの。このノラスというフィンランド人のチェリストもとても有名だし、指揮者もとりわけお国もののシベリウスでは高い評価を集めているが、このエルガーは少々細部の詰めが甘いような気がする。理由はよくわからないが、これはあまり楽しめない。オーケストラと独奏チェロの関連がこの演奏でははっきりと見えてこないというのが正直な感想だ。

 となると、結果的に、クルス=メネセスの演奏が一番良かったとなるわけだが、単に「良かった」というのでは語弊があるだろう。というのは、案外とクルス=メネセスの演奏は三つの中では一番「エルガーらしくない」のかもしれない。これを聴いて「こんなの、エルガーではない」と憤慨する人がいたとしてもおそらく不思議ではない。そして、「エルガーらしくない」からこそ、この演奏が気に入ったという可能性は非常に高い。エルガーらしくないからエルガーが好きになる。何とも奇妙なことだが、これはこれで案外と面白い問題を孕んでいるように感じられる。

 クラウディオ・クルスの指揮者としての力量を知ろうとしてCDを探してみたが、今のところは不発だ。このエルガーのチェロ協奏曲1枚では何とも言いかねる。やや特異な解釈が反映していることは確実だけれど、それがクルスのイニシアティブの下で行われたのか、独奏者のメネセスの主張によるのかも不明だ。が、とりあえずしばらくはこの指揮者の名前は覚えておきたい。  (H.H.)

フルニエ.png
(これがフルニエのCD。ドボルザークの協奏曲も入っている。)

アルト.png
(アルト盤には「おまけ」でバルトークも付いてくる。)
posted by 冬の夢 at 15:06 | Comment(0) | 音楽 クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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