2019年01月18日

初めて使ったカメラ meisupiiとトウゴーカメラのこと .

 住む人がいなくなった実家をたたんだ。
 マンションなので、ごみ出しに管理員さんの手を借り、ひとりで片づけた。
 わたしのものは、ほとんど見当たらなかったが、子どものころ初めて使ったオモチャのカメラがあった。

 六歳か七歳ごろのことで、カメラがどこから来たかは忘れた。かなりたくさん撮った記憶はあり、撮った写真もいくつか思い出せるが、プリントもネガもない。
 いじってみると、手はずいぶん大きくなっているはずなのに、初めて触る感じがしない。それだけよく使ったのだろう。
 地方から東京へ持ち帰り、そのまま放っておいたが、ふと思い出し、あらためてじっくり見てみた。子どものころは、撮るだけでカメラの素性には興味がなかったからだ。

 本体上部はちゃんと、昔のカメラでいう「軍艦部」の形をしている。
 上面に刻まれたカメラ名は「meisupii」。型番らしい赤の「J」がカッコいい。といっても、カメラ名の読みかたからしてわからない。
 ピント固定式、レンズシャッターで、絞りとシャッター速度の切替レバーがある。どちらも二段階で、お飾りっぽいが、当時は露出の知識などなく、適当に写していた。

 ところがレンズを見ていて、ドキッとした。
「TOUGODO」という刻印がある。
 知らなかった。あの「トウゴーカメラ」と関係があるのだろうか。

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 トウゴーカメラとは、「円カメ」といわれて昭和初期の大衆に人気だった、お手軽カメラだ。義理の三兄弟が一九三〇年に創立した東郷堂の商品である。
 長兄はもと東京・京橋の写真好きなメリヤス卸商。関東大震災で身代を失ったが、暗室不要のアイデアを人から買い取り、不景気の中、カメラ商売で再起の船出をはかった。

 記念すべき初号機は、一九三〇年発売の、ランチボックスのような箱型カメラ。3×5センチのフィルムを入れて写し、赤と緑の液にひたせば現像完了。プリントは「焼ワクにフィルムを入れ印画紙をすばやく重ね、これを電灯に当てて一、二、三とこれでよい」。
 そう、あまり見かけなくなったが、野菜切りや万能洗剤を実演口上で売る、あの方法で販売したのだ。これは苦肉の策で、カメラ店にはオモチャ扱いされて取り扱ってもらえなかったのである。
 しかしその、寅さん方式の店頭売りで大ヒット、カメラ本体がボックスから蛇腹式へ進化しても、みな「トウゴーカメラ」名で売り、太平洋戦争前は全国六十三の直売店に特約店が千店、大陸にも直売店があったそうだ。
 東京・神田を本拠に、銀座でも啖呵売をやったといい、販売員を増員し続けねばならず、九段の軍人会館(現・九段会館)を借り切って入社試験をしたこともあるとか。縁日ふうの商法のせいか「誰に断ってバイしとんねん」的なインネンをつけられることもあり、末弟が日本橋の料亭に呼び出され、ドスを抜いた稼業の面々に囲まれたこともあったそうだ。

 そんなトウゴーカメラ、最初期の箱型のものは、付属品一式つきで一円。まさに「円カメ」であった。昭和初めの一円は、いまの感覚で五千円前後か。
 そのころのライカやコンタックスの値段は「家が建つ」といわれたほどで、トウゴーカメラは庶民や子どもが楽しむカメラだ。日本のカメラ工業史では正統扱いされず、夜店のオモチャふうに付記されるカメラなのだが、戦前生まれの写真家たちが語った写真との出会い話には、よくトウゴーカメラが登場する。※1

 木村伊兵衛(一九〇一〜一九七四)が小学生のとき初めて出会ったのも、やはりボックス型の玩具カメラだ。明治の終わりなのでトウゴーカメラではないが、浅草の花屋敷前の露店で買った、マッチ箱よりすこし大きいくらいのものだった。

 シャッターも絞りもなく、乾板も一枚しか入らないおもちゃであった。それでも、大道のおやじから教わったとおりに台の上に乗せて、ひょうたん池から藤棚を通して十二階にレンズを向けた。シャッター代りのレンズのふたを、「ひい、ふう」と数えて開閉して現像したら、あまりよく写ったのでびっくりした。※2

 幼いころから寄席や芝居に親しみ、将来の夢は箱屋(芸者の付き人)になることだったという組紐屋の息子が日本を代表する写真家になったのは、「あまりよく写ったのでびっくりした」カメラ体験がきっかけだ。
 その露店カメラの値段は三円五十銭。もりそば一杯三銭五厘のころの子どもには、たいした買いものだが、三田の慶應幼稚舎に下谷から人力車で通ったという下町の坊ちゃんだった木村伊兵衛。いい小づかいをもらっていたのかもしれない。
 明治の浅草界隈はキワモノだらけだったそうだが、このカメラを売っていた露天商は、それなりの品質商売をしていたようだ。

       * 

 さて、実家から拾ってきた、わたしの初カメラ「meisupii」。やはり「トウゴーカメラ」の子孫だということがわかった。

 太平洋戦争が始まると、東郷堂はたちまち軍需転換を命じられ、航空機通信機の部品製造を担当する。戦局悪化とともに次兄は豊橋へ、末弟は山梨へ移ったが、終戦前年、神田の工場が空襲で全焼、そのまま東郷堂は解散の憂き目をみてしまった。
 しかし兄弟はカメラへの夢を捨てず、戦後それぞれに、またカメラ生産・販売に乗り出す。

 わたしのメイスピー、そう「メイスピー」と読むのだが、このカメラは山梨の東郷堂が一九五〇年代に十機種以上発売したホビー、ジュニア用カメラ、メイスピーシリーズの初号機らしい。ちなみに戦前にも同じ名のシートフィルムカメラがある。
 わたしが生まれる十年以上前の発売なので、親がそれこそオモチャ価格で、どこかで買ってきたか、わたしの伯父が、戦後しばらく菓子や玩具の卸をしたと聞いたことがあるので、その流れでわたしに渡されたのかもしれない。
 裸電球色の光景、アルミやブリキのペコペコした感触──いまやどこにも痕跡のない、昔の居場所のようすがよみがえりそうで、もっとよく知りたいが、正確なことはわからない。

 一九五〇年代、特需景気におんぶした戦後復興とともにカメラは大衆の趣味になり、さまざまなカメラ会社が高機能・低価格を競うようになる。
 そうなると、作りの安っぽいお手軽カメラの存在意義は微妙になり、山梨の東郷堂、豊橋の東郷堂産業とも、円カメでないきちんとしたカメラ──「本カメ」といったらしい──を製造販売せざるを得なくなる。
 それはうまくいかず、両社ともカメラ製造終了、社名も変更に。カメラでない各種機器の下請製造に転じたようだ。

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 たしかに、わたしの「メイスピー」も、自慢できるような品ではなく、見せびらかしたくて持ち歩いたことはない。
 木村伊兵衛のカメラ初体験のように「よく写る」のは嬉しかったが、長じてカメラマンになるほど熱中はせず、一年か二年で飽きてしまった。
 なので、当時の撮影経験を、いま写真論ふうに意味ありげに書くことは出来ないが、だからこそ、貴重な写真体験だったとも思う。

 というのも、なにしろまったく無色透明な、撮りかただったからだ。
 余計な情報はゼロだ。カメラの種類も機能も、撮影技術も知らない。
 お手本になりそうな写真も絵画も、それと意識して見たことがない。
 周囲に、わたしの撮った写真の出来不出来を言う人もいなかった。家族や近所の子も写すが、出来た写真を見せに行ったり配布したりしたこともない。
 人より、そこらのモノやヘンテツもない光景によくカメラを向けたと思うが──引っ込み思案だったから──それらの写真は、自分でもろくに見直さなかった。散歩で近所をパチパチ写すのを「犬のションベン写真」だという揶揄があるが、それとも違っていたと思う。自分だけの記念写真、とカッコよく言いたいが、いちいちそんなことも、考えていなかった。

 なにしろ、フィルム1本撮り終ったらカメラをそのままカメラ屋に持っていき、フィルムを抜いて現像焼付をしてもらう一方で、新しいフィルムを詰めてもらっていた。フィルムの商品形態を見た記憶がない。
 露出もピントも知らずに撮っていたのだから、そのカメラ屋さんがすばらしいラボ技術者として、撮影状態がよくないフィルムから写真を作り上げてくれたわけだ。

 われながら奇妙だが、フィルムを写しきったメイスピーを持って駅前のカメラ屋さんに行き、新たに装填されたカメラと前回抜いてもらったフィルムからの仕上がり写真を受け取る繰り返しを、写真を撮るより楽しんでいた気もする。
 フィルム撮影の時代は、写した写真をその場ですぐ見られず、ポジやプリントで見られるまで時間がかかる。
 その時間差がよくて、デジタルにはそれがないからダメだという人がいるが、それも意識したことはない。

 ちなみに、いまデジタルカメラで撮っても、写真ができるには時間がかかる、という感覚が自分にはある。
 凡ミスがないかすぐ確認できるのは助かるが、パソコンで画像の確認調整が終わるまで「写った」とは思わないから。
 また、ミスがわかり、何度かシャッターを押し直した写真を「ミスが直せてよく写せた」とも感じない。最初にシャッターを切ったこと、それがすべてなのだ。
 メイスピーで撮っていた子どものころは、ワンシーンワンカットだ。DPE代は親がかりだったので、フィルムを節約した記憶はないが、同じシーンを何枚か撮っておくという方法も知らない。ただ純粋に「撮った」。

 カメラマンにはならなかったが、どこで間違ったか、写真にかかわる仕事をかなりしてしまって、いまのわたしは、無色透明に写真やカメラに接することはまったくできない。
 写真を撮ってみても、よけいな知識や情報が多すぎ、いかにも下心ミエミエの下品な写真だなあと、われながらイヤになることが多い。
 この文を書きながら、初めて使った「メイスピー」を見ていると、このカメラでもういちど、まったく無色透明な気持ちでシャッターを押し、ほとんども口もきかずにカメラ屋さんに持っていくことが繰り返せたらいいのにと、しみじみ思う。

       *

「メイスピー」で使うフィルムは、ポルタ判という現在は製造されていない規格。いまもある35ミリフィルムと同幅、12枚撮りで、裏紙がついているロールフィルムだ。幅が同じだから、ふつうに買える35ミリフィルムを改造することで、装填・撮影ができるらしいが、自分でやる元気はない。カメラの後ろの窓で枚数が分かったのは、そういう構造のフィルムだったからかと、ずいぶん後に知ったものだ。少年カメラマン時代、街のカメラ屋さんが、いかにありがたい存在だったか、写真店が加速度的に消えていくいま、つくづく感じる。
 
 なお「トウゴーカメラ」の名は、三義兄弟の長兄が、敬愛する郷土の英雄・東郷平八郎にあやかってつけたものだ。ところが当局からお叱りがあり、改変を命じられる。せっかくなじまれつつあった名称を変えたくないと、じかに東郷を訪ね、許しをもらった。
 これは有名なエピソードだそうだが、長兄が雑誌の取材に答えた話からもうすこし引いておくと、東郷から直接の許可を得たのは二社のみで、東郷堂と東郷ハガネだったという。カメラの東郷堂は東郷平八郎の秘書官から添書をもらったうえ、その秘書官が看板まで書いてくれたそうだ。(ケ)

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 子どものころ、このカメラで撮った写真を、一枚だけ持っている。
おそらく一九六七年ごろの阪神パークで、観覧車から撮ったことはうっすら記憶にある。
なお阪神パークは、二〇〇三年に閉園になっている。



[参考]
『アサヒカメラ』(一九五五年六月号)
『国産カメラ図鑑』(朝日ソノラマ/一九八五年)
『カメラレビュー』(朝日ソノラマ/創刊号/一九八七年)
『明治のおもかげ』(鶯亭金升/岩波文庫/二〇〇〇年)
『木村伊兵衞傑作写真集』(朝日新聞社/一九五四)※2
 産経フォト www.sankei.com/photo/story/expand/160108/sty1601080017-p1.html ※1

 写真家・日本写真作家協会副会長:棚井文雄さんにお世話になりました。
 www.fumiotanai.com


posted by 冬の夢 at 13:28 | Comment(1) | 写真 カメラ・写真家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
記事の最後に映っている写真、いいですね。7歳で写真を撮り始めたと言われているジャック=アンリ・ラルティーグみたい。
Posted by H.H. at 2019年01月19日 08:12
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