2019年01月10日

クラウディオ・クルス(Claudio Cruz)と兵庫PACオーケストラ、そしてエルガーのチェロ協奏曲 #1

 (書き始めたらあまりに長くなってしまったので、2回に分けて書くことにします。タイトルに「エルガーのチェロ協奏曲」とあるけれど、それについては第2回の方をお読み下さい。)

 東京に比べて大阪、あるいは関西のクラシック音楽状況は悲惨だ。こう言うと、関西在住の「文化人」の方々からお叱りを受けるかもしれないが、音大一つとっても、関西には関東の一流音楽大学と肩を並べるような存在が見当たらない。おそらく、音楽好きな関西の高校生はみんな東京の音楽大学を目指すのではないだろうか。そして、プロのオーケストラの力量に関しても、極めて残念なことに、日本を代表するオーケストラは全部東京に集まり、関西にあるのは、それよりもやや劣る団体ということになってしまうのではないか。結局のところ、これもまた文化・経済の一極集中の一現象でしかないのだが、事実として、関西のクラシック状況は、音楽ファンにとっては決して嬉しいものではない。もう10年以上も昔のことになってしまうが、東京に住んでいた頃、三つのオーケストラの定期会員になり(全部一番安い席)、多いときは週に三回もコンサートホールに通っていたのが正に夢のようだ。そして、それらの定期演奏会にはときにアルゲリッチやメニューインも混じっていた。つまり、東京は、というか、東京だけが世界と直接に繋がっていた。そう、まるで東京は現代の出島だ。江戸時代に長崎だけが世界と直接繋がっていたように、現代は東京だけが世界に開かれている。だとしたら、実は21世紀の日本はある意味では江戸時代の日本よりもずっと遅れているのかもしれない、少なくともかつては江戸以外の場所に世界情勢に関する最新情報の集積基地が置かれていたのに、今では文字通りに全てが東京に一極集中してしまっているのだから。

 話を戻すと、第2の都市である大阪でさえもクラシック音楽を聴く点では東京とは比べようがないくらい劣っているのに、その他の地域はいったいどんなことになってしまうのだろう? 在東京、在大阪を除外して、地方オーケストラで有名なのは、北から札幌交響楽団、仙台フィルハーモニー、オーケストラ・アンサンブル金沢、群馬交響楽団、名古屋フィル、京都市交響楽団、そして我らが兵庫芸術文化センター管弦楽団、広島交響楽団、九州交響楽団くらいだろうか……これらの地方オーケストラの中では名指揮者・故岩城宏之が手塩にかけて育てたオーケストラ・アンサンブル金沢が頭一つ分くらいは他に秀でているかもしれない。少なくとも、東京にいた頃から何度となくその演奏会に接する機会があり、彼らの作る音楽からもそれなりの満足を得られていた。

 金沢を電車で訪れたことがある人ならば誰もが少なからず驚く事実であるが、このオーケストラの本拠地は金沢駅に隣接されていると言っても過言ではない駅前、というか駅そのものとさえ言っても良い場所に置かれている。この事実だけでも、このオーケストラがいったいどれほど多くの、そして熱心な、地元からの支援を受けているかが透けて見えるではないか。そして、我らが兵庫芸術文化センター管弦楽団(以後PACと記す)も、実はその本拠地を駅前に持っている(注1)。つまり、兵庫芸術文化センターは阪急西宮北口という駅とわずか50メートルほどのプロムナードで結ばれた一等地に建立され、音楽や劇などの舞台芸術の一大拠点になっている。この立地に関して、はたしてオーケストラ・アンサンブル金沢の先例が影響を与えたかどうかは知らないが、PACの音楽監督である佐渡裕が岩城宏之の影響を受け、自らの地元でPACを立ち上げるときにアンサンブル金沢の先例を手本にしたことは間違いないだろう。

 実は神戸に居を移すと決まったときから、佐渡裕が音楽監督を務めるPACの定期会員になることを楽しみにしていた。自分の地元にオーケストラがあるということは、ちょうどサッカーファンにとって自分の地元にJ1のチームがあること、野球ファンにとってフランチャイズのプロ球団があることに匹敵する。当然贔屓しなければならない。大阪フィルの定期会員でも良かったのだが、やはりコンサートホールは住んでいるところから近い方がありがたい。職場が大阪にあればまた違っただろうが、職場も神戸である以上、わざわざコンサートのために電車を乗り継ぐのは面倒だ。それに、西宮が兵庫県である限り、神戸のオーケストラといえばPACなのだろう。そんなわけで、何も考えず、何も知らないままに、PACの定期会員になり、正直に言えば、最初はちょっとガッカリした。最初の機会に何を聴いたのか、もうプログラムは覚えていないが、「やっぱりアマチュア・オーケストラに毛の生えた程度なのか?」と思ったことは覚えている。

 そもそも、このPACというオーケストラは、詳しいことは知らないが、「若い演奏者の最初の勤務先を提供する」ことをモットーとしているよらしく、つまりは、若い演奏者を安い給料で、しかも任期付きで雇っているようで、「このオーボエ、上手いな」と思っていると、数年後にはどこか別のオーケストラに「ご栄転」してしまう、そんな仕組みになっているようだ。例外的に、おそらく各パートのリーダー格なのだろうが、長期に渡って在籍するメンバーもいるのかもしれないが、いたとしてもごく少数だ。したがって、オーケストラが「熟成」するということは考えられない。良くも悪くも、「いつも若いオーケストラ」という宿命を背負っているといってもよいのかもしれない。

 それでも、たとえ大学オケの熱演程度だとしても、生のコンサートの存在は文字通りにありがたく、また最安の席であれば一回千円程度の低料金で聴けることを加味すれば、在関西の身としては非常に貴重な機会であることに疑問の余地はなく、これまたありがたく定期会員を続けている。(それに、毎回感心するのは、会場は満員とは言わずとも、9割方は埋まっていて、集客は順調なようだ。それにはオーケストラの熱演−−これはこの若いオーケストラの確実な長所だ−−も大きな要因だと思われる。)それに、やや贔屓の引き倒しを自覚しつつ言えば、三回に一回くらいの頻度で、極めて印象的な演奏に出会えるような気がしている。これが「二回に一回」となれば、もうどこに出しても恥ずかしくない音楽団体になるのだが、この数字を書き替えるために、多くのプロフェッショナルが必死の努力を重ねているわけだ。決して簡単なことではないだろうから、気長に待つことにしたい。

 先だってこのブログにパーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルのコンサートが秀逸だったことを記したばかりだが、本当はその前にこの「三回に一回」の、さる2018年10月21日(日)に開かれた第109回兵庫芸術文化センター管弦楽団定期演奏会のことを書きたいと思っていた。当日のプログラムは、コンサートのチラシを頼りにすると、前半が交響曲第3番「英雄」、後半がベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」という、いささか胃もたれしそうな超弩級プログラム。普通は協奏曲が前半で、交響曲が後半になるはずだが、おそらくピアニストに対する指揮者からのリスペクトの表現なのだろう。(ただ、当日の演奏が本当にこの順番だったのか、記憶は定かではない。)ソリストとして名を連ねるブルーノ=レオナルド・ゲルバーは、30〜40年前から世界的にも高名な、いっときは日本でも相当に人気があったピアニストであり、当日の聴衆の中にはこの人の演奏を楽しみに集まった人も少なくないと思われる。一方、指揮者のクラウディオ・クルス、こちらは全くの初耳で、期待も何もあったものではなかった。当然、開演前の関心は前半のピアノ協奏曲の方に傾き、コンサート前日の「予習」も「皇帝」ばかりを聴いて、「英雄」の方は完全にノーマークだった。ところが、蓋を開けてみれば、この「英雄」の秀逸だったこと! いや、秀逸といっては語弊を招くかもしれない。これまた必ずしも適切な表現ではないのかもしれないが、「非常に好ましい、好感のもてる演奏だった」という方が実感に近いような気がする。

 実はゲルバーの実演には過去に一度ならず接したことがある。ずっと昔、かれこれ20〜30年前に東京で少なくとも一回は確実に、そしておそらくもう一、二回くらい聴いたことがあったはず。その頃の彼は、伝説的サッカー選手であるマラドーナを思い起こさせるような全体に丸っこい容姿、そしてその外見とは裏腹の、とてもきらびやかで溌剌とした音が印象的なピアニストだった。子どもの頃に罹患した小児麻痺の後遺症で片足を引き摺るようにステージの上を歩いていたが、演奏は野性的と言ってもいいくらいの力強さに満ちていた。(そのくせ、乱暴さとは全く無縁だったことは言うまでもない。)しかし、数年前に聴いたときは、体重はおそらく優に100キロを越える巨体に変貌しており、おそらくもう片足ではその重量を支えきれないのか、ステージ上を移動するのも精一杯という有様だった。それでも演奏する音楽はそれなりに立派だったのかもしれない。「かもしれない」というのは、正直に言えば、その容姿の変化があまりに衝撃的だったために、そのときの演奏の記憶が何も残されていないからだ。そして、今回、ゲルバーはもう一人では歩けず、ステージに置かれたピアノのところまでヘルパーに手を引いてもらわなければならなかった。また、背中もすっかり丸まってしまい、「本当にこれで『皇帝』が弾けるのか?」と不安を感じるほどだった。

 だが、演奏が始まると、その不安が杞憂であることがすぐにわかった。第1楽章冒頭のピアノは、やや(かなり)奔放に形が崩れかけている(これまた正直に言えば、「もしかしたらゲルバーは酔っ払っているのか?」と思ったほど)ように思われたにしても、音の輝きは往時のままで、音楽にとって、とりわけ「皇帝」にとっては、何よりも必要と信じられる生気に溢れたものだった。

 とはいえ、ステージに現れたときの痛々しい姿を目にした後では、いくら力強い、そして明るい演奏を耳にしていても、「この人の実演に接するのもきっとこれが最後になってしまうのだろう」という思いがこちらの脳裏から去ることはなく、したがって「皇帝」が辞世の句のようにさえ感じられ、その意味で「皇帝」に関しては非常に複雑な気持ちで聴き入っていたことも事実だった。

 こうした一種のモヤモヤ感を一気に払拭してくれたのがオーケストラの熱演だ。特に「英雄」! もしかしたら、こんなに生き生きとして爽やかな、嫌味なく端正な「英雄」を聴いたのは初めてだったかもしれない。これもまた言わずもがなだけれども、他の演奏がそうではなかったと言いたいのではない。偏に聴くこちら側の問題だ。つまり、「英雄」の、とりわけ葬送行進曲風の第2楽章に顕著な、重厚さにばかり耳と心が奪われ、この曲が本来持っている軽やかさや爽やかさを軽視していたというわけだ。それが、この日のPACの実演に接して、「3番は本当に1〜2番と、5番以降の音楽の中間、経過地点を示している音楽だったんだ」とつくづくと思い知らされ納得した。いや、そもそも、ベートーヴェンの音楽がハイドンやモーツァルトの音楽と、ブラームスやブルックナーの音楽の中間・経過地点を示しているのだし、その意味では、いわゆる前期・中期のベートーヴェンは言うに及ばず、後期の楽曲であっても、ハイドンやモーツァルトの懐かしい響きを探し求めることは不可能ではない。したがって、3番目の交響曲が2番目の交響曲に非常に近い響きがしたとしても、それはむしろあまりに当然なことであるのだけれども……しかし、それでもなお、クラウディオ・クルスが指揮したこの日の「英雄」には、どうにも抗しがたい魅力が感じられた。

 その日からすでに2ヶ月以上が経っているので、残念なことに当初の印象もかなりうすら呆けてしまっている。演奏の細部のことは言うに及ばず、全体のテンポに関してでさえ確信を持てない。唯一確かなことは、そのときの演奏に愉悦感が満ち溢れていたことと、演奏を聴きながら、その愉悦感に心地よく浸っていられたことはもちろん、「今日は奏者たちがみないかにも楽しそうに演奏している」と思っていたということだ。「集中している」とも「ノリにノっている」とも違って、「夢中で楽しんでいる」というのがぴったりだった。これは「英雄」に限らず「皇帝」のときも同様だ。

 ドイツ語にはmusizieren(音楽する)という動詞があり、指揮者のカルロ・マリア・ジュリーニは演奏を始める前に楽団員に向かって、「さあ、一緒に音楽しよう」といったニュアンスで呼びかけるのを習慣としていたと、以前にどこかで読んだ覚えがあるのだが、10月21日のPACの演奏を聴きながら、こんなことも自然に思い出された。となれば、日頃敬愛するジュリーニを想起させるこの指揮者に注目しないわけにはいかない。もっとも、両者が作り出す音楽は、対照的と言ってもよいほどに違っているのだけれども。
 
 このクラウディオ・クルスという指揮者、前述の通りそれまでは名前さえ知らなかった。プログラムを参考にすると、ブラジル出身の指揮者で、ヴァイオリン奏者でもあるらしい(注2)。ユースオーケストラの音楽監督をしていることからも推察できるが、おそらくモチベーターとして優れた資質を備えているのだろう。ともかく、その日のPACの奏者はほとんど例外なく生き生きと、嬉々として音楽に興じていた。そして、聴いている我身としては、「『英雄』って、やっぱりとてつもなく充実した音楽だったんだな」と、作品の魅力を再認識した次第。

 この指揮者にすっかり感心したものだから、すぐにこの指揮者のCDを買うことにした。できることなら、この人が指揮する「英雄」、それがないのであれば、ベートーヴェンなりモーツァルトの交響曲を聴いてみたいものだと願っていた。が、今のところ手に入るCDが極めて少ない。ヴァイオリン奏者として参加しているものもあるが、指揮者としては、アントニオ・メネセスという、同じくブラジル出身のチェリストを迎えた協奏曲があるばかりだ。おそらく探せば交響曲も録音しているのかもしれないが、現在のところ簡単に入手できるのはサン・サーンスとシューマンのチェロ協奏曲のCDと、エルガーとハンス・ガルのチェロ協奏曲を録音したCDの2枚だけだ。サン・サーンスには全く興味がないので、とりあえずエルガーのCDの方を手に入れてみた。(ハンス・ガルについては、実はそれまで名前さえも知らなかった。)

 エルガーのチェロ協奏曲といえば、クラシック音楽が好きな人間なら誰もがジャクリーヌ・デュ・プレの名前を思い出す。が、実はぼくはこの女性のチェロが少し苦手。どこでどんな刷り込みを受けてしまったのやら、自分でも全くよくわからないのだが、ジャクリーヌ・デュ・プレと詩人のシルヴィア・プラスがどうしても重なってしまう。もしかしたら両人のルックスが多少似ているという、極めて単純かつ極めて不合理なことが影響しているのかもしれない。が、ともかく、両人の芸術に接して感じてしまうのは、一種の過緊張、ある種の極端な自意識、その結果、こちらまで緊張を強いられ、全くリラックスできなくなる。もちろん、芸術作品が鑑賞者にある種の緊張を強いることは当然なのだが、緊張にも心地よい緊張と、できれば遠ざけておきたい緊張があるのではなかろうか。

 いや、正直に言えば、シルヴィア・プラスの詩があまり好きではなく、そして、ジャクリーヌ・デュ・プレの音楽については本当は何も知らないのに、根拠のない連想が悪戯して、理由もなく後者の音楽に近づくことを妨げているというのが実際のところだろう。つまり、ジャクリーヌ・デュ・プレには何の罪もないのに、こちらが一方的に食わず嫌いになっているだけだ。

 こういう(いったいどういう?)次第で、エルガーのチェロ協奏曲も普段は滅多に聴かない曲だった。が、クラウディオ・クルスという指揮者を知りたいばかりに、そのCDを買ったのが発端となって、この曲にすっかりやられてしまった(この稿続く)。(H.H.)



(注1)この異様に長い名前を持つオーケストラは、おそらくご本人たちも決してこの名称を積極的に支持しているわけではないのだろう、普段はPACオーケストラ、あるいは単にPACと表記し、おそらく「パック」と発音しているのだろう。ともかく、その実体は兵庫県西宮にある兵庫県立芸術文化センターを本拠地にする、いわゆるレジデンシャル・オーケストラだ。建物の建立もオーケストラの設立も共に2005年で、オーケストラとしてはとても若い団体といえる。

(注2)サンパウロ・ユースオーケストラの音楽監督、ブラジル伝統音楽祭「クリティーバ音楽ワークショップ」芸術監督、カルロス・ゴメス弦楽四重奏団の第一ヴァイオリン奏者。弦楽器製作者であった父の手ほどきを受けてヴァイオリンを学び始め、その後マリア・ヴィシュニア(カール・フレッシュ国際ヴァイオリンコンクール優勝者)などからヴァイオリンを、オリヴィエ・トニから理論と指揮法を学んだ。数々のコンクールで優勝を果たした後、ソリスト、室内楽奏者として活躍、また、サンパウロ交響楽団のコンサートマスターを23年間務めた。同時にオーケストラの指揮も活発に行い、これまでにブラジル国内のオーケストラはもとより、トゥールーズ室内管弦楽団、アヴィニョン交響楽団、ノーザン・シンフォニア(イングランド)、シンフォニア・ヴァルソヴィア、フォクトラント・フィルハーモニー管弦楽団(ドイツ)、エルサレム交響楽団、兵庫芸術文化センター管弦楽団、新日本フィル、広響、名古屋フィルなどを指揮している。サンパウロ・ユースオーケストラとは2012、13年にドイツ、2014年にフランスとオランダ、2015年にはニューヨーク、ワシントンに招かれ絶賛を博した(兵庫県立芸術文化センターHPより引用)。

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posted by 冬の夢 at 15:37 | Comment(0) | 音楽 クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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