2018年12月23日

パーヴォ・ヤルヴィ(Paavo Jarvi)+ドイツ・カンマーフィル(DKB)+ヒラリー・ハーン(Hilary Hahn)

 個人的にはちょっとした「事件」だった。12月15日(土)に兵庫県立芸術文化センター大ホールで開かれたドイツ・カンマーフィル(室内オーケストラ)管弦楽団の演奏会のことだ。

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 プログラムは前半が「歌劇ドン・ジョヴァンニ序曲」(モーツァルト)と同じくモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番。ソリストは今ときめく人気ヴァイオリニストのヒラリー・ハーン。この女性ヴァイオリニストの令名だけは以前よりしばしば耳にはしていたけれど、「どうせ容姿目当てのクラオタが大騒ぎしているだけだろう」という邪推が邪魔をして、CDでさえ耳にする機会はなかったのだが、今回の演奏会のチラシを見たときから、その実力を知る絶好の機会だと楽しみにしていた。
 だが、当初から何よりも期待していたのは、コンサート後半にメインプログラムとして用意されたシューベルトの第9交響曲、通称「グレート」と呼ばれている大曲だった。日頃から愛聴しているといっても過言ではないこの曲を、現在日本の某放送交響楽団の指揮者でもあるパーヴォ・ヤルヴィが手兵のドイツ・カンマーフィルを率いて披露するというのだから、時間さえ許すのであれば、何としてでも聴いてみたいと思わずにはいられなかった。

当日最初に驚いたことは、ホールに入ってステージを見ると、いつもなら向かって右側に鎮座しているコントラバスが反対の左側に配置され、また、いつもならステージのほぼ中央最奥を居場所としているティンパニが最右翼、そう、通常のコントラバスの定位置に置かれていたことだ。コンサート後、自宅に戻って調べてみると、当時はこのような、現在とは真逆ともいえる楽器配置で演奏されていたらしく、古楽器(あるいはピリオド楽器)による演奏会では必ずしも珍しくはないらしいが、コンサート開始時にはこんな事実さえ知らなかったし、当然ながら、実演に接する初めての機会だった。コントラバスが左側にあるのはともかくとして、ティンパニが一番右端にあるのは、普段は真っ直ぐに指揮者を見ているティンパニ奏者にとってはどうなんだろうか、と他人事ながら心配にもなった。演奏中に指揮者を見るためには首と頭をずっと左側に傾けていなければならないだろうから、頸椎を痛めてしまうのではないだろうか?

 さて、肝心の演奏だが、早くも最初の「ドン・ジョヴァンニ序曲」が始まる前に、当日二度目の驚きに見舞われた。最近のドイツ・カンマーフィルの活動をご承知の面々には驚きでも何でもないだろうし、そもそもオーケストラの配置に関して古典音楽時代を模していることからも当然すぎる帰結なのだが、ステージに現れる団員が携えていたトランペットは、見るからに旧式の、ピストンの全く付いていない、いわゆるナチュラル・トランペットだった。となれば、さすがに迂闊な小生でも「あっ、今日は古楽器風の演奏会なのか」と気づかされる。そして、実際に指揮者のタクトが振り下ろされた途端、良く言えば非常に繊細で透明感のある、悪く言えばいささか厚みを欠いた、痩せ気味の弦楽器の音色が響き渡った。と同時に、素人の耳にも演奏力の高さが直ちに明らかになる、そんな音楽だった。序曲が終わる頃には、「これは十分期待が持てるぞ」と、次なるプログラムの協奏曲を心待ちにしていると、やがて真っ赤(紅色ではなく朱色に近い)なドレスを着たヒラリー・ハーン嬢がお出ましになられた。

 ハーンの演奏! これぞ正にsheets of sound!(*) 他では耳にしたことさえないようなヴァイオリンだった。いや、そもそも普段あまり熱心にヴァイオリンを聴くことはないので、実際には案外と多くの演奏家がハーンのような演奏をしているのかもしれないが、小生としては実演でもCDでもこんな不思議なヴァイオリンを聴くのは初めてだった。何が不思議なのかというと、一続きの音のトーンがあまりに均一で、弦を擦って音を出しているという感じが微塵もしないのだ。まるでオルガンか何かのように、一定の音が正確に一定時間キープされて次の音に途切れることなく移行する。それは速いパッセージ(つまり、64分音符が続くような)でも、ロングトーンを多用するゆったりとしたパッセージでも変わることはない。恐るべきテクニシャンなのであろう。そのくせ!視覚的には真っ赤なドレスを着ているにしては、まるでロックバンドに参入したフィドル奏者かのように自在に身体を揺らし、ときには足を踏み鳴らさんとばかりの勢いで身を乗り出す。いささか大仰に言えば、踊っているかのような身振りで楽器をかき鳴らし、そこから出てくる音色とのギャップも目を見張るばかりだった。モーツァルトのヴァイオリン協奏曲が技術的にはどの程度の楽曲なのか、つまり、どの程度高度なテクニックが要求されるのかは知らないが、ヨアヒムが書いたとされるカデンツァではいかにも難しそうなことを易々とこなしているように感じられた。
 とうわけで、第3楽章が終わると同時に、汚いがなり声の「ブラボー」が轟き(この習慣が日本及び日本語の文化にはどうしてもしっくりこない、できるなら「ブラボー」なしで済ませてもらいたいと願っているのは小生だけではないと信じたいのだが……)、続いて盛大な拍手があったことは言うまでもない。そして、アンコールで弾かれたバッハがまたまた完全なsheets of sound! ともかく、前半のプログラムだけですでに、近年小生が聴いた限りでは間違いなくベスト1の演奏会だと認定された。

 そして後半の「グレート」。シューベルトが書いた最後の、そしておそらく最良の交響曲。(「グレート」以上に有名な「未完成」という交響曲があるけれど、これはその名の通り、どうしたって未完成なので、いかに魅力的であろうとも、「未完成」を以てシューベルトを代表させるのは、たとえロマン派の本質が「未完」「断片」にあろうとも、躊躇わずにはいられない。)通常1時間くらいかかるこの長大な曲(だから「グレート」)は、前半と後半で性格を大きく異にすると言われている。具体的には、極めて印象的なホルン(2管)のユニゾンで始まり、聴きようによっては打ち寄せる大波を想起させるような、悠然かつ堂々とした第1楽章と、「これぞシューベルト!」と思わずにはいられない、寂寥感に満ちた第2楽章は、両方ともアンダンテという速度標記が示すように、一歩ずつ足を運ぶ正にその速度。モデラート(中庸)よりももっと遅いわけだから、つまりはゆったりとしている。一方、後半の第3楽章と第4楽章は、速度標記も対照的にアレグロに転じ、極めてアップテンポの曲調になっている。実際、ドイツ・カンマーフィルの実演に接して初めて認識したのだが、「グレート」の第4楽章は「リズムの神化」とか「世界初のディスコ・ミュージック」とか称されるベートーヴェン第7交響曲の第4楽章を彷彿とさせる、真にそれと匹敵するような、非常にリズミカルな音楽だ。このように前半と後半で全く異なった表情を見せるために、通して聴くとどこか収まりの悪い、統一感のない音楽に聞こえてしまうこともある。簡略に言ってしまえば、「要するにこれは遅い曲なの、それとも速い曲なの?」という戸惑いがつきまとう。
 パーヴォ・ヤルヴィの「グレート」はいかにも室内オケに相応しい、総じてキビキビとした演奏だった。普段はカルロ・マリア・ジュリーニに代表される、ゆったりとして雄大な「グレート」を好んで聴き、一応は所持しているブリュッヘンやロジャー・ノリントンが指揮をした古楽器による演奏に対しては、「こんな痩せ細った『グレート』は『グレート』ではない」などと嘯いていたのに、ドイツ・カンマーフィルの演奏を聴いた後は、後半の曲調には実は軽快で快速な演奏も決して悪くない、いやもしかしたらいっそう相応しいのかもしれないと初めて気づかされた。これまでは、アップテンポで進む後半の第3楽章、第4楽章の魅力があまり理解できなかった。全4楽章を通して聴くと、「前半は超絶的に美しいのに、後半は案外と平凡だ」などとさせ思っていた。ところが、軽快かつ快速な、そしていっそう重要なことだが、かなり愉悦的な−−当日の演奏者たちもいかにも楽しげに、全身全霊を傾けて熱演していたことは、今さらであるが特筆しておかねばならない−−演奏を心から楽しんでしまった今は「いや、もしかしたらこの曲の真価は前半ではなく後半にこそあったのか」と思わされている。とりわけ最後の第4楽章がこれほど充実した音楽だという事実を初めて教えられたというわけだ。そうなると人間というのはつくづく現金なもので、第4楽章、あるいは第3楽章に顕著だった執拗なリズムが、実は第1楽章のアンダンテの中にもちゃんと埋め込まれていて、「グレート」という曲は最初から最後まで一貫してリズミカルな、その意味ではベートーヴェンの第7交響曲、あるいは第5交響曲にかなり似た曲だとさえ思われてくるではないか。この発見には我ながら本当に驚いた。

 パーヴォ・ヤルヴィという有能な指揮者が日本の某オーケストラの首席指揮者になっていることは以前より承知していたのだが、そのオーケストラが好きではないこともあり、そのためにこれまで聴く機会を逃していた。もしかしたらFM放送で耳にしていたのかもしれないが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとばかりに、全く記憶に残っていない。また、ヒラリー・ハーンにしても、巷で大いに騒がれていることは知っていたが、これまた一種の食べず嫌いで、全く聴いたことがなかったし、聴きたいとも思っていなかった。パーヴォ様、ヒラリー様、大いにお見逸れいたしました。ごめんなさい。今後は心を入れかえて、少なくともFMやTVで聴く機会があるときは勉めて聴かせていただきます。(早速ハーン様のCDは購入しました。パーヴォ様のは、どうやらブラームスの交響曲もDKBと録音しているようなので、それが手頃な値段になったときにはゲットしたいと思います……)

(*) sheets of soundとは元来は、ジャズの伝説的サックス奏者であるジョン・コルトレーンの、高音域から低音域まで、低音域から高音域まで途切れることなく吹きまくる、その特徴的な奏法とその音楽を指す言葉だ。

(追記)
 上記のコンサートで刺激され、それ以後、手元にある10種類以上の「グレート」を飽きもせず聴き続けたところ、確かにスリムアップした速めの「グレート」の魅力も堪能したし、理解できるようにはなったが、それでもやはり、ジュリーニ御大の「グレート」の魅力は揺るがなかった。それから、シャンドル・ヴェーグがCamerata Academica des Mozarteums Salzburg(モーツァルト室内管とでも訳されているのだろうか?)を率いて演奏しているCDも印象深いものだった。 (H.H.)

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(ジュリーニはこれとは別にシカゴ交響楽団を振っているのもある。どちらもいい。)
 
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(ヴェーグはモーツァルトで有名だが、このシューベルトもとてもいい。)
posted by 冬の夢 at 14:32 | Comment(1) | 音楽 クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 演奏家とは直接関係ないですが、織田作之助『道なき道』をぜひ、お勧めします。短編で「青空文庫」にもあり、すぐ読むことができます。
 かなり前にハーンの演奏は見ていて、書かれている通りの弾きかたは、「バイオリニスト」というより、アイリッシュ音楽やカントリー、ブルーグラスの「フィドラー」に見えました。クラシック音楽では、大仰に弾く演奏家より、そっけないタイプのほうが好きですが、ハーンには思わず「いぇ〜い」といいたくなりました。すいません。でも、あの「ブラボー」は確かに、いつも「ひどく」イヤな気分になります。なぜなんだろう。最終音と拍手の間の静寂のところに入れるのが快感なんですかね。拍手音が最高潮のとき「いぇ〜い」とか名前を叫んだりとかはいいんじゃないかと思うんだけど。
 で、一度だけハーンを観ているのですけど、どこで、誰と、何を弾いたかぜんぜん記憶にない…調べてみると、この組み合わせで来日公演したときに聴いている可能性が大なんですが…。
Posted by (ケ) at 2018年12月24日 07:38
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