2018年12月22日

国立劇場十二月歌舞伎公演『増補双級巴 ─石川五右衛門─』世に盗人の種は尽きまじ

 観劇歴はたいしたことがないので、大きなことはいえないが、いかにも歌舞伎らしい演目なのでは。
 二〇一八年暮れの国立劇場をにぎわせた、『増補双級巴 ─石川五右衛門─(ぞうほふたつどもえ いしかわごえもん)』。

 有名な大盗賊の一代記を、テレビ時代劇でも人気だった名優が通しで演じる。人情味あふれる場面あり、高齢をものともせぬ宙乗りありチャンバラありで、娯楽度たっぷりだ。
 大正から昭和にかけ、先代が得意とした役だそうで、半世紀ぶりの再演場面も合わせ、ひとつながりに仕立てられている。そういう「継承と進化」もいい。

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 石川五右衛門を演じる中村吉右衛門は、いまさら失礼だがほんとうに芝居上手で、安心して見ていられる。稀代の大悪人が情に厚い善意の人でもあると、後半以降強調される──前半の大暴れは「夢でした」という設定──から、なおさらに。
 もちろん、空飛ぶツヅラから飛び出す宙乗りも、数多の追手をかわす立廻りも、七十四歳の吉右衛門に配慮した演出になっているとは思うが、存分にスリルを感じた。ワイヤーアクションは歌舞伎が本家本元だと感心したし、立廻りの粋は集団舞踊の様式美で、吉右衛門の動きを受ける若手さんたちの運動能力あってこそ成立しているのだとわかった。

 五右衛門と豊臣秀吉は幼なじみだったという見立ての、此下藤吉郎(真柴筑前守久吉)の尾上菊之助もいい。吉右衛門の娘婿だから五分五分の役は厳しそうだし、秀吉にしては美しすぎるけれど、声の通りがとても好ましい。
 五右衛門の妹・小冬の中村米吉も、そう感じた。声の涼やかな歌舞伎役者は好きだ。その米吉は子どものころ、五右衛門の息子・五郎市を演じたそうで、そこにも「継承と進化」がある。

 ところが。
 俳優の演技より筋を追い、物語として鑑賞しようとすると、この舞台はとつぜん、ひどくわかりにくく、ふに落ちないものになってしまう。
 大きく二つの設定、前半の豪快な活躍と、後半の情愛と敗北、になっているが、木に竹を接ぐというか、接着剤でくっつかないもの同士を貼り合わせたようで、とまどう。

 前半の五右衛門は、幼少からの悪癖で盗賊になった自分が、育ての親の悪事(この『増補双級巴』では出来心)ゆえの継子だと知る。さらに、さる大名の落胤だとも判明、その結果、カネやモノより「天下を盗む」野望に目ざめるのだ。暴力と奸計で勅使に化けて足利将軍の別邸に入りこみ、術を使い翻弄する。うまくいけば将軍にさえ化ける気だ。
 芝居が進み、夢なのかとわかるまでは本気でワクワクしていた。なぜって、天下を盗む、つまり、ときの権力を「盗んで」ギャフンといわせるなんて痛快じゃないですか。ふつうのヒトがマジメに稼いだカネをパクる、嘘つきだらけの昨今はとくに。

 しかし、後半つまりリアルの五右衛門は、どうも小さい。
 後妻・おたきが五右衛門の実子・五郎市を継子いじめするのに憤るが、おたきを叱ると逆ギレして自分の素性をタレコミに走るんじゃないかと心配顏をする。そして、不幸な事故で五郎市に刺されて亡くなるおたきの真意を知ると、おのれの悪事を子につがせまいとする愛情ゆえかと、めそめそ悲しんだりする。
 捕物場面はたしかに盛り上がるが、はぐれた五郎市を救わんと、あっさり縄につき刑場へ向かうさまが、ことさらにしんみりと描かれて幕となってしまう。五右衛門伝説では、五郎市もいっしょにカマゆでになってしまうのだから、このエンディングはかなり寒々しい。

 尻切れとんぼな場面転換や、ムチャクチャなストーリー展開は歌舞伎の得意技で、背景説明や心理描写のくどい長広舌はないから、この演目でも、三時間を軽く超える上演時間が長いとは感じなかった。
 そのかわり、どうも生煮え感が残ったまま、幕を迎えてしまった。
 釜ゆで刑の場面がなかったからか。いや、それは関係ない。
 誰が悪くてということでなく、こういうものだと鑑賞すればいいのだろう。昔の観客は五右衛門伝説をあれこれ知っていて観たに違いなく、そうした観客の目に磨かれた芝居にいまさら説明科白を足しながらつないだりしたら、出来が悪くなるだけだ。また、江戸時代から戦後まもなくあたりまでの大衆娯楽ゆえ、権力転覆などということは夢や暗示にとどめ、家族の情の前には希代の悪人も旗を巻くのですという説諭めいた含意をしたとしたら、この形で正しいわけだ。

 それでも、五右衛門が最後に有名な「世に盗人の種は尽きまじ」という辞世を語り、「さらば」で終わる結末は、どう受け止めるか迷った。いま書いていても、よくわからない。

 真柴筑前守久吉:(略)汝、悪事はなせど非道はせずと、上聞にも達したり。一味の盗賊、白状いたせ。召し捕られし倅を不憫と思わば、潔う白状いたし、上のお慈悲を願わぬか。
    五右衛門:(略)悪事をなさば、悪事を立て抜き、釜に入ろうが、火に入ろうが、覚悟の上だ。
   早野弥藤次:すりゃどうあっても、上に背くか。
    五右衛門:エエくどいわえ。

   
「盗人の種は尽きまじ」は、直前のこのやりとりに呼応するから、久吉(秀吉)の懐柔を無視して開き直った五右衛門の、徹頭徹尾悪人宣言と受けとるのが、流れとしては自然だ。
 この終わりかただと、息子の五郎市は助命されるかもしれないわけで、子孫がつづく限り「種は尽きまじ」であり「悪事を立て抜き」だ、とも受けとれる。
 が、その解釈では、ひとつ前の隠宅での場面で、

 (略)倅を連れて戻りしより、たとえ仕付けぬ重荷を担ぎ、細き煙を立つるとも、ふっつり止みょうと善心に立ち返ったのも情けなや
 (略)罪ある我は跡に残り、五郎市もろとも責めさいなまれ果てるであろう。畳の上の往生は、おたき、俺ャァうらやましいわえ


 といって「男泣きにぞむせび居る」こととは、結びつきにくい。
 吉右衛門は公演パンフレットに「人間としての五右衛門を描けたらと思っております」「妻子との情を描きつつ、スケールが小さくならないよう」と、うがったコメントを載せている。
 なるほど、スロットル全開で生きた男らしく両極にぶれる人間性を、吉右衛門がどう表現するかに注目していればよかったのか。

 いまや、石川五右衛門が束になっても及ばぬほど巨額のカネをかっぱらう泥棒たちが闊歩している。悪銭を奪って施す者はいない。もっとも義賊なんて昔から、まして現代では完全に架空の存在だろうが……。
 それにしても不思議なのは、いまの日本が悪行非道のはびこる番外地かというと、ぜんぜんそう見えないことだ。どの街も同じ清潔さで、人々は天下を盗もうとするどころか、飼い慣らされた家畜のように従順だ。
 いらだち、というほどではないが、最近いつも、どことなく坐りが悪く感じる気持ちが、この舞台を観たことで呼びさまされたらしい。すんなり鑑賞し解釈することができなかったのは、そのせいだろう。(ケ)


posted by 冬の夢 at 00:28 | Comment(0) | 伝統芸能 歌舞伎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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