2018年03月02日

ニコン100周年 / 戦艦大和 / 黒澤明

 先週、首都圏の車内吊り広告で、ニコンが創立100周年だと知り──二〇一七年七月に日本光学工業株式会社設立から百年を数えた──同社の「創立100周年記念サイト」を見ていたら、奇妙なことに気づいた。

「History」というタブをクリックすると表示される、同社の百年史。
 古いあたりから見ていくと、一九三三年、航空写真機用レンズから日本を代表する高性能レンズが始まった、というところで年表がいったん途切れる。続きは「1946〜 世界の総合光学機器メーカーへ」となっている。

 ニコンの気持ちは、わからないではない。
 イヤミじゃないですよ。
 現社員は全員、戦後世代のはずだ。めでたく百周年となったとき、お祝い気分に水を差すような、自分たちがかかわったこともない十年間の社史など、抜かしたくもなるだろう。その気持ちは、わからなくもない。
 よけいなお世話か?

 いまのニコン製品のほとんどはデジタル技術で開発、設計され、製品の多くにデジタル機能が装備されてもいるはず。販売や管理もコンピューター抜きでは考えられないわけで、たしかに百年企業だが、昔と今ではプラットフォームが違う会社ですと、ニコンは言うかもしれない。

 なので、もっとよけいなお世話だろうが、わたしが、ニコンのサイトが掲載し忘れている──もちろん故意に──「社史」を補足しておく。
 ちなみにわたしが書かなくとも、一九九三年に公表された『光とミクロと共に ニコン75年史』という本にすべて、より詳細に書かれている。「大軍需会社へ」とした大きい章をたて、昭和八年から二十年すなわち一九三三年から一九四五年までのことがまとめられている。しかもこの本はニコンが作った、正調の「社史」だ。
 
 その章の小見出しを、書きうつしてみよう。

[1]機械式コンピュータの開発──指揮装置
[2]大型光学兵器の開発
    戦艦「大和」の15m測距儀 潜望鏡の改良
[3]数々の軍用光学機械
    5m望遠写真機 航空写真機 爆撃照準器 
    大型双眼望遠鏡とマストテレスコープ 光線電話機

「大和」の測距儀──正しくは十五・五メートル測距儀だそうだ──を、海軍の基本計画をもとに当時の日本光学が作ったことは、よく知られている。
 口径が四十六センチもある大砲からドカンと撃った砲弾を、数十キロさきの敵艦に命中させるのだから、敵艦までの正確な距離が必要だ。それほどの遠距離を三角測量の原理で測るため、左右に長く伸びた巨大なカニ目みたいなスコープを作った。完成したのは一九四一年から一九四二年にかけて。「武蔵」にも搭載されている。

180302yT.JPG
造船中の戦艦大和 public domain item
画面最後部の、いちばん高い艦橋部の頂点やや下、
左右に張り出した構造部が測距儀。測量儀としていかに巨大かがわかる

 難しそうなのは「指揮装置」で、「機械式コンピュータ」といわれても、さっぱりわからないが、高射砲の照準器だ。一九三三年から一九四三年ごろまで作っていた。
 飛んでいる敵機を攻撃するには、さまざまな角度や速度を迅速に計測・計算し、敵機が進むさきを予測し弾着を合わせて撃つ必要がある。
 もちろんコンピュータも電卓もない時代だが、驚くべきことに高度な計測計算装置を、すべてカムや歯車で作動するメカニカル機構で作っている。部品の数が数万点にもなり、故障したらどうするという話だが、安定度、信頼性の高い機器を作れる設計製造力があったわけだ。

 トラックに固定して運搬したという5メートルレンズで、敵地の写真が、どんなふうに写ったのだろう。
 あるいは、陸軍の要請で量産に成功した「光線電話機」! いまその名を聞いてもワクワクするほどだ。
 いくつかピックアップしただけでも、「技術の粋」という表現がふさわしい光学兵器。その数々を日本光学こそが実現できたわけだが、同じ十数年間に同じだけの努力と予算が、戦争でないことのために投じられていたら、どんなに素晴らしいことになっていたことかと、悔しく思う。

 戦争の道具を作っていたことに、誇りを持て、などといっているのではない。
 戦争の道具を作っていたことを、みみっちく隠蔽するなといっているのでもない。
 戦争の道具を作っていたことは事実だ。その落とし前をどうつけたかを明示せず、あらかじめ存在しなかったことにするのはよせ、といっているだけだ。
 
 戦艦大和の艦橋から左右に突き出た巨大な測距儀、それは、ごく小さくなってカメラの上に乗っかった。戦後ニコン初の一般用カメラ、Tに採用され、それを継承するSシリーズの基本構造のひとつとなった距離計、つまりレンジファインダーだ。
 完全メカ式コンピューター「指揮装置」の設計者は、早くも一九四五年秋には一般向けカメラ設計者に任じられ、研究にとりかかる。小型カメラの限られた本体スペースに組み込まれた感動的なカムやギヤの駆動構造は、艦砲射撃照準器のメカ技術に由来するものだ。
 そして「写真レンズのデータは戦時中からそろえていたのでいち早く製品化できる」と『ニコン75年史』には、確信をもって書かれている。
 ニコンの創立100周年記念サイトに「世界の総合光学機器メーカーへ」と記された、同社の戦後史は、まさしくこの継続性のうちに始まったのだ。

 そこのことろを、軍需から民生への生まれ変わりとみるか、たんに変わり身の早さに過ぎないとみるかは、いまニコン製品を信頼して購入使用しているひとびとが判断すべきことだろう。
 その判断材料として、敗戦直後の日本光学は未経験の一般向けカメラの生産にはやや消極的であったこと、あと押しをしたのは「昨日の敵」こと進駐軍将兵のカメラ人気や、アメリカ市場の需要だったことも、あげておこうか。
 もうひとつ、敗戦時に二万五千を超える人員を擁した巨大軍需産業が、戦後その人員を約千五百人にまで縮小するという解体的リストラを行ったこと、ただし、そこには想像以上に激しい人事的「戦後処理」があったと考えられることも、つけ加えておこう。

180302n1.JPG
ニコン創立100周年記念サイト www.nikon.co.jp/100th/
に紹介されているニコンT型。上部の四角い二つの穴が、レンジファインダー。
戦艦大和の測距儀と同じ機構が、カメラ上部に組み込まれている


 四百余州を挙る 十万余騎の敵
 国難ここに見る 弘安四年夏の頃

 いさましく軍歌「元寇」を歌いながら、軍需工場で精魂込めて働く女子挺身隊員たちを描いた一九四四年公開の映画、黒澤明の『一番美しく』。
 出演者たちが、いっしんに研磨する戦闘機用照準レンズの輝き。家族の訃報にも席を離れず矢口陽子が昼夜を徹して調整する姿。その「目盛調整室」の扉には、御幣が下がっている!
 この映画は、当時の日本光学戸塚製作所で撮影されている。
 二十人を超える出演女優は撮影前の二か月間、ここの女子寮に入り、女子工員と生活し実際の作業にも加わった。必然的に映画はドキュメンタリーふうになった。
 黒澤明、三十三歳。主演の矢口陽子は、のち黒澤と結婚。みな若い。演出も演技も迷いがなく熱気に満ち一途だ。冒頭、画面いっぱいに「撃ちてし止まむ」と出る、情報局の「國民映畫」。黒澤監督作ではとりわけ、見ていて苦しくなる映画でもある。

 そう、この映画の撮影がいまのニコン、すなわち太平洋戦争末期の日本光学の工場で行われたことも年表の補足の一端に加え、わたしの「よけいなお世話」は店じまいとする。(ケ)


【参考】
『カメラと戦争―光学技術者たちの挑戦』小倉磐夫/一九九四年/朝日新聞社
『光とミクロと共に ニコン75年史』75年史編纂委員会/一九九三年/ニコン

※「ニコン100周年 / マリリン・モンロー / ニコンF」は→こちら←
posted by 冬の夢 at 03:41 | Comment(0) | 写真 カメラ・写真家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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