2018年02月19日

ジャーナリストというチンピラ……の初仕事、ポケットベルと国鉄浅草橋駅

 三十年以上前、新米雑誌記者のわたしがいつも怯えていたもの。
 それはポケベルだ。あのピーピーという音! 赤ランプの点滅!

 ポケットベルは和製語で、英語ではペイジャー pager などといったそうだ。
 持つよういわれたのは、記者になってしばらくしたころ。おそらく使用料が安くなり、ニュース担当記者ひとりに一個、配布可能になったものか。
 怯えなきゃいけないものではなく、のべつ鳴るわけでもなかったが、鳴るやいなや近くの電話に飛びつき、取材指示に了解と叫んで駆け出せる記者ではなかった。

 当時の新人記者教育は、いきなりニュースの現場に投げ込み、実地で仕事に慣れろというもの。それを面白がれたら、どんなに楽しかったろうと思うが、あのころは、それがつらかった。
 社会人一年生でもあるから世間知らずは当たり前で、考えずに走れというわけだが、もともと、なにごとも自分なりに噛み砕かないと次へ進めない性格。そのうえ人見知りで、初対面で話すのが大の苦手。
 だったらなぜ取材記者になったんだ(笑)という話だが、その話をしているヒマはない。ほら、ベルが鳴っている!

 というわけで、ポケベル一声で現場に駆けつけた記憶を探したが、どうもはっきりしない。何度もあった気がするが、鳴ってもたいした用でないことが多かった気もする。
 当時の国鉄総武線・浅草橋駅(東京都台東区)が、左翼過激派とみられる一団に襲撃され炎上したときは、まちがいなく自宅から行ったが、いま調べると早朝の事件だ。ポケベルでなく自室の電話が鳴ったのだろう。
 記者になって半年くらいか。文字どおり「おっとり刀」で飛び出しただろう。「腕章を持って行け」といわれた気がする。
 
 現場のことは、例によってあまり思い出せない。
 消防車しか見当たらない江戸通りが、みょうに広く見えたこと、なにをしていいのかわからず右往左往していた感覚、それくらいだ。火事現場では消防から報道発表があることも知らなかった。
 大きな火災現場それも闘争事件となると、もちろん「初仕事」なのだが、事態が大きいわりには印象が薄い。どの事件かは、はっきりしているわけなので、今回にかぎり当時の自分が関わった記事を探してみた。

 その記事では、早朝の浅草橋駅に放火したのは、中核派活動家とみられる集団。別途調べてみると百人以上という記述も見かけるが、見つけた記事では約四十人と書いている。
 危険を察知した駅長の判断でシャッターを閉じようとしたが、下りきらないうちにポリタンクを持った数人を先頭に乱入され、ドアや窓を破られた。これまた駅長指示で、なんと駅員十数人が椅子でバリケードを作り防戦していたとは知らなかった。
 って、自分が記事を書いたんですけどね……。
 そして火災は、出札口や券売機室、事務室など約二百平方メートルに及び、消防車三十台が出動して一時間ほど後に消えた──などの状況説明のほかには、火炎瓶を投げ込まれ、逃げ遅れて火傷を負った駅員さん、その人を救い出したという中華料理店主さんに話を聞き、そのコメントが書いてある。その人たちはまったく記憶にない。「右往左往」していたので偶然、出くわしたのではなかろうか。
 いずれにせよ、わたしが書いた記事は、ただ見聞したことを並べただけ。それでも青息吐息だったろう。三十数年後に自分の文を読んで、そう思う。

 事件の俯瞰図は同じ号の別のページの解説記事にある。おそらく同じ雑誌で三、四年先輩の記者か、ベテラン記者が書いたもの。さほど長くない記事だが、事件の内容をおよそは知っているいまの自分が見ても、よくまとまっている。
 当時の自分が、もう何年か長く記者の仕事を続けたとしても、こんなふうに取材、情報収集して、読みやすくまとめられるようになったかどうかは疑わしい。たびたび書いてきたが、長くたたないうちに現場取材の仕事を離れたことには、上層部の「こいつに報道記者は向かない」という賢明な判断があったのだと思う。

 それはそれとして。
「国鉄」を「くにてつ」と読む世代がいるという話題さえ聞くいま、その民営・分割への流れに対して起きた抵抗であったはずのこの事件に、あらためて思いがおよぶ。
 浅草橋駅への乱入と放火をはじめ、首都圏の国鉄各線でケーブルを切断、関西ではケーブルや新幹線変電所に放火したこの日の攻撃は、中核派の非公然組織によるものとされた。同派と関係の深い動労千葉(国鉄千葉動力車労働組合)が前日から行っていた、二十四時間ストを支援するものだったともいう。
 じつは動労の本部では、事件の半年ほど前に元・革マル派副議長だった人物が中央執行部委員長に着任している。本部に対する牽制の意味もあった──動労本部と動労千葉の確執は成田闘争にその前史がある──という説は、誤っていないだろう。ただ、そうだとしたら、ストなどの戦術は、ただでさえ一般乗客つまり世間からは冷たい視線を浴びていたから、動労千葉にしてみれば放火や破壊にまでエスカレートした「支援」は「ありがた迷惑」だったかもしれない。

 が、政治闘争の話はいったん保留にして、火炎ビンや引火燃料で武装してきた「敵」を、椅子を積み上げて迎えうつことになった駅員の気持ちはどうだったのだろう。駅員が分割・民営に賛成であったか反対であったかを問わず。
 というのも、当時わたしが書いた記事にも出てくるが、襲撃者の中には背広でネクタイにヘルメットという姿もあったという。活動家が通勤者に紛れる作戦だったかもしれないが、のちに、現役の国鉄職員が混じっていたという説も出ていた。もしそれが本当だったら、あれはもはや、一種の内ゲバでもあったことになる。
 
 公の仕事につくことを「奉職」という。
 かつて、国鉄職員であることもまた、名誉の気持ちとともに「奉職」といったはずだ。
 その、名誉に支えられた勤労意欲が、なぜ国鉄職員の多くから失われていったのだろうか。
 それは「国鉄」がまさに「くに」の「てつどう」だったからだ。
 日本という「国」が行ってきた、さまざまな国家事業を思い出せばよい。戦争は、その最たるものだろうが、昔話ばかりではない。近年、国会でもめているようなことも、みなそうだ。
「奉」じさせておいて、高い所まで上っていったのを見計らいでもするかのように梯子をはずす。それが日本という「国」のやりくち、ではないだろうか。

 ポケベル、いや電話が鳴ってニュースの現場へ向かった当時のわたしには、その点について駅員さんたちにも、もし本当にいたとして、駅を襲った側の国鉄職員にも、聞いてみようという発想はできなかった。
 もちろん「初仕事」で周囲が見えなくなっている新米記者には無理な話だ。が、想像だけれども、危険もかえりみず駅を守ろうとした駅員にも、仕事を守る気持ちの純粋なあまり過激な行動に加わった職員にも、ほんとうは同じ、たとえ親方が日の丸でなくとも、列車を安全・正確に走らせる鉄道の仕事そのものに「奉ずる」気持ちがあったのではないかと、いまは思う。

 あと出しジャンケンのような感想は、もうやめよう。
 ポケベルが苦手だったせいか、わたしは以後、携帯電話やPHS、スマホなどのモバイルツールになじめなかった。
 といっても二十一世紀ともなれば、モバイルなしでは仕事にならなくなったので、仕方なく外出中のわたしに職場から連絡できるツールは、持ち歩くことにした。

 それは、ポケベルだった。

 ばかばかしいことに、携帯、スマホを持っていてあたりまえの時代だから、わたしのポケベルは、昔よりはるかに「のべつ鳴る」ようになった。確認の電話を返すための公衆電話が、加速度的に消えていくなかで。(ケ)[この項つづく]

 
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「鳴るだけ」時代のポケットベルの必需品は交換電池とテレホンカード。
 ポケベルに「懐かしい!」とポジティブなリアクションをするのは、
 数字語呂合わせやカナのショートメッセージを電話のボタンで早打ちしていた、
 一九九〇年代初めごろに女子高校生だったかたがただろう。
 いま四〇歳代前半くらいの女性だろうか。

 
Originally Uploaded on Feb. 20, 2018. 02:44
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posted by 冬の夢 at 00:05 | Comment(0) | 時事 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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