2018年01月14日

ザ・スパイダース(かまやつひろし) − あの時 君は若かった 元気が出る曲のことを書こう[36]

 中学生のわたしに、入門者向けクラシックギターを買ってくれたわたしの親は、「禁じられた遊び」をつま弾く好青年を夢見ていた。「『禁じられた遊び』を弾きましょう」という感じの教則本がついてきた。

 もちろん、そんなばかげた夢は一瞬にして打ち砕かれ、期待の好青年候補が弾き始めたのは「スモーク・オン・ザー・ウォーター」のリフ──だったらよかったが、違う。

 下駄をならして 奴がくる
 腰に手ぬぐい ぶらさげて


 そう、かまやつひろしが歌って大ヒットした『我が良き友よ』。
 かまやつ自身が「この曲を、オレが?」※と思った曲でギターをはじめたなんて、とても告白できないが、いま、書いてしまった。
 調べてみると一九七五年の曲。オリコン1位の大ヒット曲だ。
 作詞作曲は吉田拓郎で、先輩をモデルにしたらしいが、当時のテレビドラマ「俺たちの旅」といい、バンカラ賛歌にはまったく共感できなかった。中学生にすれば、かなり上の世代のスタイルでもあり、キモチワルイと思っていたくらいだ。ほかに練習しだした曲もあるにはあったが、『我が良き友よ』は、弾くのも歌うのも簡単で歌詞に政治性がない、気軽な曲だった。
 そのころ知られていた、かまやつの曲といえば、『どうにかなるさ』(一九七〇年)。グループサウンズの人気がなくなったらノンビリ路線というのも、いかにも潔さがなくてカッコ悪く、かまやつの名は間もなく忘れた。『我が良き友よ』で始めておきながら、初めからサイモン&ガーファンクルだったふりをしている「やましさ」もあったのだろう。

 かまやつには、ほどなく再び、お世話になる。

 あの時君は若かった
 わかって欲しい僕の心を
 小さな心を苦しめた
 僕をうらまずにいておくれ


 ザ・スパイダースの人気曲(一九六八年)で、かまやつの作曲だとは知らず、気がつくと口ずさむほど好きになったのは、ずいぶん遅れて何年ごろだったか。
 八〇年代から九〇年代にかけ、かまやつ本人もふくめ、セッションアレンジで演奏されていた記憶があるから、そのころかもしれない。

170114an.JPG
ザ・スパイダース あの時 君は若かった 1968

 アウフタクトで「あのとき」と入り、Um7→き〜みぃわぁ〜→X7→わかかぁ→T△7→たぁ〜 というコード進行は、いまならそれこそ中学生でも知っている響きだが、半世紀も前、日本の洋楽ポップスをどう作るかという試行錯誤の時代に、ここまでおしゃれな音楽を作ったのは驚きだ。

 それでも君がのぞむなら
 僕は待ってるいつまでも
 きっとわかってもらえる日まで
 僕は待ってるいつまでも

 
 作詞の菅原芙美恵のことはまったくわからないが、ザ・スパイダースのメンバーが固定し、GSスタイルで人気者になる舞台裏では、かまやつは曲作りのみならず、知識、発想、人脈で大きな役割を果たしていた。作詞には当時のミス日本まで起用していたので、アイデア人選のひとりだったのだろうか。
 読むと、なんとなく辻褄が合っていない感じもするが、歌で聴くと泣けるほどしみじみ伝わる。この曲を知ったときはもう若くなかったから、なおのこと。いまでも好きな曲だ。

 かまやつひろしの音楽遍歴を説明していると、ゆうに一冊の本になってしまう。本人がそれを語った本もある※ので、ここでは略す。
 ちなみに、かなり以前のことだがラジオの大滝詠一の番組に、かまやつが出演し、本にも書かれている話をしたが、読むよりはるかに面白く興味深かった。大滝が、戦後軽音楽史を存分に知る素晴らしい聞き手であったことと、かまやつが大滝を正しくレスペクトした話しかたをしていたせいだ。
 
 あれやこれやと数多い逸話に、聞き捨てにできないものがいくつかある。

 一九五〇年代半ば、東京の新宿駅南口に毎日夕方、米軍トラックが来て演奏できる者を集め、あちこちの進駐軍クラブに差配したという。
 高校生のかまやつも、それで「米軍キャンプ回り」を経験したが、新宿駅南口の手荷物預かり所は、楽器置場と化していたそうだ。
 手配師が人をかき集め、ワゴンなどで連れ去る様子はわたしも知っているが、バブル後期の早朝、土木仕事の話。
 つまり、戦後の洋楽は「ゴトシ(仕事)」から始まったのだ。創造力でなく演奏技術。楽器や歌が上手でも外国の軽音楽が演奏できなきゃダメだ。ただしロクに弾けなくても「それふう」にやれれば仕事になったところが面白い。海外渡航自由化さえまだまだ先なのに、夜ごと偶然出会う顔ぶれでアメリカ人相手にアメリカの音楽を演奏する。想像しかできないが、いいかげんに真剣勝負をする、とでもいうような感じだったとしたら、いかにも面白い。
 
 かまやつの、GS期のザ・スパイダースへの貢献度は、同じくバンドメンバーの田辺昭知の手腕に比べ知られていないと思うが、かまやつがスパイダースに採り入れたビートやダンス、ファッションは、当時の日本では最新の輝きに満ちていた。
 しかし、スパイダースを国民的アイドルにした初のモンスターヒットは、「ハマクラ」こと浜口庫之助が作詞作曲した歌謡路線の『夕陽が泣いている』(一九六六年)。この文のはじめのとおり、かまやつといえば出てくる曲も、呑み屋での繰り言みたいな、吉田拓郎の曲でも歌謡路線の『我が良き友よ』。
 日本の大衆好みの音楽は、いつの時代も、センチメンタルでどこかで説話っぽい歌謡曲である、ということだ。

 こういう話になると、しょせん日本の洋楽ポップスは「サルマネ」だと嘲笑する人もいる。ならば、あなたも、いまの日本人も「サル」ではないんですね、と聞いてみたくもなるが、それはそれとして。

 ポップ音楽は、パスをつないでラインを上げて行くラグビーやサッカーのようなものだと思う。カッコよさを発見したら、パスをする。受け渡しを繰り返して進んでいく。ときに奪い合いになるが、パスしたらパスが返ってくる。さらにカッコいい音楽が生まれる。その快感と興奮が、ポップミュージックとつき合う面白さだ。
 盗作や著作権侵害など、反則の笛で試合が止まることが多くなったのは、音楽ビジネスで動くカネが巨額になったにもかかわらず、シノギがさき細りだからだろう。
 音楽家は売れなければ契約解除になる。あるいは固定契約をもらえない音楽家もいる。しかし契約元の企業や関連会社には、組織の一員である限り月給を受け取り続ける社員が何人もいる──。
  
 ちなみに『あの時君は若かった』にも、マネのネタはある。
 ジョニー・マーサ/ルーベ・ブルームの「Fools Rush in」(一九四〇年)。
 ビッグバンドの演奏──トミー・ドーシー楽団だったか──で知っていたが、R&R、カントリー歌手のリッキー・ネルソンが一九六〇年代初めにヒットさせてもいる。かまやつは、カントリー歌手時代にネルソンのカバーもしていたから、ネルソン版がネタもとだろう。かまやつが『フリフリ』などのようには曲作りに言及していないのは、Aメロがちょっと似すぎている(笑)せいかな。
 だから「サルマネ」ですか? まさか!
 Aメロからぐいと上がる「それでも君が──」、そこからもう一音しぼり上げる「僕は待ってる──」。やっぱり泣けてしまう。すみません。

 かまやつひろしとは、さらにもう一度、縁があった。

 かまやつが活動後期から晩年に愛用していたギターはスタインバーガー
 偶然だが、わたしの楽器もそうだ。モデルもたぶん、ほぼ同じ。
 見た目も音質もテクニシャン向けの楽器で、わたしもそのつもりで──キモチだけですが──持っているのに、テレビの音楽番組か何かで、かまやつがユルくジャラ〜ンと弾いているのを見て、心底ガックリ(笑)したものだ。
 しかし、この文を書くために『あの時君は若かった』のさまざまな動画をネットで見ていて、最高によかったのは、かまやつが一人で、そのスタインバーガーを「ジャラ〜ン」と鳴らして歌うテイクだ。
 ジャズ的にむりやり解釈しても、おかしい気がする変なコードを、なんだか適当に鳴らしている。なのに、歌メロにはなぜか合っている。そして、そこまで自作曲を徹底的にコードアレンジしていながら、歌はかぎりなくユルユルの「かまやつ調」! コケそうになりながら、涙が出てしまう!

 知らない人の前でライブ演奏なんて、最後にやってから何十年たつか知らないが、この曲、やってみたくなってきた。せっかく「かまやつギター」も、持っているしね。(ケ)

170114mo.JPG
ムッシュ! 2009

釜萢弘 1939/01/12 - 2017/03/01


【参考】
『ムッシュ』(ムッシュかまやつ/文春文庫/二〇〇九年)※
『ジャパニーズ・ロック・インタビュー集』(監修・越谷政義/TOブックス/二〇一〇年)
 ほか


●「元気が出る曲のことを書こう」の記事一覧は→こちら←

posted by 冬の夢 at 03:33 | Comment(0) | 音楽 日本のロック・歌謡曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く:ペンネーム可・アドレスは表示されません
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: