2017年11月14日

『ザ・ヤクザ』 〜 高倉健が湿った画面で立ち回る

高倉健が亡くなって三年が経つ。そのとき衛星放送の専門チャンネルで過去の出演作品を連続放映していて、連日録り溜めしていた。ほとんど見ないまま放置していて、健さんに悪いなと思っていたので、罪悪感を減らすため休日の夕方に録画一覧の最初に出てきた『ザ・ヤクザ』を見ることにした。これがなかなか上手に仕上がった娯楽作品で、手持ち無沙汰の時間が一気に色めき立つことになった。

『ザ・ヤクザ』は1974年製作のアメリカ映画。『ゴッドファーザー』公開後、ギャング映画ブームが抬頭して『バラキ』(※1)とか『コーザ・ノストラ』とか、主にイタリアン・マフィアを取り上げた映画が盛んに製作されていた。興行的にはその流れに乗ろうという意図もあったのだろう。「ジャパニーズ・マフィア=ヤクザ」の世界をハリウッドで作品化したら行けるのではないかという企画が採用されたのも『ゴッドファーザー』の偉大さのおかげだったと言える。
そんな世相を受けて登用されたのが、シュレーダー兄弟。まずは兄のレナード・シュレーダーが原作を書き下ろす。前の年まで京都に滞在し、大学講師を勤めていたレナードは、英語と同じように日本語を話し、日本文化にも精通し、しかもヤクザの世界に興味を持っていた。その原作を弟のポール・シュレーダーが、ロバート・タウンと共同で脚本化した。後にレナードは『男はつらいよ 寅次郎春の夢』や『太陽を盗んだ男』などの日本映画で共同脚本をつとめているし、ポールのほうは『タクシードライバー』の脚本を書き、日本未公開の『MISHIMA』を監督している。『ザ・ヤクザ』は日本に異常に詳しい原作者と脚本家を得たことで、映画として成立したのであった。

何が異常に詳しいかと言えば、人形浄瑠璃や歌舞伎の定番である「仮の姿」が基本プロットに見事に活用されていること。「仮の姿」とは、「佐藤忠信実は源九郎狐」とか「花川戸助六実は曽我五郎時致」とか、ある目的のために別の人格を借りて本当の自分を隠すという仕掛け。『ザ・ヤクザ』では高倉健演ずる主人公の田中健(役名はなんとも安易で紛らわしいです)が「実は」というやつで、そこに触れると本作の種明かしをしてしまうことになるくらいの重要なライトモチーフになっている。
さらにヤクザ映画の基本パターンをしっかりと踏襲していて、アメリカ側主人公のロバート・ミッチャム(『ライアンの娘』の寝取られ夫が秀逸でしたね)と一緒に圧倒的多数の敵方に討入りに赴くクライマックスがちゃんと用意されている。もちろん、なんでもかんでもすぐに小指を切り落として詫びを入れるという過大解釈もあったりするので、手放しには褒められないのではあるが。
アメリカ人にしてはかなりまともに書けているシナリオの中で、映画の名台詞として取り上げても良いくらいのやりとりがある。ロバート・ミッチャムに同行する若者(リチャード・ジョーダン)がはじめて耳にする『義理』という単語に反応して、高倉健に質問するシーンだ。

「"giri"とは"obligation"のことか?」
「いや、"burden"だ。それを背負っている」
「なら、投げ出してしまえばいいのに」
「………」

「義務」ではなく「重荷」、そしてそれは投げ出すことが出来ず、いつまでも肩の上から離れない。そして、なぜ投げ出せないのかは、言葉では説明しきれない。そんな日本にしかない『義理』という概念が、見事に台詞上で表現されていた。
こうした脚本を得たことが『ザ・ヤクザ』の成功の礎だったのであるが、もちろんそれは基礎部分のことだけであり、映画としての完成形になったのは、抜群の存在感でヤクザを体現した高倉健のおかげであることは言うまでもない。「義理とは重荷なのだ」という台詞も、台詞以上の重みを持って表現出来るのは高倉健だけなのである。
対するロバート・ミッチャムは、占領期に日本に駐在していた元MPという役柄。久しぶりに戻って来た日本で、占領する者の視点ではなく日本を見つめ直すと、かつて見えていなかったものが浮かび上がってくる。そんな微妙な感覚を持つ中年男を、眠たげな目のミッチャムが演るとなぜか共感性の高い人物になってくる。『ブラックレイン』で高倉健と共演したマイケル・ダグラスは、どことなく上から目線の立ち位置が伺えたが、ロバート・ミッチャムは謙虚さが際立っている。飛行機のタラップで見送りに来た高倉健にお辞儀をするラストシーンも、やはりミッチャムにしか出来なかっただろう。
男優陣に比べると、岸恵子はメチャクチャに美しいが、演技面では物足りない。高倉健が背負う『義理』の大元は岸恵子にあるのに、その暗さがない。と言うか、あまりの美しさで演技が霞んでしまっている。彼女はこのとき四十二歳。ミッチャムと二人でアルバムを見返すシーンで、モノクロ写真の若き日の岸恵子がちらりと映る。その完璧な美人ぶりは半端ではない。

『ザ・ヤクザ』の特長は、脚本と俳優だけではない。撮影現場が日本映画界のスタッフによって運営されたことも非常に珍しく、特にキャメラを日本人に担当させたのは特筆に値する。
キャメラマンは岡崎宏三。多くの日本映画で撮影監督をつとめているが、あえて紹介すべき仕事は『文楽 冥途の飛脚』(※2)であろう。カナダ人のマーティ・グロスという監督が、文楽に深い興味を持ち、人形浄瑠璃の舞台を映像化するなど思いも及ばなかった日本人を差し置いて映像化した作品だ。
キャメラマンが同じだから当たり前なのかも知れないが、『冥途の飛脚』の画面から伝わってくる雰囲気は、『ザ・ヤクザ』とほとんど同じもの。絵が抜けていないと言うのか、スカーンと来ないと言うのか、ともかく映像が湿った感じがするのだ。被写体がクリアに立ち上がるのではなく、画面全体が一様に湿り気を帯びていて、のっぺりとした長方形の面そのものに見えてくる。肯定的に言い換えるなら、フィルムの存在感が前面に出ていると言うべきか。『冥途の飛脚』では、太夫や人形遣いをもっと見たいのに、そうした被写体をあえて見せようとしていない。画面全体を使って、文楽という舞台そのものをフィルム化しているような撮り方をしていた。『ザ・ヤクザ』も同様で、高倉健やロバート・ミッチャムは画面の中に配置されるパーツとして扱われている。歌舞伎町の呑み屋街や剣道場や古民家など、あえて湿った四角い画面に日本の風景を取り込むことに専念しているように見える。それが監督のシドニー・ポラックの演出なのか、キャメラマンの岡崎宏三の仕業なのかはわからない。けれど、『冥途の飛脚』と同じ湿った感があるのであれば、岡崎宏三を主犯と考えるべきであろう。
そんな寝技師のようなキャメラの中で、それでも俳優として画面を突き破るようにして立ち回る高倉健は凄味がある。高倉健とミッチャムの二人が東野一家に殴り込みをかけるクライマックス。賭場の白い絹地の上を、血まみれの高倉健が、刀を構えてジリジリと相手を追い詰める。それを俯瞰で捉えた岡崎宏三のキャメラも素晴らしいが、そのショットの中での健さんの動き方と佇まいはさらに上を行く。東映映画ならば、ウワーとかテヤーとか喚きながら、一気呵成に斬り合いが進んでいくところだが、本作は違う。斬り合った後は互いに刀を構えて睨み合い、間合いを詰める長い時間の次には刃物同士が瞬間的に火花を散らす。静と動、緩と急。止まっては流れ、駆けては留まる。最終的に健さんが勝つとわかっていても、緊張度を高位のままに引っ張り続ける見事な討入り場面であった。

しっかりと日本でロケしているだけに、製作当時の街並みが画面に写り込んでいるのも嬉しい。パチンコ屋から健さんが出ると、その背景には薄暗く新宿コマ劇場が浮かんでいたり、ロバート・ミッチャムがそぞろ歩く呑み屋街の一角が、町中の登山用具店であったときの好日山荘だったりと、風俗史的に価値のある映像にも触れられる。
深く日本を理解し過ぎて、アメリカ映画っぽさが薄まってしまったせいなのか、当時の興行記録としては、日本で大コケして、海外では大ヒットだったそうだ。しかし、この作品が『ブラックレイン』やタランティーノの『キル・ビル』に繋がっていくのだ。そうした意味では、「日本を舞台にしたアメリカ映画」という分野を切り拓いたフロンティアであったと言えるだろう。(き)


ザヤクザ.jpg


(※1)『バラキ』(1972年 イタリア・フランス合作)は、テレンス・ヤング監督、チャールズ・ブロンソン主演の実録マフィア映画。「『ゴッドファーザー』は予告編に過ぎなかった」という惹句のみが印象に残る。

(※2)『文楽 冥途の飛脚』(1979年 カナダ・日本合作)は、長く日本未公開であったが、日本語字幕付きデジタルリマスター版が2011年に製作され、東京都写真美術館ホールで公開された。



■このブログの「高倉健」に関する記事一覧は →こちら

posted by 冬の夢 at 00:40 | Comment(0) | 映画 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く:ペンネーム可・アドレスは表示されません
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: