2017年09月24日

『ゴッドファーザー』シリーズ再見 〜 映画は物語を物語る

外付けHDDに撮りためていた『ゴッドファーザー』三部作。見るなら一気に見なければならないし、そんなまとまった時間はなかなか取れない。そもそも長編映画を三本続けて見る気力が、いつ湧いてくるのだろうか。あれこれ考えて気後れしているうちに半年以上経ったある休日の午前、ふと録画再生ボタンを押してみた。そして、そのまま、コルネオーネ・ファミリーの世界に引きずり込まれてしまった。『ゴッドファーザー』『ゴッドファーザーPARTII』『ゴッドファーザーPARTIII』を続けて見て、並行してマリオ・プーヅォの原作を読み、さらには製作裏話のドキュメンタリー本である『ゴッドファーザー・レガシー』にまで手を出すことに。
何がここまで観客を惹きつけるのか。なぜ映画だけで済ませずに原作や裏話まで掘りたくなるのか。それは、あまりにも単純であるが、『ゴッドファーザー』に「物語」があるからなのだった。

映画とは映像表現のことである。だから我々は、映像が投影されたスクリーンに意識を集中させる。スクリーンに映る映像、その作り方、切り取り方、つなぎ方。映像にかぶる声や音響や音楽。俳優の表情と動作。これらがすべて平面のスクリーンに映し出され、そのスクリーンを見ることが、すなわち映画を見ることである。
ところが、『ゴッドファーザー』は、観客の目をスクリーンにとどめておいてはくれない。スクリーンは窓に過ぎない。我々はこの窓を通じてコルネオーネ・ファミリーの物語を見る。家族の、ビジネスの、殺し合いの、王位継承の物語の立会人になる。『ゴッドファーザー』にとってスクリーンは本のページのようなものだ。本に印刷された文字を読むことで、ヴィトー・コルネオーネが喋り出し、ソニー・コルネオーネが殴り合うのと同じように、スクリーンを眺めることで、マイケル・コルネオーネが力を蓄え、フレドー・コルネオーネが殺されてしまうのだ。
いやいや、何を今さら。それが映画でしょ。スクリーンを眺めていれば、映画は勝手に物語を語ってくれる。当たり前のことじゃんか。
そうかも知れない。映画は物語を物語る。それは当たり前のことなのだろう。けれども、本に熱中して物語にのめり込み、いつの間にかページを繰って読んでいる、そんな本の読み方をそのままに映画で再現することは当たり前ではない。
本は文字であって、文字は映像ではない。しかし、文字を読むことで読者は、文字を「文字ではないもの」に変換する。「文字でないもの」は映像とイコールではないが、明らかに文字ではなく、極めて映像に近い。極めて映像に近いそれは「イメージ」という言葉で言い換えられる。本を耽読するとき、読者は視覚によって文字の洪水を受け止め、それが頭の中で次々に新しいイメージに変換され、その集合体をひとつの作品として記憶していく。そして、そのイメージは、読者ひとりひとりによって違うのであって、決してひとつにはまとまり得ない。その違いを愉しむことが、本を読む者同士が交歓する喜びでもある。
かたや映画はどうか。映画は映像によって形作られていて、映像であるからこそ極めてイメージに近い。しかし、イメージではない。なぜならイメージは頭の中に浮かぶものであり、映像はスクリーンに投影され、視覚を通じて脳内に照射されるものだからだ。内的に発生するイメージと外的に刺激を受けて感知される映像。そもそも発現の元が違うわけで、イメージは、ひとりひとりの頭の中で360度あらゆる方向へ、多元的に拡散する。対して映像は、既に形になって定着されたものが観客それぞれの感覚に一元的に輻輳する。
映像はイメージではないし、イメージは映像になり得ない。それは定理のようなものだ。

ところが『ゴッドファーザー』においては、この定理は通用しない。『ゴッドファーザー』は、まずマリオ・プーヅォの小説があり、その後すぐに映画が製作された。小説はベストセラーとなったし、映画も興行記録を塗り替える大ヒットを飛ばしたので、『ゴッドファーザー』体験は、小説からの人と映画からの人が同じくらい多く存在する。
そして『ゴッドファーザー』が驚異的なのは、小説を読んだ人の頭の中に浮かんだイメージと、映画を見た人が感知した映像とが、寸分違わずピッタリと一致してしまうことなのだ。映画『ゴッドファーザー』の映像は、小説を読んだ人の頭の中に浮かべるイメージと同じであり、小説『ゴッドファーザー』を読んだイメージは、そのまま映画館で見る映像に変わらず再現されている。
「映像=イメージ」の完全一致状態。整合性100%の完璧な調和の完成。映画を見ているのと、小説を読んでいるのとが、ほんの少しのズレもなく合致する。映像なのか、イメージなのか。本を読んでいたのか、映画を見ていたのか。内的に浮かんだのか、外的に受け止めたのか。そうした疑念を飛び越えて、ダイレクトに観客の感覚に入り込んでくる。それが『ゴッドファーザー』なのだ。

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なぜ『ゴッドファーザー』の映像とイメージは完全一致するのか。それを探るのが本稿の目的である。
まず最初にマリオ・プーヅォの原作に着目したい。マリオ・プーヅォ自身がイタリア移民のひとりであり、シチリア島に端緒をもつマフィアに深い興味を持っていた。小説家を生業にしていくための素材を探っていたプーヅォは、マフィア一家を実録風に書いたら売れるのではないかと思いつく。一気に書き上げた原稿は、いくつかの出版社に断られた後に、G・P・パットナム社の目に留まって世に出る。そしてハリウッドは常に映画になるネタを探しているから、プーヅォの原作はあっという間に映画業界のプロデューサーの網にかかる。経営不振に陥っていたパラマウント社は、この「マフィアもの」に目をつけた。金に困っていたプーヅォはわずか8万ドルで映画化権を渡してしまう。しかし、ここからパラマウント起死回生の大ヒットを生み出すサクセスストーリーが始まるのだ。
プーヅォの原作を読むとすぐにわかるのは、小説『ゴッドファーザー』は、人物設定とストーリーだけで出来ているということ。すなわち抒情的な要素は一切なく、人物と風景を写生するような叙事文のみで書かれている小説なのだ。逆に言えば、あらかじめ決められたキャラクターが、いくつかのエピソードの積み重ねの中で動き交錯し成長することが、そのまま『ゴッドファーザー』の物語になっている。
小説としての出来栄えを分析するならば、作者の視点は読者と似過ぎていて、まるでスクリーンを眺めるように物語だけが語られる。作者が登場人物を彫り込むようにして語る場面は、全くと言っていいほどない。唯一、ヴィトー・コルネオーネの若き日を語るパートの中に、下記のような一節が出てくる程度である。

ヴィトー・コルネオーネは、この時はまだ、この微笑の効果に気づいていなかった。そこにはまったく気負いがなく、それだけにいっそうぞっとするのだった。彼は、自分にしかわからない冗談のように笑ってみせるのだ。だが、彼がそのような笑みを浮かべるのはいつも重大な事件の際であり、個人的な冗談にしてはあまりに見えすいており、しかもその目は笑っておらず、その上、外から見た彼の普段の性格が大変理性的で穏やかなために、このように不意に彼が仮面を取りはずすと、人々は思わず逃げ腰になってしまうのだった。(第三部14より)

ここに引用した描写だけが、唯一の小説固有の表現であり、そのほかはすべて映画と同じと言ってもいい。マリオ・プーヅォの本質は、小説家ではなく、キャラクタークリエイターでありプロットメーカーなのだろう。小説『ゴッドファーザー』を読んでいると、頭の中にはイメージではなく映像が浮かんでくる。私の場合は映画を先に見ているから、その映像はほとんど映画のそれに等しいわけだが、たぶん小説から読んだ人も、映画『ゴッドファーザー』に似た映像を浮かべていたに違いない。マリオ・プーヅォの原作はそれほど映画的であると言えるし、小説的に見れば決して作家的作品ではない。
マリオ・プーヅォ自身が『ゴッドファーザー』以外に目立った小説を残していないことからしても、『ゴッドファーザー』はもとから映画になるべくして書かれた作品だったのだ。

極めて映画的な小説が、まさに映画化されるにあたって、『ゴッドファーザー』はさらなる僥倖を手に入れる。
パラマウント社は『ゴッドファーザー』のプロデューサーにアル・ラディ(※1)を指名した。その理由は「金をかけずに映画を作れる人物だから」。大金を投じた『ペンチャー・ワゴン』などが興行的に失敗し、パラマウントには潤沢な映画製作資金が枯渇していたのだ。
ところがラディは、単なるローコストオペレーターではなかった。映画はホンで決まる。この鉄則を守るためにやるべきことをやったのがラディなのだ。

映画界には、脚本を書く小説家に対する根深い偏見がある。プロデューサーたちは、小説家は原作を大事にしすぎると思い込んでいるんだ。(中略)とにかくプーヅォに会う必要があったので、ニューヨークのプラザホテルで一緒に昼食をとることにしたんだ。彼は自分の本を持って来ていた。僕は彼にこう言ったんだ。小説家は自分の作品へのこだわりが強すぎるからハリウッドでは成功しないんですよ。600ページを超える原作を150ページにできますか、とね。するとマリオは本を床に投げ捨てて、「もう二度と読む必要はない。いつでも脚本を書ける」と言うじゃないか。僕は即答したよ。「OK。一緒にやりましょう」 (『ゴッドファーザー・レガシー』第一章より)

このとき小説家マリオ・プーヅォは、脚本家に変わった。プーヅォの中では、文字から立ち上がるイメージは既に頭の中で完成している。あとはそのイメージを映像にしやすいように脚本化すれば良いのだ。
付言するならば、たった8万ドルで映画化権をパラマウントに売り渡したプーヅォは、脚本を書くための報酬として、あらたに10万ドルを手に入れる。脚本家プーヅォは、原作がベストセラーになって強気の交渉が出来るようになっていた。彼は10万ドルに加えて興行純益の1%を得るオプション契約を結んだ。プーヅォが億万長者になったのは言うまでもない。

ゴッドファーザー02.jpg

脚本と同じように重要なのが、監督の選択だ。プロデューサーのアル・ラディは、ここでもうひとつ大きい仕事をやってのける。マフィアという素材やスケジュール調整の問題から、多くの監督がアル・ラディのオファーを断る。リチャード・ブルックス、フレッド・ジンネマン、アーサー・ペン、コスタ・ガブラス、オットー・プレミンジャー、ピーター・イェーツ、エリア・カザン。唯一興味を示したのはサム・ペキンパーだけだったが、ペキンパーに監督を任せると血だらけのバイオレンスアクションになってしまうので、ラディのほうからオファーを取り消したと言う。
そんな中、白羽の矢が立ったのが、新進監督フランシス・フォード・コッポラであった。

コッポラの起用が功を奏したのは、コッポラが映像作家タイプではなく、オーソドックスなストーリーテリングを得意とする監督だったことだ。原作者マリオ・プーヅォが書いた脚本は、すでにイメージの映像化を前提に書かれていただろうから、そこへ第三者の映像化フィルターがかかると、そのひねりの分だけ小説から遠ざかることになる。コッポラはプーヅォの脚本を映像化する現場監督の役割に徹した。それが『ゴッドファーザー』を成功に導いたのだった。
では、コッポラは単なる現場監督で、映画に貢献していないかと言えば、それは大間違いだ。コッポラは超一流のコーディネーターであった。それは俳優の選択とキャメラマンの活用法に顕著に現れている。
まず、マーロン・ブランドをドン・ヴィトーに起用したこと。小説ではヴィトーは比較的小柄な外見で描かれているが、映画の中に現れたマーロン・ブランドのヴィトーを見てしまうと、そんな記述との差はどうでもよくなってしまう。見事な存在感だし、存在を通して過去にどう生きてきたかが伝わる表現力がある。ヴィトーがどんな人物なのかは、マイケルがケイに結婚を申し込む際に父親について語る台詞の中にすべて凝縮されている。

「彼はわれわれが住んでいる社会の規則を受け入れない。それはその規則が、彼のような人間、並はずれた力量と人格とを持った彼のような人間に、相応しくない生活を強要するからだ。君は、彼が大統領とか総理大臣、最高裁判所長官、州知事といった偉い人々と、自分を同等に考えているということを理解しなくちゃいけない。彼はこの連中の意思に自分の意思を合わせることをしないんだ。ほかの人間が定めた規則、彼に負け犬の生活をを強いる規則に従って生きることを拒否するんだ」(第七部25より)


マーロン・ブランドがヴィトーを演ずるにあたっては、たぶんこの一節が常に意識されていたのではないだろうか。ブランドの威厳ある佇まいは、まさにマイケルから見た父親像に等しい。それほどにブランドの存在感は飛び抜けている。

圧倒的な存在感であれば、『PARTII』でハイマン・ロスを演じたリー・ストラスバーグも負けてはいない。アクターズスタジオのメソッド演技法を地で行く類を見ない「腹芸」。キューバのホテルでマイケルからバチスタ政権を危ぶむ意見を聞かされて、静かに激昂する演技などは、とても演じているとは思えない真実味がある。恐ろしいほどの表現力だ。さらに、自身がイタリア移民であるコッポラは、イタリアの匂いのある俳優にこだわった。そうして抜擢されたのがアル・パチーノ。『ゴッドファーザー』から本格的なキャリアをスタートさせたパチーノのその後の活躍ぶりを見れば、コッポラの選択眼の確かさは明らかだろう。
その選択眼は俳優だけでなく、キャメラマンにまで及ぶ。当時まだ大きな実績がなかったゴードン・ウィリス(※2)を登用したコッポラは、現場で激しい口論をしながらもゴードン・ウィリスの持ち味を存分に引き出している。よく引き合いに出される頭上からのライティングは、登場人物の顔に深い陰影を刻み、どの俳優も表情がよく読み取れない。そこにリアリティがあるのであって、サングラスをかけているかのようにドン・ヴィトーは何を見ているのかがわからない。ちなみに『ゴッドファーザー』にはサングラスをかけた人物はひとりも出て来ない(※3)。東映ヤクザ映画の実録物がサングラスで溢れているのは、ゴードン・ウィリスへの敬意の表現であったのかも知れない。

このようにして、『ゴッドファーザー』は小説と映画が完全一致し、映画が物語を物語ることになった。映画が語る物語があまりに強い吸引力を持つため、観客は映画が始まると同時に『ゴッドファーザー』の世界に絡め取られてしまう。スクリーンを窓にして、観客は映画の中に入って行くのだ。そこには、散歩道の堅牢な屋敷があり、イタリア人街のサン・ジェナーロ祭があり、切り取られた馬の首がある。ドン・ヴィトーが嗄れた声で呟き、ソニーの遺体がボナセッラの元に運ばれ、マイケルは妻のケイに最後まで嘘をつく。教会での洗礼式と五大ファミリーの粛清、湖上に響くフレドーを撃つ銃声。そして、マイケルはアポロニアと踊り、ケイと踊り、メアリーと踊る……。

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小説と映画を照合するならば、映画の第一作は、九部構成のプーヅォの小説のうち、七つのチャプターに相当する。取り上げられなかった小説の第二部は、ジョニー・フォンテーンのハリウッドでの退廃した暮らしぶりを描いていて、フランク・シナトラをモデルにしたことがより赤裸々になっている。裏返せば、コルネオーネ・ファミリーの物語には大きく関与しないエピソードであって、映画ではまるごと削除された。もうひとつ第一作に採用されなかったのは小説の第三部で、ヴィトーの少年時代からドンになるまでが丹念に書かれている。この第三部こそが、『PARTII』のメインディッシュとなり、ロバート・デニーロ演ずる若き日のヴィトーは、アル・パチーノのマイケルに負けず劣らず素晴らしい。
『PARTIII』は、小説にはないマイケルの晩年をあらたに書き下ろして製作されたもので、『ゴッドファーザー』三部作においては、付け足しの位置付けに甘んじている。それでも、小説のエッセンスはきちんと反映されていて、マイケルの長男アンソニーは、ファミリーの家業を継がずに声楽家の道を歩む。

「でもぼくは、子どもたちには医者とか音楽家とか教師とかになってもらいたい。ファミリーの仕事には絶対につかせない」(第七部25より)

若き日のマイケルが発した何気ないひと言は、マリオ・プーヅォの頭の中ではすべてきちんと保管され、いつでも取り出せるようになっていたのだろう。伏線でなかったマイケルの台詞は、『PARTIII』の登場によって、結果的に伏線としてつながった。なぜならマイケルは自分がかつて望んだはずの道に息子が進むと知って、猛烈に反対するのだから。
そんな父親を押し切ってテノール歌手になったアンソニーは、ファミリーのルーツであるシチリア島で声楽家としての晴れ舞台にのぞむ。甥のビンセントを後継者に得たマイケルは、シチリア島のドン・トッマジノの屋敷でアンソニーの歌を聴き、歌手の道に進むことを許す。
このときアンソニーが歌うのが『ゴッドファーザー 愛のテーマ』。映画とともに大ヒットしたニーノ・ロータ作曲のテーマ曲だ。哀愁溢れる寂しく美しい旋律は、実は三部作に共通してシチリア島の場面でしか聴くことが出来ない。そうなのだ。この曲は『愛のテーマ』という曲名を持ちながら、実際には『シチリア島のテーマ』なのだ。
シチリアに端を発するマフィア。そのマフィアの一族を「マフィア」とは呼ばず「ファミリー」と言い換えて、壮大な年代記に置き換えたマリオ・プーヅォは、小説の中でこう書いている。

この古めかしい庭園において、マイケル・コルネオーネは、自分の父親が生まれ育った土地の歴史を学んだのだった。"マフィア"という言葉はそもそも"隠れ家"を意味していたのだが、その後、何世紀にもわたる歴史の推移のうちに、この地方の人民を弾圧する支配者に対抗せんがために生まれた秘密組織の名称になっていった。(第六部23より)

『ゴッドファーザー』は、シチリア島から始まる家族の物語である。それを小説にしたマリオ・プーヅォと映画にしたフランシス・フォード・コッポラ。映画が物語を物語る傑作は、ニューヨークで出版され、ハリウッドで映画化された。けれども、間違いなくイタリアの匂いがする。ニーノ・ロータの音楽もまた、『ゴッドファーザー』になくてはならない唯一無二の構成要素であるが、もうやめにしよう。物語ることが止められなくなる。それが『ゴッドファーザー』なのでもある。(き)


『ゴッドファーザー』マリオ・プーヅォ著、一ノ瀬直二訳、早川書房刊。
『ゴッドファーザー・レガシー』ハーラン・リーボ著、鈴木勉・河原一久訳、ソニーマガジンズ刊。(邦題は『ザ・ゴッドファーザー』だが紛らわしいので原題表記にした)


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(※1)アル・ラディ(アルバート・S・ラディ)はTVプロデューサー出身で、『ゴッドファーザー』に携わる前にはロバート・レッドフォード主演の小品『お前と俺』(1970年)しか映画製作経験がなかった。

(※2)ゴードン・ウィリスはアラン・J・パクラ監督の『コールガール』で撮影を担当、『ゴッドファーザー』後では、ウディ・アレンとコンビを組み『アニー・ホール』『マンハッタン』などでキャメラマンを務めた。2014年没。

(※3)ラスベガスのシーンで、フレドーがサングラスをかけていたのを失念した。彼だけが陰影のない人物設定であったことの象徴だったかも知れない。




●「ドルチェ・アンド・ガッバーナ 2013年メンズコレクションのシチリア讃歌【改】」(2012年10月27日)は→こちら←
posted by 冬の夢 at 00:39 | Comment(0) | 映画 洋画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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