2017年08月27日

歌舞伎座八月公演『野田版 桜の森の満開の下』 〜 野田秀樹が見つけた新しい相方

歴史をひもとけば、歌舞伎は義太夫狂言から時代物、世話物へとバリエーションを広げ、江戸末期と明治初期に河竹黙阿弥の芝居を通じて完成形を作り上げた。けれどもその後、西洋演劇に影響を受けた台詞中心の「新歌舞伎」で軸足を失い、三島由紀夫のように古典的で典雅な台本を完璧に書ける作家の作品を除いては、真に新しい歌舞伎は生まれることがなかった。

そんな状況を無視するようにして、歌舞伎の新たな可能性をかろやかに拓いた芝居が『野田版 研辰の討たれ』(※1)であり、蜷川幸雄の『NINAGAWA十二夜』(※2)であった。当然ながら「新歌舞伎」というジャンル分けなどは軽く一蹴したうえで、こういうことを歌舞伎でやっていいのかというような革新性を示した。回り舞台を駆使して、複数の主人公たちを走馬灯のようにして見せる『野田版 研辰の討たれ』。かたや『NINAGAWA十二夜』は、舞台一面に置かれた鏡が役者を多重的に映し出し、かつ、見物している観客さえも舞台上にいるのかのように鏡に写り込んでいる。そうした斬新な舞台設計を持ちながら、役者がいつもの型から離れて声と身体を自由自在に使いこなし、躍動する。歌舞伎役者というのは普通に演劇をやらせたら、小劇場の人気俳優などが秒速で置いてけぼりにさせられるほど、動きが速く柔らかい。職業としての、役を演じる熟練度が、まさに段違いなのである。歌舞伎とは畑の違う演劇人である野田秀樹・蜷川幸雄という演出家が、そんな舞台と役者にマジックにかけ、歌舞伎が持つ潜在的爆発力に発破を仕掛けたのが、『野田版 研辰の討たれ』と『NINAGAWA十二夜』なのだった。

しかしながら、このふたつの芝居は、新しい地平を開拓したわけではなかった。それは、歌舞伎という古典的世界にたまたま隆起した新山であって、勢いよく噴き出した新しい火山は、広大な平原の中に孤立した突起を残したあと、休火山となって記念碑的景観を残すのみ。すなわち、後が続かなかったのである。蜷川幸雄は、再演を行なったあとは歌舞伎に再挑戦することなく、その生涯を閉じてしまった。野田秀樹の場合は、互いの領域に遠慮なく上がり込んできた盟友=中村勘三郎を失ったのが、理由のすべてだ。
勘三郎の立ち位置は、いまだに松竹歌舞伎が勘三郎に代わる役者を育てられずにもがいていることからして、いかにユニークなものだったかと思い知らされる。世間からの評価も、また勘三郎の脇に必ず控えていた番付からも、あとを担うのは長男勘九郎であることは明らかだ。けれど、その勘九郎は、現段階では勘三郎にはなり得ないし、勘九郎自身やるべきことは歌舞伎の古典をしっかりと習得することにある。勘三郎が力説していた通り「型を身につけてこその型破り」なのであるからには、本業をおろそかにしていては「型なし」になるばかりだ。
そんな状況だから、野田秀樹が勘三郎亡き後も歌舞伎への挑戦を続けるのは難しいことであって、役者が育つまで待つ間に野田秀樹のほうがやる気をなくしてしまうかも知れないと危惧されていたわけである。

ところが、今月の納涼歌舞伎『野田版 桜の森の満開の下』を見たら、そんな懸念は跡形もなく吹き飛んでしまった。野田秀樹が組むべき、勘三郎に続く役者がいたのだ。
中村七之助。亡き勘三郎の次男で、当代勘九郎の弟。なんと七之助こそが、野田秀樹の新しい相方であり、歌舞伎座で野田とともに新しい芝居の世界を切り拓く可能性を持つ役者だったのである。
七之助が演じるのは、三人の匠に仏像を彫らせる夜長姫という女性だ。この芝居は、元は野田秀樹が夢の遊眠社を率いて上演した『贋作 桜の森の満開の下』(※3)。外苑前にあった日本青年館大ホールで再演したのを見たとき、夜長姫を演っていたのは毬谷友子。どんな舞台だったのかほとんど思い出せないのであるが、毬谷友子の印象だけはボンヤリと残っている。いかにもお嬢様然とした雰囲気の毬谷友子が、独善的で高圧的で、身勝手極まりなく横柄に振る舞ったあげく、ピュアな恋心を胸に秘めて消えていく。振り返ってみれば、役者と役の間のギャップ感、あるいは役を演じている間の変容ぶりは、毬谷友子が宝塚歌劇団の娘役出身であることを考えると、余計に観客に浸透してくる仕掛けであった。

その仕掛けという意味で言うなら、七之助の場合は、もっと手が込んでいる。七之助は専ら女形を主業としていながらも、これぞという役を手に入れているわけではない。一枚看板で女形の大役を演じたことはないし、勘九郎とセットで「中村兄弟」として売り出されるのが常だ。
その七之助が夜長姫を演じて、新しい七之助らしさを発現したのだ。それは女優には決して出来ない演じ方であって、男が女を演じる異化そのものが、夜長姫を現実とは少しズレた存在に見せるのである。姫だけれどお姫様ではない。優雅だけれど優しくはない。残酷だけれど残虐ではない。七之助の夜長姫は、アンテナの不具合で映像が二重に写るアナログテレビのゴースト画面のように見えてくる。そのズレ感が常に一定なので、舞台を見ているうちに不思議な気分になってくるのだ。女ではあるが、少しだけ女ではない。少女ではあるが、少しだけ大人に寄っている。夜長姫とは何者なのかが、ズレた分だけ二重性を持って曖昧になるような演じ方。そうした芝居が出来たのは七之助ならではであったと思うし、野田秀樹の舞台だからこそ七之助は本業たる女形としての殻を破ることが出来たのではなかろうか。そしてまた、野田秀樹にしてみれば、歌舞伎だからこそ女形を使えたのだし、七之助を夜長姫にキャスティング出来たのは歌舞伎化の賜物であった。
野田秀樹の盟友だった勘三郎と三津五郎が立ち上げた納涼歌舞伎。そこで勘三郎に代わる相方として七之助が現れた。納涼歌舞伎という場が長きにわたり継続したことによる導きだったのである。

八月納涼歌舞伎の筋書に野田秀樹は「物怪の幸い」と題した文章を寄せている。「歌舞伎の独特の言い回しを感じるのは七と五の音で出来ていることだ」という主旨のことを、書き物なのにあえて七五調で野田秀樹は書いている。勘三郎との間では、初めて『研辰の討たれ』で歌舞伎に取り組んだときから『桜の森の満開の下』を歌舞伎化することが決まっていたのだと言う。それが実現した今年の夏、その舞台に立ったのは勘三郎ではなく、七之助であった。台詞を七五調に書き替えた芝居で、同じ数字を名前に持つ七之助が思い切り弾けてみせた。その姿を、勘三郎はどこかからニヤニヤしながら眺めているに違いない。(き)


(※1)『野田版 研辰の討たれ』野田秀樹脚本・演出、2001年8月歌舞伎座で初演。
(※2)『NINAGAWA十二夜』 蜷川幸雄脚本・演出、2005年7月歌舞伎座で初演。
(※3)『贋作 桜の森の満開の下』野田秀樹脚本・演出、1989年2月日本青年館で初演。


posted by 冬の夢 at 18:16 | Comment(0) | 伝統芸能 歌舞伎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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