2017年07月08日

森田童子と山崎ハコ

 同人の一人が高橋和巳と森田童子のことを書いたのを読んで以来、実はずっと書いてみたいと思っていた。森田童子と山崎ハコという女性シンガーソングライターのことを。

 森田童子がレコードデビューをしたのは1975年のことらしい。当時、深夜ラジオをほとんど毎晩聴いていたから、特徴的なか細い声で歌われる彼女の歌も耳にしたはずなのに、全く記憶に残っていない。やがて、山崎ハコと中島みゆきを加えて「三大ネクラ女性歌手」と並び称されるようになったはずだが、その頃(つまり70年代後半、こちらが一浪した上で無事?大学生になる前のこと)は、この「三大ネクラ女性歌手」は押し並べて苦手だった。ロックはもちろん、ジャズもクラシックも聴き始めていたし、ときにはアマリア・ロドリゲス(ポルトガルのファド)のように暗い歌も聴いていたのに、森田童子や山崎ハコ、さらには中島みゆき(今では大量のCDを隠し持っている!)さえも、ほぼ完全に無視していた。それなのに、大学浪人をしている間に、先ずは中島みゆきを聴くようになったことは以前に書いた通り。すると、芋づる式にと言ってはなんだが、いわゆる「ネクラソング」を愛聴する同好の士たちが「こんなのもありますよ」といって、森田童子や山崎ハコのレコードやカセットテープを聴かせてくれた。しかし、それでもやはりこの二人の歌を好きになることはなかった。
 なぜ中島みゆきだけをことさらに愛聴したのか、今となってはむしろそちらの方がいっそう不思議だが、事実として、この二人の歌を愛聴するようになったのは(これまた事実として、普段持ち歩く携帯プレーヤーに森田童子の歌は16曲、山崎ハコに至っては100曲近くも入っている!)比較的最近の、もう21世紀になってからのことだ。
 
 順序がバラバラして恐縮だが、先に山崎ハコとの「出会い」のことを記そう。
 今から十数年前、ちょっと思うことがあり、それまで暮らしていた東京を離れ、岡山で暮らすようになった。そして、岡山に住み始めてほどないある週末、隣の高梁市というところへ観光目当ての日帰り旅行(というほどでもなく、電車にのれば小1時間で到着する)をした。高梁という街は小さな城下町で、鄙びた旧市街や武家屋敷跡、さらには山城として高名な備中松山城が残されており、半日の物見遊山には不足のないところだった。その旧市街をブラブラと歩いていると、とある食堂(レストランというよりはこう呼ぶ方が相応しい、そのようなご飯屋さん)の店先に山崎ハコのポスターが張り出されていた。そのとき反射的に思ったのは「へーっ、この人、まだ歌っていたんだ!」という驚きだった。(ついでながら、その頃は「中島みゆき病」もほとんど平復しており、中島みゆきの歌を聴かなくなってから20年近くが経っていたが、そのご活躍ぶりくらいは承知していた。)
 岡山の高梁という田舎町(高梁市の人口は2012年の統計によれば3万2千人程度だ)の、ライブハウスとも言えないような店で、一世を風靡した往年のシンガーソングライターが歌うのか。そう思うと、何とも言えない気持ちにさせられた。自分自身が東京を離れて、岡山にまるで蟄居しているかのように暮らしていたことも微妙に影を落としたのかもしれない。そして、何となく後ろ髪を引かれるような思いでそのときはその場を離れた。
 それから数日、あるいは数週間後、「せっかくだから、あの山崎ハコのリサイタルに行ってみようか」と思い、ネットで調べてみたのだが、残念なことに、すでにリサイタルの日は過ぎていた。すごく惜しいとも思わなかったが、しかし、その足ですぐに近所のレンタルCD屋に行き、その店に奇跡的?に置かれていた山崎ハコのCDを借りてみた。そして、吃驚した。
 誰かを好きになるのは、実は時間はあまり関係がない。それよりも、その人が何か特に印象的なことを、何か特別なタイミングですることの方がより大きな作用をする。「この人にこんな側面があったんだ」と気づいた途端に、その人のことが好きになる。こんなことがよくある。それと同じだった。相変わらず重苦しい歌、相変わらず暑苦しい歌い方、それなのに、山崎ハコの歌う「夢」という歌には、本当に吃驚した。歌詞だけでは大事なことは何も伝わらないだろうけれど、とりあえず記しておこう。

夢が見えていた 小さくけれどほのかに 燃えていた
遠くの景色の中から いつもこっちを見ているように

だけどいつからか 遠くで待ってるお前に
言葉をひびかせて 話すことを忘れていたね
お前が見えるのは 私だけなのに

夢が見えていた 孤独に けれど確かに影を引き
はなれていても 一人でも いつも鼓動を感じられた

だけどいつからか お前の命も忘れ
生きてるつもりで 自分の胸のだけ手をあてていた
命 ふきこむのは 私だけなのに

夢が生きている 小さく弱く 今にも消えそうに
遠くの景色は 汚れた広い荒野で 時にぼやける

だけど なぜだろう やっぱりお前のもとへ
細い糸握り 見えるか これが これが私だ
お前と一つの 私の姿だ

見えるか 見えるか 見えるか 見えるか
見えるか 見えるか 私の姿が
私の姿が

 この歌をきっかけに、とうとう彼女のCDを買える限り買い漁り、CD化されていないものはレコードをネットオークションで買い集め、ほとんど全作品を聴くことになった。つまり、これはすでにいっぱしの、いや、筋金入りの立派なファンということだろう。ファンであるからには、是が非でもライブに出かけなければならない。というわけで、遅ればせながら、21世紀になってから、すっかりオバさんの声になってしまった山崎ハコのライブも聴いた。
 筋金入りのファンと化した立場で言わせて貰えるならば、山崎ハコは歌手としては凄い才能の持ち主だが、商売のセンスはとても悪い。おそらく、彼女には彼女なりの独特の感性があるのだろうが(当然のことだけれども)、それはあまりに独特で、彼女は自分の持ち歌の中で何が世間に受けるのか、何が世間から遊離してしまいそうなのか、それを見極めるのがとても不得手なようだ。つまり、自分を売り込むことがかなり苦手だ。が、きっとそれが彼女の矜持なのかもしれない。四国の高松のライブハウスで歌う山崎ハコを見て、そしてその店に集まった少なくはない客を見て、かつては自分のレコードを作るのに参加した高名なギタリストを今では夫君に持ち、コアな、熱心なファンを前に小さなライブハウスで歌う姿を見て、これはこれで見事な生き方と言うべきなのではないかと素直に感じた次第。

 そして、とにもかくにも山崎ハコは今も歌い続けている。新譜も出し続けている。「縁−えにし」というアルバムは日本レコード大賞「優秀アルバム賞」も受賞している。この8月にはcharや金子マリとも共演する。しかし…

 しかし、もう一人の森田童子は……
 森田童子を聴くようになったのは、山崎ハコを知ったのがきっかけだった。「山崎ハコを『再発見』したのだから、ものは試し、森田童子はどうなんだろう?」といった、半ば怖いもの見たさからだったかもしれない。同人のブログにも書かれていたが、森田童子の歌はTVドラマで使われて、それをきっかけにリバイバル・ヒットしたらしいが、そのドラマも見たことがなかったし、そのリバイバルも知らなかった。

 しかし、聴く前から思うことは様々にあった。これは山崎ハコの場合とは対照的でもある。
 同人が森田童子の名前を作家の高橋和巳と並べていることにも反映されているように、いわゆる学生運動なしでは森田童子の歌は意味をなさないだろう。「孤立無援の唄」も「ぼくたちの失敗」も「さよならぼくのともだち」も、もちろん「みんな夢でありました」も「球根栽培の唄」も、学生運動とその挫折について無知であったなら、はたしてどんな風に聞こえるのか、ぼくには想像もつかない。そして、だからこそ、彼女は1980年代の半ばに、それこそ世界から消えるようにして自らの音楽活動を停止するしかなかったのだろう。それは正に世間が60〜70年代の学生運動について語ることを止めた頃だ。

 森田童子が歌い始める少し前、ぼくがまだほんの小さな子どもだった頃、夜中に父と兄が口論しているかなり大きな声で目が覚めた。親子喧嘩というわけではなかったが、それでも二人とも相当にエキサイトしていた。襖越しに聞えたのは「毛沢東」とか「スターリン主義」とか「日共」とか、そんな文句だった。今の知識で再構成すれば、中国共産党の毛沢東路線を基本的には認めようとする兄に対して、毛沢東もスターリンも同じ穴の狢だと父が諭していたのだろう。もしかしたら逆の可能性もなきにしもあらずだが(その場合は、父は共産主義を擁護しようとしたのではなく、毛沢東の農民中心の考え方の方が、レーニン=スターリンの都市労働者中心の考え方よりもまだマシだと言いたかったのだろう)、おそらく当時の兄は毛沢東に対して多少のシンパシーを持っていたように思う。
 というのは、また別の夜。今度は兄がかなり酔っ払って帰宅して、手洗いで苦しそうに吐いているときに、心配するぼくに「下宿にいると、もしかしたら殺されるのではないかと怖くなる」と弱音をこぼしたことがあった。吃驚したぼくに「おれは別に危ないこともしていないし、狙われるようなこともしていないよ。でも、間違えられて巻き添えになるかもしれないってことさ」と説明してくれた。そんな兄は森田童子と同年のはずだ。その兄が大学受験する年、東京大学は入試が中止された。安田講堂が「落城」した年だ。つまり、兄の大学生時代はすでに「負け戦」の時代であり、内ゲバに怯える時代であり、年の離れた弟にもその虚しさが伝わるともなく伝わってきた。
 とすると、森田童子というのは、彼女の歌は、全てが丸ごと過ぎ去った学生運動に対するレクイエムということだ。まさに「みんな夢でありました」というわけだ。孤立無援の思想を書いた高橋和巳が亡くなったのが1971年だから(そして、上述の父と兄の家庭内口論があったのも同じ頃だろう)、森田童子が歌い始めた頃にすでに時代は、実際には後のバブルに向かって一直線に動き始めていたのだろう、その初期の動きは比較的緩やかであったにしても。

 森田童子の歌が恋歌なのかどうか。実はいまだによくわからない。そこに描かれているのは、恋にもなれなかった思い、恋になり損なった思い、つまり、あえて言うならば流産に終わった恋。すなわち、無惨に挫折してしまった学生運動…… 
 森田童子の歌を聴くとき、当時の兄の姿を通して、まるで引き抜かれた雑草が次第に萎れていく姿を思い浮かべずにはいられない。ならば、それなのに、なぜ21世紀の今になって、ときおり彼女の、決して上手とはいえない歌を聴きたいと思うのだろうか。我ながら不思議だ。ぼくには何か悼むような、悼まねばならないようなことは、何もないはずなのに。それとも、彼女が必死で負け戦のレクイエムを歌っていた頃、その声に頑なに背を向けていたことが今になって良心の呵責になっているのだろうか……

 1983年の4月から6月にかけて、森田童子は朝日新聞に小さなコラムを計10回に渡って書いている。そのコラムもまた彼女の歌と同様に、いや、ある意味ではそれ以上に哀切だ。今読むとそれはまるで瀕死の白鳥が最後に歌う、いわゆる「白鳥の歌」のように聞こえてしまう。最後に6月8日のコラムの一部を引用しておきたい:

八年余り、私たち[筆者注:予算を出来るだけ縮小するために組まれた最低限の、せいぜい2台のライトバンに演奏機材と一緒に分乗できる程度のスタッフ]は二百から三百の人たちが集まって待っている村や町の会場へと、コンサート活動を続けてきました。そして、よく八年間もこういった形で続けてこられたものだと時々みんなと話し合うことがあります。今にもなくなってしまいそうな私たちの小さな集団は、やがて変わってゆく状況に対応することを迫られ、より個人的な活動へと、変ぼうしていかざるを得ないでしょう。

(何か良い画像があれば、そのうち貼り付けたいと思います。H. H.)
IMG_3767.jpg
(備中松山城から見た高梁市街地の眺め)

DSC00858.JPG.jpg
(山崎ハコのライブ前に撮った記念写真)
posted by 冬の夢 at 04:52 | Comment(1) | TrackBack(0) | 音楽 日本のロック・歌謡曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 山崎ハコの夫君で、ギター奏者であり作編曲家でもあった安田裕美が、二〇二〇年七月六日、七十二歳で亡くなりました。
 井上陽水の、一九七三年のライブ盤『もどり道』。ギター伴奏だけで歌っている日本のフォークでは、きわめていい盤のひとつだと思いますが、この公演で陽水と二人でギターを弾いていたのが、この人でした。中学生時代に限りなく聴いた盤なのに、きょうの今日まで知りませんでした。
 たんたんと弾く、といいますか、目を驚かせる技を使ったりハデなソロをとるタイプではありません。しかし、この人が隣で弾いていてくれたら、どんなに安心か、という奏者だったと思います。
 もちろん、山崎ハコの伴奏もつとめていました。演奏の面に限らず、喪失感は想像にあまりあるものがあります。ご冥福を祈ります。
Posted by (ケ) at 2020年07月09日 00:27
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