2017年02月10日

Bruce Hibbard−Calling  元気が出る曲のことを書こう [16]【改】

 洋楽なのに、なぜか日本にしかないジャンル、それが「AOR(Adult-Oriented Rock)」だ。
 有名な盤をあげていくと、『なんとなく、クリスタル』や、ホイチョイ・プロダクションズの世界ができ上がる。
 といっても、安倍晋三と同年で成蹊大学の同窓というホイチョイと同格扱いすると、田中康夫は怒るかもしれないが。※1

『なんとなく〜』や『気まぐれコンセプト』の時代だった一九八〇年代前半、こちらは貧乏大学生だった。学費滞納はもちろん日々のメシ代にも困った。ほとんど難民である。
 バンカラ学生のほうが偉そうだった明治時代ならともかく、大学キャンパスがバブル前哨戦を楽しむ場になっていた八〇年代初めのこと。気にしないつもりでも、どこかミジメに感じていたかもしれない。
「クリスタル」な金満学生の一匹くらいカモにすればよかったが、まあいいや、いまさら。ちなみにそこまで困窮すると、左翼学生になって運動することもできないのだった。
 五年ほど前に会社をやめたら、命令されて仕事する気に二度となれなくなり、いい歳でまたバンカラになってしまった。しかし、それが本来の自分らしい気もしている。

八〇年代のおしゃれ洋楽とバンカラ学生

 バブル前夜のバンカラ君に話を戻すと、部屋にフロもトイレもない木賃下宿に不似合いな、おしゃれなAORをよく聴いていた。
 わびしい部屋のBGMまで暗ぼったい音楽にしてしまったら、ふさぎ虫やヘコミ虫に食い殺されそうな気がしたからだ。
 そのせいか、いま熱心に聴くことはないが、AORって、ふと聴きたくなることがある。

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NEVER TURNIN' BACK 1980

 定年まで勤めるものと、疑いもしなかった会社を急にやめたら、すっかりフヌケになってしまった。
 そんな状態を、ひととき支えてくれたAOR盤がある。
 ブルース・ヒバードの『NEVER TURNIN' BACK』(一九八〇年)だ。
 バンカラ君だった八〇年代には、ぜんぜん知らなかった盤だが、AORの裏名盤≠セそうだ。アナログレコードはかねてから伝説的お宝だったといい、二〇年ほど前に出たCDの中古盤にも、プレミアがつくほど。といっても、数が売れなかった名盤≠セからこそ、中古価格が高騰するということもあるが。

邦楽によって親しまれた洋楽ポップス

 曲からとどく、澄んだ陽光が心を照らしてくれる。
 むりやりでなく、ゆるやかに元気づけてくれるのがいい。
「朝日がまぶしいテーブルにならんだ手づくりブレックファストふうのオーガニックな感じ」なのだ。すみません、長いですね。
 一九七〇年代っぽい暖かい演奏で、さわやかに歌われるブルー・アイド・ソウルと要約しておこうか。こんどは雑誌っぽくて芸がないけれど。

 一九七〇年代の終わりから一九八〇年代初頭、アメリカのポップスの音づくりに、新しい傾向が登場した。
 その分水嶺は、この『NEVER TURNIN' BACK』と同じ一九八〇年に出た、AORの「オモテ名盤」といえそうな、エアプレイの『AIRPLAY』を聴くとはっきりわかる。ただ『AIRPLAY』は、いまだに評価が高いわりに、当時は意外なほど売れていなかった名盤≠セ。
 バンドとしてはエアプレイは成功できなかったが、そのキャラクターは、一九八〇年代のアメリカのヒット音楽を席巻する。
 大人気になったバンドだと、『AIRPLAY』の録音にもメンバーが起用されている、トト(TOTO)だとかだ。
 シャキっとしたリズム、フックがきいた曲調、パンチが効いた歌とラウドな伴奏──こんどは長々とカタカナだらけで、またすみませんが、そういう音楽が人気になっていったわけだ。トトもそうだが、緻密な伴奏が確実に弾け、スタジオ録音にも慣れた演奏職人たちでなければ、やれない音楽でもある。
 そして、ややおくれて日本も、エアプレイに影響された──はっきりいえばパクった──音楽だらけになったから、あの当時の限られた情報をもとに洋盤をあれこれ探して聴いたファンより、日本の歌謡曲やポップスを楽しんだ人たちのほうが、一九八〇年代のアメリカのヒットプロデュースのエッセンスに親しんでいた、といえるかもしれない。

ヒット音楽の端境期の裏名盤

『NEVER TURNIN' BACK』は、その端境期に作られた盤だ。
 ドラムスはドスンバタンという柔らかい音だし、キーボードもガンガン叩くのでなく、歌にしっとり長音符をそえている。そこがいい。
 もちろん、ブルース・ヒバードの歌いかたもいい。
 ハイトーンだけれど、エアプレイのような音楽に起用された歌手たちの、非常警報みたいな鼓膜破りの熱唱ではない。ゆるやかな、わずかに霧がかった歌声だ。ゆっくりモードで、凍った心を解凍してくれる。

 この盤で好きな曲は「Calling」だ。
 盤のジャケットデザインにふさわしい。
 暴走関係者むけの攻撃的な音楽でなく、くよくよせず、のんびり運転して行こうやという感じの、プリントシャツの気のよさそうなお兄さんたちのための音楽だ。

 I can't seem to shake this feeling
 My life is falling apart
 Reality is closing in on me
 I wish that I could make a new start
 So many years I've wasted
 Just livin' for myself

  この気持ちを払いのけられないんだよ
  ぼくの人生はこなごなに壊れつつある
  現実がぼくに入りこみ押しつぶしてる
  新しくスタートをきり直せたらな
  どれほど長い年月をムダにしただろう
  自分のことばかりで生きてしまってね

 
 曲はそう始まり、思わず身につまされる。
 しかしブリッジの歌詞は「きみのやさしい気持ちを、ぼくは心の底で感じるよ ぼくの道案内をしてくれてるんだね」と、嬉しくさせる。
 さらにコーラスが泣かせる。さわやかに高音を響かせるハーモニーが最高だ。

 I hear you calling,
 I hear you calling

  きみが呼んでいるのが聞こえるよ
  きみが呼んでいるのが聞こえるよ



現代のキリスト教宗教曲

 ブルース・ヒバードのバックグラウンドを知ったのは最近のことだ。
 曲から受け取るメッセージは、まったく違うものになった。
 歌詞の意味だけでなく、アレンジやコーラスも違って聴こえるようになり、それ以後は、あまり聴かなくなった。
 ヒバードはCCM(Contemporary Christian Music)の歌手なのだ。『NEVER TURNIN' BACK』もCCMの盤だ。

 といっても、ひとことでCCMを定義するのは、わたしにはむずかしい。
 キリスト教信仰をはっきり表現しているアメリカのポップ音楽は、じつはとてもたくさんあるのだが、なにもかもCCMとはいわない。
 アメリカでは、とくにキリスト教の新興宗派が、伝道や賛美をテレビやラジオ、あるいはポップミュージックなど、現代のメディアや大衆音楽をつうじて行うことがさかんで、その目的で制作されたヒットチャートスタイルの音楽を、CCMというようだ。それ専門のレーベルがあって、専属作曲家や専門の演奏家もいる。
 CCMの作曲家や演奏者が、信者ではない聴き手にも向けた演奏仕事をしたり、盤を出したりした場合、それは「secular(世俗的な、宗教と関係がない)」といって区別するらしいので、そこからしてもCCMは、現代版のキリスト教宗教音楽といったところだろうか。

『NEVER TURNIN' BACK』をCD化した日本のレーベルは、その知識をちゃんと持っていて、わたしが買った盤の解説にも、説明してあった。
 わたしが「きみ」つまり「彼女」のことだと思って聴いていた「You」という単語も、歌詞カードには「あなた」と訳してある。訳詞を見ないで聴いていた、わたしの不勉強だった。
 なので「You」をきちんと「かみさま」と訳して、聴き直してみよう。

 Ahh, but through it all I still hear your call
 I know Your drawing me right back to You

 I hear you calling,
 I hear you calling

  ああ しかしあらゆる苦難のうちにもいまだ 神様の声は聞こえます
  神様はわたしを まっすぐに神様のもとへ連れ戻してくれると知っています

  神様 あなたのお声を聞いています
  神様 あなたのお声を聞いています



 この曲はもう、わたしを「ふさぎ虫」から救ってはくれなくなった。
 なぜだろう。はっきりした理由は、わからない。
 キリスト教は信じておらず、どちらかといえば批判的な立場だけれど、それが理由のすべてではない。信仰がないのにキリスト教宗教曲を聴いてはいけないとは思っていない。そんなことをいい出したら、バッハを聴くなら世俗曲だけ選んで聴かなきゃだめ、ということになってしまう。
 ソウル・ミュージックは好きだけれど、この曲はゴスペルだから歌詞の「You」は「かみさま」のことだよ、となると、ついていきづらくなることは確かだ。ならばCCMもそうなのか。ポップスやロック、ラップなど、好きなものが多いスタイルで演奏されているが、CCMのことをよく知らずに聞いていて、この曲は「かみさま」のことだよといわれて困惑する、ということなのだろうか。

 どうも、そうともいいきれないようだ。
 CCMも含まれるが、アメリカのキリスト教新興宗派に、しばしば特徴的にみられる宗教活動、たとえばテレビ伝道(Televangelism)やメガチャーチというようなものに、どこか不快に近いような違和感があるせいではないかと思ってもみた。
 いや、そうだと断言もできない。なぜなら、またバッハでいうと、「マタイ受難曲」のCDを二セットも三セットも持っているわけだが、バッハの時代のカトリック宗教音楽なら、ミサのような宗教活動の音楽でも感心して聴くわけかとつっこまれたら、返答に窮してしまうからだ。

音楽から神の声が聞こえることについて

 そもそも、この場でなにかいえるほど、宗教や信仰について徹底して考えたことはない。初詣神道あるいは葬式仏教、わたしもそれなのだ。
 ただ、こんなふうには思っている。
 万が一、わたしが信仰を持つ場合があるとしたら、信じる対象と一対一の関係で持つ。ひとりきりで黙ってやり、他者をいかなる形でも関係させないし、他者と自分の信仰を共有しようとは、いっさい思わない。
 また、かりに神的存在に帰依する場合があったとして、その場合は、信じる対象の沈黙に帰依するだろう。もしその対象が「おことば」やら「奇蹟」やらをわたしに示し、われを信じよ、といいでもしたら、その場から逃げ出すか、自分のアタマがおかしくなりましたといって病院にいく。
 だからなおさら、「神の声が聞こえる」などと他人がわたしに向かっていうことばは、たとえ比喩的なものでも、けっして信じることはない。
 ということはつまり、わたしの心は、「神の声が聞こえる」という他人の呼びかけによって救われることは、絶対にありえない。(ケ)

Originally Uploaded on Feb. 11, 2017. 03:59:00

※1 同年生まれで友人とのことですが、同じクラスだったことはないようです。これまで「同級生」と書いていました。訂正します。なお田中康夫は彼らの二年下生まれで一橋大学出身です。

※ 二〇一八年三月二十四日、二〇一九年十一月二十七日、二〇二一年三月二十五日、八月十一日、直しました。文脈は変えていません。いただいているコメントの意味がなくなるような手直しもしていません。管理用



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posted by 冬の夢 at 00:05 | Comment(2) | TrackBack(0) | 音楽 ロック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私も信仰は持たないけど、もし持てたら少しは楽になれるだろうかと思うことはあります。ちょうど長崎で迫害された信者の話を読んでいて、その信仰の強さと激しさに心を打たれると同時に、自分はそのように何かを完全に信じきることはやはりできないだろうと。それでも、随分前にローマの薄暗い教会で見たカラバッジョの絵の聖母の姿は忘れられないほど美しかったし、優れたものは宗教を超えて人に届くことができるとも思います。それによって「救われる」ことはないだろうし、迷い続けて生きていくしかないとしても…。
Posted by ばく at 2017年02月12日 22:08
 二〇一八年三月、二〇一九年十一月、書き直しました。整理のみ趣旨同じ。いただいたコメントが無意味になるような手直しはしていません。
Posted by (ケ) at 2018年03月24日 00:55
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