2017年02月03日

『ゴッホとゴーギャン展』〜 絵を見るのが苦手な話

私は美術館に行くのが大好きだ。
美術館に独特の、その佇まいに惹かれる。天井の高いロビーから展覧会場へ折れ曲がる入り口。真っ白ではない落ち着いた壁の色とほのかな照明。会場は作品を見ながら歩く廻廊のようであり、順路は示されていないのに壁から壁へ足が自然と巡っていく。空間の中央に置かれたソファ。展示が途切れたところに切られている窓。会場を出て美術館の外観を眺めると、建物全体が深呼吸する生き物のように見えてくる。
これまでに訪問した美術館のことは、ひとつ残らず覚えているし、中にはいくつかお気に入りもある。箱根のポーラ美術館、パリのオランジュリー美術館、ニューヨークのグッゲンハイム美術館…。その建物の中にいたことを思い出すだけで、幸せな気分に浸ることが出来る。
ところが、美術館に展示されている絵については、なかなか思い出せない。もともと記憶力が悪いせいでもあるけれど、決定的な原因はわかっている。絵を見るのが苦手なのだ。
いや、苦手と言うより下手なのかも知れない。絵の見方をよくわかっていないと言うべきか。だから、美術館のことはよく覚えているのに、そこに展示されていた絵の記憶はぼんやりとしたままだ。

美術館でどのように絵に接するかについては、このブログの別の同人も書いたことがある。ごく普通に考えれば、美術館に入ったらまず絵を見るのだと思う。そんなの当たり前だと一笑に付されるのだろう。しかし、私は違っている。最初にキャプションを見てしまうのだ。作家名と作品名が大きく表示されていて、その脇に製作年度と所蔵美術館名が入っている。絵を見るために美術館に来たのに、いの一番に文字情報を読む癖がついていた。
あるとき、キャプションから見るのは違うのではないかと気づいて、見方を変えることにした。文字は一切読まずに、まず絵を眺める。おいおい、それが当たり前なんだよと指摘されることだろう。ところが、絵だけを見ていると不安になってきてしまう。作者は誰だろうか、いつごろ描かれたのか、持ち主はどこの美術館か……。
そもそも展覧会自体が、絵を展示することに加えて様々な文字情報と、場合によっては映像までを組み合わせて構成されている。会場入り口のタイトル文字から始まって、掲げられているのは、主催者挨拶や開催主旨が書かれたパネル、作家の歩みを振り返る横長の年譜ボードなど。絵はいくつかの区画に分けて展示され、たいていは「第一部 パリ・彷徨の時代」といった編集テーマの表示がある。美術館に入って絵を見るまでに、こんなに多くの文字情報が目に入ってくるのだ。いざ絵と対面するという段になっても、まずキャプションに目が向くのもしようがないじゃないかと、少し反論してみたくもなる。
キャプションを読むのをやめようと決めたときに、展覧会自体の見方も合わせて変えてみた。学芸員の腕の見せ所であるはずの展覧会前説や全体構成の説明を全部すっ飛ばして、最初に展示されている作品の前に直行するのだ。そして、絵をじっと眺める。眺めるのだが、徐々に不安になる。見てはいけない、読んではいけない。そう自制を働かすものの、結局は見てしまう、キャプションを。そして、作家名や絵のタイトルがわかって、やっと不安は解消される。ああ、そうか、そうだよな。これはゴッホじゃなくてゴーギャンだよな、ハハハ、ハズレた…。
ひとり画家当てクイズなんぞをやって、一体、私は何のために美術館に来たのだったろうか。

『ゴッホとゴーギャン展』(※)を見たのは、所用で名古屋にいたときにたまたま時間が空いたからだった。実は昨年秋の東京展のあとに愛知展が開かれていることも全く知らなかった。会場となっている愛知県美術館へも行ったことがなかったから、美術館好きとしての興味もあって、足を向けることにした。
はたして愛知県美術館は、これ以下はないくらいに最悪だった。愛知芸術文化センターなるビルの十階にあるから、エントランスがない。はじめて行く身としては、入り口にあるはずのタイトル看板を探すわけだが、ビルの中に入るまで表示が一切なく、ここに美術館があるということがわからない。やっと共用のエレベーターホールを見つけ、十階で降りると、目の前は入場を待つ人の列で塞がっている。その列に割り込んで横切らねば、奥にあるチケット窓口に辿り着けない。初歩的な導線設計さえ出来ていない美術館であれば、当然ながら会場入り口も中に入った後も、人がうまく流れずに滞留している。ほんの少しのニュアンスも感じられない環境なので、ここは倉庫だと言われたとしたらそのまま納得してしまうだろう。結果的に会場から出ても名残惜しさなど微塵も持つことなく、下りエレベーターのボタンを押すのみだ。
そんなわけで愛知県美術館は、美術館好きから見れば「記憶から消したい美術館」の筆頭におさまってしまった。

ゴッホ02.jpg

『ゴッホとゴーギャン展』のホームページを見ると、開催概要にはこう書かれている。

本展は、ファン・ゴッホとゴーギャンの初期から晩年にわたる油彩画約50点を含む約65点を展示します。二人の画家の特徴を浮き彫りにし、その関係性と芸術性に光を当てます。

この概要説明は間違っていて、展示されているのは二人の作品だけではない。ゴッホとゴーギャンの二人に影響を与えた同時代の画家たちの絵がかなりの規模で展覧されている。ミレー、ブルトン、ピサロ、モネ、ロートレック、モンティセリ。十九世紀末の近代絵画のムーブメントがどのように起こり、ゴッホやゴーギャンとどんな交流があったのか。少なくとも展示会の前半はそういう主旨で構成されている。つまり、個展ではなく、二人展でもなく、ゴッホとゴーギャンとその時代の画家たちを振り返る総合展示会なのだ。
そうであるから余計にキャプションを無視した見方は、不安感を増長させる。誰の絵であるかをわからないままに絵を見るということ。もちろん画家それぞれに独自のスタイルがあり、描き方だけでそれとわかる(例えばモネのように)絵もある。けれど、互いに影響を与え合った仲間として取り上げられているのだから、大半の絵は対象やテーマが近いところにある。ゴッホとゴーギャンの絵も、まだオリジナルに画風を確立する以前のものが少なくない。それをどう見分ければいいのだろうか。

そして、あらためて気づくのだ。私は何を見分けようとしているのだろうか、と。たぶん絵そのものを見ているのではなく、見分けるための「記号」や「意味」を追いかけているだけなのだ。「ゴーギャンが描いた」「ピサロの作品」という「記号」。「アルルの風景」「耳を削ぎ落とした後で描いた」という「意味」。絵ではなく、絵に付随した記号と意味を見ている。これではボードリヤールの『消費社会の神話と構造』に出てくる「バッグという機能ではなく、ルイ・ヴィトンという記号を買っている」ブランド信奉者と同じではないだろうか。
ブランドとまで言わなくとも、こうした見方が権威主義的であることは明らかだ。絵を見ていても、それが「ゴッホの絵」と言われれば「なるほど独特な絵だ」と得心し、「モンティセリの絵」だと知ると「まあ、これはスルーだな」と軽んじてしまう。いつの間にか作家を格付けしてしまうのも、権威主義《authoritarianism》の中には作者《author》が潜んでいるのだから仕方がないことなのか。絵を通じて、自分がいかに権威によったものの見方をしているのかを思い知らされるようであった。

そんなわけで『ゴッホとゴーギャン展』を見ているうちに、いつも以上に落ち着かない気分になったのだが、なんとなく足が止まったコーナーがあった。展示会場の「3章」のあたりに並んでいる、ゴッホが描いた四枚の肖像画だ。
一番左は赤い帽子を被った兵士が壁に寄りかかった絵だ。その顔は肌色に赤みが差していて、何かしら羞らいのような表情が伺える。
二番目の絵も兵士のようだが、こちらは緑の背景に合わせて、顔もうっすらと緑色で描かれている。その中で耳だけがほんのりと赤い。緑と赤は補色の関係にあるとは言え、同じ顔の中にふたつの色が別々に使われているのがなんとも奇妙な感じだ。
次の絵の男は、顔いっぱいに黄色やオレンジ色の線が引かれ、青い帽子と緑のセーターに描かれた白の線とともに、全体が縦と横の線のリズムで溢れている。
いちばん右にある絵は、男の黒い髪の毛がライトグリーンの背景でざっくりと切り取られて、頭の上にのっているかのようだ。黒い服を着て、顔は鼻梁の太い茶色の線がやけに目立つように描かれている。
いつの間にか足が止まり、近づいて絵の細部をしげしげと見つめていた。色づかいや筆のタッチ、盛り上がった絵の具のうねりに注視していた。すると、絵のこちら側にゴッホが立っているような気がしてきた。ゴッホが絵に向かって筆を運んでいて、私はその肩越しに描かれた線を眺めている。そんな幻影がふと浮かんで来た。
ゴッホはなぜこの黄色い絵の具を選んだのだろう。顔の線はどういう速度で引かれたのだったか。髪の毛と背景のどちらを先に描いたのか。そのゴッホの、ひとつひとつの筆の動きの集まりが、目の前に現存する一枚の絵として残っている。
いろいろな芸術作品がある中で、こんなにも作家の作業の結果を直接的に確かめられるのは、絵だけなのではないだろうか。活字になるのでもなく、フィルムに撮るわけでもない。他人が演じるのでもないし、演奏を録音したのでもない。作家本人が直接描いた絵が、描いたままの形で眼前にある。これほど直截に時空を共有出来てしまう芸術作品は、ほかには見当たらない。
四つの絵には「ズアーヴ兵」「恋する人」「カミーユルーランの肖像」「男の肖像」とそれぞれにタイトルがつけられている。でも、絵に向かって立っているゴッホにとって、そんなネーミングはどうでもよかったはずだ。描かれた年号や所蔵美術館名も、後から加えられたもので何の意味も持たない。世界中で有名になった「ゴッホによる絵」という価値は、はるか後の話。ゴッホの手によるひとつの線やひとつの色は、描かれた当時は何の権威もまとっていなかったはずだ。
そうして見た四枚の肖像画は、絵を見るのが苦手だという意識を少しだけ変えてくれたようだ。文字情報に支配され、記号や意味に踊らされるのではない、絵との接し方。時空を巻き戻して、制作の現場を想像すること。細部にこそ真実が宿る、と誰かが言ったが、その通りのことを実感したような気がした。

愛知展の会場は、日曜日ということもあって多くの来場者で賑わっていた。家族連れ、中年の女性グループ、白髪の老夫婦、セーラー服の女子高生。これだけ幅広い客層が混在する場所は、美術館くらいしかないかも知れない。
大勢の人たちがいるのにもかかわらず、順番に会場を巡っているうちに、絵を見るペースが幾人かと似てしまうことがある。そんな中に、父親と小さな兄弟がいた。展示がはじまったばかりのところで、まだ幼い弟のほうが「ねえ、まだたくさんあるの?」と父親に訊いていた。遊びたい盛りの兄弟ふたりには、美術館は全く面白味に欠けた場所だと感じられたのだろう。それでも、兄弟はその後の展示も騒ぐことなく大人しく見て回っていた。
先ほどの四枚の肖像画を過ぎて、展示の終盤に差しかかったときのことだ。その親子と再び同じ歩みのペースになってしまったところで、ゴッホが描いた「種まく人(ミレーによる)」に父親が見入っていた。ミレーの有名な「種まく人」の上半身をクローズアップで切り取った構図の絵だ。父親は絵をじっと見つめ、しばらくして兄弟ふたりにこう呟いたのだ。

「ゴッホが描くとこうなっちゃうんだよ」

天啓とはまさにこのこと。絵を見るのが苦手な私は、何気なく耳に入ってきたこの言葉をある種のお告げのように受け取った。
人が見るものは人それぞれに違う。円柱が見る角度によって円に見えたり四角に見えたりするように、同じ顔や同じ森を見ても、その見え方や認識の仕方は十人十色だ。そこに認知力や感受性が加わって、ある人には見えないものが、別の人には見えてくる場合がある。そして、受け取った心象をキャンバスの上に再現あるいは表現しようとする人がいる。その表現は、同じものを見て描いても全く違ったものになる。見て、感じることはすべて作家の自由だ。その自由を、作家は線と色を使って絵に定着させる。ミレーの絵を見たゴッホは、ゴッホとして認識し、ゴッホとして感じて、ゴッホとして別の絵に表現した。だからミレーの「種まく人」とは全く別のあらたな作品が出来上がる。まさに「ゴッホが描くとこうなっちゃう」のだ。
畢竟、絵とは作者によっていかようにも「こうなっちゃう」ものなのだった。だから、絵を見るということは、絵を描いた作家を見ることでもある。絵とか文字とかいう概念ではなく、「人の手によって作られた作品」。それこそがアート(=art)であり、だから作者と作品は切って離せないのだ。
そんな単純明快な真理を通りすがりの親子連れが教えてくれた。そして、たぶん、単純明快な真理とは、雑念のない純朴な態度めがけて直線的に降ってくる。「記号」や「意味」をこねくり回してきた私が、その父親のような単純明快さで絵を見られる日は、はたしてやって来るのだろうか…。(き)

ゴッホ01.png


(※)『ゴッホとゴーギャン展』
2016年10月8日〜12月18日 東京都美術館
2017年1月3日〜3月20日 愛知県美術館




posted by 冬の夢 at 00:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く:ペンネーム可・アドレスは表示されません
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック