2017年02月01日

J.S.Bach−Komm, Jesu, Komm, BWV 229 元気が出る曲のことを書こう [15]【改】

 クラシック音楽はにがて。
 けれども、このブログの別の筆者が書いている、グレン・グールドがピアノで弾いた「バード&ギボンズ作品集」は、ハードロックにのめり込んでいた十代のころから知っている。いまも好きな盤だ。
 オケゲム、ジョスカン・デ・プレ、ラッスス、パレストリーナ、モンテヴェルディ、シュッツなどという名も、そのころ知り、いまもすらすら出てくる。それらの作曲家が、いつ頃の、どの国の人か知らないし、曲のさわりも思い出せないのに、LPやCDを二、三枚ずつ持ってもいる。

 これらを教えてくれたのは、大学時代、同じクラスだったやつ。古い宗教曲を歌う合唱部にいた。
 そんなマニアックなクラシック音楽ファンと、親しくなるはずがない。ところが、そいつはなぜか、プログレッシブロックやジャズロックを聴いてもいた。そのあたりで波長が合い、互いに知らない音楽を教え合った。
 教養的な意味はなく、手持ちの札を見せ合って遊ぶのが面白かったのだろう。といっても、相手の札数のほうがよほど多かったが。

 一九八〇年代、「モラトリアム」はすでに悪い意味でひろく使われていた。ただ、当時の「モラトリアムくん」たちの中には、そういう好事家がいた。大教室に行ってみると隣席の初対面の学生がそんなやつだった、という感じで。高校時代はマイケル・シェンカーくらいしか知らなかったわたしに、ジューダス・プリーストを教えてくれたのは、前か後ろの席にいた別の学生だ。
 政治の時代は完全に終わっていた。左翼学生が教室にアジりに来はしたが、まれなこと。試験対策以外に学問的な話をした記憶はなく、ふたりの学生の消息も知らない。少子化や学生減が問題になる以前の、大型私立大学での一場面。学生の群れのなかで偶然に席が近くなり、いっとき好きな音楽や読んでいる本などを伝え合い、別れていった。

 宗教曲の合唱部のやつが教えてくれた曲に、バッハのモテットがある。
 そいつの部活動からすれば、バッハはメチャ新しい。バッハが活躍したのはウィリアム・バードの百年ぐらい後だからだ。
 どうせ新しいなら、といってもいまから三百年くらい前だが、なぜバッハの時代の声楽形式で、バッハその人も注文に応じて二百曲以上も作ったカンタータをすすめなかったのだろう。
 バッハの時代、モテットはたしかに流行おくれの形式だったらしく、カンタータにくらべ作曲数がとても少ない。十曲もないのだ。しかも本当にバッハが作ったのは、そのうち半分くらいとされている。
 
 ということは、逆にいえば、ズブの素人が聴いても全曲とりあえず聴き通せて達成感があるはず、というサービス精神だったのかもしれない。
 あるいは、モテットは規模が小さくて伴奏もシンプルなので、知識がなくてもあまり構えずに、あっさり聴けるということか。
 難易度はともかく、小規模な合唱部でも演じられるので、部活でやってる曲だから聴いてみ、ってことだったのだろうか。

 そうしたことは何も知らずに聴き、すぐ気に入ったのは五番の「Komm, Jesu, Komm,」だ。
 とても印象的な最初の呼びかけにつづいてすぐ、文字通りなだれをうって歌が躍動する。
 躍動するなんて表現は宗教曲──この曲は「お葬式」の音楽──にはおかしいかもしれないが、身も心もへばり尽くし、ひとことも発せない者の声を天上に届けてくれるかのような、重力をものともしない浮揚力をたたえた、ポジティブな上昇感覚がある。
 歌詞の重苦しい部分には、巧みに暗い和音や短調の旋律を織り込んで雰囲気を出しているのだが、そうした箇所にも不思議なことに喜びの響きを感じ、しかも、そういう部分によってむしろ、曲全体が力強い肯定力に満たされているような気がする。
 芸のない感想だけれど、読めばあっというまに読みきれるごく短い歌詞が、繰り返し唱えるよう歌い重ねられるなかに、じゃまな身体を脱ぎ捨ててかろやかに空を舞う死≠キなわち、魂の解放への歓喜が聴こえてくる。

 Komm, Jesu, komm, mein Leib ist müde,
 die Kraft verschwindt je mehr und mehr,
 ich sehne mich nach deinem Frieden;
 der saure Weg wird mir zu schwer!
 Komm, komm, ich will mich dir ergeben,
 du bist der rechte Weg,
 die Wahrheit und das Leben.

 Drum schließ ich mich in deine Hände
 und sage, Welt, zu guter Nacht!
 Eilt gleich mein Lebenslauf zu Ende,
 ist doch der Geist wohl angebracht.
 Er soll bei seinem Schöpfer schweben,
 weil Jesus ist und bleibt
 der wahre Weg zum Leben.

  きてください、イエス、きてください
  わたしのからだは疲れ 力が失われていきます
  あなたの安らぎに近づきたいのです
  つらい道のりはわたしには重すぎるのです
  きてください、きてください、あなたにゆだねます
  あなたこそ正しい道
  真実そして永遠の命なのです

  そしてわたしはあなたの手に抱かれて
  いうのです、この世よ、おやすみなさいと
  わたしの生涯はじきに終わりますが
  魂は安らいでいます
  魂は創造主とともに昇っていきます
  なぜならイエスは おわし続ける
  永遠の命への正しい道だからです


 ドイツ語はできないので、複数の英訳を見て訳してみた。
 讃美歌ふうに「来ませイエスよ来たりませ」のような口調にするのが本当かもしれないが、そのようには聞きたくない。初めて聴いたとき、そのような文体の対訳を見ながらだったら、いちど聴いて終わりだったに違いない。
 もっとも、歌詞がわからないまま初めて聴いたときどう思ったかというと、「なにをコムコムコムコムいっているんだろう」でした。すいません。

 が、ドイツ語の「コム」が英語の「カム」だと知り、自分の言葉で「きてください」に置き換わったとき、歌う声のひとつひとつ、すべての音が、それぞれに、そのころときどき、生きているのがいやになることがあった自分の、地中へ落下していくような気持ちを、手分けして支えてくれるかのように聴こえた。
 マイナーはじまりの曲の最後を急にメジャーコードでバーンと終わらせるのは特別な技ではなく、当時の作曲上の約束ごとだが、この曲では、そこにことさら元気づけられる気もする。
 
 かつて繰り返し聴いたバージョンを流しながら書きたかったけれど、いくら探してもない! 
 いつも、持っているはずの盤が見つからない。まったく……。
 記憶にぼんやりあるアナログ盤のタイトルをたよりにネット検索してみると、バルメン・ゲマルケとコレギム・アウレウムの一九七〇年ごろの盤だと思う。再発はなく、CD化されていないようだ。
 しかたがないので、ほかのバージョンをいくつか聴いてみたが、演奏者が違うと、記憶にある感じとびっくりするほど違って聴こえる。クラシックはあまり聴かないので、どれを聴いても同じように聴こえるだろうと思っていたら……。

 書きそえる意味はあまりないと思うが、いちおう書いておくと、この曲にカンペキに救われ、みるみる元気になったという奇蹟的な経験はない。
 だから、というわけではないが、この曲をきっかけに信仰を持とうとしたこともない。
 信者だから聴いてみた、ということではない。
 信仰がないのに、こういう曲を聴いて感動したことを、いかにもそれらしく、わが身にもたらされた恩寵でもあるかのように書いていいかという問題は、あるかもしれない。そういわれたら、そのとおりだというしかない。

 近年、古い宗教曲や教会音楽ではなく、より身近で好きなジャンルの音楽で、そういうことにつながる経験があった。いつになるかわからないが、その曲についても書いてみようと思う。ここに書きました(ケ)

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●「元気が出る曲のことを書こう」の記事一覧は→こちら←
●「イタリア協奏曲」グレン・グールドの記事は→こちら←


Originally Uploaded on Feb. 02, 2017. 02:30:00
Photograph (c) 趣味的偏屈アート雑誌風同人誌

■二〇一七年二月三日、@歌詞訳に指摘があり数か所A本文一部をわずかに直しました。
 同十月十九日、若干手直ししました。内容は同じです。
■二〇一八年四月四日、二〇二〇年三月二日、六月二十一日、十二月十一日、手直ししました。文体・誤植だけです
管理用


posted by 冬の夢 at 00:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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