2017年01月11日

出世に縁はなかったけれど「久が原出世観音」に行ってみた話 .

 三十年近く同じ会社に勤務し、かなり前に退職した。
 出世に縁はなく、勤続年数に即した「待遇」がついただけで、半年ほど中間管理職だった以外は「ヒラ社員」。
「出世できなくなる社員」という雑誌記事くらいなら書ける(笑)と思う。
 ま、どうでもいいが、散歩道の近くに「出世観音」というものがあると知り、行ってみたので「話のまくら」というわけ。
 
 久が原出世観音菩薩。
 東京都大田区、東急池上線「久が原」から歩いて十五分か二十分と、駅からやや距離がある。
「出世観音前」という小さい四つ辻があるが、お堂は小さく、山門もわかりにくい。初めてこの名の交差点に気づいて観音堂を探したときは、見つけられずに帰ったほど。スマホがあれば迷わず行けると思う。※

 路地に面した山門から細い参道、というより通路を進むと、野村證券のォの敷地に入り込む形なので、旧蹟とは違うらしいことは想像がつく。
 どのような縁起で、いかなる出世の利益(りやく)があるかなど、すこし調べたが、確実な紙資料は見つけられなかった。堂門脇に掲示された短い「由来」などに頼るなら、こうだ。
 
 建立主は、大正四(一九一五)年に亡くなっている禪尼。永平寺貫主の弟子で「世人の敬慕を受けた方」だという。
 その尼とは「新喜楽」──現在は東京・築地にある高級料亭。政財界御用達の店で、六十五年にわたり芥川・直木賞の選考会場だ──初代女将の、伊藤きん。
 吉原の出で、明治の政治家や文化人と「タメ」の、傑物女将として知られた。伊藤博文が、同姓ということもあり贔屓筋だったとか。のちに仏道に帰依、吉野の観音菩薩に似せた像を、居宅としたこの地に堂を建ててまつり、「善事に精進」とある。

 もっとも、「四千有余坪の地」だったというから、東京ドームのグランド面より広い。現在の小さな観音堂からは想像もつかない広大な「居所」だ。堂のほかにも数寄を凝らした館を造り「政界其他知名紳士の信仰雲集殷盛を極め正に一大名所」であったらしい。相当に貯め込んでいたわけで、ご利益の出所は、観音さまからより、そこに集まった「知名紳士」らの運気のおこぼれだったんでは。すいません、ゲスの勘繰りで。それにしてもいったいどんな「一大名所」だったのか、往年の姿を写真などで見てみたいものだ。
 元女将の死後は、だんだんに荒れて、一九四五年五月の空襲で「一大名所」は灰塵に帰す。が、いまある堂のみは残ったというから、一編の説話のようではある。
 そののち、最初に想像したとおり、一帯は野村證券に移譲された。そこにも事情があったに違いないが、町内有志からの願いで野村證券は堂の保存を諾とし、今日に至るという。

 現在も、出世を望んで参拝する「紳士」らが多いそうだが、しばらく居たけれど誰の姿もなく、政治家が列をなしたりするのかどうかはわからない。ただし、訪ねたのは二〇一六年の歳末二十八日。御簾がおろされてよく見えない観音さまは、正月三が日のみ開帳になるそうで、そのときは混雑するのかもしれない。三が日に混雑しているかどうかを確かめに行く気はない。
 そのまま、新年三が日も過ぎてからこの文をアップロードしたので、御開帳祈願に行きたい場合は、来年の話になりそうだ。すみません。このように「気がきかない」のも、まちがいなく出世できない理由のひとつ。ご注意を。(ケ)

171228ss.JPG
観音堂壁面の透し彫り


※ 出世観音は「Google Map」に表示されます。
※ 東急池上線「久が原」駅からは、蒲田方面改札側から商店街(ライラック通り)を東へ。久が原交番前交差点に出たら、進行方向左斜めへ折れ、久が原交番を左に見て進む。まもなく右側に久が原西郵便局、そのすぐさきの久が原西郵便局前交差点を過ぎたら、すぐ右の路地へ。前方左に「久が原会館」の看板が見えています。その下の細い通路を左奥へ。久が原西部八幡神社、カトリックの「お告げのフランシスコ姉妹会」、日蓮宗の「長久山安詳寺」が並ぶ、興味深い区画です。


posted by 冬の夢 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 旅・徘徊・発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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